つれづれに:伊豆(2024年1月23日)

2024年1月24日つれづれに

つれづれに:伊豆

 伊豆に出かけたのは、3月の初めだった。半世紀以上も前のことなのに、その季節を覚えているのは、修善寺の山桜と大島の椿が印象的だったからである。泊ったのは修善寺と西伊豆の戸田、それに大島で、すべてユースホステルだった。ユースホステルの記憶は全くない。

小島けい画→「椿」

 ずっと関西だったので、京都から東に行ったのは数えるほどしかなかった。中学2年生の時に修学旅行で東京に行っている。今なら集団でする旅行に参加することはないが、その時は、その選択肢はなかった。学校は行くもの、修学旅行は参加するものと考えていたのだろう。嫌なら行かなければよかったが、行かないという発想がなかった。その意味で、選択肢がなかったということである。来年になるとオリンピックで人が多くなるので、今年だけ例外で2年生の間に行くという説明があった。オリンピックも東京も、遠い世界だった。私のいた兵庫の東播地区の大半は中学校の修学旅行は東京、高校は九州だった、のではないか。高校でも修学旅行に行ってるので、なぜ行ったのかという思いは残る。中学校でも高校でも同じ反応だった。1963年の話である。

入学試験で京都の公立大を受けた。英国社の3科目の中間校だったからだが、受験勉強をしてもいないのに、よくも受けに行ったものである。かすかに、泊った宿屋で、他の高校の人と話をした記憶が残っている。僕と違って、通る可能性があって受験をした可能性は高い。その時に、新幹線を利用した。その当時は、弾丸列車(th bullet train)と言われていた気がする。その後、New Trunk Lineを経て、SHINKANSENになったようだ。どのあたりでそうなったのかははっきりしない。1980年代の後半に新幹線とは無縁の地に赴任してからは、新幹線沿線と無縁の地という二つの区分で考えるようになっている。思わず教授になってしまって出そびれてしまったが、新幹線沿線に異動する機会を逸したまま、定年退職を迎えてしまった。

 行きも帰りも、その新幹線を利用した。伊豆に出かけたのは、芭蕉の→「漂泊の思ひ」 と川端康成(↓)の伊豆の踊子と、立原正秋の鎌倉が誘因だった気がする。

生きても30くらいまでだろうと諦めて余生を過ごしていると、死ぬことがそう大層なものに思えなくなっていた。それまで、死ぬという選択肢は意識になかったが、諦めてから、生と死の境界線が曖昧(あいまい)になった。ただ、1970年に割腹自殺をした三島由紀夫の死は理解できなかったが、2年後の川端康成の死はなんとなくわかる気がした、その違いはあった気がする。最初の授業に出るのが遅めだったので、生協に教科書が見当たらず、担当者の研究室に買いに行ったときに、その話をしたら「玉田くん、その歳でそんなこといっちゃあ、困りますよ」と言われてしまった。その人には、きっと私には見えない世界があったのだろう。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」