コンゴの悲劇 独立―新植民地支配の始まり
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コンゴの悲劇 独立―新植民地支配の始まり 玉田吉行
ヨーロッパ人がアフリカを侵略し始めて以来、中央アフリカの大国コンゴは絶えず搾取され続けてきました。今回は、独立をめぐる話を書きたいと思います。先ずは、独立までの経緯を簡単に辿っておきましょう。
あまり知られていませんが、一八八五~六年のベルリン会議で、コンゴはベルギーのレオポルド二世個人の植民地として承認されています。その支配は二十三年間に及び、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されています。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約百二十億円とも言われます。
「コンゴ自由国」は一九〇八年にベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれます。支配体制を支えたのは、一八八八年に国王が傭兵で結成した植民地軍です。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、一九〇〇年には、一万九千人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。まさに力による植民地支配だったのです。
第一次大戦では、アフリカ人は兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」という惨状でした。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現されます。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの八十%以上がコンゴの鉱山から持ち出された」と言われています。
コンゴが貪り食われたのは、豊かな大地と鉱物資源に恵まれていたからです。ベルギーの八十倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあります。植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていきました。「一九五三年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの七十派セントを産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」になっていました。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となりました。
独立
二度に渡る世界大戦でヨーロッパ社会の総体的な力が低下したとき、それまで抑圧され続けていた人たちが自由を求めて闘い始めます。その先頭に立ったのは、ヨーロッパやアメリカで教育を受けた若い知識階層で、国民の圧倒的な支持を受けました。
ベルギー政府は、コンゴをやがてはアフリカ人主導の連邦国家に移行させて本国に統合する構想を描き、種々の特権を与えて少数のアフリカ人中産階級を育てていました。五十六年当時の総人口千二百万人のうちの僅かに十万人から十五万人程度でしたが、西洋の教育を受け、フランス語の出来る人たちで、主に大企業や官庁の下級職員や中小企業家、職人などで構成されていました。独立闘争の先頭に立ったのは、この人たちです。
インドの独立やエジプトのスエズ運河封鎖などに触発されて独立への機運が高まりアフリカ大陸に「変革の嵐」が吹き荒れていましたが、コンゴで独立への風が吹き始めたのは、ようやく五十八年頃からです。
五十八年当時、アバコ党、コンゴ国民運動 、コナカ党などの政党が活動していました。中でも、アバコ党が最も力を持ち、カサヴブとボリカンゴが党の人気を二分し、党中央委員会の政策がコンゴ全体の政治の流れを決めていました。カサヴブは即時独立を求めましたが、民族色の濃い連邦国家を心に描いていました。
五十八年十月創設のコンゴ国民運動は、従来の民族中心主義を排し、国と大陸の統合を目指して活動を始めました。誠実で雄弁な指導者パトリス・ルムンバ が、若者を中心に国民的な支持を得て、第三の勢力に浮上しました。ルムンバに影響されたカサイ州バルバ人の指導者カロンジが第四勢力の地位を得ましたが、五十九年六月にルムンバに反発して分裂し、ベルギー人(教会、大企業、政庁)の支持を受けてコンゴ国民運動の勢力を二分しました。イレオなど多数がカロンジと行動を共にします。
カタンガ州では、チョンベがベルギー人財界や入植者の支援を受けてコナカ党を率いていました。
ベルギー政府に独立承認の意図は未だありませんでしたが、五十八年十一月辺りから事態は急変します。西アフリカ及び中央アフリカの仏領諸国が次々と共和国宣言をしたこと、十二月にガーナの首都アクラで開かれた第一回パンアフリカニスト会議に出席したルムンバが帰国したことに刺激を受けて、独立への機運が急激に高まったからです。
翌年一月四日、レオポルドヴィルで騒乱が起き、五十人以上の死者を出しました。事態を無視出来なくなったベルギー政府は独立承認の方法を模索し始め、六〇年一月二十日から二十七日にかけてコンゴ代表四十四名をブルッセルに集めて円卓会議を開催して、急遽、同年六月三十日の独立承認を決めました。
宣戦布告
五月に行なわれた選挙でコンゴ国民運動は百三十七議席中の七十四議席を得てルムンバが首相にはなったものの、絶対多数には届かず、カザヴブの大統領職と、大幅な分権を認める中央集権制を容認せざるを得ませんでした。ルムンバには民族的、経済的基盤もなく、分裂要素を抱えたまま、大衆の支持だけが支えの船出となりました。
六月三十日の独立の式典で、ルムンバはコンゴの大衆と来賓に、次のように宣言します。
「・・・涙と炎と血の混じったこの闘いを、私たちは本当に誇りに思っています。その闘いが、力づくで押し付けられた屈辱的な奴隷制を終わらせるための気高い、公正な闘いだったからです。
八十年来の植民地支配下での私たちの運命はまさにそうでした。私たちの傷はまだ生々しく、痛ましくて忘れようにも忘れることなど出来ません。十分に食べることも出来ず、着るものも住まいも不充分、子供も思うように育てられないような賃金しか貰えないのに、要求されるままに苦しい仕事をやってきたからです・・・・
しかし、選ばれた代表が我が愛する祖国を治めるようにとあなた方に投票してもらった私たちは、身も心も白人の抑圧に苦しめられてきた私たちは、こうしたすべてが今すっかり終わったのですと言うことが出来ます。
コンゴ共和国が宣言され、今や私たちの土地は子供たちの手の中にあります・・・・
共に、社会正義を確立し、誰もが働く仕事に応じた報酬が得られるようにしましょう。
自由に働ければ、アフリカ人に何が出来るかを世界に示し、コンゴが全アフリカの活動の中心になるように努力しましょう・・・・
過去のすべての法律を見直し、公正で気高い新法に作り変えましょう。
自由な考えを抑え込むのは一切辞めて、すべての市民が人権宣言に謳われた基本的な自由を満喫出来るように尽力しましょう。
あらゆる種類の差別をすべてうまく抑えて、その人の人間的尊厳と働きと祖国への献身に応じて決められる本当の居場所を、すべての人に提供しましょう・・・・
最後になりますが、国民の皆さんや、皆さんの中で暮らしておられる外国人の方々の命と財産を無条件で大切にしましょう。
もし外国人の行ないがひどければ、法律に従って私たちの領土から出て行ってもらいます。もし、行ないがよければ、当然、安心して留まってもらえます。その人たちも、コンゴのために働いているからです・・・・
豊かな国民経済を創り出し、結果的に経済的な独立が果たせるように、毅然として働き始めましょうと、国民の皆さんに、強く申し上げたいと思います・・・・」
このルムンバの国民への呼びかけは、同時にベルギーへの宣戦布告でもありました。
しかし、ベルギーはルムンバに容赦せず、ベルギー人管理八千人を総引き上げしました。ルムンバが組閣しても行政の経験者はほとんどなく、三十六閣僚のうち大学卒業者は三人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいます。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったと言えるでしょう。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。
独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえる筈もありません。名前が変わっても、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされたのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」です。
こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。
(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)
執筆年
2006年
収録・公開
未出版(門土社「mon-monde 」5号に収載予定で送った原稿です)
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