『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(25)
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の25回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
25章 1983年2月
私はアイリーンに、ドクターGGと別の男性と一緒にカミティ刑務所にギチンガ医師を迎えに行くと伝えました。ギルバートの殺人以来、ギチンガ医師のそばで働く気にはなれない、もし以前の持ち主に戻るのなら診療所を辞めたいとアイリーンは言いました。アイリーンはギチンガがギルバートを殺したと今でも信じていましたから、反対しませんでした。ギチンガを正当化する根拠がないのも分かっていましたから、ギチンガの弁護もしたくありませんでした。タンザニアの売春婦のハリマの死を見ていましたから、ギチンガ医師の無実も完全には保証出来ませんでした。
ギチンガ医師の兄だと紹介されたカリユキという名前の男といっしょに、ドクターGGが10時に診療所を訪ねて来ました。ギチンガが服役した4年間以上は刑務所に入れておきたくないので、11時前にはカミティに着きたいと二人は説明しました。私は黙って従い、受付が片付いたら出来るだけ早く診療所を閉め、その日の残り時間は休診にすると受付に説明するようにアイリーンに頼みました。
10時半にカミティの門に着き、釈放されたギチンガ医師を私たちが引き取りに来たと伝えました。門番が電話をすると、ギチンガ医師は既に釈放されて迎えを待っているということでした。刑務所はどうも苦手なので、釈放の手続きなどはドクターGGとギチンガ医師の兄に任せました。2人は私をフォードエスコートの席に残し、釈放室の方に歩いて行きました。
私はギチンガ医師が戻った後のことをあれこれと考えました。2年間診療所を経営してきた後では、誰かに雇われる状態に戻れないのは分かっていました。しかし、性病の患者に安い医療施設を提供するという使命も継続しなければとも考えていました。私一人で、ナイロビのような町から性病をなくすのは無理だと分かっていましたが、患者が払わないといけない費用が、時には薬や診断や診療にかかる額と釣り合わないほど高額でした。それについて私が話をした何人かの医者は私を馬鹿だと考えていました。その人たちが言うように、いわゆる法外な金額を設定したのは医者ではありませんでしたから。普通の人は、公的な診療所や私が経営している偏見のない個人の診療所に行くよりはこっそりと診察を受けたがりました。
ナイロビ市街地
ナイロビの中でも、一般の人が歩かない一流の建物が並ぶ高級住宅街では、金持ちには医療が必要で、そのために必要なら金は幾らでも払いました。そんな風に思いを巡らしているときに、一人の男が車の窓を叩きました。顔を上げるとドクターGGとカリユキ氏が立っており、その横にいたのはどうやらギチンガ医師のようで、すっかり変わってしまっていました。中でどんな仕打ちを受けたのかと、私は思わず叫び声を上げそうになりました。顔は艶もなく皺だらけで、ドクターGGと同じ60歳に見えました。僅か4年間で、人はこんなにも変わってしまうものなのか!と不思議な感じがしました。
「ご無沙汰してます。」
「やあ……どうして君は……そんなに……びっくりした……顔をして……?」
と、ギチンガ医師は弱々しく私に聞いてきました。
「私は……ハネムーンに……行って来たわけじゃ……ないからね……家まで……送ってくれ。」
かつては自信に満ちあふれていたケニア中央病院の医者が今はびくびくしてためらいがちな老人になっている姿を見ながら、吃音が一段とひどくなってしまったな、と思いました。
「ご自宅はどこですか?」と、私は尋ねました。
「ラビングトン……だよ……カワングレ……の……隣……。」
私はギチンガ医師について殆んど何も知らなのに気が付きました。ほぼ四年間もその人の下で働いていたにも関わらず、私は奥さんにも、話を聞いていた四人の子供にも会ってはいませんでしたし、家庭についても友人や知り合いについても知りませんでした。知っているのは、人生にひどく不満げでケニア中央病院はすべて駄目だと考えていることぐらいでした。
