つれづれに:大学1:無意識の「常識」1(2022年1月25日)

2022年1月26日つれづれに

つれづれに:大学1 :無意識の「常識」1

来てくれる小鳥の数が増えて来た。猫のぴのこを抱いて庭を見ていた妻が「ひよやね。あれはめじろかな。別の種類の鳥も来てるけど、名前がわからんからしじゅうがらにしとこ」と言っている。めじろとひよ以外に、別の種類の鳥が来ているようである。ぴのこは元々食が細く、消化器の一部が細くなっているそうなので、ある程度以上食べると必ず戻す。たくさん水を飲んだ場合も同様である。それで食べたあと5分程抱いてやると、戻さなくなった。前屈みの姿勢で消化管を圧迫しなくて済むからだろう。(→「梅とぴのこ」(「私の絵画館」2010年2月21日)↓

前々回は「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」と書き、前回は「丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」と書いた。そして「しかし、何も言わなかった。何も言えなかった。無意識のうちに抑制因子が働いて、目に見えない枷に雁字搦めになっていたからである。」とも書いた。今回は雁字搦めになっていた枷と無意識のうちに働いていた抑制因子について書こうと思う。

雁字搦めになっていた枷に気づき始めたのが大学に入ってからだから、入学した頃の大学について少し書いておく必要がありそうである。一年間浪人をしても受験勉強が出来ず、また英数国もしないまま国公立大を受けた。ただ、2年目は二期校を神戸市外国語大学Ⅱ部にして、願書を出した。夜間課程だが、英米学科でも文学は出来るわけだし、時間もあるし、と気持ちに区切りをつけ(自分を正当化し?!)、最後の砦のつもりだったかも知れない。

神戸市外国語大学は今は西区の学園都市に移転しているが、通ったキャンパスは神戸市の東端の東灘区にあった。標高931メートルの六甲山の山裾にあって、坂道も多かった。坂の上のキャンパスからは神戸の街の夜景が見えた。山頂からの百万ドルの夜景は有名だが、帰りの坂道で見た夜景もなかなかだった。昼間課程には英米学科、中国学科、ロシア学科、スペイン学科があり、夜間課程にはⅡ部英米学科があった。国公立大学の外国語学部は他に東京外国語大学と大阪外国語大学しかなく、英米学科の偏差値はそれなりに高かったようである。(外国語学部も昼間課程も考えたことがなかったので、当時の偏差値は全く知らない)入学したのはⅡ部英米学科語学文学コースだった。(他に法経商コースがあった)たぶん、偏差値を見て、行けるかもしれないと思ったのかも知れない。

授業料は年間12000円(昼間課程は18000円)で、月額1000円、入学金は28000円だった(ような気がする、40000円だったかも知れない)。事務局で支払う時に半期3000円の領収書を受け取っている学生を見た気がするので、値上げをしてその金額だったようである。毎朝一時間ほどやっていた牛乳配達が5000円、何年か後に頼まれた家庭教師が3000円だった。通学時間が1時間半余りの自宅からは国鉄と阪急を利用したが、国鉄の定期が月額にして980円、阪急が1580円(だったように思う、「3駅の距離やのに、国鉄に比べて阪急はえらい高いやん、私鉄やからやろな」と思った記憶がある)、合わせても2500円程度だったので、学費と交通費は牛乳配達の5000円でまかなえていたということになる。三宮まで1時間程度の距離で定期代の月額が1000円足らずだから、今から考えると、国鉄(JRの前身)の学割も国公立大学の授業料も別世界の話である。1年浪人、2年留年をして最終学年の4年生になったとき、「30くらいで死ぬとして、あと一つ大学に行って終わりやな。大学院やったら学生のままやから、大学院を受けてみる手もあったんや」と考えたのも、その学割の影響が強かった気がする。

入学式は「常識」の範囲では計り切れない突然の出来事だった。→「授業も一巡、本格的に。」(「つれづれに」、2019/4/15)

火炎瓶を脇に置き、ゲバ棒を持ちヘルメットを被った全共闘の学生たちの一人がマイクを片手に喚き散らす拡声器からの声、入学後すぐに始まり機動隊導入前まで毎晩続いた授業代わりのクラス討議、ある日出来ていた机と椅子の学舎バリケード封鎖、機動隊導入によるバリケード強制撤去と学生排除など、中央で国家権力にぺしゃんこに潰されていた学生運動の余波とは言え、あの年でないと経験出来なかったわけだから、ひょっとしたら歴史的出来事の生き証人の一人だったかも知れない、という気もする。個人的には、極めて新鮮で、「思わず遭遇した」貴重な体験だった

バリケード封鎖された木造2階建て校舎(大学のホームページから)

雁字搦めになっていた枷を意識し始めたのは、大学前の坂道を登る時だった。夜間の学生が坂道を登るときと、授業を終えた昼間の学生が坂道を降りて来る時間帯が重なるのだが、坂道を登っているときに、坂道の上からなんだか見下されているような気がしたのである。位置関係からすれば昼間の学生が夜間の学生を実際に下に見ていたのだから、当然と言えば当然なのだが、どうもそれが偏差値と少し重なっていたような気がするのである。入学後バスケットボール部に入って昼間の学生といっしょに練習を始めたので、その意識は薄れていったようにも思うが、「なんだか見下されているような気がした」のは確かである。

次回は大学2:無意識の「常識」1(続き)で、「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」の深層、か。

大学の全景(大学のホームページから)