医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―

2018年10月3日2000~09年の執筆物アフリカ,日本語支援

概要

This paper aims to show why I have picked up the 1995 Ebola issue in Zaire in my English classes for medical students. It is important for English teachers to know what students need in English classes, and necessary to prepare suitable materials which motivate them. The 1995 Ebola outbreak in Zaire, a good material for the classes, spread fear around the globe through media. It is mainly because there were some wrong and exaggerated reports and lack of fundamental information on Zaire. Cong, including the former Zaire – the present République Démocratique du Congo, has been exploited by European and American powers. Without precise information and perspective, we cannot find possible RX for survival. Through historical analysis of the Congo, this paper shows the backgrounds for a fair understanding of the Ebola issue and the Congo for the students.

本文

医学生と新興感染症

―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―

Medical Students and the Emerging Infection

―On the 1995 Ebola Issue in Zaire―

1. はじめに

医学生の英語を担当し始めてから19年目になりますが、医学に無縁だった人間が医学部の英語の授業で何をするか、何が出来るかを考え続けています。当初、一般教養科目として医学科1年生の授業を担当したこともあり、専門家には出来ない何かをという思いが強かったのですが、理想論だけではやってはいけません。何事にもあまり関心を示さない学生から英語の必要性を認識して実際に英語が使えるようにと願う学生まで、学生も様々で、一年間の長丁場です。学生の思いに応え、しかも自分の気持ちのバランスも取るというのは難しいもので、試行錯誤の末、医学と僕の専門分野の(アフリカ)文学の狭間から何かが提示出来ないかと考え始めました。EGP (English for General Purposes) とESP (English for Specific Purposes) の狭間で、基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たす、それが現実に対応出来るやり方ではないかと考え始めたわけです。修士論文で取り上げたアフロ・アメリカの文学からアフリカに辿り着いていましたから、守備範囲にあるアフリカと医療を結びつける形で何かが出来ないかと考え、エイズなどの新興感染症も取り上げるようになりました。エボラ出血熱もその一つです。

2.1995年エボラ出血熱騒動

1995年のエボラ出血熱騒動は、毎年取り上げている医学的な話題の一つですが、EGP 、ESPに共通する題材として、興味深いものがあります。当時の騒動を伝える新聞記事、ニュース映像、アメリカ映画「アウトブレイク」などを使用しています。

エボラ出血熱はエボラウィルスによる急性熱性疾患で、1995年以前に、スーダン(1976、1979)、ザイール(1976、1977)、コートジボアール (1994)、ガボン(1994) でも発生しています。キクウイットの場合、4月に町の総合病院を中心に患者が発生し、約40日後に米国、WHO(世界保健機構)、ベルギー等のチームが入り、6月20日に終焉しています。最終的には315名が感染し、256名(81%)が死亡しました。(注1)

1995年のエボラ出血熱は、想像以上に大きな騒動になりました。世紀末の不安もあったでしょうが、ベルリンの壁やソ連の崩壊、湾岸戦争、ネルソン・マンデラの釈放とナミビアの独立、マンデラ政権の誕生など、歴史的な出来事が立て続けに起こったからかも知れません。不安を煽った最大の原因はメディアの過剰な反応ですが、メディアに容易く惑わされたのは、永年の白人優位・黒人蔑視に起因する、正確な歴史認識の絶対的な不足だったのではないかと思います。

「エボラは突然の発熱、嘔吐、筋肉痛、頭痛や下痢などの症状が特徴的です。しばしば、内蔵での出血が見られます。器官が溶解してどろどろになり、目や鼻や他の開口部から血液が流れ出ます」といったような誤った内容を伝えた新聞記事(注2)が騒ぎを大きくしたのも事実ですが、最大の原因はハリウッド映画「アウトブレイク」でしょう。アフリカの未開の奥地で未知のウィルスを発見、CDC(米国疾病予防センター)が軍医を送り生物兵器開発のために血液を採取したのちに村を爆破、致死率100%・空気感染のウィルスがアメリカ本土を直撃、汚染された街を爆弾で気化させるという大統領命令が下る、という内容は、映画としては刺激的でしたが、タイミングが良すぎました。NHKのBS世界のドキュメンタリー「人類の健康は守れるか:第3回エイズ・鳥インフルエンザ対策」(2006年3月16日BS1) の中で、1976年にCDCから派遣された軍医が撮影した当時のビデオ画像が放映されましたが、映像から伝わる当時の混乱した状況を見てその思いを強くしました。映像が映画と重なっていたからです。永年植え付けられた西洋優位の思想に由来するザイールへの関心のなさと、基本的な認識の欠如によって騒ぎは更に大きくなりました。

