つれづれに

つれづれに:ルーツ

 →『ルーツ』は強烈だった。理屈抜きである。初めて観たのは、非常勤1年目に世話になった大阪工大(→「大阪工大非常勤」)のLL準備室(「LL教室」)のモニター画面で、1983年のことである。アフリカ系アメリカ人の作家アレックス・ヘイリー(↓、Alex Hayley , 1921-92)のRoots(1976)が原作で、1977年にアメリカで、翌年に日本でも放映された。

 私は高校の教員をしていた。10代で、生きても30くらいかとすっかり諦めてから、テレビも見なかったので、まったく知らなかった。大学でもバスケットボールの関西リーグの試合で大阪府立体育館などで大阪に何度も通ったが、万国博覧会が開かれているのも知らなかった。ただ、古本屋は回っていたので、翻訳本(↓)は毎回みかけた。

 英語の授業で毎年使ってきたので、最初程の強烈さはなくなっていったが、それでも強く印象に残っている場面がいくつかある。主人公クンタ・キンテが生まれたとき、クンタが受けた教育、奴隷狩り、奴隷船(↓)の船倉(hold)、甲板(deck)、船長室での交渉、奴隷市(auction)、バイオリン弾きのフィドラー(fiddler)との出遭い、クンタの最初の逃亡、鞭打ち、クンタの2回目の逃亡、鍛冶屋のトム、ジュフレ村訪問などである。

★ クンタは西アフリカガンビア川沿いの小さなジュフレ村に生まれた。父親はオモロ、母親はビンタ。当時は立った姿勢で子供を産んでいたようだ。陣痛がくると、上から垂らした紐を握りしめていきんでいた。韓国ドラマか中国ドラマでも同じようなシーンを見た記憶がある。病院で寝た姿勢で産むのに慣れているせいか、新鮮な感じがした。子どもは村全体で育てる、それが当たり前に行われる環境で、クンタは両親と祖母に大事に育てられる。

★ 15歳になったとき、自分一人の小屋が与えられる。そして割礼(簡単な包茎手術)の儀式のあと、外からの敵から村を守る戦士(warrior)として村の教育係(wrestler)から集団で教育を受ける。一人で狩りをしたり、レスリングなどの訓練が行われる。クンタは勇敢で、教育係に気に入られる。後に、同じ時期にその教育係と奴隷狩りに遭って奴隷船に積み込まれてしまう。

★ ある日、クンタは奴隷狩りに遭った。祖母(配役:マヤ・アンジェロ、2枚上の写真の向かって右)に言われて母親に贈るドラムの材料を探しに、森に入っていた時である。一度、銃で鳥を打つ白人を見て、奴隷狩りを見たと村人に報告したことがある。その白人の指揮の下に動く4人のアフリカ人に捕まえられた。白人が奴隷を捕まえるという漠然とした通念が見事に打ち砕かれた。実際にアフリカ人がアフリカ人を捕まえていたのである。映画には出て来ないが、白人奴隷狩りに協力して利益を得たアフリカ人がいたわけである。

 修士論文で取り上げたリチャード・ライト(↓、1908-1960)が西アフリカのゴールド・コーストを訪れたとき、独立運動の指導者クワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah, 1909-1972)はチーフと呼ばれる反動的知識人とも戦わなければならなかったと指摘している。同胞を白人奴隷商に売り飛ばして私腹を肥やした連中である。(「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』、1985年」“Richard Wright and Black Power,”1985)

小島けい挿画

 公民権運動でマルコム・リトゥル(↓)が演説で指摘した白人に媚びを売る黒人指導者層(Negro leaders)と同類である。街頭で説くマルコムは口から生まれたのか思うほど、演説がうまい。激しいことこの上ないが、ただしい。顔を見ながら聞く人たちの心を打つ。知識人に応援する人が増えたのも納得が行く。私のケニアの友人も、命日に友人たちと集まって、マルコムを偲んでいた。まだ、集まっているんやろか?ケニアで、それとも日本のどこかで?

