ジンバブエ滞在⑮ ゲイリーの家

2020年2月27日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した15回目の「ジンバブエ滞在⑮ ゲイリーの家」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ゲイリーの家

作りかけの教室の足しにでも使って下さいと校長に寸志を手渡して、ルカリロ小学校を後にし、私たちは再びゲイリーの家に戻りました。

ゲイリーの家でも、大歓迎を受けました。両親や兄弟やその家族を紹介してもらいましたが、少々人が多過ぎて、両親以外は誰が誰だかわかりませんでした。

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ゲイリーの家族・親族

最初に案内された小屋風の建物は、みんなが集まって寛ぐ場所のようですから、さしづめ居間に相当するインバでしょう。円形の室内は、外から見る以上に天井が高くて広い感じです。周りの壁の一部には、座るのにちょうどいい高さに、ベンチとでも言うべき腰掛け台が設けられ、真ん中に掘られた囲炉裏には、火が入っています。ここで食事をしたり、団欒の時を過ごすのでしょう。採光や換気が充分でないと感じるのは、今の私が都会の生活に慣れてしまっているせいでしょうか。

ゲイリー夫妻のインバにも連れていってもらいました。セメントと土を混ぜて塗ったと思われる床はぴかぴかに光り、隅々にまで手入れが行き届いています。室内には清潔感が漂っていました。フローレンスがどうぞと、さっと床にザンビアを広げてくれました。ルカリロ小学校で録音したテープを聞こうということになって、テープレコーダーを回し始めましたら、だんだんと人の数が増えてきました。

妻は、ゲイリーのインバをスケッチしたいと外に出ました。たちまちの人だかりです。ゲイリーは、向こうにいる女性陣が歌って踊りたいと言っているので、録音しませんかと言っています。何らかの形で歓迎の意を伝えようとして下さっているのでしょう。

ゲイリーとフローレンスの寝室の前で

最後に、ゲイリーは家の墓に案内してくれました。家のすぐ傍の樹の下に、何個か大きな石が置いてあって、石には「……モヨ」という先祖の名前が刻まれています。前の日に用意しておいた36枚撮りのフィルムもあと僅かとなっていましたが、ゲイリーのたっての希望により、墓の写真を何枚かフィルムに収めました。

墓石の前に立ち、向こうに見える小高い山を見つめながら、あの山の麓までがモヨ家の土地なんですよと何気なくゲイリーが言いました。

何も遮るものがない向こうの山の麓まで、2、3キロはあるでしょうか。いや、もっとあるかも知れません。何ということでしょう。こんなに広い土地がありながら、家族と一緒にここで暮らせないなんて。

渇いた大地の中にゲイリーと並んで立ち、激しく吹きつける風を我が身に受けながら、これがアフリカの現実だとしみじみ思いました。おそらく、目の前の墓に眠っているゲイリーのひいおじいさんの世代までは、豊かな家畜の群れを持ち、日の出とともに起き、陽が沈む頃に休むという自給自足の生活を享受していたはずです。

対象が大きすぎて、当事者のゲイリーには把握する術もなく、あまりにも厳しい現実に、考える余裕すら持てないのが本当の所だと思いますが、「先進国」がアフリカ人の安価な労働力を食い物にしている搾取の縮図が、まさに目の前に広がっていました。

この国に本格的に西洋人が侵入して来たのは、19世紀の終わりで、わずか100年前のことです。金を掘り当てるのが目的でした。

最初に南アフリカにやって来たのは、オランダ系の入植者アフリカーナーですが、イギリス人はそのアフリカーナーを内陸部に追い遣って、次第に南アフリカの主導権を握るようになっていました。

1854年ころまでには、豊かで肥沃な海岸部のケープとナタールの2州をイギリス人が占有し、内陸部のオレンシ自由州とトランスヴァール州をアフリカーナーの自治領としてイギリス人が認める形で覇権が確立されていました。他のヨーロッパ列強の進出を阻むために南アフリカを押さえておく必要性がありましたが、イギリスにとって南アフリカ自体はまだそれほど重要性を持つ国ではありませんでした。

南アフリカの地図

しかし、1886年に、現在の南アフリカ最大の都市ジョハネスバーグがあるヴィットヴァータースラント(ラント)地方に金が出てから、状況が一変します。ジンバブエへのイギリス人の侵略は、このラントでの金の発見と密接に関係しています。