刑務所での体験を話し始めたとき、私は車を出しました。刑務所では大工仕事を習ったらしく、木材や平削りや釘打ち、それにほぞの継ぎ合わせにも詳しくなったよ、と言いました。獄中にいた4年の間は医学から遠ざかっていましたから、医療の情報も全く昔のままでした。服役中に地元の薬局に行って掃除をされて、鬱病になってしまいました。優れた外科医から清掃員になった環境の急激な変化が原因だったようです。まともな病院で2、3ヶ月も働けばすぐに元に戻るさ、とドクターGGは慰めました。しかし、ギチンガ医師はケニア中央病院にはもう関わらないでしょう。専門医を採るプリンスクワン病院かナイロビ病院はどうかと薦めました。
ナイロビ病院
市街地に入ると、ギチンガ医師はウェストランヅを抜けてラビントンに入り、そのあとコンバート通りからオースティン通りに行ってくれと言いました。当時に比べて新しく建物がたくさん建っていましたが、実習期間にラビントンで家庭医の実習がありましたから、この辺りはよく知っていました。
「コンバート通りとロヤンガラニ通りの交差点に家があるよ。」
と、ギチンガ医師が言いました。「聞いたところでは、妻が離婚の準備を進めていて、家の所有権は既に取ったそうだよ。」と嘆きました。
「どうして君の家の権利を奥さんが取れるのかね?」と、ドクターGGが聞きました。
「まあ、よくあることだよ。君のンデル診療所と一緒で、家は妻の名義で登録してあるからね。公務員は個人の診療所を持てないし、不動産も届け出が必要だからね……あぁ、着いたよ。まっすぐ黒い門の所まで行ってくれ。」
私は門まで行ってそこでクラクションを鳴らしました。ラビントンの門の「猛犬注意」や「警備員厳重警戒中」などの威圧的な標識をながめてから、私はもう一度クラクションを大きく鳴らしました。しかし誰も現れませんし応答もありませんでしたので、4人の中で一番年下の私が何かをしないといけないと感じました。私は車から降りて、重そうな鉄の門の所に行きました。開けようとしましたが、頑丈な鉄の鎖と同じように頑丈そうな錠前でしっかりと固定されていました。
「どなたかいませんか?」と、カワルグワレのスラムが見下ろせる家と門の間の500メートルの空間を越えて私の声が届いてくれるように祈りながら私は叫びました。返事はなく、ギチンガ医師はかっとなりました。車のクラクションに手を伸ばしてしつこく鳴らし始めました。平和なラビントンに侵入するならず者が誰なのかを確かめるために近所の人が何人か怒った顔で窓から顔を出し始めましたが、効果はありました。
「やっと、お出ましだ。」と、寝巻き姿で10歳くらいの女の子を2人連れた女性が門の方に歩いて来たとき、ギチンガ医師が叫びました。
「サラ、門を開けろ。」と、ギチンガは命令しました。夫の声を聞くと、その女性は仁王立ちになって私たちに悪態をつき始めました。
「言ったでしょ、気違い野郎、ここには一歩も入らせないわよ!帰りなさいよ、この泥棒野郎。」と、その女性は怒鳴ってから、今度は子どもたちに言いました。
「あんたたち、中に入って隠れなさい。この人は人殺しなんだからね。」
今までそんな光景を見たことがありませんでした。ギチンガ医師が車から飛び出し、狂ったように鉄の門をよじ登り、内側に飛び降りようとして、門の上側の尖った鉄釘に串刺しになりそうになったのはその時です。子どもたちはギチンガから離れました。私たちがギチンガを門から引き剥がしたとき、右手がざっくり切れてギチンガは泣き出しました。
「自分の血肉を分けた子どもに怖がられるなんて!サラ、いつかこの両手でお前を殺してやる……。」と、ギチンガは妻に毒づきました。
私たちは野次馬を楽しませてしまったようで、早くこの場から逃げ出した方がいいと思いました。私たちは車に乗り込み、もと来た方に急いで車を走らせました。ギチンガ医師は逆らいましたが、家の問題を整理するより手の治療の方が先ですよと私は言いました。
「パブに行ってくれ。」と、ギチンガ医師は言いました。
「どこのパブです?」と、私は尋ねました。
「リバーロードだったらどこでもいいよ。」
「先ずは診療所に行って手の治療をしましょう。」と、私はきっぱり言いました。
過マンガン塩酸で傷口を消毒してもらい、包帯を巻いてもらったあと、私たちはカジノシネマの隣の無認可バーに行きました。酒が安いのもありますが、マスターがジュークボックスから騒々しい音楽を流さないので年配の男たちが気に入りそうな場所だと知っていました。3回ほど来たことがあって、ドクターGGのような人にはぴったりの店だと思っていました。店の周りでは、小さな商売をする人や市の清掃員たちが部屋を借りて住んでいて、ドクターGGのような年配を相手に昼の商売をして稼ぎの足しにしていました。ギチンガ医師には酒を飲みながらゆっくり午後の時間を過ごすのが必要だろうと感じました。
