2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の28回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(28)

  第29章 カナーン証明書

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第29章 カナーン証明書

1986年頃には、ミドリザル病が広がるのは血液や精液などの体液を通してだとかなりよく知られるようになっていました。同性間でも異性の間でも、感染した人との性交渉によってアフリカでその病気が流行っているのが分かりました。結果的に、売春がケニアでの流行の主な原因であると考えられました。それがケニアの観光産業の脅威となり、その頃には後天性免疫不全症候群(エイズ)と呼ばれるようになっていた病気についての情報を開示するの、に政府は極めて慎重になっていました。そのウィルスはヒト免疫不全ウィルス(HIV)と新たに名付けられました。プムワニ地区の売春婦の間で行なわれた調査では、エイズの症状は見られないが、売春婦の殆んどがそのウィルスに感染していたそうです。その結果、プムワニの売春婦は接触を持つと感染の危険性が極めて高いグループであると見なされました。この年の初めには、恒例のケニアでの軍事訓練を受けていた英国兵に、ケニアの売春婦には近寄らないようにと命令が出て、その命令にケニア政府は激怒しました。そのうち、中国とインドは外国人入植者、特にアフリカ人入植者に対してエイズ検査を求め始めました。そのためにこの病気が人種差別的な意味合いを持つようになりました。外国、特にインドと中国に行く学生たちが次々にエイズ検査を希望するようになり、ケニア中央病院に送るHIV検査用の血液標本を作るために私は診療時間の半分を使うようになりました。

HIV

ディンシン医師はその病気にどう対処しているかを見るために、ロンドンとニューヨークに行きました。ディンシン医師は、患者すべてに、特にエイズを発症していない売春婦にカナーン証明書を出して、カナーンがエイズとの闘いを支援するという案を持ち帰りました。また、血液検査用の機器一式を持ち込みました。ネイビン・ペイタルという検査技師を連れて来て、その機器を私の部屋の隣に設置しました「ジョゼフ・ムングチ医師 医学士、化学士、医学修士」と書かれた証明書が、この国の売春宿のための極めて重要な文書だという言葉がどのように広まるかはわかりません。売春に関係する男女が大勢、カナーン証明書を求めて、毎日カナーンにやって来ました。最初、検査の料金は500シリングでした。ディンシン医師はその額を2月に1000シリングに、3月には2000シリングに上げました。しかし4月にディンシン医師が証明書の料金を強引に1万シリングにすると提案したとき、普通の人から法外な料金を取る医者への嫌悪感が蘇りました。

「ディンシン先生、それをしてはいけませんよ!」と、私は強く反対しました。
「ムングチ先生、君は実業家としては見込みがないな。価格をつり上げているのはディンシン医師ではなくて、アダム・スミスの言う「見えない手」という奴なんだよ。このディンシンにヒルトンの売春婦の強い願いに反した行動が取れると思うかね?」
「ヒルトンで売春をやってるとは知りませんでした。」と、私は反論しました。
「ナイロビの売春婦はどこでも仕事をするよ。ヒルトンヘルスクラブ、インターコンチネンタルのビッグファイヴ、セレナ、インターナショナルカジノ、パナフリック、シックスエイティ、フロリダ2000、ソンブレロ、カウボーイアームズ、この町全体が売春婦で溢れていて、みんな商売にカナーン証明書を必要としている!」と言い、私を見て声を荒げました。ディンシン医師は酔っているようでした。「実はその証明書を宣伝するつもりだが、一つ問題があって、ケニア医師会の健康証明書の規制をどうすり抜けるかがわからないんだ。なに、きっと方法はある。」と、ディンシン医師は言いました。

ケニア周辺地図

ディンシン医師が私を巻き込んでいるのに恐れを感じて自分の体が震えているのを感じました。医療の規則を完全に破って、売春婦と患者が必要としている健康証明書を利用してディンシン医師が商売するのを私はこの目で見て来ました。「ああ、神様どうしてこんなことになってしまったのでしょう?」と、私は天に向かって叫びました。

規則上、本人から直接依頼されて検査をすることはありませんでした。代理人か医者かクラブを通して行なわれました。結果を言い渡すときは「血清反応は陰性です。」か「精密検査が必要です。」と伝えるだけでした。そのおかげで、「HIVの血清反応が陽性でした。」と言われるときに患者が味わう精神的な苦痛を見なくて済みました。しかし、5月のある日、サリーを身につけお腹が大きくて美しいインド人の女性が診療所にやって来ました。その女性はネイビン・ペイタルに会いたいと言い、二人はヒンディー語で長い間話をしていました。ばーんと机を叩く音が聞こえましたが、ネイビン・ペイタルとそのインド人女性が興奮気味に何を言い合っているのかは分かりませんでした。

検査室は私の部屋の隣で、何を言い争っているのだろうと思って、私は検査室に入って行きました。ネイビンよりも背の高いその女性は検査技師に一枚の紙切れを突きつけて、その検査結果が何を示しているのかを知りたいと詰め寄っていました。ネイビンは、臨床検査を受けた本人と話をしてはいけないという厳しい指示を受けていましたので、質問には答えられないと言いました。私は自分が性病の専門医であると女性に告げ、血液検査でエイズを引き起こすHIVウィルスを確認したと伝えました。また、ウィルスを保ったまま発症を遅らせてウィルスに負けないことも可能なので、これが必ずしもエイズを発症するという意味ではないとも説明しました。しかし、女性はそれ以上は説明を受けようとしませんでした。女性は叫びながら戸をばーんと閉めて、カナーンから飛び出して行きました。2分後に、門の外で激しい爆発音が聞こえ、女性の青いベンツが炎に包まれているのが見えました。死の病の情報を公開して、カナーンは刑の執行を開始していました。そして、私もその刑の執行に携わっていたのです。こうしてホスピスと関わる自分の将来を考えると、私はたまらなく不安になりました。

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ある朝、起きてみると唾液腺が腫れていました。また髭剃りの後に出来た吹き出物が腫れたのだろうと思いました。しかし、首の辺りが異常に張っていて何だか嫌な感じがしました。両手で耳の下を触ると両方の耳下腺が腫れているのが分かり、更に手を舌下腺の所まで動かしてそこもやられているのが分かりました。

私は恐る恐る下顎を軽く叩いて唾液を飲み込みながら、どこかかがおかしいと感じた心配が現実のものになったと思いました。料理人が持って来てくれた朝食も食べられず、この10年の間、ずっと私に付きまとっていたあの恐ろしい病気に、とうとう私もやられてしまったのだろうかと考え始めました。イアン・ブラウンを介してメアリ・ンデュクから感染したのか?それとも、ゴッドフリィ・マインバを通してユーニス・マインバからうつったのか?私は自問しました。天に祈りを捧げてから、私はドクターGGの娘ムンビが原因だった可能性はあるだろうかと考え続けました。ムンビは無事に元気な子供を産んではいましたが、そのことでムンビの血清反応が陽性ではないとは必ずしも言えないでしょう、いや、ひょっとしたらそう言えるのでしょうか?私は考え続けました。

ブラックマン船長はフィンランド人の船乗りで、モンバサの売春宿にはよく行っていましたし、オルオッチ少佐もムンビの他の友人も同じでした。あれこれと考えて、私はこの10年間、強力なウィルスの感染経路に取り囲まれていて、逃げ道はないという事実に辿り着きました。私は3人の女性とそれぞれ関係を持っていて、その3人も同じように3人かそれ以上の男性と関係があり、その相手も他の女性とそれぞれ関係を持っていました。飛んで来た蠅が引っかかる蜘蛛の巣(に似た映像が、頭をよぎりました。今、)が目に浮かび、私たちは皆(同じ)蜘蛛の巣に引っかかっていると思いました。自分の最愛の息子が死にかけているだけでなくその原因まで知らされたときの母の姿を想像すると、私は突然怖くなりました。性病についてはすべてを知っている自分の主治医が、自分の性病は治せなかったという新聞記事を読む私の患者の姿が目に浮かびました。磔にされたキリストを見て、
「人は救えても、自分自身は救えない。」と嘲った人たちと同じように、患者も私を嘲笑ったでしょう。私の聞いていた神は愛の神だったのかと疑問に思いました。最下層の人たちの医療にすべてを捧げて性病を治療してきた私が、どうして死ぬのかもわからないまま、間もなく悪臭を放つ屍になろうとしていました。
「神様、それはないでしょう!」と、私は思わず叫び声を上げてしましました。私はソファから飛び上がると、歩けるか、電話をかけられるか、声が出るかを確かめました。すべてが出来ましたので、私はまだ生きていると実感しました。私はカナーンに電話をして胃の調子が悪いのでアパートから出られないとギチンガ医師に伝えました。私が仕事をさぼる人間ではないとギチンガ医師は知っていましたので、その頃にはすでに病院のすべての職員が携わるようになっていた証明書を私の代わりに発行しておくと言いました。

ケニア地図

「キスムやニエリ、エンブ、ナクル、エルドレット、カカメガ、ヴォイ、それにウンダニィからも人が来ている。ウガンダやタンザニアからの国際注文も受けている。」と、ギチンガ医師は言いましたが、私はくだらない証明書の話については聞きたくありませんでした。私はタラでいっしょに勉強をしたエドワード・キマニ医師に電話をしました。特に秘密を守ってもらう必要があるところでは、ヒポクラテスの誓いをまだ覚えている人物が必要でした。その誓いに忠実で、正直なままであり得る人間がいるとすれば、キマニ医師でした。私は自分の人生も誇りもその人の手に委ねるつもりでした。
「やあ、ジョゼフ、久しぶりだな。」と、キマニ医師は例の人を惹き付けるような声で言いました。「元気だったかい?」と、キマニ医師は続けました。
「今すぐにでも、お会いできませんか?」と、私は言って、無理に平静を装って元気でしたと応えるのを避けました。
「もちろんだよ。場所は分かるかい?」
「ええ、十分でそちらに伺います。」と、私は答えて電話を切りました。

ケニア地図

私は最近カナーンが私のために用意してくれたマツダ625の新車に乗り込みました。まだ気持ち良く運転できるのに我ながら驚きました。私の問題はどうやら首だけのようでした。交通巡視員に見つかっても構わないと思いながら、黄色の線の上に車を止め、歩いて三つの階段を昇ってキマニ医師のいる外科に行きました。上流階級の診療所に相応しく家具もカーペットもきれに整っているなと思いました。秘書と受付を兼ねている人がタイプライターの前に座っている様子は、医療センターというよりむしろ会社のオフィスのようだと思えて、医療行為に反して十字架を背負いながらこれからどれくらい進むのだろうかと思い始めました。
「今すぐキマニ先生にお会いししないといけないんですが。医者のジョゼフ・ムングチです。」
「どうぞお掛け下さい。先生はあなたをお待ちになっていますよ。」
と、美人の受付が答えて、哀れむように私の腫れ上がった首を見つめました。患者が一人、診察室から出て来ましたので、私は部屋に入りました。キマニ医師は私を優しく迎えて抱き締めてくれました。
「先生、あまり近くに寄らず、手術用の手袋とマスクをして下さい……。」
と、私は言いました。
「どうして?」
「どうもあれにやられたようです。」
と言って、私は首を指差しました。
「(ああ)そうか、お多福風邪か。」
「いえ、例の強烈な病気ですよ。」と私が言うと、キマニ医師は突然笑い出しました
「一体どうしてそう思ったの?」と、キマニ医師は私に尋ね、私が着けて下さいと頼んだ手術用の手袋などもせずに私を座らせ、診察を始めました。キマニ医師は私にコートとシャツを脱いで診療台の上に横になるように言い、私たち医者がするいつもの検査を始めました。聴診器で心音を聴いて体温を測り、私の上半身を起こして、血圧を測るためのバンドを腕に巻きました。両脚の膝蓋腱反射も確認しました。私に口を開けるように言ってから、ペンライトで私の口の内をじっくりと調べました。
「唾も飲み込めないんです。」と、私は言いました。
「すぐに良くなるよ。」と、キマニ医師は簡単に言って処方箋を書き始めました。処方箋を受け取ったあと、信じられない気持ちで、本当に私が良くなるのかどうかを聞きました。キマニ医師は笑って、単に唾液腺が腫れているだけでそれ以上は何もないと念を押しました。私はキマニ医師にお礼を言うと部屋を出て、一階の薬局で薬を貰いそのあと車で自宅のアパートに戻りました。