騒ぎは、もう一つ大きな問題を浮き彫りにしました。当時の大統領モブツの暴虐ぶりです。1995年5月16日のロイター通信が次のように報じています。

ザイールでエボラウィルスが発生したために、1963年(原文のまま、独立は1960年)のベルギーからの独立以来次々と起こる危機に揺れ動くアフリカの中心部にある四千万人の広大な国に再び世界の注意が向けられました。

治療法もワクチンも知られていないため、そのウィルスによって少なくとも64人の死者が出ました。多くのザイール人がモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。批評家によるとモブツは、過去約30年もの間、誰の挑戦も受けずにずっと政権の座にあり、推計で数十億ドルもの個人資産を蓄財したと言われています・・・

腐敗はザイール社会と政府の隅々にまで行き渡り、五百万人の首都へのウィルスの侵入を阻止しようとして取られた隔離対策にも賄賂が効く体たらくです、と市の職員が話しています・・・(注3)

さらに、6月14日のCNNは、「モブツ大統領は、エボラ対策の費用は他の国が保証すべきで、自分がすべき問題ではありませんと語っています」というニュースと本人の画像を大きく映し出しました。

そんなモブツを生んだコンゴは一体、どんな国だったのでしょうか。

3. コンゴをめぐって

3.1 「コンゴ自由国」:植民地支配

現在の「コンゴ民主共和国」はこれまでに何度か国名を変えていますが、ここではすべてコンゴと言う呼び方を使います。(注4)

コンゴの悲劇は、植民地を持ちたいというベルギー王子の夢で始まります。奴隷貿易で暴利を貪って資本蓄積を果たした西洋社会は、更なる冨を求めて産業革命を起こして資本主義を加速させます。さばき切れない製品の市場と原材料を求めてアフリカ争奪戦を繰り広げますが、争奪戦は余りにも激しく、世界大戦の危機を回避するためにベルリン会議を開いて妥協案を模索します。英国、フランスなどが植民地分割を決めたのはよく知られていますが、その会議で、コンゴがレオポルド2世個人の植民地として認められた事実はあまり知られていません。植民地を増やす余裕はないので競争相手には取られたくないが小国ベルギーに譲るなら安全と計算する英国とフランス、増えるアフリカ人奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返す策を模索していた米国、3国の思惑が一致し、レオポルド2世の接待外交も功を奏して、レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」が認められたのです。

レオポルド2世自身は生涯アフリカの地を踏んでいませんが、私兵を送り、電気と自動車という時宜を得て、銅と天然ゴムで暴利を貪り尽くします。

「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたアフリカ系米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記しています。

この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。

しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。

どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。」(注5)

「認可」を出したのは、レオポルド2世で、王は1888年にベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げました。1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起こります。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇ります。アジアやラテン・アメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの20年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせます。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させました。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れました。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となりました。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だったのです。

 

 

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされますが、その支配は23年間に及びました。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能ですが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されています。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われます。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んでいます。

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド2世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれます。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)です。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていました。」(註6)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だったのです。

レオポルド2世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡しますが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現在のナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していましたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまいました。アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされました。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註7)という惨状でした。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現されます。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された」(註8)と言われています。名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのです。

コンゴが貪り食われたのは、豊かな大地と鉱物資源に恵まれていたからです。ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあります。植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていきました。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註9)になっていました。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となりました。行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現在のキンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域です。