4人は午後を楽しく過ごし、ギチンガ医師は私たちに心を開いてくれました。夫のすることを何も理解しない妻との結婚生活は相当悲惨だったようです。年をとれば少しは変わってくれると願いながら、ギチンガ医師は20年も耐えてきました。ところが、その女性は男遊びをするようになり、食欲も物欲も底なしで、ギチンガが可愛がっていた末の双子に、父親は悪魔で危険な殺人者だから近づいてはいけないと教えました。兄のカリユキが、こうなると予想して家に行かないようにとギチンガに言ったのですが、ギチンガにはラビントンの家に行って家族に確かめる必要がありました。私は気の毒に思いましたが、外科の腕を使って新しい人生を始められるように手伝う以外に私には出来ることはありませんでした。
ケニア周辺の地図
みんなで酒を飲み続けました。私はホワイトキャップを五本飲んで少し酔った気分になっていました。ドクターGGがギチンガ医師のためにハーフウォッカと呼ばれている酒を注文しましたが、見ると350ミリ入りのボトルでした。ドクターGGはタスカーを飲み、一緒に飲んでいたギチンガ医師の兄も、何か食べながら同じものを飲んでいるようでした。しばらく飲んでいると、若い女が一人仲間に加わり、ギチンガ医師がその女をかなりいやらしい目つきで見ているのに気づきました!ドクターGGは私よりも遥かに雇用主の好みを知っていると見えて、その医者の横に座ってビールをねだるようにと女に勧めました。女がギネスの黒ビールとコーラを注文すると、それぞれのボトルが運ばれてきました。酒宴は続きました。ギチンガ医師がウガンダの出身らしい女性と一緒にいてかなり興奮しているのが分かりました。2人はウガンダの言葉ガンダ語で喋りだしました。遥か昔、マケレレ大学で学んだギチンガ医師は懐かしい日々を思い出していたに違いありません。
ウガンダのマケレレ大学
2人はとても楽しそうで、いつもは退屈そうで、陰気なギチンガ医師もすっかり陽気になり、吃音も殆んど分からないくらいでした。
フローラはこの店の隣の角に住んでいて、自分の家を見に来るようにギチンガ医師を誘いました。私は危険を感じ、薬局に行って急いでコンドームを買ってきましょうかとドクターGGに耳打ちしました。その老人は堪え切れずに突然笑い出しました。
「コンドームには触らないよ。あの人なら抗生剤のカプセルを一握り飲むね。」と、ドクターGGは言いました。
「なあ、邪魔をするのはやめとこう。刑務所あがりの男には、女が友だちからの一番の贈り物だから。」
私は世間知らずで、囚人がどれほどセックスを渇望しているか、性に飢えているために、囚人同士がいかに同性愛者になりやすいかをすっかり忘れていました。店を出てフローラの家に行くギチンガ医師をみんなで冷やかしました。その女性がウガンダ人でしたから、客の物を盗んだり脅したりして評判の悪い土地の女と違って、ギチンガも安心だと誰もが考えました。三時間後にギチンガ医師が戻って来ましたが、生き生きとして楽しそうで、満ち足りたように見えました。
第26章 1984年―謎の病気
ギチンガ医師は市内でも一流の病院の一つプリンスクワン病院に仕事を見つけました。刑務所に引き取りに行った1月後に会ったとき、ギチンガ医師は平静を取り戻した感じで、こざっぱりとして落ち着いていました。妻は家財道具といっしょにキタレの親戚の農場に消えてしまったが、自宅の返還を請求したよとキチンガは私に言いました。妻が農場を持っていられるのもある計画を実行するまでだとも言いましたが、キチンガがどう財産権を確保するかについては教えてくれませんでした。目標を達成するためには色々な方法があると知っていましたので、私はその計画が何であるのかは敢えて聞きませんでした。ギチンガには現金が必要で、5万シリングほどでいつでもリバーロード診療所の「権利を放棄する」気持ちがあると言いました。銀行口座に診療所を運営する四万シリングはあるが、それは経営上の経費で個人のものではないと、私はギチンガに言いました。
「そう、まさにその通りだよ。」と、ギチンガはいらついたように言いました。
「私は自分の取り分をもらう、5万シリングにはなると思うがね。君は今まで通り診療所を続ける。」
私は経営はどうも苦手でしたが、診療所を持ち自分の診療所として経営するという考えにはかなり魅力を感じました。
「法的な手続きは全部するんですよね?」と、私は尋ねました。
「もちろんだよ。バークレイ銀行にも知らせておこう。」