料理人のムヤが玉蜀黍の粥と、野菜と牛肉の煮込みを用意してくれていましたが、私は食べられませんでした。スーパーには色んな種類のインスタントスープがあるのを思い出し、よくなるまでの間、(キマニ医師の診断をまだ疑っていましたので、私がよくなればの話ですが。)それなら何とか食べる問題は解決出来そうでした。4日間はそのスープで栄養を取りましたが、驚いたことに、毎朝起きるたびに出されたカプセルが効いていくのが分かりました。4日目には、首の痛みは消えていました。私は神に感謝し、天国でも地獄でも、どうかまだ私をお召しになりませんようにと祈りました。

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5日間休んで、火曜日にカナーンに戻り、診療を再開しましたギチンガ医師と共同経営者のディンシン医師はカナーンの悪事にすっかりのめり込んでいるようでした。

カナーン証明書のために1万シリングの必要な額を払えば、待つ必要もなく、ある場合には臨床検査も受けませんでした。ディンシン医師は、報告ではHIV二型のウィルスは潜伏期間は5年か10年、長ければ20年にもなると言い、ウィルスは患者の体内で成長し続けられるのだから、ウィルスが存在しないと指摘しても全く意味がないと主張しました。すべて、感染していないことを示す役には立たない証明書を人々が躍起になって欲しがる間は、この死の病に付け込んで利用するためでした。この病気の心配がないのは、母親から感染していない処女と童貞(ケニアには殆んどいませんが)だけだとも言いました。
「この施設の隣に、エイズを発症して私たちの看護が必要な人のための家を購入したよ。」と、ディンシン医師が付け加えました。
「ここにエイズ患者を収容するつもりなんですか?」と、私は信じられない思いで聞きました。
「そうさ、輸血や体液が交わる時以外は、エイズ患者と接しても安全だと証明されているから、私たちも安心して看護にあたれる。」とディンシン医師が言うのを聞いて、この人も結局、少しは人間味を持っていたのかなと感じました。
「それでも、まだ治療法がありませんよ。」と、私はしつこく言いました。
「治療法はないよ。しかし、末期の患者のための老人施設や病院のことは聞いているだろう。」
「それは、聞いていますよ。ケニアにも、そういう施設が出来てもいい頃ですね。」と、私は頷きながら答え、ディンシン医師が病人への義務よりも金の算段を優先すると思い違いをしていたのは悪かったかなと感じました。
「最後の日々を王様や王女様のように過ごすために喜んで大金を払う人たちもいる。もちろん25万シリングも貰えれば、その思いをきっちりと感じせてやるよ)。」と聞かされて、私は驚きのあまりかっとなってしまいました。
「患者と女に特別のコンドームを用意すれば、男は短時間のセックスに1万シリング払うね。カナーンの女たちにも、既にコンドームは買ってあるがね。」と、ディンシン医師は付け加えました。私は聞いたことが信じられませんでした。私の雇い主ディンシン医師は間違いなく狂っていました。
「お金を取って末期の患者にセックスさせるんですか?」と、私は驚いて尋ねました。
「そう、そのとおり、銀行に大金を銀行に残しても役には立たないからね。どちらにしても、今患者が医者からとめられているものを提供するんだ、つまりセックスだよ。」
行き過ぎてしまう前に、何とかとめなければなりませんでした。
「カナーンは売春宿ではなく、立派なホスピスだと思っていました。」と、私はうんざりした声で言いました。
「ここは末期の患者に最高のもてなしをする非常に特別な病院だよ。」
「そして、患者から金を巻き上げる。」
「そうさ、エイズを利用して金を巻き上げない人間がいるかね?米国のゴムの製造業者はコンドームを作って大儲けしているし、血液銀行も今は非常に景気がいい。作家や映画会社も、エイズの脅威がまたとない好機だと考えて余念がない。ムングチ先生、私たちも急がないとね。何万百も稼げるし、治療法が発見される頃には、それぞれ気持ちよく引退してるよ。」と、ディンシン医師は言いました。これ以上この人と話をしても無駄だと思いました。

私は産科病棟に行ってアイリーンを探しました。カナーンに来てからアイリーンとは殆んど会っていませんでしたが、今まで以上にアイリーンが必要だと感じました。
「仕事のあとで会えるかな?」
私はすべてをキャンセルして欲しいとアイリーンに頼みました。
「ムングチ先生、いつでも大丈夫ですよ。お分かりでしょ?」と、アイリーンはいつものように約束してくれました。

アイリーンを連れてケニア銀行クラブに行き、私はいつものホワイトキャップを、アイリーンもいつも飲んでいるピルスナーを飲みました。狂った医者がエイズの脅威につけ込んで金持ちから金を巻き上げる場所にカナーンが成なってしまったので辞めようかと思っているとアイリーンに説明しました。
「ムングチ先生、やめてどこへ行くの?」
「わからないよ。」
「決めてからやめないとね。」と、アイリーンは私に言いました。医者に2万シリングを出して車も与え、末期患者の世話をさせるだけという所は殆んどないので、アイリーンの言うことに賛成せざるを得ませんでした。
「ナイロビは、金儲けが絡んでおかしな所になってしまってるね。」と、私は言いました。
「健全にお金を儲ける所ってあるの?」
「少しはね。中国とかロシアとか……。」
「それ本当?でもどちらにしても、ケニアにはまずないわね。」と、アイリーンは言いました。どこにも逃げ場が無いというのは残念ながら同感で、とにかく、今のところどこにも逃げ場はありませんでした。
10時ごろに酒を飲むのをやめて、アイリーンを家まで送っていく時間になり、アパートに一緒に来るように誘うかどうか迷いましたが、結局は誘わないことにしました。唾液腺の炎症は治っていましたが、アイリーンと寝てウィルスをうつす危険を冒す訳にはいきませんでした。コンドームが予防になると言われていましたし、ディンシン医師も売春婦にコンドームを販売するつもりでした。しかし、コンドームは破れる可能性もありましたし、第一、アイリーンにコンドームは使えませんでした。
「安全なセックスにはコンドームをと言い出したね。」と、私はコンドームの話を始めました。
「今日カナーンにコンドームが運び込まれたんです。」と、アイリーンが言いました。
「なんだって?」
「ディンシン先生はお金儲けのためなら 何でもするようですね。先生も私も、カナーンの患者さんにコンドームをどう使うかを指導することになりますね。」
「何てことだよ。」と、私は やけになって叫びました。
「神は何もお聞きにならないみたいですね。」と、アイリーンは神を冒涜するように言いました。そのあと私は、パークランズショッピングセンターにある快適そうなアパートにアイリーンを送っていきました。

HIV

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日刊紙がどのようにしてカナーンで起きていることを知るようになったかは分かりません。カナーンエイズケアセンターが出来、カナーンコンドームが出回り始まって1週間もしないうちに、各紙が一斉にカナーンの痛烈な批判記事を載せました。

ヤードスティックは「カナーンは約束の地か、売春宿か」と一面に大見出しを付けました。

シチズンは「葬式に25万」を斜体で一面に載せました。

シティタイムズは「カナーンは天国か地獄か?」と問いかけました。
話の内容も記事の取り上げ方も同じでした。

a)ヤードスティック 記者の記事
ウェストランズのカナーンとして知られる高級ホスピスは、末期患者に売春の斡旋をするなどのかつてないスキャンダルにまみれていると伝えられています。カナーンは元々、本人や親戚や友人のために死者への特別な注意が必要な金持ち向けの葬儀会社として出発しましたが、民間の病院ではエイズウィルスの検査用機械をケニアで初めて導入したナイロビのエイズセンターになりました。それがやがてただ一つのエイズの検査用の施設になり、カナーン証明書として知られる健康証明書を出すことになりました。ナイロビの男女、特に大きなホテルで商売をする売春婦に出される証明書は、売春の許可証として非常に有名です。許可証は1万シリングもして、近くの国に輸出もされています。初めはエイズの証明書を出していただけでしたが、現在ではエイズ患者の管理までするようになり、患者(男女)に性生活を楽しんでもらうためにカナーンコンドームを用意して売春まで斡旋しています。マジェンゴプムワニ、マサレバリーやカワングワレからも少年や少女に大人の男女も集められ、カナーンコンドームが死の病から守ってくれると言われてエイズ患者に「売られて」います。一晩5千から1万シリングで、喜んで応募するマジェンゴの売春婦がたくさんいます。カナーンホスピスはディンシン医師とワウェル・ギチンガ医師の所有で、両氏はケニア中央病院の不正行為に関係する元囚人です。二人は有名なケニア人の医者二人、有名な産科医のヒュー・マクドナルド医師とジョゼフ・ムングチ医師を雇っています。その人が率先して何年も、医者が利益を最優先させる医療のあり方に反対してきた医者であるだけに、カナーンホスピスにジョゼフ・ムングチ医師がいるのは少々不可解です。

その記事を読んで、私はひどく沈んだ気持ちになりました。その朝、私はカナーンに連絡出来ませんでしたが、逃げ道を探す必要がありました。そうする前に、シティタイムズを開けました。私たち3人の写真がそこにありました。どこから写真を手に入れていたのかと思いました。記事には次のように書いてありました。

b)シティタイムズ記者が書いた記事
厚生省は、そのような重大な問題を民間の団体に任せてきたという批判に責任を負うべきです。死の病の存在を認めようとせず、患者のために妥当な措置も取らないで、厚生省は、無節操な男女が人の命を弄ぶのを許してきました。その人たちが売ってきたカナーン証明書は、狂犬病にかかった犬に、うろつきながら人間を噛む許可を与えるようなものです。これまでに50以上の男女が、死の病にかかっていると不用意に告知されて自殺に追い込まれたか、カナーンの常軌を逸した看護を受けることに同意したと言われています。このホスピスは、肛門性交や麻薬の密売や最もグロテスクな形の売春も含むありとあらゆる違法行為に関わってきました。こういった行動に関わってかなりの額を手にした男女は、カナーンホスピスを出るときには自分自身も感染している可能性が高く、ハンセン病などの性感染症にエイズまでを加えて、国中に広めることになります。カナーンチームの一人ムングチ医師は、有名なリバーロード診療所の医師で、長い間率先して、社会の底辺にいる人たちに安い医療を提供してきました。その人がカナーンの詐欺行為に協力しているのは私たちを困惑させる事件で、医療界でも「狼が羊の皮を着て歩ける」と思われても仕方ありません。それらすべてをやり始めたディンシン医師は、性や麻薬や売春用のコンドームまでを売るよく知られた国際犯罪人です。相棒のワウェル・ギチンガ医師も、ケニア中央病院での不正行為でカミティ刑務所に数年もいた詐欺師です。厚生省は自らの責任に気付き、国を救う義務があります。

私はわざわざディンシン医師の過去を調べようとは思いませんでしたが、世界的に有名な犯罪者だとは知りませんでした。しかし、2つの国内紙はディンシン医師に前科があると書いていました。私はそれを敢えて疑問に思いませんでした。それから、最後の新聞を読み始めました。

c)シチズン記者ジョン・キマルが書いた記事
法律の施行緩和につけ入り、ウガンダ産の珈琲をケニア産として売ったために起きた珈琲景気がケニア経済を駄目にしてから10年になります。売春婦が死の病とは関わりがないことを証明すると称するカナーン証明書の販売で、似たような騒動が起きています。エイズ治療と称し、処罰も受けず宣伝されているカナーンコンドームは、死の病の世界を襲う極めて悪質ないかさまです。私たちみんながそういった行為を通してその疫病に感染してしまう前に、カナーンの虚偽わりに関わる犯罪者たちの責任を問うべきです。

