つれづれに:コンゴ1860(2022年10月31日)

つれづれに

つれづれに:コンゴ1860

苗を植えた7年後に生った唯一の柿(小島けい画)

 土日で65個を剥いて累計がやっと201個になった。すでに食べてなくなった分や出来上がったもの以外半分ほどを外に干している。今日は生憎曇り空で、太陽の恩恵は余りない。あしたは雨になっても夜には上がりそうだから、夜から作業の再開である。昨日の夕方に取り込んだのが50個足らずあって、まだ100個ほどが樹に生ったままである。何個か鳥が啄ばんでいるので、採るのも気が引ける。実を採ったあと落ちた葉を集め回らなくていいように、樹から葉を落としておくか?

2022/10/31現在合計201個、作業継続中

 「米1860」「日1860」「南アフリカ1860」「ジンバブエ1860」「ガーナ1860」の次は今回の「コンゴ1860」である。そのあとケニア1860で最後である。

コンゴについて調べ始めたのは、医学科1年の授業がきっかけである。医科大には教養科目の担当教官として来たから、当初は「このあと臨床医や研究医が嫌というほど医学のことはやるのだから、その人たちに出来ないことをやろう」と考えた。それで、アフリカとアフリカ系アメリカの歴史を軸に、新聞や雑誌、音声や映像を使っていろいろやってはいたが、途中からそれだけではいけないと思うようになった。

教授の空きポストになぜか突然日本語の出来ないアメリカ人が来て大変な日々を余儀なくされたあと、その人が持っていた医療英語に非常勤が来て、日本語の医学英語の教科書を使って授業を始めた。最初2、3回は学生も喜んでいたが、すぐに反応しなくなった。「用語が出来る」と関心を示したが「授業を用語だけで」という設定には元々無理があった。用語だけでは中味が伴わないからである。診断や病態などの中でこそ、医学用語も意味を持つ。一方的な解説を聞いて、最後に覚えて試験をするだけでは、自発的でなければ苦痛なだけだ。それでなくても、骨や臓器の名前など、覚える言葉は数限りなくある。

医大講義棟

 しかし、医学という点に関しては反応する。医学生なのだから当たり前のことなのに、教養担当の教官だからと肩肘を張り過ぎていたようだ。それで、その時にやっていたことと医学を結び付けてみようと思い、先ずはエイズとアフリカを結びつけた。次がコンゴとエボラ出血熱だった。ちょうど1995年の2回目のアウトブレイク(↓)があった頃である。授業で使えそうなのものを探した。歴史に関しては『アフリカの闘い』、著書は『レオポルド王の亡霊』と『ホットゾーン』、映像は「アフリカ・シリーズ」と『アウトブレイク』と1995年のCNNニュースだった。

当時購読していた南アフリカ週刊紙「デイリーメール」の特集記事

 『レオポルド王の亡霊』には、植民地争奪戦の経緯と植民地時代の「コンゴ自由国」のことが詳しく書かれていた。「コンゴ自由国」がベルギー王レオポルド2世(↓)の個人の植民地だと初めて知った。「個人の植民地?」は素朴な疑問だが、植民地列強の思惑が絡んでいた。原材料と市場を求めて当時繰り広げていたアフリカ争奪戦が熾烈になり、西洋諸国は世界大戦を回避するためにベルリン会議(1884-5)を開いた。その会議で、競争相手には譲りたくないが小国ベルギーなら安全だと考える英国とフランス、それに増え続ける奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返そうとしていた米国、その3国の思惑が一致した。王が陰で繰り広げた接待外交も功を奏して、個人の植民地「コンゴ自由国」が生まれたのである。王はアフリカ進出を目論んで探検家スタンリーをコンゴ川流域に派遣し、その地の首長たちと400におよぶ保護条約を結んで私的組織コンゴ国際協会を1878年に創設していた。会議は協会のコンゴでの主権を認めたのである。協会はコンゴ自由国に改組され、王が国王を兼ねた。その後の「コンゴ自由国」の暴虐を考えれば、コンゴ国際協会を創設した1878年が歴史の流れが変わった潮目と考えるのが妥当なようである。日米の潮目から18年後だった。

『レオポルド王の亡霊』から

 『レオポルド王の亡霊』には、王が傭兵を使ってアフリカ人に強制的に天然ゴムを集めさせたために、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区のルバ人の村の様子が一変したことが書かれている。コンゴに派遣された牧師が書いた教会の年報(1908年1月)からの引用である。

「アフリカ・シリーズ」から

 「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていた。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていた。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしている‥‥。

「アフリカ・シリーズ」から

 しかし、ここ3年の、何という変わり様か!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題である。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりである。

『レオポルド王の亡霊』から

 どうしてこんなに変わったのか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからである。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしていけない。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もない」

『レオポルド王の亡霊』から

 王の暴虐が明るみに出て欧米での批判が高まり、1908年に「コンゴ自由国」はレオポルド2世からベルギー政府に譲渡された。第二次大戦後、「変革の嵐」に乗ってコンゴはベルギーから1960年に独立するが、選挙で選ばれた首相ルムンバは、アメリカの支援を受けたモブツ(↓)に排除されて惨殺された。その後30年もモブツの独裁政権が続き、鉱物資源が豊かだったために欧米の餌食になった。アメリカはそのコンゴからエボラ菌のサンプルを持ち帰り、生物兵器を製造したと言われる。

 コンゴは南アフリカと並んで、欧米が暴虐の限りを尽くした植民地支配の典型で、今もその支配は形を変えて続いている。レオポルド2世の個人の植民地にならなかったとしても、どこかの餌食になってはいただろう。しかし、レオポルド2世のしたことが消えることはない。あの暴虐を人にやらせた。王はアフリカには一度も行っていない。

 →「レオポルド2世と『コンゴ自由国』」、→「ベルギー領コンゴの『独立』」(2004)、→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」(2006)

コンゴの独立:「アフリカ・シリーズ」から