小島けい挿画

 国名もガーナになり、エンクルマ(↓)はアフリカ人で最初の首相になった。1957年のことである。クンタたちは砂浜に枝で組み立てられた囲いの中に放り込まれた。淡い恋心を抱くファンタと、気に入られていた教育係も奴隷狩りに遭っていた。

小島けい挿画

★ クンタの放り込まれた奴隷船の船倉(hold)は地獄図絵だった。手首と足首を鎖(shackles, fetters)に繋(つな)がれたまま、何日も大西洋の上を進む。垂れ流しの船底は悪臭が漂い、硫黄華でいぶしても臭いが取れない。荷(cargo)を積み込む前に、ガンビアの海岸で奴隷狩りと船長が値段の交渉をしている場面がある。今回が最初の奴隷船なので、奴隷狩りが主導の遣り取りである。ラム酒を片手にしゃべる奴隷狩りと交渉する。

奴隷狩り:何人の黒人を船に積み込むつもりですか?

船長:170人ですよ、ガードナーさん。

奴隷狩り:170人?あんたらは簡単なことのようにお思いで。そうじゃ、ありません。海岸にはあちこちこんな船だらけ、こんな競争、見たことありませんよ。ちゃんと奴隷は捕まえるか、チーフから買うかしますよ。あいつら、まるで海賊で。

船長:値上げ交渉の時間も気持ちもありません。金額は後ほどに。問題はあんたが170人の健康な黒人を捕まえるか、買うかして、このロードニア号の船倉を一杯にできるかどうかですよ。

奴隷狩り:捕まえるか、買うかして、船倉を一杯にして見せますよ。

 船倉では絶望するクンタを必死にレスラーが励ます。違う言葉をしゃべるもの同士、片言の言葉を教え合う。そして、運動不足を解消するために甲板に出たときに、気を窺って、首にかけている鍵を奪うことを確認し合う。

★ 全員が甲板(deck)連れ出されて運動のために無理やりダンスをさせられた時、一人の少女がマストに登って海に飛びこんだ。辱めを受けるよりは大海原に身を投げて、死を選んだわけである。一等航海士は船員を殴って責め続けた。その隙に、鍵を奪って、奴隷と船員の争いが始まった。

 クンタとレスラーは、戦士の訓練を実践に移して対抗する。クンタは一等航海士をナイフで仕留めるが、船員の放った大砲で、レスラーはじめ多くのアフリカ人が死んだ。クンタは生き残る。

★ アナポリスに停泊した船長室で奴隷商との交渉が始まる。クリスチャンの船長は最初の航海を終えても苦い思いしかないが、交渉相手は快活である。

奴隷商:船長、船旅はうまく行きましたかね?
船長:一等航海士と船員が10人、それにボーイが1人‥‥私の乗組員のうち3分の1以上が。
奴隷商:それはお気の毒に、その人たちの魂に神の御加護がありますように。しかし、貿易の大元は何と言っても商品ですからね、商品ですよ。ところで船長、海の上では積み荷の加減はどうでしたかね?
船長:船旅では3000本の象牙が何とか事なきを得ましたよ。
奴隷商:船長、冗談がとてもお上手ですな、3000本の象牙とは。
船長:ガンビア川の河口で、170人の奴隷をロード・リゴニア号に乗船させました。
奴隷商:それは、ゆったりとした積み方で。それで?
船長:そのうち、港に着いたときの生き残りは98人でした。
奴隷商:98人。そうですか、それでは、死んだのは3分の1以下ですな。入港した時に、生き残りが半分以下でも、まだかなりの利益があった奴隷商を私は何人も知っておりますよ。おめでとうございます、船長。
船長:一刻も早く積荷を下ろしたいのですがね。
奴隷商:直ちに船を曳いて行って、岸壁にお着けしましょう。
船長:船倉で燃やす硫黄の粉をぜひご用意いただきたい。もう一度、きれいになった船が見たいのです。
奴隷商:それは、もう、船長。それから、船長はまた、ロンドンへ煙草を運んで行かれることになりますね。
船長:そして、ロンドンで‥‥。
奴隷商:ギニア海岸向けの貿易の品を、それから、またガンビア川に向けて。
船長:そして、もっとたくさんの奴隷を‥‥。
奴隷商:その通りですよ、船長。かくして天は我らにほほ笑みかけ、黄金の三角で点と点を結ぶ。煙草、貿易の品、奴隷、煙草、貿易の品など、永遠に限りなく。誰もが得をして、損するもの誰もなし、ですよ。