逃げてしまおうと考えていましたが、そのような人たちにやってもいない悪事と私を結び付けさせてはいけないと思いました。私はカナーンホスピスの一職員で、記事がカナーンのせいだとしていることとは無関係でした。少なくともいわゆる葬式やコンドームの販売や性産業に関しては、医療倫理や治療についての議論を何度もやったディンシン医師と二人だけで話をして、私の名前を外してもらう必要がありました。タラに逃げ帰ろうという先程までの考えを捨てて、私は車で診療所に行きました。

新聞報道が街に出始めたあとすぐに、政府軍が動き出したに違いありません。私が11時にカナーンに着いたとき、ナイロビ市議会の指示でエイズ患者の家だった建物が取り壊されていました。ケニア中央病院のバスが一台とケニア警察署のブラックマリアを含む警察車数台が来ていました。他に救急車が二台と警察の機動隊も来ていました。引き返してタラに逃げ帰った方がいいという気もしましたが、膨れ上がって1000人以上になった野次馬に加わりたいという気もしました。カナーンの入院患者と外来患者、噂の病院がどうなるのかを見に来た大勢の人々、カナーンがなくなるのを見届けるように要請されていた政府や市議会の役人が来ていました。私は何も間違ったことはして来なかったと自分に言い聞かせました。性病学に関する最善の専門的な助言を与えて来ました。エイズの脅威については殆んど知りませんでした。私としては、専門家として出来る限りの努力をして、イライザ法の検査を行なってきました。もし誰かがその検査を病院外で行なってたくさんの人から金を巻き上げていたなら、それは私ではありませんでした。私の話を採用してくれる新聞を探す必要がありました。

イライザ法の検査器具

アイリーンが市議会の救急車に乗り込んで叫んでいるのが見えました。
「アイリーン、頼む、待ってくれ。」
「ムングチ先生、早く。」と、アイリーンは甲高い声で叫びました。私は車を停め、ロックするのも忘れて急いでその場から離れ、救急車に乗り込みました。
カナーンの患者が10人ほど救急車の中にいるのがわかって、「どこに行ってるの?」と、私は尋ねました。見ると、カナーンの患者が十人ほど救急車に乗っていました。
「朝の六時からみんな先生たちを捜しています。ディンシン先生もギチンガ先生もずっといないんです。9時頃に警察はヒュー・マクドナルド先生だけを連れて行って、それから先生のことをずーっと尋ねていますよ。」
「僕に何の用なのかな?」
「ポール・ウェケサ警部によれば、先生たちはみんなカナーンをやって新聞で報道された犯罪を犯した悪党だそうです。」
「今この人たちをどうしようとしてるの?」
「市議会がカナーンを取り壊するつもりなので、患者をすべてケニア中央病院に避難させているんです。カナーンが使っていた建物には何年も前に裁判所から出て行くようにと命令が出ていたたらしいんです。」
「それで、家具や設備や病院の記録は?」と、私は信じられない思いで聞きました。
「死体安置所だけは許可を取っていましたが、他はみんな違法で、没収でしょうね。」
「今朝の新聞見たの?」
「ええ、読みました。」
「記者の一人はジョン・キマルだよ。」
「ええ、そうですね、私も忘れてました。あの人は破産して6年前にキタレを出て行きました。珈琲の貿易で稼いだ財産をすっかり失ない、噂では、カルラの蔵で無認可の酒を作っていたそうです。その人かも知れませんね。」
「シチズン紙の本社に行ってその男を探し出して、手助けしてもらえるかも知れないので、今すぐ僕が会いたがっていると伝えてくれないか。その間に、僕はポール・ウェサカの所に行くよ。何も間違ったことはして来なかったと信じているから。」
「分かっていますよ。先生はとてもいい人ですから。」
と、アイリーンは言って、長年2人が共有してきた私の心を和ませてくれる合図を送ってくれました。
「君もだよ。でも、もうお互いにいい人同士でいるのをそろそろやめる潮時だね。」と、私は半ば本気で言いました。何か私がいいことをすると、決まって誰かがあら捜しをするかのようでした。私がディンシン医師とギチンガ医師に反対し続けてきたこと、つまり患者を食いものにすること(たとえその人たちが金持ちであっても)と私を、世間の人は結びつけようとしていました。

私はまっすぐ自分の部屋に行きました。部屋では、市議会の監察官が指示を出して備品を運び出していました。
「どうも。医師のジョゼフ・ムングチです。」と、私は挨拶しました。まるで私が恐ろしい殺人犯ですと名乗ったかのようでした。戸棚を抱えていた2人の男性は戸棚を落としてしまい、口をと開けたまま、マネキン人形のように私を見たまま立っていました。
「何だって?」と、監視員は驚いて言葉を絞り出し、目を白黒させながら、ジョゼフ・ムングチという名を聞いて受けた衝撃を耳から振り払うかのように首を動かしました。
「中央警察のポール・ウェケサ警部はどこですか?」と、私は尋ねました。
「警部が私を逮捕したいのは分かります。」
私の部屋にいた人たちは私の言葉にますます混乱して、返事もしないで次々と部屋を出て行きました。
「どうか行かないで下さい。私はあなた方が話している気の狂った医者ではありませんよ。」と、私は必死に訴えました。私を信じていなかったようで、その人たちが部屋を出て行ったあと、ジョゼフ・ムングチ医師が現われたという噂があっという間にカナーン中に広がりました。たくさんの人が私の部屋に押し寄せ、興奮して話をしているのが窓から見えました。エイズ患者の家を取り壊していた人の中にも、新たに私の部屋の周りの人垣に加わった人もいました。その人たちは手に鉈や斧を握り締めていて、3人はバールを持っていました。
「あいつといっしょにビルを叩き潰せ。」と、一人の男が言いました。
「いや、石油を持ってこよう。」と、別の男が提案しました。
「警察に引き渡そう。」と、3人目の男が反対して言いました。
「警察は生死を問わないと言ったじゃないか。」と、また別の男が叫んだとき、私はもうこれ以上は憎まれるのは嫌だと思いました。
「みなさん、お願いです、どうか落ちついて下さい。私を火あぶりにしたければそうして下さい。しかし、せめて私の話を聞くまでは待って下さい。」
「あんな奴、殺ししてしまえよ。」と、人相の悪い大柄な男が叫びました。
「だめよ、あの人の言うことも聞きましょう。」と、1人の女性が金切り声で言いました。その時、たくさんの人の中にポール・ウェケサの見慣れた顔が見えました。カナーンの長い話では、感情より正義が優先されると信じていましたから、私は天に感謝の祈りを捧げました。

*********************

ウェケサ警部は私を中央警察署に連れて行き、そこで今は犯罪捜査係には属していないと私に説明しました。カナーン病院問題の真相を探り、大勢の人たちを陥れたすべての人の責任を問うが、決して無実の人を苦しめないようにと警視総監自身が指揮を執りました。私は長い時間をかけて、カナーンについて知っていることはすべて警部に話をしました。ある治療については時間をかけて議論をしたり反対したこと、私の知っている患者の自殺と死亡、葬式については殆んど知らないこと、カナーンコンドームや証明書のこと、私たちそれぞれに責任があることなど、覚えていることはすべて話をしました。ウェケサ警部は非常に聡明で、かなり融和的な角度から、その人の言葉によれば、善意で始められたが賄賂によって公正なままではいられなかった場所とカナーンを見なしていました。

「ムングチ先生、今までよく清廉潔白のままで来られたと驚いています。」と、警部は言って私の手を握り、可能な限り力になると約束してくれました。

カナーンを解体して警察署の倉庫に備品や家具や記録を保管するのに一週間かかり、ケニア中央病院に連れて行かれるのを拒んだ35人の患者はナイロビの三つの民間病院に振り分けられました。特別病棟や生活条件を整える必要があるために、三つの病院はエイズ患者の受け容れになお消極的でした。

アイリーンと他の看護師は「群れを集めるために」(病院長の1人がそう言ったように)、三つ病院の間で振り分けられました。私について言えば、疲れ過ぎて何も出来ず、荷物をまとめて、タラ警察署を通して連絡を取るようにアイリーンとウェケサ警部に頼んだだけでした。

金曜日の夕方の五時頃に、ディンシン医師から貰い受けたマツダでタラに向かいましたが、家に帰る放蕩息子のような感じでした。

ナイロビ市街

執筆年

  2011年4月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 33

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(28)第29章 カナーン証明書

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の27回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(27)

 第28章 カナーンホスピス

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第28章 カナーンホスピス

普通の病院というよりも、末期患者の介護施設でした。とは言え、大抵の病院にある設備は整っていました。救急病棟から、手術室、X線、実験室、産科、育児室、死体安置所まで、最新の医療施設にあるものは何でも揃っていました。4つに分けられた病棟には、全部で28床のベッドがあり、産科に7床、一般女性患者棟には8床、50歳以上の男性患者と特別に認められた16歳以上50歳未満の男性患者に6床でした。ホスピスは整形外科、小児科、精神科、眼科の患者以外はすべての患者を受け入れました。しかし、産科、婦人科、呼吸器科、皮膚科の病気は特別で、入院許可が出る前に5万シリングの前金を払うことに同意すれば、患者は最高の待遇が受けられるとホスピス側は主張しました。

食事や、宿泊設備、棺桶、芳香剤、寝台用のシーツ、食器はどれも、ケニア山サファリクラブのものに負けないほど上品で、超現代的なものばかりでした。施設にはディンシン、ギチンガ、ヒュー・マクドナルドと、同性愛者だと判って解雇されたフィリピン人のト・クツーンの四人の医者がいました。施設長が熱心に代わりの医者を探していて、そんな時にアイリーンが事情を説明して、真剣に考えるように言ってくれました。ホスピスには医療上の色んな事態に対処出来るだけの人と設備があるので、薬局や診療所や一般の介護施設に比べて、感染の心配は少ないとアイリーンは言いました。

ホスピスは前の大学教育クラブを利用して作られたユニークな場所で、元雇用主からもっとしっかり話を聞くようにアイリーンに言われました。

誰もがミドリザル病を恐れて不安になっていましたので、このホスピスではどのように対処しているのだろうかと思いました。

「ここは費用が高くつくから、患者には私たちが最後の砦だ。普通はどこか他で治療を受けたことがある患者を受け入れるので、患者の状態は事前に充分にわかっている。末期の患者なら、まあそのケースが多いんだが、必要な処置はやっている。」と、ギチンガはあっさりと言いました。
「例の新型の病気にはどんな必要な処置をしているんですか?」と、私は聞きました。
「見てのとおりみんなが着けているマスクに、柵を付けた特別な部屋に、特別な葬式に、死を迎えている人間に必要な特別なすべての処置だよ。」と言いましたが、ギチンガ医師にはきっと何か公にはしたくないことがあると私は感じました。

カナーンホスピスは経済にも強い開業医のディンシンが考え出したものでした。ディンシン医師はケニアの貧乏人と金持ちの大きな格差を実感して、ヒルトンやセレナやビーチのような高級ホテルで宿泊客の動向を観察し続けてきました。リバーロードの薄汚い酒場で安い酒を飲む人もいましたが、いくら高くても「人生最後の豪華な旅路のお手伝い」と呼ぶ特別安置所付きの商品が必ず売れると考えました。街には、棺に10万シリングも払う人間がいるのが分かりました。ケニアでは安楽死は違法でしたが、最後の豪華な死出の旅路のお手伝いとして提供出来る特別な場合もありました。その他に、養子縁組や特別に引き受ける中絶の処置もありました。ディンシン医師はプリンスクワン病院で医療相談も行なっており、そこで、自分のやっている特別サービスの顧客を確保しました。ある日の午後に、ディンシン医師は医者の会食会場でギチンガ医師に会い、安楽死や中絶や医療倫理などの最近の医療問題について話をしました。