バークレイは診療所の金を預けている銀行で、私にこれ以上は資金を求めないで、約束してくれたように経営が維持出来るだけの資金を残してくれる条件で、事情をよく理解しているギチンガ医師に一切の事務処理を任せました。2日後、ギチンガ医師が戻って来て、最初に2万シリングを、そのあと全部で5万シリングになるまで毎月1万ずつを支払うのではどうかと言い出しました。また、診療所が口座を残せば、当面はバークレイも一万シリングの当座貸越を受け入れるということでした。診療所で使っている家具と、手術用や医療用の器具が担保でした。良さそうな条件でしたが、低所得者層への治療が含まれるのを考えると、銀行からの借金と当座借越は少し危ない気もしました。イアン・ブラウンの家での一件があったあとも会い続けていたメアリ・ンデュクは、銀行の当座借越と聞いてひどく興奮した様子でした。
「今度こそ、ジャガーを買いなさいよ。」と、ンデュクは強い口調で言いましたが、私は敢えて答えませんでした。薬の価格が高騰し、必要最低限の薬品も不足して、気が付くと医療界でますます孤立した状態になっていましたので、低料金の医療を諦め始めていました。
キタレ
ギチンガ医師が私に診療所を「売って」から数日後に、私はドクターGGに会い、ギチンガ医師が私に本当のことは言っていないと知らされました。リバーロード診療所もンデル診療所も、ギチンガ医師が刑務所に送られたときに、登録を抹消されていました。したがって、両方の診療所とも法的には違法な施設でした。ギチンガは戻ってすぐに再建しようとしましたが、うまく行かずに売りに出しました。しかし、ドクターGGの説明によれば、違う名前で申し込めば登録が出来ました。私は申し込んで、シゴナ診療所の名前を手に入れ、ドクターGGは私の名前を使って開業の許可証を取ってくれました。リバーロード診療所について言えば、その名称は看板から消え、単に「ジョゼフ・ムングチ医師、医学士、化学士、医学修士、性感染症専門医」と登録されました。
1984年1月に、ほぼ4年間私が勤めた診療所の敷地内にその看板が立てられ、私はとてもいい気分になりました。4年間ここで働き、私は国内でも一流の性感染症の専門家だと信じていました。ケニア中央病院に問い合わせても患者を助ける術がないと判ったライター症の一つの症例を除いて、診断して治療が出来なかった性病はありませんでした。ところが1984年の12月に、診療所で非常に難しい問題が持ち上がりました。最初は、鼠径リンパ肉芽腫の単純な症例だと考えたのですが、2度目に来た時には、単なる性器ヘルペスだと思っていたただれが患者の体じゅうに広がっていました。コンボとだけ名乗った患者はナイロビのあらゆる種類の医療を試し、プリンスクワン病院も、メーターミザリコーディアエ大学病院も試したが駄目だった、と私に言いました。ある友人がジョゼフ・ムングチ医師なら治してくれるだろうと、コンボ氏に私の診療を紹介していました。
「若先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。ここに2万シリングある。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか。」
私は大金を前に断わるつもりでしたが、薬も不足していましたし、梅毒トレポネーマと帯状ヘルペスの最新医療の研究もありましたので、赤い紙幣の厚い束を受け取って、出来るだけのことはやってみますとコンボ氏に約束しました。コンボ氏は帰って行きましたが、今まで私が診てきた梅毒やヘルペスのどの患者よりも遙かに弱々しく見えました。
有名なナイロビの病院が私のことを聞いた上で、難しい患者を私に紹介しているのなら、母親キベティの息子ムングチは、(カンバ人は、気持ちが高ぶった時はいつも、母親誰々の息子と自分を呼ぶ習慣がありました)この国で私が一番であると証明するつもりでした。コンボ氏の症状に効く薬を見つけるまで2晩はケニア中央研究所の図書館に籠もると決めました。薬が手に入らなければ、最近一番人気の配送システムが毎日テレビで宣伝しているように、世界のどこからでも国際宅配郵便(D-H-L)で薬を取り寄せるための2万シリングが私の手許にありました。
最初の日は、何を調べればよいのかの手掛かりもありませんでした。ライター症はコンボ氏の症状とは少し違っていました。次の日、私は「アメリカ医療ジャーナル」の12月号を見つけました。そこには以下のように書かれてありました。