★ 奴隷市(auction)クンタは首輪をかけられて、牢から出され競りにかけられる。奴隷主が荘園で使う奴隷を買いに、競りに詰めかけている。着飾った家族も物見遊山である。クンタはレノルヅ農園に買われて行くことになった。荘園主は老人奴隷フィドラーをクンタの躾係に指名した矢先、クンタが老人の手を振り切った。一悶着あったものの、観念したクンタは捕まえられて農園に連れられて行く。フィドラーとの最初の出遭いである。先に競りにかけられたファンタが隣のカルバート農園に売り飛ばされたのをクンタは聞いていた。

★ 農園では何かにつけてバイオリン弾きのフィドラー(fiddler)にかわいがってもらう。言葉っも教わった。しかしある夜、農作業中に見つけた農具の鉄片で足枷を切ってファンタに会いに行く。フィドラーに見つかるが、仕置きを覚悟でクンタを送り出す。フィドラー役は有名なルイス・ゴセットJr.である。渋い演技が光る。

★ 隣の農園にファンタに会いに行っただけだが、荘園主の雇った奴隷狩りがクンタを追いかける。夜が明けたとき、奴隷狩りに捕まって以来の自由を感じるが、奴隷狩りが連れる猟犬の声に驚く。結局は捕まえられて、鎖に繋がれ雪解け道を引っ立てられていく、最初に逃亡である。

★ クンタには、見せしめの鞭打ちが待っていた。フィドラーは荘園主に鞭打ちしないでくれと必死に頼み込むが、奴隷監督は容赦なく鞭を奮う。鞭の革が背中に食い込む。元逃亡奴隷が鞭打ちの跡は奴隷だった証しだと奴隷体験記の中で書いていた。言うことを聞かない奴隷を調教する役目の白人を奴隷調教師と呼んでいたようだが、この農園では奴隷監督が兼ねていたようだ。クンタではなくトビーだと、鞭打つたびにクンタに迫る。結局、クンタはトビーになった。吊るされていた紐を解かれたクンタをフィドラーが慰める。強烈な場面である。

★ 鞭打たれて散々な目にあったクンタは、再びファンタに会いに行く。すでに、成人になっていた。逞しい。ファンタとは久しぶりだった。一夜を共にしたあと、いっしょに北に逃げようと誘うが意外な答えが返って来た。生きて、温かい所にいたいのよ、とファンタが声を荒げたとき、外の奴隷狩りに気づかれてしまう。走って逃げたものの、今度は馬に乗る二人がかりで網をかけられて捕まり、足先を切断されてしまう。苦しい思いに耐えて、何とか生きのびる。ずっと看病してくれた女性と結婚して、女の子キジーが生まれた。2世代目である。その女の子は成人して男の子を産んだ。ジョージと名付けられ、闘鶏師になった。3世代目である。

★ ジョージの子トム(↓)が4世代目である。鍛冶屋になり、一家でテネシー州のヘニングに移り住む。地元の有力者と渡りあった。南北戦争の前後で、再建期に得た投票権も反動期に剥奪されたり、時代の波に翻弄される。娘が5代目で結婚相手が木材会社で成功する。その息子が6代目で、大学の教授になった。その息子が「ルーツ」の作者アレックス・ヘイリーである。

★ ヘイリーは作家になった。マルコムに取材した際のスポンサーリーダーズダイジェストからアフリカ行きの資金を得、西アフリカの楽器に詳しい大学教授から情報を得て、ジュフレ村訪問に成功する。村の歴史の語り部グリオ(griot)から、7世代前のクンタ・キンテの名前を聞く。奇跡が起きたのである。そのヘイリーの執念が「ルーツ」になった。そして、テレビドラマになった。

 大学の英語の授業では「アフリカシリーズ」と「ルーツ」の映像や音声が基軸になった。言葉は元々使うためのものだから、実際に使えるようにするためにはもちろん、聞く、話す、読む、書くが必要である。それと、恐らく間違いを繰り返しながら覚えていくということも不可欠である。その意味では、間違わないようにというのが基本のクラスルームイングリッシュとは相反するものだ。アメリカに行ったときに何度も実感した。間違わないようにとか、間違ったら恥ずかしいという意識が、返って邪魔になる。書いたり、読んだりして楽しむのも一つのあり方かも知れないが、使うために修得しない言語は重荷になる場合が多い。配点の比重の高い受験英語はその傾向が強い。英語そのものを嫌いになってしまう。大学の授業で何度も出くわした光景である。個人的には大学の購読のような授業は嫌いではないが、言葉は使うために習う方が自然だと思う。

