がまぐちの貯金が二円くらいになりました-貫名美隆先生を悼んで-

2021年12月15日1976~89年の執筆物随想

解説

 初めての依頼原稿です。門土社(横浜)から貫名さんの追悼集を出すから何か書いて欲しいと依頼があって書いたものです。
大学には行きたかったものの、受験勉強に馴染めず、結局入れる所に行ったこともあり、英米学科にもかかわらず英語も含めて何もしませんでした。元は文章だけですが、解説と写真を付け加えました。

本文

ー貫名美隆先生を悼んでー

「ゴンドワナ」3号1986年8-9ペイジ

ドゥレイク氏

11月下旬に、私はミシシッピー州立大学で行われたリチャード・ライトの死後25周年記念国際シンポジウムに参加する機会を得たが、その時、発表者の一人でもあり、ライトがその序をよせた『ブラック・メトロポリス』の共著者でもあるドゥレイク氏に、ある親しみを覚えた。白髪の風貌と瓢瓢とした語り口が、貫名さんのイメージと重なったからである。名誉教授であること、年齢がほぼ同じであることも、その要因の一つだったかもしれない。10月15日のお葬式の日に、菊の花を添えてお別れした死に顔が、なぜかちらついて仕様がなかった。マーガレット・ウォーカー女史の出版記念パーティの席上で、いたたまれず、ドゥレイク氏にそのことをお話ししたら、やさしい目で微笑んで居られた。私がつい一週間前に『ブラック・メトロポリス』の文献複写を依頼したことを告げると、一部お送りしましょうと言って下さった。また、貫名さんが、1954年に黒人研究の会を創設されたことに触れると、一瞬驚きの表情を示された。3日間の期間中に、様々な人と喋ったが、1954年の創設の話をした時の反応は一様に「驚き」だった。30年余の歴史の重みを、アメリカの地で知ろうとは夢にも思わなかった。

シンポジウムの特集記事を掲載した雑誌

雑誌の中に紹介された写真:ファーブルさんと

二冊の本

1981年に私は初めてアメリカの地を踏んだ。「行くこと」が主な目的だったせいか、あまり人とも喋らず、ひたすら本屋、古本屋を歩きまわった。お蔭で思わぬ拾いものをしたが、その時もとめた二冊の本を貫名さんへのおみやげにと持ち帰った。一冊は、1942年にライトが「地下にひそむ男」のタイトルでその草稿の一部を発表したクロス・セクション誌の『1940~1960年秀作特集』で、もう一冊は、ライトの『アフリカの飢え』だった。帰ってから、二冊の本と菊の花を一枝持って、何度か貫名さんのお宅をおたずねしたが、決ってお留守だった。いつも、庭に水をはって置いてあったバケツに花をそっと投げ込んでは、黙って戻って来た。菊はしつこく枯れないから、どうも好きになれない花なのに、どうしてよりによって菊の花を選んで持って行ったりしたのか。

クロス・セクション誌『1940~1960年秀作特集』

それ以降にも、いく度となくお渡しする機会はあったはずなのに、その二冊の本は、今も本箱の片隅に眠ったままである。持ち主となるべき人の手元に、今はもう届ける術はない。

祖父と孫

今、私の手元に1971・5・28の日付け入りの10枚からなる手書きのレジメがある。とじるのに用いたホチキスがさびついて赤くなっている。貫名さんから戴いた葉書きを探していて見つけたものだが、ゼミの発表時にくばったもののようだ。「親(父)と子の愛情について-HARPER LEE 著 TO KILL A MOCKINGBIRD より」と題してあり、拙い数匹のものまね鳥らしきもののカットが見える。そして、「作者は三つのこのそれぞれの親子関係を前後にならべることによって親の子に対する影響の大なること、ひいては人の愛の絶大なることを訴えている気がしてならない。」と結んである。どうも、登場する三組の親子関係を比較したようだ。
後にも先にも、これが一度きりの発表だった。15年経った今、詳細は必ずしも定かではないが、断片的な記憶は残っている。
登場人物を明らかにするために、主人公の家で働く黒人女性カルパーニヤに"their cook" (negress)の説明を付した。本文でしばしば見かけた niggerの女性形を知っているぞと私は言いたかったのであろう。貫名さんから「negressという言葉が使われてましたか」と問われた時、私は「たしかに見たのですが……」と言いながら、一応、必死に本をめくってみせた。帰宅してから詳しく調べてみたが、negressの語は見当たらなかった。
時間もなく、自信もなかったので、引用には翻訳本をそのまま借用した。貫名さんが「これはだれかの訳ですか、それともあなたの訳ですか」と聞かれた時、私が「菊池という人の訳です」と答えたら、みんながどっと笑った。なんだ自分で訳もつけられないのか、というあざけりのひびきがあった。「そうですか」とおっしやった貫名さんの目は笑ってはいたが、決して責めてはいなかった。
親への飢えを常に感じながら育った私は、勝てないとわかっている裁判の弁護をあえて引き受け、身をもって子供に生き様を示した父親アティカスに羨望を覚えたことだろう。しきりに、父親の子に対する義務が如何に大きいかを力説したようだ。じっと耳を傾けておられた貫名さんは、最後に「玉田クン、親に子を育てなければならない義務は、やはり、あるんですかね」と一言だけ、ぽつんとおっしやった。