「アメリカ医療ジャーナル」(American journal of Medicine)
「現在知られている抗生物質がすべて効かない疱疹が性器に出て、重い皮膚病の症状を示す。病気には下痢、咳、大半のリンパ節の腫れが伴なう。多くの普通の病気と闘う体力が体にはないので、患者は痩せ衰えて、やがては死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと類似しているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性の同性愛者が数人、その病気にかかっている。」
コンボ氏に見られる症状だと私は確信しました。あとは、臨床検査をして診断し、病因を更に調べ、コンボ氏の経歴を確認する必要がありました。私の考えと同じ意見の医者に会えたらと思い「犬の溜まり場」に酒を飲みに行きました。私はケニア中央病院の元同僚で、今は大学にいるネネ医師とムワニュンバ医師を見つけました。新しい性感染症が見つかり、その病気が正体不明のウィルスによって感染するのではないかという私の意見に2人は賛成してくれました。ケニア中央病院でも既に5人が死亡したそうです。1人はフィンランド人で、米国人とザイール人が2二ずつでした。その週に、3人のケニア人が同じ病気で入院していました。その病気は感染力が非常に強く、末期的な症状を見せていました。そのために、男女とも柵をした部屋に入れられて、他の患者と隔離されました。医者も看護師も患者に近寄れないため、ガーゼのカーテン越しに、痛み止めと睡眠剤とカオリンしか患者には出せませんでした。
ミドリザル病の不思議な話を聞くうちに、心臓の鼓動がだんだんと早くなりました。しかし、コンボ氏の謎を解くまでは眠れません。私は店を出て、車でケニア中央病院に行きました。エレベータに乗って患者が柵をした部屋に入れられていると教えられた第22病棟に行き、担当看護師に自分の名前を言いました。私は調べた結果と比較して患者を見てみたいと思いました。目的を説明すると、看護師は3人が眠っているガラス張りの部屋に案内してくれました。私たちを怪訝そうに見つめる哀れな3人を見ながら、私は言いようのない無力さを感じました。そのとき1人の老人の姿が目に入りました―紛れもなく私の患者コンボ氏でした。口から泡を吹き、背を屈め、ひどく苦しそうに繰り返し咳き込んでいました。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていました。老人は私だと気づきませんでしたが、私は柵をした部屋を後にして歩きながら、ひどく後ろめたい感じになっていました。
「さっきご覧になった患者はコンボ元少佐で、ナイロビ廃棄物処理株式会社の清掃最高責任者です。昨日運び込まれましたが、もっても今日一日でしょう。」
と、担当看護師が言いました。何年も前に、肛門性交を強いた市の清掃業者のボスの不満を訴えるためにリバーロード診療所に来たルオ人女性のことを思い出して、私はずっと感じていた後ろめたい気持ちが薄らいでいくような気がしました。私は警察にその重罪を通報しようとしましたが、医師という立場上、届け出を思い留まったのを思い出しました。哀れなコンボ元少佐、神がその男の犠牲となった女性たちに代わって復讐したに違いないと、私は自分なりに理屈をつけました。
あれこれと悩みながら、私はアパートに戻りました。あの体の黒ずみ加減からすると、間違いなくコンボ元少佐は死にかけていました。
元少佐は治療に一番効く薬を買うように私に2万シリングをくれましたが、私はそのような薬は存在しないと言われただけした。感染を恐れてコンボ氏に直接その情報は伝えられませんでしたが、預かった金を返すことは可能でした。私は諦める前に別の医者の意見を聞いてみようと決めました。何か医療で困ったことがあると先ずはドクターGGに相談に行っていましたが、今回はあまりにも最新過ぎてドクターGGの医療知識では信用出来そうにはありませんでした。それでもいつもと同じようにンデルに車で行って私はドクターGGに会いました。