奇しくも初めてSFに行った頃に最初のエイズ患者が出た

 教員の側からすれば、他の人の書いたテキストを学生に買わせて、読んで訳すだけの授業は手抜きにしか見えない。宮崎に来た年の後期から近くの大学に非常勤を頼まれて行くようになった。クラスサイズは50人以上と大きかった。前の年に落とした再履修の学生も加わるからである。あるとき、教室に入ったら、前の席にいた女子学生がびくっとするのが見えた。気になって聞いてみたら、また髭のたくさん生えた人が来て、びっくりしてしまったんですと言う。文学のテキストを読んだらしいが、重箱の隅をつつくように質問攻めにあい、かなりひどいことをよく言われたらしい。耐え切れずに行けなくなって落としたということだった。その教員とは廊下で会う程度だったが、うちの学生、英語できないでしょう、と何回か言われた。半分以上が教授だったのでその人もそうだったが、学生のこと馬鹿にする前に手抜きせんとちゃんとせいよな、と言いたかった。なるほど、あいつに虐められたというわけか?大丈夫やで、髭面でも全然ちゃうから。映像や音声も多いし、楽しんでや。単位、まかせといてや、と言ったら、にっこりと笑ってくれた。教育学部の学生で、今頃教師をしている確率は高い。少しでも役に立ったとすれば、嬉しい。

 「ルーツ」は、しかし、奴隷貿易の資本蓄積が制度の進展を早めてしまった資本主義社会においては、皮肉なことに、超金持ち層の投資の対象でしかない。資本のある金持ちしか映画で儲(もう)けられないシステムになっている。「ルーツ」が売れれば売れるほど、投資したものの儲けは増える。哀しいと言うか、痛し痒(かゆ)しである。ずいぶんと長くなった。次回はいよいよ「アフリカシリーズ」である。ジンバブエの遺跡から始めることにしたい。

つれづれに

つれづれに:ハイビスカス

 新しく出来た生産者市の近くで、赤、白、ピンクの三色のハイビスカスを見つけた。去年黄色のハイビスカスを見て、すっかり赤だけのイメージは薄れているが、白にピンクとは恐れ入った。おまけに、一つの花壇に三色の花がきれいに咲いている。

 その近くには、黄色のハイビスカスを植えている花壇もある。花壇は建設会社の前にある。黄色の花の写真を近くに寄って撮った。「花が好きなんですね」と通りを隔てた南側の生産者市で買い物をしているときに、話しかけられた。私と同じくらいの歳の男性である。向かいの店の中から見ていたらしい。何回か店に行くうちに、どうやらその男性はその生産者市を出している人だと感じた。建設会社のオーナーを退いて、夫婦と手伝いの何人かで店を始めたようである。毎回、挨拶をするようになった。その人が、花壇の世話をしている。「見事な花ですね、ハイビスカスは赤だと思い込んでいたので、珍しくて写真を撮らしてもらいました」、「自分で植えて、手入れもしてるんです。植木屋で見つけて植えてみたんですが、黄色いのは珍しいですよね」、そんな遣り取りをした。

 少し話をするようになり、私より一つ年上で、ペースメーカーを入れていると教えてもらった。今回、会社の前で写真を撮っていると、中からその人が現れて、しばらく話をした。もうしばらくすると、バッサリと樹を切る予定だと言う。切らないと、大きくなってしまうかららしい。そう言えば、春先はお粗末な感じがした。こんなに切って大丈夫なんやろかと心配したが、夏を過ぎて秋口にかけて勢いが出てきた。今は花盛りで、花の一つ一つが生き生きとしている。畑の野菜もそうだが、植えたあとの手入れが、やっぱり大事なのである。手間暇を惜しむと、碌(ろく)なことがない。

 去年も30℃を越える日が続いた。こんな暑いのに咲く花があるんやろか、と思っているときに目に入ったのが→「ハイビスカス」と→「百日紅」(さるすべり)である。

 一度気になると、ハイビスカスがやたら目に入ってくる。白浜に揉んでもらいに行くときはそれなりに長いので、あちこちで咲いていて、こんなに色んなところにあったのかと思う。最初は通っていた白浜の温泉のあるサンクマールホテルの正面に植えてあるハイビスカスが嫌でも毎回目に飛び込んできた。

