『ナイスピープル』理解4:1981年―エイズ患者が出始めた頃2 不安の矛先が向けられた先

2020年3月5日2000~09年の執筆物ケニア,医療

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の4回目で、1981年―エイズ患者が出始めた頃(2)不安の矛先が向けられた先です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

本文

1981年―エイズ患者が出始めた頃(2)不安の矛先が向けられた先

 前回はエイズ患者が出始めた1980年初頭の状況を紹介しましたが、今回は政治や行政の対応の遅れや混乱によって被害を受けた人たちについて書きたいと思います。

男性同性愛者と麻薬常用者

未知の病に対して政治や行政が充分な対応を出来なかったこともあって事態は混乱の度を増して行きますが、その混乱によって助長された不安の矛先は社会的弱者に向けられました。サンフランシスコでエイズ患者の治療に当たっていたポール・ボイルバーディング医師と、政治家の偏見と闘った米保健福祉省エドワード・ブラント次官補は当時の政治状況について次のように述懐しています。

医師:「エイズは患者に激しい苦痛を与えます。それだけでなく特定の人たちがこの病気に罹りやすかったため、社会的な差別もつきまといました。当時この病気の患者はほとんどが男性の同性愛者と麻薬常用者でした。政治家にとって喜んで援助を与えたいと思う人たちではなかったのです。特に当時は保守政権だったので尚更でした。」

次官補:「・・・対策について議論を始めると大きな論争になりました。性に関する論争は往々にしてこうなるのですが、つまり男性同性愛者が自分で蒔いた種なのに何故国民の税金で助けなければならないのかというわけです。当時はまだ大部分の人たちが男性同性愛者と麻薬常用者の病気であると信じていました。」(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代<4回シリーズ>(2)広がる差別」)

最初に標的にされたのは男性同性愛者でした。患者が大都市に集中し、その大半が活動的な男性同性愛者だったからです。米国疾病予防センター(CDC)も男性同性愛者の生活様式に原因があると考えていました。寛容が美徳と言われるほど自由な雰囲気で知られるサンフランシスコ市当局でさえ、男性同性愛者の溜まり場である娯楽施設バスハウスを一方的に閉鎖しました。強硬な抵抗にあって、二ヶ月後には営業が再開されていますが、マスコミはエイズを同性愛者免疫不全症と呼び、エイズが男性同性愛者の病気だという誤解が更に広がりました。

男性同性愛者の中には、麻薬常用者もいました。ヘロインやコカインを常用する人は特定の場所で注射器と針を借り、日に何回か注射をして打ち終わったら返却、注射器と針はそのまま次の人に貸し出されていました。ニューヨークブロンクス地区で治療に当たっていたジェラルド・フリーランド医師が指摘するように「血液感染の病気を拡大させるのにこれほどうってつけのシステムはなかった」(「エイズの時代―(1)未知のウィルスとの闘い」)わけです。注射器と針の回し打ちも、ニューヨークなど大都市の麻薬常用者の間でエイズが爆発的に広まる原因の一つになりました。注射器と針の貸し出しが危険であるという噂が流れると、麻薬依存症患者の通う病院には怯えた人たちが殺到しました。感染によってたくさんの人が行き場を失ない、社会の不安はますます拡大して行きます。

麻薬常用者

血友病患者 血友病患者にも被害が及びました。

1981年の暮れに診察を受けた赤ん坊の患者は大量の輸血を受けており、輸血を受ける人は誰でもHIVに感染する可能性が出てきました。その感染因子が輸血用の血液に入り込めば大きなパニックが起こることが予測されました。血友病の患者が治療に使用する血液製剤は、何千人もの提供者からの献血や売血で集めた血漿を材料に作られていたからです。しかも、血液を提供しているのは生活のために500ccの血を10ドルで売る貧しい人たちで、その中には注射で麻薬を打っているエイズ感染の危険性の高い人たちもいました。男性同性愛者も献血の対象から外されませんでした。予測された危惧は現実となり、血友病治療に用いられる血液製剤のほとんどすべてが汚染されてしまい、多くの血友病患者がHIVに感染してしまったのです。

事態を重くみたCDCは血液銀行の経営陣、同性愛者の代表、公衆衛生関係の役人を集めて迅速な対応を求めましたが、予測に反して、時期尚早であると反対に遭いました。血液銀行がウィルス検査に膨大な費用がかかることを懸念したうえ、献血者の選別に反対していた人たちを敵に回したくないと判断したからです。適切な対策が取られるまでに、それから二年の歳月が必要でした。3万5000人を超すアメリカ人が汚染された血液や血液製剤でHIVに感染しました。テネシー州ではHIVに感染した血友病患者の少年が子供たちの保護者によって学校から追い出されたり、フロリダ州ではHIVに感染した血友病患者の兄弟が住む家が焼かれるなど、各地で多くの排斥事件が起きました。

ハイチ人社会 フロリダからCDCに症例報告のあったハイチ人も被害を受けました。ハイチでは1970年代後半から1980年代にかけて、若者の間で原因不明の病気が急増していました。コンゴからHIVに感染したことを知らずに帰国した人たちが感染を広げていたようで、フロリダで最初のエイズ患者の治療に当たったマーガレット・フィッシュル医師は感染経路の調査結果を「ハイチに休暇を過ごしに来る男性同性愛者がいました。アフリカに行くハイチ人もいました。麻薬も使用されていました。ウィルス感染経路について言えば、ハイチ人もアメリカ人もまったくと同じであるということが確認出来ました。」と述べています。

ハイチ

1960年にコンゴが独立した時、独立過程を混乱させて政治介入を狙うベルギー政府は高級官吏8000千人を引き上げました。そのとき招かれたフランス語を話せるハイチ人が、アメリカの傀儡として独裁政権の座に居座っていたモブツの圧政に耐えかねて1970年代の半ばに大量に国外に去っていますが、その時期にハイチに戻った人たちが感染の原因になっていたのです。ハイチでは三年余りの間に、あらゆる層に病気が蔓延しました。その頃、貧困を逃れるためにたくさんのハイチ人が国を離れていますが、フィッシュル医師が診断したのはその頃ボートピープルとしてフロリダに流れ着いた患者だったというわけです。

CDCは医療機関に対してハイチからの移住者に注意せよという警告を出し、マスコミもCDCの警告を報道して影響は拡大しました。ハイチ人社会全体が非常に憤慨しましたが、ハイチの観光産業は打撃を受けました。アメリカではハイチの製品が売れなくなり、アメリカに住むハイチ人にも被害が及びました。

しかし、その間に、エイズは既に世界的な流行の域に達してしまっていたのです。

次回は、すでに広がりを見せていたアフリカの状況を紹介したいと思います。

執筆年

  2009年7月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.12

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(4)1981年―エイズ患者が出始めた頃(2) 不安の矛先が向けられた先