ドクターGGはその病気については、確かに知っていると言いました。「スリム病」と呼ばれ、ウガンダから来ていました。ツリアと呼ばれる場所のキツゥイ出身の霊媒師だけが治療法を知っていると言われました。他にも病気の進行を抑えるのに使われるウガンダのムバレの土もありました。私は霊媒師は信じていませんでしたが、取り敢えずはツリアに行って、窮地で助けとなるかも知れないウカンバニの名高い霊媒師の母親ウボオの息子ンゼキを探すことに決めました。キツゥイには金曜日に発つつもりでしたが、その日は水曜日でしたので、木曜日の午後は米国ではこの病気にどう対応しているのかを更に詳しく調べることが出来ました。最新情報を調べるにはケニア中央研究所(KEMRI)が1番でしたが、何故米国人の同性愛者がサルの病気にかかり、どうしてアフリカ人に感染したかは研究所でも分かりませんでした。KEMRIの研究室に行く途中で、私はもう1度第22病棟に寄りました。患者の数は10人に増えていましたが、前日の夕方に2人、フィンランド人とコンボ元少佐が死んでいました。
「ああなんてことだ……。」
と、私は空を見上げて嘆きました。その患者を死なせるわけにはいかなかったのに。私が薬を手に入れる前に、生涯の蓄えをはたいて死んでしまうとは!私はすっかり気が滅入ってしまいました。
ケニア中央研究所(KEMRI)
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その晩、ユーニス・マンイバがアパートに来て、私が非常に落ち込んでいるのを知りました。私はユーニスに伝染性の病気が発生したのでこの診療所も危なくなったと打ち明けました。患者の1人が一番効く薬を探すように2万シリングを置いて行ったが助ける前に死んでしまったとも言いました。私が親戚を探して金を返すべきだと思うかとユーニスに尋ねました。
「馬鹿正直ね、ジョゼフ。与えられたと思って他の人を助けるのにそのお金を使いなさいよ。」と、ユーニスは言いました。「親戚を探す必要はないし、探したら死んだ人の意志に反するわよ。それより、あなたの助けがいるの。夫も調子が良くないらしいの。ずっと下痢が続いてて収まらないわ。」
「病院に連れて行った方がいいな。」と、私は言いました。
「病院に行くのが怖いのよ。」と、ユーニスは答えました。
「どうして?」
「あなたが言った、コンボさんが死んだという病気のことだけど。」と、ユーニスが言いました。ユーニスが必死に涙をこらえているのが分かりました。
「血液検査が必要だと考える医者に夫が相談したら、どうも夫がその命取りの病気にかかった可能性があると遠回しに言われたらしいの。」
「助けが要るなら、検査を受けるべきだよ。」と、私は念を押して言いました。
「私もそう言ったんだけど、ひどく荒れてるの。『遺産が手に入るように早く死んでほしいんだろう。』、『お前にもお前の若い燕にも一銭も残さないぞ。』って。」と、ユーニスがしくしくと泣き始めました。
「ああ、ムングチ先生、わたしどうすればいいの?」
私はユーニスを何とかして慰めようとしました。前に言っていた肛門性交の問題は、その後何も言ってこないので何とかうまく処理出来たのだろうと考えていましたが、その時、もっと恐ろしい考えがふと頭をかすめました。もしユーニスの夫が肛門性交で感染すると言われるミドリザル病に実際にかかっていたとしたら、ああ、なんてことだ、この新しい伝染病で既にすごい事態になっている可能性もあるわけです。ユーニス・マインバの完璧な健康体がコンボ元少佐のように蝕まれていくのかと思うと体が震えました。
「いや、だめだ!」と、私は大声で叫びました。
「どうかしたの、ジョゼフ?」と、ユーニスが尋ねました。
「何でもないよ、マインバさん。」と、私は取り繕って答えました。どんな手段を使ってでも夫に徹底した検査を受けさせるように夫人に言いました。自分一人だけが危険なのではなく、家族全体が危険でした。私はキツゥイに行って、同じ問題を抱えるユーニスの夫や他の患者を救える可能性のある母親ウボオの息子ンゼキと話をしようと思いました。
私は金曜日の朝早くに車でキツゥイに行き、正午近くにツリアに着きました。霊媒師は非常に有名でしたので、場所は簡単に分かりました。広い敷地で、小屋が九棟ありました。小屋は真ん中にある一つを除いて、すべてが丸くて大きさが同じでした。真ん中にあるのが主な小屋で、手術室・薬局・治療処置室としてその老人が行なうすべての医療行為の役に立っていました。霊媒師に私の事情を説明し、ナイロビまで一緒に来てくれるように頼みました。老人の扱う非常に複雑な病気と薬を結びつけるハーブ、お守り、貝殻、動物の皮、鳥の羽、蛇の牙、頭蓋骨をすべて私に見せてくれました。しかし、老人はどうしてもナイロビには行きたがりませんでした。その人の助けが必要なら、今私がいるツリアの治療室まで患者が来なければなりませんでした。
執筆年
2011年1月10日