 明石にいたときは見た記憶がない。だからなのか。宮崎に来た当初はやっぱり南の方は違うもんやと感じた。妻が花を描くようになって、色んな花を用意したが、ハイビスカスもその一つである。その時は、まだ表紙絵とか雑誌の挿画とか個展の準備とかはなかったので、手製のカレンダーまで作ってくれた。何気に使ったあとは捨ててしまったのが多いのだが、今になって、惜しいことしたなあと思う。さっと大雑把に描くのだが、勢いがある。注文を受けるようになってからは、一枚にかなり時間をかけて、丁寧に、丁寧に仕上げているので、余計にその感が強い。

「小島けい2004年私製花カレンダー2004 Calendar」7月

「小島けい2005年私製花カレンダー2005 Calendar」8月

 カレンダーを作るようになってからも、ハイビスカスを使っている。赤い鮮やかな花は、映える。

「私の散歩道2013~犬・猫・ときどき馬そして鸚鵡~」

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」8月

 ハイビスカスも息が長く、12月の半ばころまで花が咲く。一気に冬になりそうである。

秋立ちぬ 色とりどりに ハイビスカスが   我鬼子

つれづれに

つれづれに:『アフリカのための闘い』

 「アフリカシリーズ」は英語の授業で想像以上に使い勝手があったが、『アフリカのための闘い』は授業以外に、書く時にも殊のほか役に立った。出版社の人から英文書を書くように言われるとは想像もしていなかったが、この本がなければ、英文書はすんなりとは書けなかったと思う。「アフリカシリーズ」は1983年に、『アフリカのための闘い』はその2年前に、たまたま見つけた。修士論文の資料を探しに初めてアメリカに行ったとき、ニューヨーク市→「ハーレム」の本屋で見つけた。修士論文に選んだ作家の作品のフォトコピーを取るためにニューヨーク公共図書館→「ハーレム分館」(↓)を訪ねた帰りに、立ち寄った本屋の本棚で見つけた。ハーレムのメインストリートにあるリベレーションブックストアという名のアフリカ系アメリカとアフリカの本を扱う店だった。そう大きくはなかったが、私には宝庫に見えた。公民権運動の時に通りで演説をしていたマルコム・リトゥルの歴史講演の小冊子も見つけた。カセットテープの時代だった。まだアフリカ系の音楽には疎かったが、ポールロブソンやマヘリア・ジャクソンとルイ・アームストロングなどのテープを何本か買った。

 アフリカに関してはアフリカ系の作家がパリに移り住んだあと、独立前のガーナを訪問して書いた本を読んだり、→「黒人研究の会」の月例会でアフリカの話を聞くらいだったが、『アフリカのための闘い』もいっしょに買った。まさか、後々思わぬ形で手放せない本になるとは、その時は思いもしなかった。

例会があった神戸市外国語大学事務局・研究棟(大学ホームページより)

 タイトルはThe Struggle for Africa、発行された年は奇しくも「アフリカシリーズ」と同じ1983年である。元々スウェーデンの市民グループが1970年代の南部アフリカ、特にアンゴラとモザンビークの独立闘争を支援していた人たちの中から生まれた本らしい。第二次世界大戦後の新しい形態の搾取機構の再構築についてほんとうに詳しく書かれている。その人たちはその形態を新植民地主義、neo-colonialismと呼んでいる。

neo-colonialismの見出しの項目だけでも書いておきたい。

* 帝国主義の新しい方策としての新植民地主義

* 経済依存

* 開発援助は利益流出のためのお粗末な副題である

* 世界銀行経由の米国支配

* ザイールの場合

* 発展なき成長

* アフリカ人エリート

* 新植民地主義で誰が得をするのか?

* 地元エリートはもっとケーキを欲しがっている

* 原材料カルテル

* 新国際経済修秩序の必要性

* 革命的ナショナリズムに向けて?

