アフリカ・アメリカ・日本

2019年10月22日1976~89年の執筆物随想

概要

アパルトヘイトをめぐる日本とアメリカの状況を論じたもので、国際的に反アパルトヘイト運動が展開される中での日本の状況と、滞在したアメリカでの状況を述べました。

コートジボワール人学者リチャード・サミン氏が1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在中のラ・グーマに行なった《アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー》を日本語訳した時に書きました。翻訳のあとに、この文章が掲載されています。

本文)

「南ア黒人組織へ直接援助外相がANC議長に表明医療・教育に40万ドル」「ANC議長首相と会談」-そんな新聞の見出しを見ても、どうも素直に喜べない。

当時のANC議長オリバー・タンボ

去年の夏、私はアメリカにいた。「マンデラ」「南ア経済制裁」「ツツ主教」など、そのときはさほど気にもとめなかったが、南ア報道がいやに多かった。あとでわかったのだが、私の着いた翌日7月18日はマンデラ氏の63度目の誕生日だった。1962年来獄中にいる前ANC議長の大きな写真が各紙に載り、釈放を求める写真人りのポスターが街のあちこちで見受けられた。テレビのブラウン管には、ケーキを抱、えたウィニー夫人の姿が映し出された。ツツ主教とタンボANC議長、それに多分UDFのブーサック師だったと思うが、三氏による同時衛生中継というのもあった。中でも、某上院議員が、南ア制裁を渋るレーガン大統領に「あなたが大統領であるこの国に生まれて、私は恥ずかしい」と切々と訴えていた姿が忘れ難い。南ア貿易額ナンバーワンのアメリカを弁護する気は毛頭ない。それでも、報道や文化レベルでの日米の目に見えない格差を、やはり、肌で感じざるを得なかった。

「マンデラ」

ムファレレ氏のいたノースウェスタン大学やブルータス氏のいたテキサス大学では、数々のアフリカ関係の書物が出版されている。南アの人で現在カナダのビショップ大学教授セシル・エイブラハムズ氏が会長を務めるアフリカ文学研究会などを中心に地道な活動を続ける研究団体、本文に引用された「アフリカン・スタディーズ・レビュー」など定期的に刊行されている雑誌や、教壇に立つアフリカ人も多い。大学院レベルでも、アフリカ史、アフリカ文学の講座をもつ大学も少なくない。

セシル・エイブラハムズ氏

この翻訳に際して、朝日、毎日新聞などにも報道されなかったラ・グーマ氏の死について確かめたのは、アフリカ文学研究会の機関紙 ALA BULLETIN (Fall 1985)だったし、引用された「アフリカン・スタディーズ・レビュー」の記事については、日本で唯一所蔵の国立民族博物館に出かけて確かめざるを得なかった。

1985年10月、政府は南アに対して実施していたスポーツ、文化、教育の交流制限措置のうち、教育交流の分野を一部緩めて黒人の留学生を受け入れる方針を打ち出したが、現実は果たしてどうか。悲しいことに、教壇に立つアフリカ人はおろか、大学でのアフリカ史、アフリカ文学の講座すら皆無に等しい。経済面での出版が突出しているいびつさはよく指摘されるところだが(片岡寺彦氏「日本のアフリカ研究」(1985年2月13日朝日新聞夕刊参照)、もうそろそろ欧米一辺倒はやめて、アフリカ人を招いてアフリカ史やアフリカ文学を講じてもらう、は現実に高望みとしても、せめて大学で、アフリカ史、アフリカ文学の講座を設けるくらいのことは、すべき時期に来ているのではないか。

1984年、日本は飢餓キャンペーンに湧いた。高級料亭常連の国会議員が節食ランチを、などと言い出し、白衣の天使果柳徹子がやせ細った黒人の子供を抱き上げて、まあかわいそうに、と言った。「1億5000万人の飢え?もしかしたら、いまブームではないですか。ブームだったら、やがては冷める」(朝日新聞1984年11月5日夕刊)と言ったムアンギ氏の言葉は、残念ながら、現実のものとなった。そんな意味では、アラン・ブーサック牧師の関西講演集会のパンフレットに載せられた、来日を前にしての「日本へのメッセージ」は、ずしりと重い。「われわれを追い回し、連行する車はトヨタ、ニッサン車だ。それを日本は知ってほしい。1985年、私が拘留された際に乗せられた車も日本製だった。英国、西ドイツは自己の立場を弁明するためにこう言っている。「われわれが撤退すれば日本がやってくる。日本の反アパルトヘイト運動は微々たるもので、日本企業は世論の圧力を気にしないですむからだ……」(東京集会、メーデー集会に参加、早朝に山谷を訪れたあと、5月6日の総選挙にからむ緊急事態が発生したために、ブーサック師は急遽帰国。従って5月2日の大阪集会は講演主不在となったが、ビデオでの師のメッセージ、最近の南ア情勢を鮮烈に伝える映画「燃えあがる南アフリカ!-南ア解放組織UDFの記録」や東京で終始ブーサック師と行動を共にした楠原彰氏の話を中心に行なわれた。ブーサック師の力強い演説は50年、60年代アメリカを揺るがした黒人公民権運動の指導者故M・L・キング師をほうふつとさせ、南ア情勢の急を告げていた。)

アフリカを本当に理解するには、日本の文化レベルの現状はあまりにも貧しすぎる。タンボ議長と首相、約20分の対談、僅か40万ドルの支援などと、国際世論をを気づかっての見せかけの対応より、厳しい経済制裁の断行、アフリカ人の受け入れ、などは勿論のこと、文化交流での地道な活動を支えて行く姿勢を持つ方が、はるかに大切だろう。

4月29日(大阪工業大学嘱託講師)

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」 7号 24-25ペイジ

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