「例えば今回の新型の病気ですが、治療法がないですね。」と、ギチン医師が言いました。
「本当ですな、感染した患者は気の毒です。病気にかかったと診断された人は監禁されていますよ。」と、ディンシン医師は付け加えて言いました。
「ええ、気休めに薬を出すよりも、薬を出さないというわけですね。」
「しかし、患者の痛みを和らげるのは可能ですよ。」と、ディンシン医師は言って、カナーンホスピスを創立する計画にギチンガ医師を誘いました。ギチンガ医師は、金持ちが個人の病院で大金を出して内密に治療を受けることは何も目新しいことではないと知りました。ディンシン医師の話を聞いてギチンガ医師は、ヘンリー6世が梅毒になったとき、豚をまるごと食べてしまったと言われていたのを思い出しました。

病院を見てまわったあと、ギチンガ医師がカナーンのチームで一緒にやらないかと私に聞いてきました。月給は車と住宅付きで二万シリングでした。私は信じられない思いでギチンガ医師を見ました。しかし後でギチンガ医師の共同経営者のディンシン医師に会ったとき、非常に正直そうな人に見えましたので、私はその人を信じて申し出を受けました。

次の朝、私はリバーロード診療所を閉めてカナーンホスピスに報告し、自分の息子を病院で産むという条件だけをつけました。

「どの息子だって?」と、ギチンガ医師が尋ねました。
「私の血の流れた息子ですよ。」と答えながら、あと1ヶ月で父親になってドクターGGの娘と結婚すると改めて思いました。しかし、その日の午後にアイリーンと会って私は複雑な思いになりました。私は他の女性に会うためにアイリーンを何度も置き去りにしてきましたが、認めているのかいないのかを全く私に感じさせないで、いつもアイリーンは平然と見ていました。アイリーンが私を本当は心の中でどう思っているかを知りたいと思っていました。

ホスピスで働き始めてから2日後、私は乗組員が諦める前に沈みかけた船から逃げ出した船長のような気分になり始めました。ミドリザル病の患者への体制が整い、医薬品が準備出来るようになったらすぐにまた、性病患者の低価格の治療を再開しようと心に誓いました。暫くは、リバーロード診療所は閉めたままで、診療所についても、治療費をいくらでも払えるコンボ元少佐のような患者に最上級のケアが提供出来ればいいと考えるこのホスピスの危ういやり方についてもあまり考えないでおこうと思いました。診療所の常連とホスピスの患者は見ていても驚くほど対照的で、ホスピスの患者の場合、特に全般的に物腰も違いますし、自分の症状についても自由に話をし、治療費の心配もしていませんでした。一般にカナーンの患者は金で病気が治ると信じ、健康には人一倍気を遣っていました。私は専門の性感染症科の担当になり、すぐにこのホスピスに金を出しているような上流階級の間でも性感染症が広がっているのを知って驚きました。それまで私は、衛生状態がよければそれだけ事態もよくなるだろうと信じていましたが、実際には富裕層も、リバーロード診療所の患者が感染していたように、高い頻度でクラミジアやトリコモナス症、ヘルペスや淋病に感染していました。私の仕事は、性病の最新の治療法を研究し、ここの患者に可能な限り最良の治療を施すことでした。迅速さより金が優先され、薬が国内で手に入るかどうかは問題ではありませんでした。

イライザ法検査器具

重要なのは症状にあった薬を見極めて手許の問題とうまく組み合わせることでした。正しくても間違っていても、カナーンホスピスは何年間か発展を続け、常連の患者が、金さえ出せばどんな病気でも治してくれると信じる場所になりました。しかし受付の係員は、前金を受け取りながら、眼科と精神科と整形外科に関しては
「他の病院をご照会します。」と念を押していました。どうしてその3つの科だけが例外なのかと聞いたとき、ディンシン医師は肩をすくめて「医者なら誰でも好き嫌いがあるもので、その3つの分野はずっと好きになれなくてね。」と答えました。

「ムングチ先生も、腰より下の病気を専門に選んだ。同じように、カナーンも眼と脳と骨を仕事から外して選んだだけだよ。君は集中して感染症に関してすべてを学んだ方がいい。特に、ミドリザル病の難問を解決してくれると期待しているよ。」と、ディンシン医師は私に言ってから、好きな「医療倫理」の話を始めました。ディンシン医師はその分野については非常によく知っていました。今世間で話題になっている安楽死や試験官ベイビー、中絶や養子縁組や幼児殺害、輸血、心臓と腎臓の移植、脳死や自死や、世界中の医療に関わる人たちが抱えるたくさんの問題について話をしました。ディンシン医師は広く世界を旅行していて、医療問題と特に米国と西欧の訴訟報告の新聞記事の切り抜きを集めていました。その切り抜きを綴じた大きなファイルを読むようにと私にくれました。記事の中に、両親を含む周りの人たちの願いに反して、ある兄妹が裁判所に申請して結婚を許された有名な裁判の記事がありました。2年間取り付けられた生命維持装置を大切な子供から外してやりたいと両親が願った「死ぬ権利」を求めた米国の少女の闘いの記事もありました。専門が性感染症学だからだと思いますが、非常に興味を惹かれたのは、貞節な白人の妻が黒人の子供を産んだという記事でした。遺伝学の理論がたくさん述べられていましたが、どれも納得のいく説明にはなっていませんでした。しかし、近所の売春婦が見つかってやっとその謎が解けました。夫のペニスの包皮に売春婦の体に残っていた黒人男性の精液がついていたからです。医療行為に関するケニアの法律の議論になりましたがディンシン医師は極めて柔軟な感じでした。

「充分に国が発展をして、すべての問題で英国議員の真似をやめる時が来れば、ケニアでも、安楽死や中絶や自殺を受け容れるようになるだろう。国内の呪術師や薬草師や偽医者やいかさま師が、こう言った問題で自由な選択肢を与えられると想像出来るかね?」
「かなり混乱しそうですね。」と、私はディンシン医師に賛成して言いました。
「10代の堕胎を手伝ったり、末期患者の苦しみを和らげるというような害のない問題には、裁判所は一切触れないというのは覚えておくといいね。つまり私たちは、多くのダウン症や体に障害のある赤ん坊をこの世の悲惨な毒牙から救ってきたということだね。」と、ディンシン医師は話をまとめ、ミドリザル病の今後の問題点をたくさん指摘して話を終わりました。
「君の専門には、陰嚢の象皮症にかかるよりもずっと恥ずかしいと世間がみなす末期の病気も含まれるからね。最近読んだのだが、母子感染の例もあるそうだよ。ジョゼフ・ムングチ先生、どうか準備を怠りなく。カナーンは君に大いに期待してるから。」と、ディンシン医師は私に言いました。

1日おきに、国内の日刊紙シチズンとヤードスティックとシティタイムズがミドリザル病の記事を載せていました。私は記事をとても興味深く読みました。特に問題になっていたのはその病気の起源でした。西洋のメディアは、中央アフリカのミドリザルサバンナモンキーが起源であると報じました。アフリカ諸国は憤慨してすぐにその説に反対して立ち上がり、アフリカ人の間には殆んど同性愛は存在しないことを論拠に反論しました。ロシア人は、生物兵器にこの病気を利用しようと考えた米国人の遺伝子工学が病気の原因だという説を持ち出しました。

私は特に米国国立癌研究所の報告書を何時間も読みました。ヒトT細胞白血球ウィルス3型(HTLV3型)に関する総合的な報告が載せられていました。パリにあるパスツール研究所では、リンパ節が肥大した患者からミドリザルウィルスを単離して、リンパ節症関連ウィルス(LAV)と名づけていました。カナーンに来てから三ヶ月ほど経った頃には、患者がホスピスの入所許可をもらう前にミドリザル病の検査のために送られる監視役に私はなっていました。私は出発点に戻ったわけです。私にHTLV3型の治療が出来ると考えて患者が押し寄せて来たリバーロード診療所のときと同じマスクと手袋をつけました。

*********************

ムンビは1985年3月15日にカナーンに着きました。恋人ではなく患者として来たとムンビは言いました。診療室にムンビを連れて来て、まず、HTLV3型の検査をしたあと、カナーンで働く条件として話をした私の子供の出産の為に母親が来たとギチンガ医師に伝えました。その母親がドクターGGの娘であることも言いました。ムンビが治療費は自分で払うので、料金に関しては特別扱いはしないで欲しいと言い張りましので、2人とも驚いてしまいました。しかし、ギチンガ医師は、自分や他の大勢の医者が如何に病人を診るかを教わったあなたのお父様ドクターGGのためにカナーンの好意を受けて欲しいとムンビを説得しました。ムンビにはミドリザル病で見受けられる下痢や帯状疱疹、皮膚の異常や高熱はなく、ムングチ医師の息子を宿しているのですから、入院費も要りませんでした。

ムンビがカナーンに到着した次の日、私の診療室に白人の患者が運びこまれました。背の高い男でしたが、ひどい腹痛のために体を半分に折り曲げていました。ディンシン医師は当局が空港でこの患者を引き止めたと説明しました。その白人が例の死の病にかかっていると疑って、どこの航空会社も搭乗を嫌がりました。その見方に反論して、この患者の病気が死の病ではないと記した証明書を私が発行するようにディンシン医師に頼まれました。そうすればその患者は母国の英国に戻って治療が受けられるでしょう。ディンシン医師が一個人の都合で偽の情報を出すように私に求めたのが信じられませんでしたので、そんな取引の当事者になるのを私はきっぱりと断りました。

「ムングチ先生、ミドリザル病については今のところ誰も事実を把握していないんだよ。今日の報告だと、この病気は同性愛者の間だけの問題ではなくて、異性間でも病気が広がっているらしい。真実が明らかになっていないのに、偽証もなにもない。」
私はボブ・スミスと呼ばれている患者を診察しました。その男には確かに見覚えがありました。頬骨が突き出て、体重が三割も減っていました。肋骨と恥骨と大腿骨までが、まるで体から離れたように浮き出ていました。ナイロビ病院で咳の治療は受けていましたがうまく行かず、下痢の症状がひどくてすっかりお腹をやられていました。その白人を悩ませている病気は疑う余地もなく、患者にミドリザル病にかかっていると言いました。そうではないかと思っていたが、多額の治療費が払える英国に戻る必要があると患者は言いました。通常の旅客機が搭乗を許してくれないのなら、ジェット機を貸し切りにすればどうかと薦めましたが、一緒の飛行機に乗ろうという乗客がいるとも思えませんでした。

なぜ私が検査結果を偽証すべきなのかはわかりませんでした。カナーンは一万シリングを稼げたのでしょうが、ミドリザル病の感染拡大を容易に早める取引の当事者にはならないと私は心に誓いました。ずっと以前に『カサンドラクロス』という映画を見て、閉ざされた公共交通機関内での伝染病の恐ろしさを知りました。そういった危険性を私が心配していることをギチンガ医師と、私を馘にすると脅すディンシン医師に説明しました。次の日、すべての新聞が、ミドリザル病の患者がカナーンホスピスでの治療を拒んでベンツの中で銃を撃って自殺したという話を載せました。警察はイングランドのシェフィールド出身のイアン・ブラウンだと名前を公表しました。

イアン・ブラウンの死を悲しいとは思いましたが、自責の念は起きませんでした。カナーンで2万シリングの仕事を手に入れたときに考えていたよりもたくさんの問題が起きました。マクドナルド医師が取り上げた赤ん坊がミドリザル病にかかっているとわかりました。もし状況を教えられていれば、母親はその赤ん坊を殺そうとしたでしょうが、感染を恐れて、病院は他の赤ん坊と一緒の育児室には置きませんでした。そういった患者の責任者として、私は最良の選択肢を助言しなくてはいけませんでした。ディンシン医師は安楽死を考えていましたが、私はヒポクラテスの誓いに反するからと言って反対しました。雨が降れば土砂降りという予言めいた言葉どおり、私に健康な男の子が産まれましたが子供は白人だったという知らせをギチンガ医師が運んで来ました。ああ、なんということでしょう。恥ずかしさのあまり、ここから逃げ出して隠れたい気分でした。ドクターGGの娘ムンビとの間に子供を作る競争では、私よりもあのフィンランド野郎が一歩先を行っていたわけです。私はまともにムンビも子供も見られないまま、ムンビが出産後の2日間をカナーンで過ごしたあと、退院してそのまま空港に行き、欧州行きの英国航空に乗ったと、部屋に来てくれたアイリーンから聞かされました。目から涙が溢れましたが、こぼれ落ちないようにじっと我慢しました。アイリーンには私の苦悩がわかっていて、私は「これが人生だね。」と応え、アイリーンをドアの向こうに見送って部屋に鍵をかけました。

