ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐

2020年2月29日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した10回目の「ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐

ツォゾォさん

子供たちと一緒にバスケットボールをしている時、通りかかった学生がよく声をかけてきました。ある日、3人でシュート練習をしていましたら、1人の大柄なショナ人の学生が、どこから来たんですかと気軽に聞いてきました。日本からですと答えますと、
私の方をまじまじと見つめながら、日本人でもバスケットボールをするんですねと言います。それから、こんな風にお辞儀するだけかと思ってましたよ、今まで見た日本人はたいていこうでしたからねと言いながら、腰を曲げて深々とお辞儀をしてみせてくれました。

ジンバブエ大学構内

その学生は、その後も子供たちを見かけると遠くの方からでもバスケットを一緒にしようと声をかけてくれました。日曜日にはたくさんの人が集まって練習しているから一緒にやりませんかとも誘ってくれました。間もなく子供たちの学校が始まったり、冬期休暇でキャンパスからすっかり学生が姿を消したりで、練習には一度も参加出来ませんでしたが、もう少し時間的な余裕があり、うまく時間が合っていれば、日本人がバスケットをする姿を見てもらえたのにと今でも心残りです。日本では、留学生や教員や学生といっしょに毎週試合をしていましたので、体力的には何とかやれたでしょうから。その学生とは一緒にやれませんでしたが、高校生くらいの青年とはしばらくの間一緒にプレイすることが出来ました。長女と2人でやっているのを近くでじっと見ていましたから、一緒にどうですかと声をかけたんですが、その青年は待っていたように2人に加わりました。コートはもちろんですが、ボール自体がなかなか手の届かない存在ですから、バスケットボールをする機会があまりないのでしょう。専門的にやったような動きではありませんでしたが、いかにも楽しそうに動いていました。じゃあ又ねと子供たちとも気軽に挨拶を交わして別れましたが、その人とはその時が一度きりのプレイとなりました。

今でこそ学生や教職員の大半がアフリカ人ですが、1980年の独立までは白人地区にある白人中心の大学だったそうですから、その名残りでもあるのでしょうか、バスケットコートに限らず、大学の施設を部外者が使うのはなかなか難しいようです。安易に許すと、人で溢れかえる可能性があるからでしょう。

バスケットコートを使い始めてしばらくした頃、ガードマンがやって来ました。許可証を見せて下さいと聞かれました。在外研究員で日本から来ましたと事情を説明しましたが、学校から正式に許可証をもらって下さい、そうでないと使えませんと強硬です。
一向に近くを離れそうにありませんので、仕方なく途中で止めざるを得ませんでしたが、外のコートを使うのに許可証を強く求められるとは夢にも思いませんでした。舗装されたコートが減るわけでもないのでしょうに。

歓迎されていないとはいえ、一応は大学の在外研究員でという話になっていますので、許可証くらいはすぐに出してもらえると高を括っていましたが、書類には時間がかかります。ミスタームランボに頼んでもツォゾォさんに頼んでも、いつも返事ばかりでした。

おそらく、ツォゾォさんが副学長補佐になるという時の偶然がなかったら、許可証は帰るまでもらえずじまいだったと思います。その思いはその場で感じた確信に近い実感です。ある日ツォゾォさんの部屋に行きましたら、表札がM・ムランボの名前に変わっています。2人部屋に居たムランボさんがお蔭で独立できたようです。きのう会ったとき、ツォゾォさんは何も言っていませんでしたが、一体どこへ行ったのでしょうか。

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ツォゾォさん

英語科の事務室で聞いて捜し当てた先は、管理棟の副学長補佐の部屋でした。なるほど、ツォゾォさんは管理職に昇進したのか。隣の小さな部屋には、専属の秘書もいます。しばらくすると、年配の男の人が紅茶を運んで来ました。専用係のようです。部屋にはコピーの機械まで備えつけられていますし、秘書はパソコンを使っていました。図書館では一台のコピー機の前に人の列が出来ていますし、一般には手動のタイプライターでさえ貴重品だというのに、です。

それから2、3日して、「ツォゾォ、UZで新しいポストを得る」という見出しで8月12日付けの「ヘラルド」紙に次のような記事が掲載されました。

ジンバブウェ大学は今月の1日付けで、英語講師トンプソン・クンビライ・ツォゾォ氏を新副学長補佐に任命した。ツォゾォ氏の主な任務は、ゴードン・チャブンドゥカ教授の補佐として、ジンバブウェ大学内外の事情に精通することであり、精通すれば、大学と大学外の関係を改善するように副学長にも進言できる。45歳のツォゾォ氏は、1990年にスウェーデエン、デンマーク、ノールウェイ、フィンランド大使に任命されたンゴニ・チデヤ博士の後任である。
1984年からUZに勤務するツォゾォ氏は「このポストでの私の任務は、ジンバブウェ大学で行なわれている活動をうまく外部に伝え、大学のイメージを高めることであると思います。」と話している……

ジンバブウェ大学(UZ)

急に任務に燃え立ったというわけでもないのでしょうが、副学長補佐室に移ったその日に、学内施設が使えるようにという手紙を書いて、秘書にタイプ打ちを頼んでくれました。もちろん副学長補佐の署名入りです。その書類を持って係を訪ねたら、バスケットボールのコートだけでなく、テニスコートとプールまで使える許可証を即座に発行してくれました。ついでに図書館にも手紙を書いてくれて、その日のうちに二つもの許可証が手に入ってしまいました。図書館の許可証は、持って行った写真をホッチキスで留めただけのものですが、図書館のゴム印が押されているばかりか、れっきとした係の人の署名入りです。

「ヘラルド」はこの国の一大紙です。かなり大きな記事でしたから、副学長補佐への昇進は相当な出来事なのでしょう。ヨシ、ちょっとついて来いと言って、学内の小さな図書室にいる女性の所に案内してくれました。奥さんの妹さんだそうで、昇進の報告に来たということらしいです。

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ツォゾォさんと居合わせた職員

そこに居合わせた他の職員も含めて、わいわいと言いながら、如何にも嬉しそうなツォゾォさんと一緒に、5、6人で写真を撮りました。後日焼増しをして写真を届けに行きましたが、あなたは映りがいいとか悪いとか、ひとしきり写真の話で持ちきりでした。大学でも、写真を撮るのは一大行事なのです。(宮崎大学医学部教員)

ツォゾォさん

執筆年

  2012年4月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」(No.44)

ダウンロード・閲覧

  →「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」