つれづれに:コンゴの独立(2024年4月30日)

つれづれに

つれづれに:コンゴの独立

「アフリカシリーズ」のコンゴの独立

 コンゴの独立の話である。一般教養と医学を繋(つな)ぎたいと英語の授業でエボラ出血熱から始めたら、映像を手掛かりに思わぬ視界が開けた。歴史を遡ると、2回目と1回目のエボラ騒動も、独立時とコンゴ動乱の延長上にあった。アメリカに担がれたモブツの独裁で、賄賂はザイール社会に浸透し、公務員の給料が支払われず、賄賂が生活手段の一部になっていた。経済も破綻し、あらゆるものに皺寄せが行っていた。中でも、医療施設は最悪だった。1985年にアフリカでもエイズが流行り始め、2回目の騒動の時は深刻な事態に陥っていた。そこへエボラウィルスの追い打ちである。ラッサ(Lassa)、ハンタウィルス(Hanta virus)などと同じく、バイオセーフティ指針(Biosafety Level、BSL)の一番危険なレベル4エボラウィルスの感染者にマスクや手袋もなしに治療に当たれば院内感染者も増える。基本的な器具や必需品が決定的に不足していたのである。

エボラウィルスの顕微鏡写真

 1960年の変革の嵐(The Wind of Change)に乗ってコンゴも宗主国ベルギーから独立したが、1995年2回目の流行→1976年の1回目の流行→1963年のコンゴ危機→独立という縦軸だけを追っても全体像は見えない。横軸というか、欧米やアフリカ大陸全体との関係を視野に入れる必要がある。「アフリカシリーズ」(↓)ではコンゴの独立の前に1957年にアフリカで最初に独立したガーナを取り上げている。

 第二次大戦では欧州が戦場になり、欧州諸国はアメリカに負債が出来た。戦争で総体的な力が落ちたとき、それまで植民地で苦しめられてきたアフリカやアジア諸国は声をあげて立ち上がった。それが変革の嵐である。率いたのは、若き日に欧米に留学していた人たちである。イギリスはアフリカの一番よく栄えていたところを植民地にした。現地の人を懐柔して出来る限り制度も利用した。間接支配と呼ばれる。フランスが植民地にしたところは条件が良くなかったので同化政策を取った。直接支配とよばれる。ガーナはゴールドコースト(黄金海岸)と呼ばれていたイギリスの模範的な植民地だった。独立の動きを最初は警戒して抑えにかかったが、勢いがついてきた時、戦略を変えた。出来るだけ邪魔をして独立させ、混乱に乗じて傀儡の軍事政権を立てたのである。従って、獄中にいたエンクルマが出所して選挙戦を戦い首相になった。ケニヤッタやマンデラなどと同じく、獄中から即首相になったわけである。

 如何にイギリス政府が悪意に満ちていたかはエンクルマが書いた自伝『アフリカは統一する』(↓)の中に連綿として綴られている。イギリスの思惑通り、ベトナム戦争終結に向けてハノイに行っている間にクーデターが勃発、一時盟友のギニア・ビサウのセクゥトーレのところに身を寄せていたが、1972年にルーマニアで客死した。たくさんの分厚い著書をも残している。それだけ言いたいことが多かったんだろう。野間寛二郎さんが理論社からたくさん翻訳出版をしている。出版事情を知っているだけに、奇跡に近い歴史的な業績である。なぜか宮崎大学の図書館本館に全集が揃っているのを見た。誰が購入したんやろといつも思うが。1960年に独立をして、独立の式典(↑)でエンクルマは涙を流したが、植民地支配から戦後の新しい支配体制再構築の幕開けになったのは悲劇としか言いようがない。

 コンゴの独立はさらにひどかった。ルムンバが国民に選ばれて首相になったとき、ベルギー人官吏8000人は総引き揚げ、行政が育つ間もなく国内は大混乱、そのど軍事クーデターが起きた。宗主国はベルギーだが、クーデターを画策したのはアメリカで、ルムンバ内閣の1員だったモブツを担ぎ、ルムンバを惨殺させた。閣僚の一人カビラは殺されることを予測して南東部のキヴ州に逃れた。まさか、30年後に周りに担がれてキンシャサに来てモブツ政権を倒すことになろうとは誰も予想出来なかっただろう。なぜアメリカがしゃしゃり出て来たのか?次回はアメリカの国防総省ペンタゴンである。

ルムンバ(小島けい画)