つれづれに:教室で(2022年5月21日)

つれづれに

教室で

移転先の新校舎

 教室で過ごす時間が中心の生活になった。生徒として座って授業を受けていた時も、教育実習で授業の見学を言われて見ていた時も、教室にいるのが嫌で堪らなかったが、教壇で授業をするのは結構楽しかった。誰からもあれこれ言われないのが一番だったが、どうも性(しょう)にあっていたようである。職員室を見ていると、どうも授業や生徒といっしょにやって行くのに向いていないと思われる人が多かった。一番欠けていたと思えるのは、横柄なのである。自分が人に何かを教えられると信じて疑わない人が多かった。人が人に何を教えられるのか、そんなことを意識したこともないような人もいた。そういうが、生徒を大人として見ていない場合が多かったように思う。生徒指導の人などは、特にひどかった。私が生徒の時に感じたのと同じ種類の違和感を教師になっても感じているように思えた。それまでそれほど何かをしたわけでもないが、何かをし始めるとやればやるほど自分の無力を知る。英語を少し齧っただけだが、それくらいで人に何かが教えられるとは思えない。しかし、教員になってみると勘違いでもしたように、大きな顔をして、教えてる気になっている人が多いように思えた。そんな人が教師だと、接する時間が多いだけに、生徒には災難である。この思いは自分が生徒の時も教師になってからも、その後数十年授業をした来ても、基本的にはかわっていないと思う。
 生徒に大人として接することが出来ない人は、相手は生徒の中の一人で、その人として見ていないのではないか。教室にいて教壇側から見るとよくわかる、自分と生徒全体という構図で考えがちになる。しかしこちらは一人でも、相手は人によって違う。反応もそれぞれである。もちろん一人一人に対応するのは時間的に難しいが、出来る限り一人一人と向き合う姿勢は持ち続けないといけない。一対多で接すれば、立場が元々教師の側の方が強いのだから、楽には決まっているが、その姿勢を忘れたら、一番大事なことを見落としてしまう。抽象的な羅列になっているが、一対多の中でも可能な限り一対一に持ち込む可能性を追い続けなければいけないと常に自分に言い聞かせ続けるしかない。一年目、二年目辺りに感じたかこの感覚は、その後もずっと心の真ん中あたりに居座り続けた。

 柿の小さな実がたくさん落ちている。150~200個近くありそうである。(↓)去年生ったのが7つ、干し柿に出来たのが6つと大違いだ。隔年の生り年に実際を、まざまざと見せつけられているようだ。樹にはまだ数百個も残っていて、台風や雨風でやられても、百個くらいは残りそうである。一時取り入れるのも洗うのも剥くのもきつく感じられて気持ちも重たかったが、今年は大丈夫そうである。干して少しは保存が可能とはいえ、妻はたくさん食べられないし、一人では食べきれないので、お裾分けするだけだが、好きな人もいるので、送る気持ちは保てそうである。
 次は、担任、か。