次の日、ヤードスティック紙は銀行から20万シリングを引き出し、その一部を使ってニエリの町で売春婦と過ごした大金持ちゴッドフリィ・マインバがミドリザル病で苦しんでいたという話を詳しく載せました。マインバは逮捕されましたが、自分の金で楽しんではいけないという法律はありませんから、結局は釈放されました。1週間後、ユーニス・マインバがカナーンに来て、夫が釈放されてミドリザルのウィルスを死ぬ前に自分にうつすので、国を出なければいけないと言いました。マインバにはもう逃げ道が無いと私は感じました。その病気は国じゅうで人々の大きな脅威となっているようでした。メルでは、町で評判の天使のようにかわいい女の子が、その病気に感染した後も町の役人連中と寝るのをやめなかったと報じられました。役人たちは一斉に女の子を責めましたが、何も規制は出来ませんでした。現段階では法律上、ミドリザル病にはまだ報告義務はなく、もし仮に報告があっても、治療のための薬が存在しないので、医者が治療義務を怠ったとして起訴することも出来ませんでした。ケニアでは同性愛や静脈注射による麻薬常用者の患者が少なくても、私たちが非常に大きな危険にさらされているという証拠が、じわじわと明らかになっているにも関わらず、当時の政府は病気の存在も認めませんでした。

ナイロビ市街

執筆年

  2011年3月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 32

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(27)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の26回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(26)

 第27章 男の赤ん坊

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第27章 男の赤ん坊

イアン・ブラウンの家での騒動以来、メアリ・ンデュクとの関係は寝るのも億劫なほど気まずくなっていました。ミリマニの私のアパートに来る回数も次第に減り、とうとうンデュクは家に来なくなりました。マインバ夫人とは、事態はもっと深刻でした。夫人の帯状疱疹のことを考えると私の下半身は萎えて性欲も湧きませんでした。

電話が鳴ったとき、私は侘びしくて落ち込んでいました。神が私の性の悩みに答えてくれたかのようなでした。
「もしもし、ムングチ先生、あなたなの?」
それは間違いなくドクターGGの娘の声でした。
「そうだよ、元気だったかい、お姫様。」と、私は少し興奮気味に答えました。
「ええ、元気よ。あたし、そっちに帰るわ。」
「いつ?」
「あしたの朝、7時に迎えに来て。」
「どこに?」
「駅よ。」と、ムンビは私の返事も待たずに電話を切ってしまいました。

私は言われたとおり、朝7時にムンビを車で迎えに行きました。ムンビはトランクが壊れてしまいそうな重いスーツケースを3つも持っていました。英国の映画女優が恋人のベッドに入る前にやるような仕草で付け毛を肩まで垂らして、ムンビはとても可愛く見えると思いました。

黄色と藤色の花柄の服を着て、ムンビは以前にあった時よりも優雅な感じがしました。私はムンビが煙草を吸わないのには気が付きましたが、一時的なのかそれとも完全にやめたのかは聞きませんでした。

「みんな、待ってるんだろうね。」と、私は車でンデルの家までムンビを送ろうと考えながら尋ねました。
「みんなって?」
「君のご両親だよ。」
「ンデルにはまだ行かないわ。それにあたしとても疲れてるの。」と、ムンビは答えました。昨日の電話で
「そっちに帰る」と言っていた意味がそのとき分かりました。私は車でアパートに行って、荷物を降ろしました。診療所に行く前にベッドを共にしたいと強く思いましたが、ムンビをベッドに眠らせてやりました。色んな薬や基本的な調合剤が足りなくなってきていたので、診療所での仕事がだんだんと面白くなくなって来ていました。同僚の医者の多くが薬ではなく処方箋だけを出しているは分かっていて、私もやってみましたが、患者には極めて不評だとわかりました。薬が見つからなかったと言って戻って来る患者がたくさんいましたし、私を通さなくても薬局に行けたから、処方箋はいらないと言う患者もいました。内服薬は筋肉注射に比べて基準が低いというグループもありました。近頃では、義務として診療所に行っていました。大学を卒業し、自分のものとして経営する診療所をギチンガ医師から有難く受け取り、ジョセフ・ムングチこそが性感染症患者を救うケニアのリビングストン博士やシュバイツァーであると証明する約束をしたときに医者という仕事が持っていた魅力がすっかり色褪せていました。受付のギニア人の男性も退屈そうでした。日に何度も欠伸をし、何日も徹夜した人のように絶えず両腕を伸ばしているのが見えました。アイリーンだけが、染みのない無い白衣姿で元気に動き回っていました。診療所にエチルアルコールとペニシリンが十分あるかどうかだけは確認してほしいとアイリーンが私に言いました。

********************

私も今では、役所や大きな銀行や政府系の企業のたくさんの会員が出資する唯一つの「ケニア銀行家クラブ」の会員でした。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている大抵の人が、特に木曜日に集まりました。テニスコート5面とスカッシュコート3面、サウナにきれいなプールもあって、ナイロビの若手官僚の特に便利な待ち合わせ場所になっていました。

冷え込んだ7月の夕方に、私はムンビをクラブに連れて行き、二人は店の奥に座りました。ネネ医師が途中で私たちに加わり、私はネネ医師にモンバサから来た娘を紹介しました。

「今度こそ正真正銘の彼女みたいだな。」
とネネ医師は私をからかいましたので、銀行家クラブの会員のようにそろそろ身を固めて妻を持ってもいい潮時だなと考えました。
「独身が終わるという規則にお前が……。」と、私は言い返しました。
「この人、独身だって言ってるの?」と、ムンビが会話に加わりました。
「ああ、ちょっと前まではね」と、ネネ医師はどんな旋風を巻き起こすかも知らないで言いました。
「昨日が独身最後の日だったわけね。」と、ドクターの娘GGは素っ気なく言いました。

クラブで夜を過ごしたあと、私たちは車でアパートに行きました。ムンビは、私が大学での審査を修了したので、ようやくモンバサを引き揚げできたと言いました。ムンビは体が適齢期の女性であることを証明したがっていて、私のアパートにやって来たのはまさにそのためです。この先6ヶ月間はコンドームもピルも避妊注射もありませんでした。君には大いに関心はあると告白しましたが、まだ誰とも結婚は考えていないとはっきりと言いました。しかし妥協案として、私の子というよりムンビの子だと考えてくれるなら、母親としての願いを叶えてあげる手助けは出来ると認めました。40歳になる前に息子で自分の男らしさを証明したいと密かには願っていました。多くの女性が夫との間に子どもを設けたがるのは知っていましたが、ムンビは少し変わっていました。ムンビは私が言った条件を素直に受け入れました。心のどこかで私はムンビを妻にしたくないと思っていたのかもしれません。カンバ娘と結婚するという母親への義理もありましたし、かなり時間はかかるけれども、いずれはタラかどこかで妻を見つけるだろうとは感じていました。

ナイロビ市街

1984年の7月から9月まで、私はずっとムンビと一緒に暮らしました。ある朝、ムンビは目を覚まし、もし私が要らないのなら、バスの停留所で私を降ろすべきで、そうすれば1時間以内に誰かが言い寄ってくるから、とムンビが私に冗談を言ってきました。

「誰も結婚した娘は必要ないと思ったけど。」と、私も冗談を言いました。
「私とは結婚したくないと言ったくせに。」
ムンビは真剣で、怒っているのが分かりました。
「そうは言ってないよ。」と、私は言い返しました。
「ジョゼフ・ムングチ先生。女性に求婚するのは男性で、私はその規則を簡単に破ったから、私への気持ちが冷めてしまったのね。」と、ムンビが食ってかかってきましたが、ムンビの言葉も少しは当たっていました。
「いや、そんなことはいないよ。」と、私は嘘を言いました。
「モンバサにも是非来てね。」と、ムンビは素っ気なく言いました。次の日の夕方に診療所から帰って来たら、ムンビはきっちりいなくなっていました。「大好きなジョゼフへ」で始まる手紙を残していましたが、私はその手紙に気持ちがひどく掻き乱されました。

ミリマニアパート22 大好きなジョゼフへ

お腹にいるあなたの子どもといっしょにモンバサに行きます。子どもが要るなら、来年の四月の分娩に立ち会うための手続きが必要ね。そうでないなら、アフリカの子どもが好きなフィンランド人の養子になるわ。
ずっと好きだけどあなたのものでないムンビより

ある船長とかなり深い関係にあるとムンビに言われていたのを思い出しました。5年ほど前にモンバサで会ったブラックマンに違いないと思いました。結果的にはムンビのその手紙が原因で私は体調を崩し始め、不調は11月からクリスマスの休暇まで続きました。とうとうアイリーンが辞めて、リバーロード診療所を閉めざるを得なくなった頃、私はムンビに会って、ブラックマン船長に私の子どもを渡さないで欲しいと伝えたいという気持ちをどうしても抑えきれなくなりました。一度しか会いませんでしたが、この世でブラックマン船長ほど私が激しく嫉妬を覚える人間はいないと感じました。ムンビの華奢な体に跨って延びるブラックマンの長い両脚を思い浮かべ、想像した場面とは言え、私は思わず目を閉じてしまいました。私の時もそうでしたが、快感の絶頂に達したときにムンビがブラックマンに叫び声を上げていたと想像しては、私はいつも目を閉じ、もの凄く汗をかいて自分を呪いました。

1985年の1月、私は息子が生まれる日を計算し始めました。8月に妊娠したとすれば、出産までの期間は既に半分が過ぎていると考えました。ネネ医師はかつて私をケニア銀行家クラブの女たらしと呼びましたが、4月か5月には、私も女たらしと呼ばれなくなりそうです。2月に入ると私は待ちきれなくなって、ムンビと生まれてくる息子が自分にとってどんなに大切かという手紙をムンビに書きました。そして4月になったらナイロビに来て(あれこれ計算すると、出産は4月になるはずでした)、将来について相談しようとも書きました。カンバ娘と結婚して母を安心させたい気持ちはまだありましたが、それでは大事な愛しいムンビと私の息子がフィンランド野郎に取られてしまうと自分に言い聞かせました。そうはさせるものかと思いました。イアン・ブラウンは経済的な援助を望むなら私に会わないようにとメアリ・ンデュクに言っていましたし、ユーニス・マインバは帯状疱疹を患っていましたから、付き合っていた他の二人とはすでに会っていませんでした。

1985年は、私の人生でのうちで最も辛い年となりました。すべての医薬品の値段が急騰し、診療所を経営するのに非常に費用がかかりました。ミドリザル病のおかげで、社会の底辺層の求めに応じて治療をしている人間には事態は更に悪くなりました。ウィルスは極めて複雑で、血液、傷口、精液、膣液、肛門粘液、唾液、蚊、涙、分娩などを通じて感染するという報告が出始めていました。同性愛者や、注射針の回し打ちをする麻薬常用者は、肛門内の傷口からや麻薬を静脈に打つときに血液が混じることなどを通して病気が広がる影響を特に受けました。コンボ少佐は女性相手に肛門性交をしていました。では何故、コンボはミドリザル病にかかったのでしょうか。ケニアでは、同性愛者や注射針を使う麻薬常用者がいても、ごく少数でした。マリンディやモンバサにイタリアやドイツの男を相手にする男娼が少しはいても、基本的には、ケニアでは男は女を相手にし、マリファナは吸っていました。モンバサなども、サンフランシスコで急速に広がっていると報告されているこの病気の感染ルートの一つだったのでしょうか。私は更に深く考えました。もしこの病気がコンゴのミドリザルから来たものなら、どうして人類に感染したのでしょうか。猿の調教師はどうなるのでしょう。ナイロビに新たに出来た霊長類研究所にも猿を扱っている研究者がいると思いましたが、いまだにこの病気は世界中の細菌学者に残された難問でした。いずれにしても、世界保健機構は既にこの病気を真剣に取り上げ始めたと考えました。