コンゴは南アフリカと並んで、暴虐の限りを尽くした植民地支配の典型だったのです。

3.2 独立とコンゴ動乱:新植民地支配の始まり

2度に渡る世界大戦での殺し合いで、ヨーロッパ社会の総体的な力が低下したとき、それまで抑圧され続けていた人たちが自由を求めて闘い始めます。その先頭に立ったのは、ヨーロッパやアメリカで教育を受けた若い知識階層で、国民の圧倒的な支持を受けました。宗主国は当初、独立への動きを抑えにかかりますが、大衆の熱気を見て戦略を変更します。独立は認めるが独立過程で最大限に混乱させる、自国の復興を待って力を回復させ機が熟せば傀儡政権を立てて軍事介入をする、それがその時点での最良の戦略だったのです。

コンゴの場合、ベルギーの取ったやり方は、何ともあからさまでした。1960年、ベルギー政府は政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げ、行政の経験者もほとんどなく、36閣僚のうち大学卒業者は3人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、国民の圧倒的な支持を受けて首相になったパトリス・ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

 

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえるはずもありません。名前こそ変わったものの、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされているのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」で、高い関税をかけられるので加工して輸出することも出来ず、結局は原材料のまま売るしかないのが現状です。

こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。

3.3 モブツ:新植民地支配

政権の座に着いたモブツは、アメリカの梃子入れで30年以上も独裁政権を続けました。その暴政はよく知られています。1984年から2年間、海外協力隊員としてザイールの田舎で過ごしたアメリカ人の新聞記事から、モブツ政権下で人々の悲惨な様子が窺い知れます。

2年間、私はザイール中部のカサイ地区でボランティアをしました、この地球上の他のどの地域よりも痛ましい、土の小屋と裸足と貧困のまっただ中で・・・

20世紀の後半に、人々が銃に脅されて奴隷のように綿摘みを強要され、今は失脚したモブツ・セセ・セコの金庫を一杯にするのを、私はこの目で見ました。

ザイールでの私の仕事はたんぱく質の欠如によって病気にかかった子供たちを助けることでした。・・・村の養魚池を作って、田舎の地域に栄養補給をすることでしたが、田舎の地域は貧しくてアスピリンの一錠が家計を圧迫する惨状でした。しかし、私の仕事はまったく象徴的なものでした。貧困は余りにも根が深く、広範で深刻過ぎました。そしてアメリカの援助は余りにも小さすぎました。私はそれぞれ何軒かの家族の手助けをしました。

神(あるいは神の不在)は細部に潜んでいます。腐りかけの歯を何とかしてもらうために私の家に来た村の人々の泣きじゃくる顔のような細部にです。アフリカの基準から言っても、ザイールの医療の状況は驚くほど酷く、ほとんど医療は望めません。アメリカや他の西側諸国によって寄贈された薬は、モブツ軍によって慣例的に強奪され、法外な価格で闇市場に転売されました。目的の場所に援助物資が届いた時でも、保証はありませんでした。私は、以前不釣り合いなフランスとアメリカの軍服を着た兵士が、ユニセフが配給した粉ミルクを溶いてこしらえた飲み物を下痢で苦しむ少女の手から取り上げて、自分で飲んでしまう光景を目の当たりにしました。

私のいた小さな村で、人々が病気になった時、私は持っていたアスピリン、マラリア用の錠剤、包帯などどんな僅かなものでも与えました。また、村人たちが歯痛のため私の所へ来た時には、求められたガソリンをその人たちに与えました。私は、オートバイのキャブレターから半インチのガソリンを注ぎました、そして70歳の女性と15歳の男の子がガソリンを唇にたらし、そのガソリンを口に含んで、シュシュと音を立てるのを見ました。ザイールの容赦のない基準では、これが歯の治療だったのです。地元の人々によると、このように使う僅かなガソリンは感染を防ぎ、痛みを和らげる手助けをするということでした。私はその考えに拒絶反応を見せました。しかし、人々は私の所へ来続けました。口を腫らして、泣きながら、頼むから何とかしてくれと言って、数十キロも歩いてくる人もいました。だから私は歯医者になりました。何もないよりはいいと思ったのです。