 終戦後すぐに生まれた世代なので、アメリカやその人たちの話す言葉に元々抵抗があり、高校では英語を担当しながら、業務上必要な読み書き以外はしなかった。1981年にアメリカに行った時も、言葉がつかえないので不自由をしたが、話したいとは思わなかった。しかし、1985年のミシシッピ大学でのシンポジウムに参加したときに会ったすきなフランス人(↓)に思いを伝えられなくて悔しい思いをした。大学の職を得てからは、英語の授業でアフリカ系やアフリカの歴史を題材に使い、英語を使わせてもらって、話す練習をした。7年後にジンバブエの帰りにパリに寄り、そのフランス人に家族でよくしてもらった。そのときは、英語で思いを伝えられたと思う。

ソルボンヌ大を案内してもらったときに

 歴史にさほど関心がある方ではなかったが、英語で歴史をやったおかげで、出版社の人から英文書(↓)を書くように言われた時も、案外すんなりと書けた。同僚のカナダ人が頼める間柄だったのも運がよかった。おまけに、ボランティアで朗読をしている人だったので、テキストの朗読をナチュラルなスピードで淀みなく仕上げてくれた。

 次回は、「アフリカシリーズ」の前にもう一つ、「ルーツ」(↓)である。

原作者のアレックス・ヘイリー

つれづれに

つれづれに:立冬

 冬立ちぬ、である。旧暦では今日から今年の立冬の期間が始まる。22日の小雪(しょうせつ、木々の葉が落ち、遠くの山々には初雪が降り始める頃)までの2週間ほどである。30℃以上の日が長く続き、雨も多かった。陽が出ないので、最初の49個の柿は、剥(む)いて干してはみたが、乾かず重みで落ちたものが多かった。そのあとも虚しい努力を続けたが、残った柿も黴(かび)が生えて、結局土に戻した。→「台風10号」(8月28日)が来て、少し瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく)とオクラが傾きかけたが、概(おおむ)ね被害がなくて済んだ。それ以降、台風が来なかったのは幸いである。何日か陽が出ているので、 気を取り直してまた柿を干した。今度は何とかいきそうである。80個ほど、作業がなかなかきつい。腰をやられてまだ元に戻っていないので、尚更である。まだ樹には実が半分ほど残っているが、土曜日からまあた3日間は雨の予報。その後、まだ生き残っていたら、また気を取り直して最後の作業をするとしよう。

 きのうは、街まで自転車で出かけた。市役所が目的地である。1時間はかかる。普段はそうでもないが、今の状態では少しきつかった。確定申告を9月末に出した分が、市税や国民保険料に反映されているかを心配した娘に確認するように言われたからである。普通は確定申告を2月~3月に出すが、今年は9月に出した。過去5年間は遡(さかのぼ)って提出できると初めて知った。確定申告で還付される可能性が高い、らしい。電話で済むと思って問い合わせてみたら、本人確認が出来ないと教えられないと言われた。娘には世話になりっ放しなので、無理して出かけたというわけである。第3庁舎の市民税課に辿(たど)り着いて、事情を説明した。本人確認をしないで答えるので、本人確認はしないんですか?そう言われてきたんですけど、と言ったら、書類があるからいいです、それに番号などを聞いて電話でも出来ましたけど、と。そんなーあ。いつもなら、ここで切れるところ、妻からは周りはみな宮大の卒業生やから、喧嘩せんといてね、と言われたのを思い出して、ぐっと堪(こら)えた。

 金木犀の花が咲き始めたと思ったら、もう樹の下には落ちた細かい花がぎっしり、お隣から苦情が出ている。去年はそうでなかったみたいだから、樹が大きくなってはみ出した部分に、今年はぎっしりと花が咲いたようである。干し柿が一段落したら、剪(せ)定作業をするか。他の樹も枝がずいぶんと伸びてる。下からは羊歯(しだ)や紫蘭(しらん)がはみ出している。雑草も結構多い。気になる人は草木の闖(ちん)入者も我慢ならないものらしい。そちらの庭には行かないようにと常々草にも樹にも充分に言い聞かせてはいるのだが、どこ吹く風である。

 行きも帰りも、車の行き交う道は避けて田圃(たんぼ)道を通る。通の両脇や田圃の畦(あぜ)のあちこちに、いろんな種類の芒(すすき)が揺れている。まだ穂が出ていない芒を切って持って帰っても、3日もすればほうけてしまう。水が枯れてもそのままにしておくと、枯れすすきの出来上がりである。

一気に秋が深まった。冬がそこまで来ている。

立冬に 座って柿を剥く 芒が揺れる     我鬼子

小島けい画