ナイロビ市街を望む国立公園

私の今の問題は診療所で、毎週、やせ細って衰弱し、性器に痛みを訴える患者を前よりも多く受け入れていました。下痢やしつこい咳やリンパ節の腫れが更に多くなり、私はマスクと手袋を着けざるを得なくなりました。特にアイリーンはひどく不安がるようになりました。診療所ではもう注射器の使い回しはせず、アイリーンもマスクと手袋とプラスチック製のエプロンを着けなければいけませんでした。それともアスベスト製の上着を使い始めないといけないのかと考えました。深刻な性感染症はすべてケニア中央病院で診てもらうように張り紙をしましたが、その場合でも患者を紹介する前に私の診断が必要でした。

コンボ少佐が2万シリングを私に残してから1週間後に、アイリーンのメモを見付けました。

親愛なるムングチ先生

非常に気が重いのですが私は診療所をやめました。カナーンホスピスから、麻酔助手のとてもすてきな仕事の機会を頂戴しました。先生も知ってのとおり、麻酔を専門にしたいとずっと思ってきましたので、私はこの機会に飛び付きました。
先生も他に仕事を探すべきだと思います。今はミドリザル病の患者を診るのは安全ではありませんし、その病気に命をかけてまで治療をして欲しくはありません。
先生をずっと大好きでいます。
アイリーンより

私はひどく泣きました。どうしてなのかははっきりしません。アイリーンは辞めて当然でした。私も診療所は閉鎖しなければいけないと分かっていました。患者の幸せを何よりも大事にしなければいけないというヒポクラテスの誓いを随分と前に立てました。思い遣りを持って社会からのけ者にされた人たちと衣食をともにして暮らしたマザー・テレサやリビングストンやシュヴァイツァーのような人たちを思いました。しかし、どんな予防手段を取っても私を殺そうとする病気があると思えました。誰も私の助けにはなり得ないので、故郷に帰り、2、3日家族といっしょに暮らして少し考えようと心に決めました。

カナーンホスピスは、この世で唯一人の私の大切な友人を奪いました。私はタラに行く前にアイリーンに会おうと決めました。診療所に鍵をかけているとき、ユーニス・マインバがBMWでやってきました。ユーニスは急ぎの話があるので今すぐに会って欲しいと言いまた。受付が朝来なかったので、診療所に鍵をする間待ってくれるように頼みました。私が車に乗り込むと、ユーニスはどこに連れて行くかも言わないで車を出しました。ユーニスは泣いていて、ひどく落着きがないのが分かりました。ンゴング通りを抜けてダゴレッティの交差点に来たとき、ユーニスは奇妙な話を始めました。

「あなたが正しかったわ、ムングチ先生。夫はミドリザル病なの。」と、ユーニスが始めました。
「どうして分かったんだい?」と、私は尋ねました。
「主治医が、例のナイロビの病院に連れて行って、そこで一週間いたのよ。咳も下痢も痛みも治まったんだけど、暫くは私とベッドを一緒にしないように言われたらしいの。でも、夫は医者の指示は私に隠してたのよ。」
「じゃ、どうやってそれが分かったの?」
「ほら、あそこの病気をうつされたでしょ。あの時以来、ずっと寝室に鍵をかけてるの。」と、ユーニスは続けました。
「そうしたら夕べあの人、斧で戸を叩き壊したのよ。それで私、窓から逃げるしかなかったわ。」
「まさか。」と、私は思わず大きな声を出してしまいました。
「本当よ。私、車で夫の医者のところまで行ったの。当分はどんなことがあってもいっしょに寝ないようにと言われたわ。やっぱり夫の病気はミドリザル病だったのよ。ああ、ムングチ先生。私たちどうなるのかしら?」
「わからないよ。」
既にまた、自分の身も安全ではないと感じました。もし夫がユーニスにもミドリザル病をうつしていたとしたら……。私は考えました。その時、この前私は何のためにユーニスを治療したかを思い出しました。ユーニスが私を乗せたままカレンショッピングセンターを通ってカレン乗馬学校の隣の小さな宿に入って行ったとき、汗が噴き出し始めました。

「ユーニス、僕にもどうすればいいのかわからないよ。今すぐ僕をナイロビまで帰してくれないか。二、三日タラで過ごしたいんだ。ここのところ色んなことが起こりすぎてね。少し気持ちの整理をしたいんだ。」と、私は言いました。
「私も一緒に行けるわ。」と、ユーニスが言い出しました。
「だめだ。」と、私はぴしゃりと言いました。突然私がユーニスが怖くなったことにユーニス自身は気付いていませんでした。
「君も身を隠した方がいいよ。取り敢えず、親しくしてる警察官に君のご主人について相談してみるよ。」

カポジ肉腫の患者

カレンの宿に入るとすぐに、ユーニスは私をナイロビまで送り帰すのは嫌だと言いました。私はトイレに行く振りをして、狩りで追われる動物のように柵を飛び越え、バスの停留所まで必死で走りました。

その夜、ひどく心配しながら眠りにつき、私はドクターGGの娘と愛し合い、そのあとでムンビがトイレに入って行く夢を見ました。ムンビのトイレが長過ぎたので、外から名前を呼びました。返事はなく、何をしているのかを確かめようと戸を開けたとき、あの美しかった体がみるみるうちに痩せていき、最後には骸骨になって、煮え立つ鍋の中でくるくると回り始める姿に目の前でムンビが変わっていくのがわかりました……。その時、私はうなされて目が覚めました。実に生々しい夢でした!

********************

カレンの宿から逃げ出した翌日、私はカナーンホスピスを訪ねました。その日の朝に会った友人がインターナショナルカジノの隣にあった元大学職員クラブが今はカナーンホスピスになっていると教えてくれました。着くとすぐに、私は看護師のアイリーン・カマンジャの友人だと名乗りました。しかし、ちょうど仕事が忙しい時間帯だったようで、アイリーンとは会えませんでした。受付で言われたように、2時頃に改めて来ることにしました。それまでの間、すぐ側にあるケニア博物館でのんびり過ごそうと決めました。先ずは蛇公園に行き、錦蛇と鰐と陸亀を見物しました。神様は実にたくさんの生き物をお造りになったものだと思いました……鳥類、両生類、爬虫類、昆虫、軟体動物、そして哺乳類。すべてミドリザル病にはかかるのだろうかと疑問に思いましたが、それはあり得ないと考えました。この病気は性交時に体を交える動物だけが含まれるに違いありません。その時、試験官生殖が心に浮かびました。
「そうか、試験官生殖だったら体を交えない、従って安全である。」
と、私は気持ちが混乱したまま呟きました。

この博物館にはあらゆる哺乳類がいるなと思いながら、蛇公園を出て来ました。ゴリラ、チンパンジー、ライオン、象、縞馬、アカゲザルなど、すべてが揃っていました。ミドリザルはどうだろうと思い園長に尋ねてみると、ンゴングの霊長類センターに行けば何匹か見られますと教えてくれました。

 

 

ファンタを飲みパンを食べてから、またカナーンホスピスに歩いて戻り始めました。私が玄関にいると聞いて、アイリーンはすぐにやって来ました。まっさらな白衣に白いナースシューズ、それに白い手袋のアイリーンはまばゆいほど輝いて見えました。

「ムングチ先生。ご機嫌如何ですか?」と、アイリーンが聞いてきました。
「シスターアイリーン。あまり良くないよ。」
と、私は答えました。
「私たち、どんな罪を犯したのかしら?」
と、アイリーンが尋ねました。
「たぶん、2人とも何も罪は犯してないけど、こうなってしまったみたいだね。」と、答えましたが、実際に私はそう考えていました。アイリーンは一緒に居て一番心が休まる存在だといつも思っていましたが、どういう訳か、一緒に座ったり食べたりしながら仕事をする以外は、恋愛の相手として見る気持ちが起こりませんでした。一緒に出かけても、必ず家まで送り、性的な喜びが必要な時は、メアリ・ンデュクかユーニス・マインバを探しました。今メアリ・ンデュクとユーニス・マインバと一緒にいるのは危険でした。今はアイリーンだけが一緒にいても安全な女性で、私はアイリーンの次の言葉を待ちました。

「あの人、ここにいらっしゃいますよ。」と、アイリーンが言いました。
「誰が?」と、私は聞きました。
「ワウェル・ギチンガ先生ですが、今はすっかり別人みたいですよ。とても優しくて思いやりがあるの。先生と第20病棟での出来事はとても結びつかないわ。」と、アイリーンは言いました。
「そうだね、刑務所に引き取りに行った日、まるっきり変わっていたからびっくりしたよ。それに、リバーロード診療所を『売り』に来た時もね。先生はここで何をやってるの?」
「どうやら、この施設の共同経営者らしいの。ここを持ってるディンシン医師がギチンガ医師とプリンスクワン病院で一緒に働いてたそうで、そこでギチンガ医師にここで一緒に働かないかと声をかけたらしいの。そうだわ、先生もここで働きません?」と、アイリーンが言いました。
「どうして?」と、私は聞きました。
「給料はいいし、ホスピスは診療所とは違うわ。感染対策もしっかりしてるの。あのミドリザル病にもね。」と言うと、アイリーンはカナーンホスピスが設立された経緯を詳しく話し始めました。素晴らしい話でしたが、誰がアイリーンにその話をしたのかという疑問が残りました。アイリーンはものごとを分析しながら知的に話をしてくれました。その時はアイリーンの知性と分析力には気が付きませんでしたが。

執筆年

  2011年2月10日

収録・公開

  モンド通信(MomMonde) No. 31

ダウンロード・閲覧

  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(26)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の25回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

 第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

25章 1983年2月

私はアイリーンに、ドクターGGと別の男性と一緒にカミティ刑務所にギチンガ医師を迎えに行くと伝えました。ギルバートの殺人以来、ギチンガ医師のそばで働く気にはなれない、もし以前の持ち主に戻るのなら診療所を辞めたいとアイリーンは言いました。アイリーンはギチンガがギルバートを殺したと今でも信じていましたから、反対しませんでした。ギチンガを正当化する根拠がないのも分かっていましたから、ギチンガの弁護もしたくありませんでした。タンザニアの売春婦のハリマの死を見ていましたから、ギチンガ医師の無実も完全には保証出来ませんでした。

ギチンガ医師の兄だと紹介されたカリユキという名前の男といっしょに、ドクターGGが10時に診療所を訪ねて来ました。ギチンガが服役した4年間以上は刑務所に入れておきたくないので、11時前にはカミティに着きたいと二人は説明しました。私は黙って従い、受付が片付いたら出来るだけ早く診療所を閉め、その日の残り時間は休診にすると受付に説明するようにアイリーンに頼みました。

10時半にカミティの門に着き、釈放されたギチンガ医師を私たちが引き取りに来たと伝えました。門番が電話をすると、ギチンガ医師は既に釈放されて迎えを待っているということでした。刑務所はどうも苦手なので、釈放の手続きなどはドクターGGとギチンガ医師の兄に任せました。2人は私をフォードエスコートの席に残し、釈放室の方に歩いて行きました。
私はギチンガ医師が戻った後のことをあれこれと考えました。2年間診療所を経営してきた後では、誰かに雇われる状態に戻れないのは分かっていました。しかし、性病の患者に安い医療施設を提供するという使命も継続しなければとも考えていました。私一人で、ナイロビのような町から性病をなくすのは無理だと分かっていましたが、患者が払わないといけない費用が、時には薬や診断や診療にかかる額と釣り合わないほど高額でした。それについて私が話をした何人かの医者は私を馬鹿だと考えていました。その人たちが言うように、いわゆる法外な金額を設定したのは医者ではありませんでしたから。普通の人は、公的な診療所や私が経営している偏見のない個人の診療所に行くよりはこっそりと診察を受けたがりました。