私が住んでいたザイール中部では、政府が求める強制労働の要求を満たせるように、村人は健康でいることが特に重要でした。家族の十分な食料を得るために耕す為に既に充分苦労していたすべての成人男性は、600坪ほどの土地に綿を植え、その綿を政府に売るように要求されました。綿を植えない人、または植えられない人々には厳しい罰金や、凶暴なライフル銃の銃身で規則を守らせるために派遣された兵士から鞭打ちの刑を受ける危険がありました。それはベルギーによる植民地時代からそっくり受け継がれた体制だったのです。モブツは独占的に綿の価格を不自然なまでに低い基準に規制し、買い取る際にいつものように目盛りをわざと不正に操作し、村人を再び騙しました。村での綿販売は私の前庭で行われていましたので、ことの子細をすべて知っています。私は無数の鞭打ちを含め、すべてを戸口から見たのです。(注10)

これはすべてアメリカとヨーロッパの支援によって可能になりました。1977年、1978年と1984年には、アメリカとフランスが直接的、または間接的に、最後にモブツ政府を倒した人たちに似た改革派による暴動からモブツ政権を救う手助けをしました。1980年代、アメリカは、腐敗や夥しい人権侵害についての信頼し得る報告書を入手していたにもかかわらず、モブツ政権に軍事援助と経済援助をし続けました。モブツは冷戦を最大限に利用し、新植民地主義者から最大の援助を引き出しました。その代わり、ロシア人とキューバ人を国内に入れずに領土を安定させ続け、西洋の工場向けの鉱物を生産しました。

冷戦の終わりには、モブツの個人資産と国債が共に60億ドルに達したと言われています。

3.4 コンゴ民主共和国

外圧によって腐敗や人権侵害が取り沙汰されるようになるにつれて、国内政治への支配力は弱まりました。モブツは1990年に民主主義的な改革にむけての内外の圧力に屈服しますが、1994年のルワンダの大量虐殺で、また息を吹き返します。西洋がモブツをもう一度必要としたからです。1996年10月18日、東部地域で反乱が発生しました。ローラン・カビラ(当時56歳)に導かれたルワンダ人の支持する反乱軍、及びコンゴ・ザイール解放民主勢力連合は、余り訓練されずに士気のあがらないザイール軍を敗走させて、ゴマとブラブなど、東部の境界周辺の主要な町を占領したのです。

米国大統領ビル・クリントンはモブツに、ロナルド・レーガンが1986年にフィリピンでフェルディナンド・マルコスに明言したように、武力を行使しない形で平和裡に政権移譲を行なうべきだと伝えます。5月17日、反体制軍は首都に行進し、2日後に、カビラはコンゴ民主共和国の大統領として宣誓しました。国民への演説の中で、カビラははっきりと以前のザイールに民主主義な変化をもたらすと言いました。

ルムンバ内閣の閣僚の一人だったカビラは、モブツの支配した残酷な時代に、辛うじて死を免れ、キブ州とリフト渓谷沿いの境界線地区と湖畔地区の深い森の中に逃げ込みました。カビラを探した人もいましたが、その人たちからは何の情報も聞かれませんでした。カビラは1960年代からずっと小規模な反乱に参加しており、モブツの追放を切望していました。その反乱で初めて反体制の代表者を務め、1996年10月に、指導者として前面に推されました。それはカビラがザイールのルバ人の一員として、フツ人とツチ人の間の紛争で、恐らく中立の立場にいる人に見えたからでしょう。広大な国を平和な流れに導く舵取りとして忽然と姿を現わしたのです。カビラは大統領宣言を果たしますが、2001年に暗殺されて、息子のジョゼフ・カビラが大統領に就任しました。そして、カビラのいたコンゴ東部では、今、ITビジネスに欠かせない希少金属タンタルが新たな紛争の種になっています。

1995年のエボラ出血熱騒動には、こうした凄まじい背景が潜んでいたのです。

NHKで放送中の海外ドラマ『ER緊急救命室』の第9シリーズと第10シリーズで、カーター医師は、カビラの潜んでいたコンゴ東部にボランティアとして出向きますが、今まで述べたような背景なしにはカーターが訪れたコンゴを理解するのは難しいでしょう。

