つれづれに:カビラ(2024年5月15日)

2024年5月16日つれづれに

つれづれに:カビラ

 今回はローラン・カビラ(Laurent Kabila, 1939-2001)についてである。実はコンゴが独立してルムンバ(↓)が組閣したとき、カビラも閣僚の一人だった。アメリカがしゃしゃり出て来て、ベルギーと共謀してモブツやカサブブを担(かつ)ぎ出すのを見て自分も殺されると察知して逃亡したのである。キンシャサは広大な国の西の端にあるので、遠く離れた南東部キブ州のルムンバシまで逃げ延びたのである。銅の権益確保のためにカサブブを担いで分離工作を図ったカタンガ州、現在のシャバ州辺りから帯状に延びているコパーベルトの東側の方である。すぐ南はザンビアで、コパーベルトが延びて銅とコパルトの恩恵に与かっている。その隣のジンバブエと併せて、南アフリカケープタウンに入植して植民地相になったセシル・ローズの縦の大英帝国建設の野望で犠牲になった国である。ローデシアと自分の名前をつけている。ようやるわ、なに好き勝手してんねん、ほんまええ加減にせんかいといつも腹が立つ。犠牲になって苦しむショナ人と仲良くなったので、余計にその思いは強い。

 そして、2回目のエボラ出血熱でザイールが再び世界的に脚光を浴びた1995年の2年後に、忽然(こつぜん)と姿を現わしてキンシャサに攻め入り、モブツを追放したのである。雌伏(しふく)30年余りの鮮やかな行動だった。外圧によって腐敗や人権侵害が閉め出されてモブツ独裁の支配力が弱まった1996年に反乱が東部地域で発生し、カビラに導かれたルワンダ人の支持する反乱軍とコンゴ・ザイール解放民主勢力連合は、士気のあがらないザイール軍を敗走さて、東部の境界周辺の主要な町を占領した。米大統領クリントンがモブツに平和裡に政権移譲を行うように伝えたので、反体制軍は首都に行進し、2日後に、カビラはコンゴ民主共和国の大統領として宣誓したのである。また、アメリカである。モブツに引導を渡したわけである。国土が荒れれば、原材料の確保に支障が出るのは見えているので、というところか?

 カビラは、過酷なモブツ支配の時代に辛うじて生き延び、キブ州とリフト渓谷沿いの境界線地区と湖畔地区の深い森の中逃げ込んだ。カビラを探した人もいたが、情報は聞かれなかった。カビラは1960年代から絶えず小規模な反乱に参加して、モブツ追放を切望していた。そして、1996年の反乱で、指導者として推され、前面に出ることになったのである。カビラがザイールのルバ人で、ルワンダのフツとツチの紛争で、中立の立場にいると見られたからだろう。その人たちに押されて、広大な国を平和な流れに導く舵(かじ)取りとして現われたわけである。カビラは「人々が自分を求め、短期間である場合に限り、大統領になる」と言ったと報じられた。

 2年後の1997年5月に、モブツはキンシャサを追われ、モロッコへ逃亡した。カビラとカビラを支持する反体制勢力は7ヶ月にわたる内戦の勝利を宣言した。その勝利は、腐敗や経済不況に辟易(へきえき)していたザイール人に歓迎され、国際的にも受け入れられた。カビラはザイールをコンゴ民主主義共和国と改名し、国の首長として指揮をとり始めたのである。1999年4月には選挙を実施し、排除したモブツの負の遺産を葬り去ることを約束した。

小島けい画