つれづれに:1976年(2024年4月28日)

つれづれに

つれづれに:1976年

 1回目にエボラ出血熱の流行があったのは1976年である。大学に入ったのが1970年の再安保改定の年だから、2年留年をしてすでに卒業していた年で、生きても30までかと諦めて余生を過ごしていた最中である。2年留年をして最後の年に英会話だけを残して、さてどうするべえと考えていた時に、突然母親の借金、それで人に借金してまで生きんでもええように、急遽(きょ)定収入を確保することに決めた。卒業前に一度高校教員の採用試験と大学院を受けて指針が決まり、準備を始めた。大学院でも学割がもらえるやんと思って受けただけだったが、次の年もついでに受験した。まったく英語をしていなかった反動もあって、1年間は寝ても覚めても英語ばかりだった。夢で英語を言うてたやんと言われたから、本当に英語ばかりだったんだろう。捨てた世の中に関心の持ちようがなかったので、普段でも新聞やテレビは別世界だったが、その年は更に徹底していた。まさかアフリカでエボラ騒動があったとは。後に日本語訳を言われて色々調べている時に、1976年のソウェト蜂起も知らないで南アフリカの作家の作品を日本語訳するなんてと思ったが、人のことは言えない。今と違って衛星放送もスマホもパソコンもなかったので、それほど報道はなかっただろうし、今よりもっとアフリカに無関心な人が多かっただろう。その点、今は当時の状況が細かくウェブでも検索できる。ある程度研究に予算を割いて、薬やワクチンの研究や開発も続けているということだろう。

 最初のエボラ出血熱は先にスーダン南部で、次いでコンゴ北部で発生した。1976年6月末に、スーダン南部のヌザラとマリディを中心に284名が感染し、患者の53%の151名が死亡している。2カ月後に、コンゴ北部のヤンブク教会病院を舞台として大発生が起こった。約2カ月間の318名の患者のうち、280名が死亡した。致死率は88%である。しかし、同じ注射器を使ったり、マスクや手袋やガウンもなしに治療に当たっていたと言うから、基本的には機器不足が原因である。ウィルスの特性が強いので症状や感染拡大の展開が極めて速いが、感染患者の隔離をしっかりとして、医者や看護師が防護して治療に当たれば、患者が自力で恢復するか死亡するかすれば、流行は停められる。基本的な医療機器不足は深刻である。それに賄賂社会は、隔離政策でさえも賄賂がきくと言われる。そっちの方が問題だろう。

 致死率が高いのも恐怖を煽(あお)った一因だが、メディアの報道の仕方にも問題がある。1995年の2回目の報道も例外ではなかった。5月13日のデイリー・ヨミウリの記事の小見出しには「しばしば激しい内出血が起こり、内臓が溶けてどろどろになる」とある。しかし、事実は違う。1週間後の特集記事では「死体解剖は極めて気持ち悪かったが、いったん血液をきれいにすると、内臓はちゃんとそのままだった」とある。見出しに大げさで不正確な文字を躍らせたということだろう。デイリー・ヨミウリが「ロサンジェルス・タイムズ」から買った記事だから、西海岸のたくさんの人が記事を目にしたわけである。特集記事は、南アフリカの週刊紙「メール&ガーディアン」(↓)のもので、イギリスで日曜毎に発行される週刊紙「オブザーバー」から買った記事である。

 開発・援助でたかり慣れしたモブツが1976年の1回目の流行を利用して、国際社会にうちの国は大変なんだとアピールして、あわよくば寄付や援助を引っ張ってこようと画策したわけである。首都に危機が迫っているときに、たくさんの報道陣や護衛や関係者を引き連れて、である。

 このとき、アメリカから医師2人が首都のキンシャサに飛び、そこからプロペラ機でヤンブクの教会病院に駆けつけている。そのプロペラ機やがたがた道も走れる四輪駆動車を借りるのが大変だった、と『ホット・ゾーン』に詳しく書いてあった。モブツに賄賂(わいろ)を求められたからである。1995年の記事にあった「賄賂はザイールの社会と政府に深く染み込んでおり、‥‥」という記事は、本当だったわけである。後にこの時のドキュメンタリーが放映されて、二人の医師が利用したプロペラ機と四輪駆動車を実際に目にすることができるようになった。同じ場面でエボラ川が映し出されていたが、ウィルスはその川に因(ちな)んで命名されたそうである。ベルギーの植民地だったので、車が川を渡る時に、フランス語表記Rivière d  Ebolaの立て看板が映っていた。