つれづれに:西海岸(2024年1月25日)

つれづれに

つれづれに:西海岸

 西海岸とは言っても、サンフランシスコやロサンジェルスの西海岸ではなく、伊豆の西海岸である。鎌倉に行く前に、伊豆に寄った時の話だ。熱海、伊東経由で修善寺に着き、一泊して修善寺の境内と温泉街に行った。そのあと伊東に戻って小田急で下田に行こうと思っていたが、海がきれいだという話を聞いて、急遽(きょ)バスで逆方向の戸田(へた)海岸に出かけることにした。きれいな海で、海の水が澄んでいた。ユースホステルに一泊して、長いこと海を眺めていた。

きれいな海を見たいと思ったのは、瀬戸内海が目に見えて汚れていたからだろう。その頃は毎朝、家の近くの川の堤防を走っていた。夜の授業から帰ってもなかなか眠られず、そのまま朝を迎えて走りに出るときもあった、南に10キロほど行けば、海に着く。その川の河口付近の海が、すっかり汚れてしまった姿が哀しかった。1970年に大学に入ったので、70年代の半ばのことである。(→「引っ越しのあと」

西側の紡績工場、引っ越した先の家からその工場が見えた

 堤防沿いに見える製紙会社はひどかった。どろどろのパルプみたいな液状の物質を工場から溝に排出しているのを見て、気味が悪かった。海岸線には東に地元の化学工場があり、西には化学工場や紡績会社がぎっしりと並んでいた。小学生の時にその砂浜に潮干狩りに行った記憶があるから、汚染は急速に広がったというわけだろう。

その時は知らなかったが、南アフリカの文学を理解したいと歴史を辿(たど)ったとき、1964年にリボニアの裁判でネルソン・マンデラが終身刑を言い渡されて南アフリカは指導者が地上にいなくなる暗黒の時代に入ったという史実を知った。1960年のシャープヴィル虐殺の暴挙に、表向きは国連も西側諸国に経済制裁を呼び掛けた。アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本などに協力要請の親書を送ったのは、政府が相当慌てていたということだろう。西側の先進国は白人政府とつるんで利益を分け合っていたのだから、方針を受け入れるわけにはいかないが、少しは支援のポーズだけは取った。しかし、西ドイツと日本は、第2次大戦で途切れていた通商条約を何の恥じらいもなく再締結した。日本の大手の製鉄会社の再締結は、南アフリカの人にとっては予想以上に政局に影響を及ぼす裏切り行為だった。アフリカ人の抵抗に勢いがあって、そのままアパルトヘイトが廃止されそうな雰囲気がアフリカ人側にも白人側にもあったからだ。そのあと、日本は高度経済成長期に突入した。新幹線が走り出した。1964年の東京オリンピックはその幕開けだったわけだ。(→「アフリカ・アメリカ・日本」

 大型建設も始まり、都会には巨大なビルも建ち始めた。高速道路が走り、田舎の隅々まで道路が舗装された。大量消費の社会を支える化学会社や紡績会社などが、猛烈な勢いで生産を始めた。自動車や家電製品も大量に造られた。環境汚染など、気にしている余裕もなかったわけである。堤防を走りながら見た光景は、まさにその高度経済成長の一端だった、その時は、気づかなかった。

修善寺から伊豆の西海岸のきれいな海を見に行きたかったのは、瀬戸内海の淀んだ風景に馴染(なじ)んでいたせいかも知れない。