つれづれに:コンゴ1860年(2024年2月14日)

2024年2月15日つれづれに

つれづれに:コンゴ1860年

 日本でもアメリカでも1860年が歴史の大きな潮目だったので、南アフリカでも歴史を見直してみた。今回はコンゴである。(→「日1860」、→「日本1860年」、→「米1860」、→「アメリカ1860年」、→「南アフリカ1860」、→「南アフリカ1860年」

独立の式典でのエンクルマ:「アフリカシリーズ」から

 アフリカの最初の出遭いは独立前のガーナで、すでにそのことについては書いている。当時はイギリス領ゴールド・コーストと呼ばれていた。(→「ガーナ1860」、2022年10月25日)最初に出遭った割には、ガーナとはあまり深く関われずじまいである。自称先進国がアフリカやアジアの独立運動を利用して、開発や援助の名の下に、多国籍企業による貿易や投資で搾り取るという新機構を画策する過程で、こっぴどくイギリスにやられたのが印象的だった。初代首相の残した自伝『アフリカは統一する』(↓)で、独立時に可能な限りの妨害行為をして、その後傀儡(かいらい)の軍事政権を立てるという第二次大戦後の欧米や日本の悪だくみを知った。(→「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、→「 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」

 独立時にはコンゴも凄かった。西側諸国が戦後の新体制を再構築する見本を見せられているようだった。変革の嵐(the Wind of Change)を避けるために、宗主国ベルギーは官吏8000人を総引き上げ、独立の混乱に乗じてアメリカ主導で軍事介入、豊かな埋蔵量を誇る銅を巡って分離工作を画策して混乱を激化させた。民衆に選ばれた首相ルムンバをアメリカ支援の将校モブツに惨殺させて、軍事政権を樹立、その後アメリカを後ろ盾に30年以上の独裁政権が続いた。

 医学科の授業で初めてエボラ出血熱を取り上げた1995年に、まだそのモブツの独裁政権は続いていた。国名はザイールで、コンゴ動乱以来、再び世界の注目を浴びたと報じられた。

サンフランシスコで大地震があったあと、日本でも淡路・阪神大震災があって、都市直下型の地震の猛威を味わった。その辺りから、世紀末の災いについて報じられることも増えて来た矢先に、今度はコンゴでエボラ出血の2度目の大流行が報じられて、さらに世の中が騒がしくなった。

1995年のCNNニュース:NHK衛星放送第1

 医科大には一般教養の英語学科目の講師として来たので、当初は臨床医や基礎研究者には出来ないことをと考えて授業を始めたが、アフリカやアフリカ系アメリカの話をすると、拒否する学生も多かった。それもあって、医療と教養を繋ぐ何かを模索していた時に、アフリカと医療を繋いでみるかと思いついてやり始めた。その頃、英字新聞も2種類定期購読していたので、英文記事もみつかったというわけである。

南アフリカ「ウィークリー・メール」特集記事

 コンゴの1860年は、西洋諸国、特にイギリスとフランスが植民地戦争で熾烈な争いをしていた時期である。地球儀でまだ手つかずの地はメキシコとコンゴ辺りだったようである。その広大なコンゴに目をつけたのが、アメリカで、増え続ける元奴隷の子孫が増えすぎて、国内でアフリカに送り返せという動きも出ていた時期に、コンゴが候補地にあがったのである。ベルリン会議(1884-5)で、競争相手には譲りたくないが小国ベルギーなら安全だと考える英国とフランス、それに増え続ける奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返そうとしていた米国、その3国の思惑が一致して、個人の植民地「コンゴ自由国」が生まれた。ベルギー王はアフリカ進出を目論んでその地の首長たちと条約を結んで私的組織コンゴ国際協会を1878年に創設した。後の「コンゴ自由国」の暴虐を考えれば、協会創設の1878年が大きな潮目だったようである。日米の潮目から、18年後だった。(→「コンゴ1860」、2022年10月31日)

ゴム採取を強いられるアフリカ人:「アフリカ・シリーズ」から