ナイロビ市街地

ナイロビの中でも、一般の人が歩かない一流の建物が並ぶ高級住宅街では、金持ちには医療が必要で、そのために必要なら金は幾らでも払いました。そんな風に思いを巡らしているときに、一人の男が車の窓を叩きました。顔を上げるとドクターGGとカリユキ氏が立っており、その横にいたのはどうやらギチンガ医師のようで、すっかり変わってしまっていました。中でどんな仕打ちを受けたのかと、私は思わず叫び声を上げそうになりました。顔は艶もなく皺だらけで、ドクターGGと同じ60歳に見えました。僅か4年間で、人はこんなにも変わってしまうものなのか!と不思議な感じがしました。
「ご無沙汰してます。」
「やあ……どうして君は……そんなに……びっくりした……顔をして……?」
と、ギチンガ医師は弱々しく私に聞いてきました。
「私は……ハネムーンに……行って来たわけじゃ……ないからね……家まで……送ってくれ。」
かつては自信に満ちあふれていたケニア中央病院の医者が今はびくびくしてためらいがちな老人になっている姿を見ながら、吃音が一段とひどくなってしまったな、と思いました。
「ご自宅はどこですか?」と、私は尋ねました。
「ラビングトン……だよ……カワングレ……の……隣……。」
私はギチンガ医師について殆んど何も知らなのに気が付きました。ほぼ四年間もその人の下で働いていたにも関わらず、私は奥さんにも、話を聞いていた四人の子供にも会ってはいませんでしたし、家庭についても友人や知り合いについても知りませんでした。知っているのは、人生にひどく不満げでケニア中央病院はすべて駄目だと考えていることぐらいでした。
刑務所での体験を話し始めたとき、私は車を出しました。刑務所では大工仕事を習ったらしく、木材や平削りや釘打ち、それにほぞの継ぎ合わせにも詳しくなったよ、と言いました。獄中にいた4年の間は医学から遠ざかっていましたから、医療の情報も全く昔のままでした。服役中に地元の薬局に行って掃除をされて、鬱病になってしまいました。優れた外科医から清掃員になった環境の急激な変化が原因だったようです。まともな病院で2、3ヶ月も働けばすぐに元に戻るさ、とドクターGGは慰めました。しかし、ギチンガ医師はケニア中央病院にはもう関わらないでしょう。専門医を採るプリンスクワン病院かナイロビ病院はどうかと薦めました。

ナイロビ病院

市街地に入ると、ギチンガ医師はウェストランヅを抜けてラビントンに入り、そのあとコンバート通りからオースティン通りに行ってくれと言いました。当時に比べて新しく建物がたくさん建っていましたが、実習期間にラビントンで家庭医の実習がありましたから、この辺りはよく知っていました。

「コンバート通りとロヤンガラニ通りの交差点に家があるよ。」
と、ギチンガ医師が言いました。「聞いたところでは、妻が離婚の準備を進めていて、家の所有権は既に取ったそうだよ。」と嘆きました。
「どうして君の家の権利を奥さんが取れるのかね?」と、ドクターGGが聞きました。
「まあ、よくあることだよ。君のンデル診療所と一緒で、家は妻の名義で登録してあるからね。公務員は個人の診療所を持てないし、不動産も届け出が必要だからね……あぁ、着いたよ。まっすぐ黒い門の所まで行ってくれ。」
私は門まで行ってそこでクラクションを鳴らしました。ラビントンの門の「猛犬注意」や「警備員厳重警戒中」などの威圧的な標識をながめてから、私はもう一度クラクションを大きく鳴らしました。しかし誰も現れませんし応答もありませんでしたので、4人の中で一番年下の私が何かをしないといけないと感じました。私は車から降りて、重そうな鉄の門の所に行きました。開けようとしましたが、頑丈な鉄の鎖と同じように頑丈そうな錠前でしっかりと固定されていました。

「どなたかいませんか?」と、カワルグワレのスラムが見下ろせる家と門の間の500メートルの空間を越えて私の声が届いてくれるように祈りながら私は叫びました。返事はなく、ギチンガ医師はかっとなりました。車のクラクションに手を伸ばしてしつこく鳴らし始めました。平和なラビントンに侵入するならず者が誰なのかを確かめるために近所の人が何人か怒った顔で窓から顔を出し始めましたが、効果はありました。
「やっと、お出ましだ。」と、寝巻き姿で10歳くらいの女の子を2人連れた女性が門の方に歩いて来たとき、ギチンガ医師が叫びました。
「サラ、門を開けろ。」と、ギチンガは命令しました。夫の声を聞くと、その女性は仁王立ちになって私たちに悪態をつき始めました。
「言ったでしょ、気違い野郎、ここには一歩も入らせないわよ!帰りなさいよ、この泥棒野郎。」と、その女性は怒鳴ってから、今度は子どもたちに言いました。
「あんたたち、中に入って隠れなさい。この人は人殺しなんだからね。」

今までそんな光景を見たことがありませんでした。ギチンガ医師が車から飛び出し、狂ったように鉄の門をよじ登り、内側に飛び降りようとして、門の上側の尖った鉄釘に串刺しになりそうになったのはその時です。子どもたちはギチンガから離れました。私たちがギチンガを門から引き剥がしたとき、右手がざっくり切れてギチンガは泣き出しました。
「自分の血肉を分けた子どもに怖がられるなんて!サラ、いつかこの両手でお前を殺してやる……。」と、ギチンガは妻に毒づきました。
私たちは野次馬を楽しませてしまったようで、早くこの場から逃げ出した方がいいと思いました。私たちは車に乗り込み、もと来た方に急いで車を走らせました。ギチンガ医師は逆らいましたが、家の問題を整理するより手の治療の方が先ですよと私は言いました。
「パブに行ってくれ。」と、ギチンガ医師は言いました。
「どこのパブです?」と、私は尋ねました。
「リバーロードだったらどこでもいいよ。」
「先ずは診療所に行って手の治療をしましょう。」と、私はきっぱり言いました。

過マンガン塩酸で傷口を消毒してもらい、包帯を巻いてもらったあと、私たちはカジノシネマの隣の無認可バーに行きました。酒が安いのもありますが、マスターがジュークボックスから騒々しい音楽を流さないので年配の男たちが気に入りそうな場所だと知っていました。3回ほど来たことがあって、ドクターGGのような人にはぴったりの店だと思っていました。店の周りでは、小さな商売をする人や市の清掃員たちが部屋を借りて住んでいて、ドクターGGのような年配を相手に昼の商売をして稼ぎの足しにしていました。ギチンガ医師には酒を飲みながらゆっくり午後の時間を過ごすのが必要だろうと感じました。

4人は午後を楽しく過ごし、ギチンガ医師は私たちに心を開いてくれました。夫のすることを何も理解しない妻との結婚生活は相当悲惨だったようです。年をとれば少しは変わってくれると願いながら、ギチンガ医師は20年も耐えてきました。ところが、その女性は男遊びをするようになり、食欲も物欲も底なしで、ギチンガが可愛がっていた末の双子に、父親は悪魔で危険な殺人者だから近づいてはいけないと教えました。兄のカリユキが、こうなると予想して家に行かないようにとギチンガに言ったのですが、ギチンガにはラビントンの家に行って家族に確かめる必要がありました。私は気の毒に思いましたが、外科の腕を使って新しい人生を始められるように手伝う以外に私には出来ることはありませんでした。

ケニア周辺の地図

みんなで酒を飲み続けました。私はホワイトキャップを五本飲んで少し酔った気分になっていました。ドクターGGがギチンガ医師のためにハーフウォッカと呼ばれている酒を注文しましたが、見ると350ミリ入りのボトルでした。ドクターGGはタスカーを飲み、一緒に飲んでいたギチンガ医師の兄も、何か食べながら同じものを飲んでいるようでした。しばらく飲んでいると、若い女が一人仲間に加わり、ギチンガ医師がその女をかなりいやらしい目つきで見ているのに気づきました!ドクターGGは私よりも遥かに雇用主の好みを知っていると見えて、その医者の横に座ってビールをねだるようにと女に勧めました。女がギネスの黒ビールとコーラを注文すると、それぞれのボトルが運ばれてきました。酒宴は続きました。ギチンガ医師がウガンダの出身らしい女性と一緒にいてかなり興奮しているのが分かりました。2人はウガンダの言葉ガンダ語で喋りだしました。遥か昔、マケレレ大学で学んだギチンガ医師は懐かしい日々を思い出していたに違いありません。

ウガンダのマケレレ大学

2人はとても楽しそうで、いつもは退屈そうで、陰気なギチンガ医師もすっかり陽気になり、吃音も殆んど分からないくらいでした。

フローラはこの店の隣の角に住んでいて、自分の家を見に来るようにギチンガ医師を誘いました。私は危険を感じ、薬局に行って急いでコンドームを買ってきましょうかとドクターGGに耳打ちしました。その老人は堪え切れずに突然笑い出しました。
「コンドームには触らないよ。あの人なら抗生剤のカプセルを一握り飲むね。」と、ドクターGGは言いました。
「なあ、邪魔をするのはやめとこう。刑務所あがりの男には、女が友だちからの一番の贈り物だから。」
私は世間知らずで、囚人がどれほどセックスを渇望しているか、性に飢えているために、囚人同士がいかに同性愛者になりやすいかをすっかり忘れていました。店を出てフローラの家に行くギチンガ医師をみんなで冷やかしました。その女性がウガンダ人でしたから、客の物を盗んだり脅したりして評判の悪い土地の女と違って、ギチンガも安心だと誰もが考えました。三時間後にギチンガ医師が戻って来ましたが、生き生きとして楽しそうで、満ち足りたように見えました。

第26章 1984年―謎の病気

ギチンガ医師は市内でも一流の病院の一つプリンスクワン病院に仕事を見つけました。刑務所に引き取りに行った1月後に会ったとき、ギチンガ医師は平静を取り戻した感じで、こざっぱりとして落ち着いていました。妻は家財道具といっしょにキタレの親戚の農場に消えてしまったが、自宅の返還を請求したよとキチンガは私に言いました。妻が農場を持っていられるのもある計画を実行するまでだとも言いましたが、キチンガがどう財産権を確保するかについては教えてくれませんでした。目標を達成するためには色々な方法があると知っていましたので、私はその計画が何であるのかは敢えて聞きませんでした。ギチンガには現金が必要で、5万シリングほどでいつでもリバーロード診療所の「権利を放棄する」気持ちがあると言いました。銀行口座に診療所を運営する四万シリングはあるが、それは経営上の経費で個人のものではないと、私はギチンガに言いました。
「そう、まさにその通りだよ。」と、ギチンガはいらついたように言いました。
「私は自分の取り分をもらう、5万シリングにはなると思うがね。君は今まで通り診療所を続ける。」
私は経営はどうも苦手でしたが、診療所を持ち自分の診療所として経営するという考えにはかなり魅力を感じました。
「法的な手続きは全部するんですよね?」と、私は尋ねました。
「もちろんだよ。バークレイ銀行にも知らせておこう。」
バークレイは診療所の金を預けている銀行で、私にこれ以上は資金を求めないで、約束してくれたように経営が維持出来るだけの資金を残してくれる条件で、事情をよく理解しているギチンガ医師に一切の事務処理を任せました。2日後、ギチンガ医師が戻って来て、最初に2万シリングを、そのあと全部で5万シリングになるまで毎月1万ずつを支払うのではどうかと言い出しました。また、診療所が口座を残せば、当面はバークレイも一万シリングの当座貸越を受け入れるということでした。診療所で使っている家具と、手術用や医療用の器具が担保でした。良さそうな条件でしたが、低所得者層への治療が含まれるのを考えると、銀行からの借金と当座借越は少し危ない気もしました。イアン・ブラウンの家での一件があったあとも会い続けていたメアリ・ンデュクは、銀行の当座借越と聞いてひどく興奮した様子でした。
「今度こそ、ジャガーを買いなさいよ。」と、ンデュクは強い口調で言いましたが、私は敢えて答えませんでした。薬の価格が高騰し、必要最低限の薬品も不足して、気が付くと医療界でますます孤立した状態になっていましたので、低料金の医療を諦め始めていました。