4.医師をめざす人のための英語の授業

宮崎大学医学部では2005年度から、タイのプリンス・オブ・ソンクラ大学との学生交換プログラムに向けての英語講座を始めました。1・2年次にはさほど関心を示さなかった4・5年生が、タイでの単位互換を伴なうクリニカル・クラークシップ・プログラムに参加するという差し迫った目標が出来て、生き生きと英語を学び始めました。語学を学ぶうえで、明確な目標が如何に大切かを肌で感じています。一ヶ月間のプログラムに参加した学生は例外なく、英語もさることながら、医学をもっと勉強しなければと言います。タイでは医者の数が少なく、5・6年生は実際の医者に近いことを要求されますから、日本の学生に比べて遙かに勉強もしますし、よく出来るのです。感染症病棟でエイズ患者の回診をした学生は、社会制度を学ぶ大切さを口にします。

大学に入学するために大量の知識を詰め込んできた中で得た歴史観や考え方を再点検して、自分自身について考える機会になればと願って授業をやりますが、うまく行くとは限りません。新入生の最初の授業でカーターの行ったコンゴのERを授業で見てもらったとき、ある学生は「初回の授業を受け、(それなりに覚悟はしていたつもりではありましたが、)やはり衝撃を受けました・・・“人であることを止めるか” “人に尽くそうとすることを止めるか” の選択であるような気がしました。せめて誠実でありたい―今はそう思います。」という感想を授業専用のホームペイジの掲示板に寄せています。「誠実で」あるためには、まず西洋寄りの体制の中で作り出された自分の価値観を見直し、大学生として相応しい基礎知識が何であるかに気づく必要があります。その学生はまた、「第1回目の授業はとても衝撃的でした。授業そのものも勿論ですが、授業のあとで、私同様に “油断していた所に直撃を受けて激しく動揺する人” と “「てか超だるいんだけどー」と言える人” の2通りに大別されたことが面白かったです。」と同級生の反応について記しています。

制度の問題もあります。医者を志望して医学科に入って来ていない学生の数が想像以上に多く、そういう学生は教養でも専門でも授業には関心が薄く、単位や試験には敏感です。しかし、入学試験で学科の成績を問う限りは、「したいことは見つからないし他の学部に行くよりは医学部へ行く方がまし」と考える学生を排除することなど実際には出来ません。

一対多という講義形式にも限界があります。いくら準備や工夫をしても、誰もが満足する授業が出来るとは思えません。厳しく出席を取らないと成立しない授業もあるようですし、厳しく出席を取っても、後の席で寝ていたり、携帯をしている学生もいるようです。

色々な問題を抱えながらやって行くしかないわけですが、やはり大学の自由な空間で培う素養は大切なものです。ESPとEGPとの狭間で、歴史観や考え方を再認識するきっかけを提供し、結果的にはそれが基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たすような授業をして、学生一人一人がいつかは適切な処方箋(RX)を書けるようになることを願いながら、十年一日の如く試行錯誤を続けたいと思います。

  1. IDSC(国立感染症研究所感染症情報センター)「感染症の話」

(http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k02_g2/k02_32/k02_32.html)

  1. (May 13, 1995). Deadly ebola virus sweeps through Zairean town. Los Angeles Times in THE DAILY YOMIURI.「解剖は非常に気持ち悪かったが、いったん血をすべてきれいにしてしまうと、内蔵器官は損なわれていないままだとわかりました」[Robin McKie, “Nature of the killer virus,” (Johannesburg: Mail & Guardian, May 19 to 24, 1995)] という記事からも、誤った推測記事だと判ります。
  2. (May 16, 1995) Ebola virus returns Zaire into World’s spotlight. THE DAILY YOMIURI.
  3. 1885年のベルリン会議でベルギー王レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」として認められて以来1908年「ベルギー領コンゴ」→1960年「コンゴ共和国」→1967年「コンゴ民主共和国」→1971年「ザイール民主共和国」→1997年「コンゴ民主共和国」と名前が変わって現在に至っています。
  4. Hochschild, Adam. (1998) King Lopold’s Ghost – A Story of Greed, Terror, and Heroism in Colonial Africa, 261. New York: Mariner Books. 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びました。
  5. 前掲書. 121.
  6. 前掲書. 279.
  7. 前掲書. 278.
  8. 小田英郎(1986)『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』東京:山川出版社. 118.
  9. Tidwell, Mike. (June 6, 1997) Looking back in Anger: Life in Mobutu’s Zaire. Washington Post in THE DAILY YOMIURI.

執筆年

2006年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第5号61~69ペイジ

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