金が出たラントは、イギリス人がアフリカーナーに自治領として認めたトランスヴァール州内にありました。のちに金の採掘権をめぐって、2国間で壮絶な第2次アングロボーア戦争(1899年~1902年)が繰り広げられますが、豊かな金を産出するラントの出現は、それまでアフリカ南部の覇権を誇っていたイギリスにとっての脅威となりました。

ジンバブエへの進出を積極的に推し進めたのは、すでにケープ植民地で権力を手にしていたセシル・ローズやその取り巻きです。ローズは、1868年にオレンジ自由州キンバリー付近でダイヤモンドが発見されてから南アフリカに渡って来た入植者の一人です。17歳の若さながら、次々と採掘権を奪いながら、次第に財力をつけ、やがて90年にローズはケープ植民地の首相になりました。

ダイヤモンドの採掘(「アフリカシリーズ」)

ラントの出現により優位を脅かされると懸念したイギリス政府はローズらを後押して89年にイギリス南アフリカ会社(BSAC)を設立させ、第2のラントを求めて、本格的に北部への進出を開始しました。翌年の6月には、武装したBSACの私設軍500人と入植者200人が、ローズの庇護をもくろむ350人のグワト人を従えて、北部のベチュアナランド(現在のボツワナ)からマショナランド(現在のジンバブエの北部)に侵入し、9月には現在のハラレに、入植者がイギリスの国旗を翻しました。

入植者は、その地をソールズベリと名付けました。のちに国はローズにちなんで、ローデシアと呼ばれるようになります。ケープタウンとエジプトのカイロを結ぶ一大帝国を築く野望を持っていたローズにとって、この北部進出は一つの足掛かりでもありました。

相当の土地と金の採掘権とを約束されていた入植者は直ちに金探しに没頭しましたが、期待したほどの成果は得られませんでした。その土地が第2のラントにはならなかったわけです。

予め専門家に金鉱脈の調査を依頼していたローズは、94年に調査結果の報告を受け、南部のマタベレランドに少しは金が出るものの、ラントほど豊かな鉱脈をどこにも期待出来ないことを知りました。そして、ローズとBSACは、金の採掘に代わる手段として、その地に住むアフリカ人から富を奪う道を模索し始めます。北部のマショナランドと南部のマタベレランドを合わせて南ローデシアと呼び、ローズやBSACに守られた入植者は、そこに住むンデベレ人とショナ人から家畜と土地を奪います。その後、強制労働や税金を強要して貨幣経済に巻き込み、アフリカ人を安価な労働力として最大限に利用出来る搾取構造を、系統的に打ちたてていくのです。

セシル・ローズ(「アフリカシリーズ」)

税金をかけられて払えない村人には、働ける者が現金収入を求めて都会に出ていくしか術はありません。都会では、家族を養えるだけの賃金も得られずに重労働を強いられ、劣悪な環境の中での惨めな生活を余儀なくされました。搾取構造がしっかりしている限り、白人側には絶えずアフリカ人の安価な労働力が確保されています。アフリカ人が貧しくなればなるほど、搾取する側はますます豊かになって行く仕組みです。

ゲイリーのお爺さんも、お父さんも、そんなイギリス人による侵略の波をもろに受け、歴史の巨大な流れの中で苦しんで来た筈です。そしてゲイリーも今、こんなに広大な土地を田舎に持ちながら、1年の大半を家族と一緒に過ごすことも出来ず、僅か170ドルで24時間拘束されて、いいように扱き使われています。

渇いたゲイリーの土地を遠くに眺めながら、残酷な歴史と厳しい現実に押しつぶされてしまいそうな気持ちになりました。

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子供たち、ゲーリーたちの土地を背に

1980年の独立を機に、ローデシアはジンバブエに、ソールズベリはハラレに、入植地を記念して名付けられたセシルスクウェアはアフリカンユニティスクウェアにそれぞれ改名されました。アフリカンユニテスクウェアは、ミークルズホテルや国会議事堂や英国国教会に囲まれた街の中心地にあり、今は市民の憩いの場として親しまれています。学生のアレックスが記念撮影の名所ですよと教えてくれました。公園の真ん中にある噴水の前で、私たちも何度かシャッターを切りました。

アフリカンユニティスクウェアで

大変な1日でしたが、暗くならないうちにゲイリーの家をあとにしました。別れ際に、車の陰で、2番目のメリティが泣きたい気持ちを必死に堪えようとしているのが目に入って来ました。別れが妙に切なく思えました。(宮崎大学医学部教員)

メリティと長女

執筆年

  2012年9月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在⑮ゲイリーの家」(No.49  2012年9月10日)

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  「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」