キタレ

ギチンガ医師が私に診療所を「売って」から数日後に、私はドクターGGに会い、ギチンガ医師が私に本当のことは言っていないと知らされました。リバーロード診療所もンデル診療所も、ギチンガ医師が刑務所に送られたときに、登録を抹消されていました。したがって、両方の診療所とも法的には違法な施設でした。ギチンガは戻ってすぐに再建しようとしましたが、うまく行かずに売りに出しました。しかし、ドクターGGの説明によれば、違う名前で申し込めば登録が出来ました。私は申し込んで、シゴナ診療所の名前を手に入れ、ドクターGGは私の名前を使って開業の許可証を取ってくれました。リバーロード診療所について言えば、その名称は看板から消え、単に「ジョゼフ・ムングチ医師、医学士、化学士、医学修士、性感染症専門医」と登録されました。

1984年1月に、ほぼ4年間私が勤めた診療所の敷地内にその看板が立てられ、私はとてもいい気分になりました。4年間ここで働き、私は国内でも一流の性感染症の専門家だと信じていました。ケニア中央病院に問い合わせても患者を助ける術がないと判ったライター症の一つの症例を除いて、診断して治療が出来なかった性病はありませんでした。ところが1984年の12月に、診療所で非常に難しい問題が持ち上がりました。最初は、鼠径リンパ肉芽腫の単純な症例だと考えたのですが、2度目に来た時には、単なる性器ヘルペスだと思っていたただれが患者の体じゅうに広がっていました。コンボとだけ名乗った患者はナイロビのあらゆる種類の医療を試し、プリンスクワン病院も、メーターミザリコーディアエ大学病院も試したが駄目だった、と私に言いました。ある友人がジョゼフ・ムングチ医師なら治してくれるだろうと、コンボ氏に私の診療を紹介していました。
「若先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。ここに2万シリングある。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか。」
私は大金を前に断わるつもりでしたが、薬も不足していましたし、梅毒トレポネーマと帯状ヘルペスの最新医療の研究もありましたので、赤い紙幣の厚い束を受け取って、出来るだけのことはやってみますとコンボ氏に約束しました。コンボ氏は帰って行きましたが、今まで私が診てきた梅毒やヘルペスのどの患者よりも遙かに弱々しく見えました。

有名なナイロビの病院が私のことを聞いた上で、難しい患者を私に紹介しているのなら、母親キベティの息子ムングチは、(カンバ人は、気持ちが高ぶった時はいつも、母親誰々の息子と自分を呼ぶ習慣がありました)この国で私が一番であると証明するつもりでした。コンボ氏の症状に効く薬を見つけるまで2晩はケニア中央研究所の図書館に籠もると決めました。薬が手に入らなければ、最近一番人気の配送システムが毎日テレビで宣伝しているように、世界のどこからでも国際宅配郵便(D-H-L)で薬を取り寄せるための2万シリングが私の手許にありました。

最初の日は、何を調べればよいのかの手掛かりもありませんでした。ライター症はコンボ氏の症状とは少し違っていました。次の日、私は「アメリカ医療ジャーナル」の12月号を見つけました。そこには以下のように書かれてありました。

「アメリカ医療ジャーナル」(American journal of Medicine

「現在知られている抗生物質がすべて効かない疱疹が性器に出て、重い皮膚病の症状を示す。病気には下痢、咳、大半のリンパ節の腫れが伴なう。多くの普通の病気と闘う体力が体にはないので、患者は痩せ衰えて、やがては死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと類似しているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性の同性愛者が数人、その病気にかかっている。」

コンボ氏に見られる症状だと私は確信しました。あとは、臨床検査をして診断し、病因を更に調べ、コンボ氏の経歴を確認する必要がありました。私の考えと同じ意見の医者に会えたらと思い「犬の溜まり場」に酒を飲みに行きました。私はケニア中央病院の元同僚で、今は大学にいるネネ医師とムワニュンバ医師を見つけました。新しい性感染症が見つかり、その病気が正体不明のウィルスによって感染するのではないかという私の意見に2人は賛成してくれました。ケニア中央病院でも既に5人が死亡したそうです。1人はフィンランド人で、米国人とザイール人が2二ずつでした。その週に、3人のケニア人が同じ病気で入院していました。その病気は感染力が非常に強く、末期的な症状を見せていました。そのために、男女とも柵をした部屋に入れられて、他の患者と隔離されました。医者も看護師も患者に近寄れないため、ガーゼのカーテン越しに、痛み止めと睡眠剤とカオリンしか患者には出せませんでした。

ミドリザル病の不思議な話を聞くうちに、心臓の鼓動がだんだんと早くなりました。しかし、コンボ氏の謎を解くまでは眠れません。私は店を出て、車でケニア中央病院に行きました。エレベータに乗って患者が柵をした部屋に入れられていると教えられた第22病棟に行き、担当看護師に自分の名前を言いました。私は調べた結果と比較して患者を見てみたいと思いました。目的を説明すると、看護師は3人が眠っているガラス張りの部屋に案内してくれました。私たちを怪訝そうに見つめる哀れな3人を見ながら、私は言いようのない無力さを感じました。そのとき1人の老人の姿が目に入りました―紛れもなく私の患者コンボ氏でした。口から泡を吹き、背を屈め、ひどく苦しそうに繰り返し咳き込んでいました。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていました。老人は私だと気づきませんでしたが、私は柵をした部屋を後にして歩きながら、ひどく後ろめたい感じになっていました。
「さっきご覧になった患者はコンボ元少佐で、ナイロビ廃棄物処理株式会社の清掃最高責任者です。昨日運び込まれましたが、もっても今日一日でしょう。」
と、担当看護師が言いました。何年も前に、肛門性交を強いた市の清掃業者のボスの不満を訴えるためにリバーロード診療所に来たルオ人女性のことを思い出して、私はずっと感じていた後ろめたい気持ちが薄らいでいくような気がしました。私は警察にその重罪を通報しようとしましたが、医師という立場上、届け出を思い留まったのを思い出しました。哀れなコンボ元少佐、神がその男の犠牲となった女性たちに代わって復讐したに違いないと、私は自分なりに理屈をつけました。

あれこれと悩みながら、私はアパートに戻りました。あの体の黒ずみ加減からすると、間違いなくコンボ元少佐は死にかけていました。

元少佐は治療に一番効く薬を買うように私に2万シリングをくれましたが、私はそのような薬は存在しないと言われただけした。感染を恐れてコンボ氏に直接その情報は伝えられませんでしたが、預かった金を返すことは可能でした。私は諦める前に別の医者の意見を聞いてみようと決めました。何か医療で困ったことがあると先ずはドクターGGに相談に行っていましたが、今回はあまりにも最新過ぎてドクターGGの医療知識では信用出来そうにはありませんでした。それでもいつもと同じようにンデルに車で行って私はドクターGGに会いました。

ドクターGGはその病気については、確かに知っていると言いました。「スリム病」と呼ばれ、ウガンダから来ていました。ツリアと呼ばれる場所のキツゥイ出身の霊媒師だけが治療法を知っていると言われました。他にも病気の進行を抑えるのに使われるウガンダのムバレの土もありました。私は霊媒師は信じていませんでしたが、取り敢えずはツリアに行って、窮地で助けとなるかも知れないウカンバニの名高い霊媒師の母親ウボオの息子ンゼキを探すことに決めました。キツゥイには金曜日に発つつもりでしたが、その日は水曜日でしたので、木曜日の午後は米国ではこの病気にどう対応しているのかを更に詳しく調べることが出来ました。最新情報を調べるにはケニア中央研究所(KEMRI)が1番でしたが、何故米国人の同性愛者がサルの病気にかかり、どうしてアフリカ人に感染したかは研究所でも分かりませんでした。KEMRIの研究室に行く途中で、私はもう1度第22病棟に寄りました。患者の数は10人に増えていましたが、前日の夕方に2人、フィンランド人とコンボ元少佐が死んでいました。
「ああなんてことだ……。」
と、私は空を見上げて嘆きました。その患者を死なせるわけにはいかなかったのに。私が薬を手に入れる前に、生涯の蓄えをはたいて死んでしまうとは!私はすっかり気が滅入ってしまいました。

ケニア中央研究所(KEMRI)

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その晩、ユーニス・マンイバがアパートに来て、私が非常に落ち込んでいるのを知りました。私はユーニスに伝染性の病気が発生したのでこの診療所も危なくなったと打ち明けました。患者の1人が一番効く薬を探すように2万シリングを置いて行ったが助ける前に死んでしまったとも言いました。私が親戚を探して金を返すべきだと思うかとユーニスに尋ねました。
「馬鹿正直ね、ジョゼフ。与えられたと思って他の人を助けるのにそのお金を使いなさいよ。」と、ユーニスは言いました。「親戚を探す必要はないし、探したら死んだ人の意志に反するわよ。それより、あなたの助けがいるの。夫も調子が良くないらしいの。ずっと下痢が続いてて収まらないわ。」
「病院に連れて行った方がいいな。」と、私は言いました。
「病院に行くのが怖いのよ。」と、ユーニスは答えました。
「どうして?」
「あなたが言った、コンボさんが死んだという病気のことだけど。」と、ユーニスが言いました。ユーニスが必死に涙をこらえているのが分かりました。
「血液検査が必要だと考える医者に夫が相談したら、どうも夫がその命取りの病気にかかった可能性があると遠回しに言われたらしいの。」
「助けが要るなら、検査を受けるべきだよ。」と、私は念を押して言いました。
「私もそう言ったんだけど、ひどく荒れてるの。『遺産が手に入るように早く死んでほしいんだろう。』、『お前にもお前の若い燕にも一銭も残さないぞ。』って。」と、ユーニスがしくしくと泣き始めました。
「ああ、ムングチ先生、わたしどうすればいいの?」
私はユーニスを何とかして慰めようとしました。前に言っていた肛門性交の問題は、その後何も言ってこないので何とかうまく処理出来たのだろうと考えていましたが、その時、もっと恐ろしい考えがふと頭をかすめました。もしユーニスの夫が肛門性交で感染すると言われるミドリザル病に実際にかかっていたとしたら、ああ、なんてことだ、この新しい伝染病で既にすごい事態になっている可能性もあるわけです。ユーニス・マインバの完璧な健康体がコンボ元少佐のように蝕まれていくのかと思うと体が震えました。
「いや、だめだ!」と、私は大声で叫びました。
「どうかしたの、ジョゼフ?」と、ユーニスが尋ねました。
「何でもないよ、マインバさん。」と、私は取り繕って答えました。どんな手段を使ってでも夫に徹底した検査を受けさせるように夫人に言いました。自分一人だけが危険なのではなく、家族全体が危険でした。私はキツゥイに行って、同じ問題を抱えるユーニスの夫や他の患者を救える可能性のある母親ウボオの息子ンゼキと話をしようと思いました。

私は金曜日の朝早くに車でキツゥイに行き、正午近くにツリアに着きました。霊媒師は非常に有名でしたので、場所は簡単に分かりました。広い敷地で、小屋が九棟ありました。小屋は真ん中にある一つを除いて、すべてが丸くて大きさが同じでした。真ん中にあるのが主な小屋で、手術室・薬局・治療処置室としてその老人が行なうすべての医療行為の役に立っていました。霊媒師に私の事情を説明し、ナイロビまで一緒に来てくれるように頼みました。老人の扱う非常に複雑な病気と薬を結びつけるハーブ、お守り、貝殻、動物の皮、鳥の羽、蛇の牙、頭蓋骨をすべて私に見せてくれました。しかし、老人はどうしてもナイロビには行きたがりませんでした。その人の助けが必要なら、今私がいるツリアの治療室まで患者が来なければなりませんでした。

執筆年

  2011年1月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 30

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(25)