教壇の真下の席

ゼミが一年間しかなかったことや、卒業する年に貫名さんが居られなかったこともあって、とうとう私は卒業論文を書かずじまいであった。今回、アメリカ南部のある本屋で、It Is a Sin To Kill a Mockingbird (『アラバマ物語』の題で翻訳出版)の3種類のテキストを見つけて買い求めたが、どうやら、今から私の〈卒論〉を仕上げるつもりでいるらしい。 私は「良い」学生ではなかった。はじめから、学校そのものに期待していなかったせいか、授業に「出る」ことをあたりまえと信じ込んでいる人達には、どうしてもなじめなかった。大抵は何度目かの授業が私のはじめての「出講日」だった。貫名さんの授業の場合も例外ではなかった。テキストが教室で販売されたと聞いて、臆面もなく研究室に買いに出かけたのは夏休みも間近かの頃だ。授業に、出ないことなんか、気にもとめておられない貫名さんの表情に、却ってこちらが気おくれしてしまって、「ぼく、川端さんが自殺なさった気持ち、わかる気がします」と言う言葉がつい口から出てしまった。褌に着物、下駄ばきに風呂敷き包みの出て立ちで、天城越えをするなど、当時の私は川端さんに相当いれこんでいたからであろう。とにかく、とっさに口がすべってしまったのである。貫名さんは、私をまじまじとごらんになってから「玉田くん、その歳でそんなこといっちゃあ、困りますよ」とおっしゃったが、目は実に優しかった。

『アラバマ物語』(暮らしの手帖社)

授業にはあまり出ないくせに、出ると決って質問をした。大抵の場合、あらかじめ質問の答えを用意をして居て、かえって来る答えで教師のランク付けをやっていたのだ。貫名さんにも、私はやっぱり質問をした。ところが答えがいつも違うのだ。準備していたランクに貫名さんの答はおさまりきらないのだ。私の思考形態の範疇を超えていたというわけだ。私はいささかまいった。それ以降、授業に出るときには、必ず人より早く行き、黒板を丁寧に丁寧に、拭いた。そして教壇の真下の席に座った。少し離れるとぼそぼそと話される内容が聞き取れないということもあったが、誰にも教壇下の席を譲らなかったという芥川龍之介さんのまねをして、私なりの敬意を表したかったのだ。
貫名さんにはオーソリティという言葉がよく似合う。偉大すぎて却ってこわいという声も耳にしたが、「偉大さ」をわかり切れなかったせいか、私にはやさしいばかりの存在だった。叱られたことがない。negressの無知浅学についても、間違いをずばりと指摘なさりはしなかった。翻訳のことについても、不勉強を責めたりはなさらず、少し余地を残して下さった。今にして思うと、私にとっての貫名さんは何をしても叱られることのない「祖父」であり、貫名さんにとっての私は叱る気にもなれない「孫」ではなかっただろうか。
ゼミで、貫名さんが最初に言われたのは「勝手にテーマを決めて、勝手にやって下さい」だった。何とほっとしたことか。高校では丸刈りに、運動靴、学生服の下には白のカッターシャツを着せられて、帽子をかぶれだの、通学路を守れだのと、園児か、まるで牛馬の如き扱いを受けていたから、なおさらだった。やることを自分で決めて、自分でやれることが如何にうれしかったことか。
その年がゼミを担当された最後の年だったことや、お身体の調子が悪かったことなども重なったせいか、やたら休講が多く、たしか半分ほどしか授業がなかったと思う。それに、私の方でも、すすんで「自主休講」の措置をとるものだから、よく考えてみると、結局、数回ほどしかゼミで貫名さんにお目にかかれなかったことになる。それでも、成績表を見たら優がつけられてあった。
今、私は学生に惜しげもなく単位を出し、優をつけている。どうやら、無意識のうちにこの時のご恩返しをやっているらしい。

神戸市外国語大学旧学舎(神戸市東灘区土山町)

がま口の貯金

あるとき入院なさっていると聞いて、お見舞に行ったことがある。案の定、病院にはおられなくて、小一時間程して貫名さんは「一寸、郵便局まで手紙を出しに行ってましてね」とおっしゃりながら部屋に入ってこられた。
お身体がよくないのに、かれこれ四時間ほどもお話しして下さったろうか。何をお話ししたのか、あまりはっきりしないが、出来るだけ若い時に外国へ行ったらいいですよ、ロシア文学の英訳本を読んだりするのもいいですよ、などとおっしゃった様な気もする。別れ際に「玉田君は、今、がま口の貯金が一円くらいしかないから、一円でも多く貯金しなさいよ」とおっしゃった言葉が今だに耳にこびりついている。
あれから、何年経つのだろう。二度、アメリカに行った。高校に七年間、教科に、ホームルーム活動に、クラブ活動に精一杯だった。本を読み、書く時間がどうしても欲しいと考えて高校を辞めた。もう五年になる。その間、少しは本を読み、少しは物も書いた。それでも「がま口の貯金が二円くらいになりました」と言えるのかどうか。
何年か前から、私は黒人研究の編集のお手伝いをさせてもらっている。今回、会報に貫名さんの訃報を載せた。会報の充実を望んでおられた貫名さんを思いながら、何とかがんばってみた。その編集後記に、私は次のように書きとめた--「…編集部には、この会報22号を送り届けたあと、会誌56号(貫名美隆氏追悼号)の仕事が待っています。時代を先取りした先人へのご恩返しにふさわしいものにしたいと念じています。それが、30年余の歴史を継承する次の布石のひとつになりますように、と祈りながら……」何年も前に貫名さんが蒔かれた〈一粒の麦〉は、ひそかに育ち続けているようだ。

               貫名さん

1985年12月12日      (大阪工業大学非常勤講師)

執筆年

1986年

収録・公開

「ゴンドワナ」 3号 8-9ペイジ

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