『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(9)第10章 ンデル警察署

2020年3月9日2000~09年の執筆物ケニア,医療

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の9回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(9)第10章 ンデル警察署

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第10章 ンデル警察署

 この10年間、私はンデルが近代都市に変わっていくのを見てきました。1974年には、各マーケットの施設は2倍の規模になっていました。店舗、バー、肉屋、食料倉庫、仕立て屋、靴屋、野菜売りの露店、飲み屋、飲み物を売る露店、カトリック教会に、プロテスタント教会。炭屋2軒、正規バス2台と監査役が2人。
10年で町は全て10倍になり、救世軍、独立教会、アコリノ教会、マジナ教会、正統派教会もありました。長老教会、レジオ・マリア教会、ケニア地方教会とンデルにはあらゆる宗派が揃っていました。飲み屋は姿を消していましたが、代わりに、ンデルのあちこちにビヤホールが10軒と、洋服仕立て屋が数件、持ち帰り専門の食べもの店が2軒、あらゆる鉄製品を作っている鉄鋼圧延工場、ナイロビとンデルを往復する数本のバスがあり、町には警察署もありました。

東アフリカコミュニティー研究所はケニア農業研究所に名前を改め、たくさんのケニア人に白衣を着せてンデルの町をうろつかせていました。国じゅうから集まる男性の求職者に、独身の女性がバーのホステスや露店の物売りや男を誘惑する仕事に就いてンデルの地域社会に加わりました。以前の飲み屋は貸し部屋に変わり、2軒のバーは安宿と休憩所に変わりました。
オンディリ川を見下ろせる北側は開発されて、マジェンゴになりました。その名前は、泥と段ボールと木切れで作られた間に合わせの家が並び建つ土地にケニア人がつけたもので、古くて新しいケニアの町の特徴をうまく言い当てていました。
ンデル警察署は、あらゆる業種の男女が住むこのンデル地区マジェンゴに引っ掻き回されていました。客引き、男娼、酒の密売人、そして、成り行きが怪しくなるとナイロビから出て、月初めの週には戻って来るナイロビの売春宿をやる連中などがいました。よく知られる渡り鳥のように正確に、国内外を往来するこの行為を、警察もンデルの市民も私たちの診療所の人間もよく知っていました。

ンデルの人々が短かくドクターGGと呼んでいたギチュア・ギケレと知り合ってから1年が経っていました。ンデルの町は、一ヶ月の変成周期を鐘を鳴らしてドクターGGに教えていました。毎月28日からはエンジンが全開で、大きく口笛を吹きながら仕事に取り組み、身だしなみは語り草の蝶ネクタイに申し分ないほど清潔なものでした。しかし、それも毎月10日までのことで、11日から19日までは、かなりの酒を飲んで真剣味に欠け、始終ふざけて人を笑わせるお調子者になってしまう傾向がありました。20日から27日の間は、諦めてンデル診療所を何とか開けるのですが、4時間だけで、それも怠け気味で、訪ねて行っても誰もいないことがよくありました。
この周期にも、ドクターGGは大抵は、10年間通い続けて付けの効くママ・ンジェリというバーでかなりの酒を飲みました。いつものように20日から27日の周期内のある日、前後不覚で麻薬検査官に見つかって起こされた時、ドクターGGはぎこちなく注射器を触り始めました。面食らっている検査官の1人にもう少しで注射をしそうになったその時、スティーヴ・マランガに睨まれて、ドクターGGは正気に戻りました。

「先生、私は病気じゃありませんよ。ケニア中央病院の麻薬検査官ですよ。」と、ムランガが叫ぶと、ドクターGGは固まってしまいました。

現在の警察署は、1973年のケニア独立10周年記念の際に全面的に格上げされました。マウマウを取り締まる場として1953年に開設されてから20年以上の間、ギクユ人対策の拠点になったままでした。格上げされたその1年間に、警察署が本来備えている施設は殆んど揃いました。一つの建物の中に、出頭課、カムンディア警部補の部屋、取り調べ室、交通課、拘置部屋、トイレ室の6つの部屋がありました。

裏手は中庭になっていて、死者が出た車と出なかった車の二手に分けて、事故車が積み上げられていました。本庁舎の前は公用車の駐車場になっており、大量検挙と容疑者の護送専用に使うバンタイプのブラック・マリアが1台停まっていました。2500坪ほどの敷地の残りの土地には、警察官が住むトタン板製のドーム型の建物と、警部補用の寝室が2つあるモダンな家が2棟建っていました。ポール・ウェケサ警部補は、ンデルでは犯罪課の責任者で、身長が186センチほどありました。現在38歳で、ケニア警察に所属して15年です。高校卒業後、3次まで行なわれた試験に合格し、ニエリにあるキガンジョで半年の訓練を受けてから警察に入ったのです。ウェケサは「全体の奉仕者」が何を意味するかを学び、職務に忠誠を尽くしていました。

ニエリ珈琲農園で

ンデルを訪ね始めてから1年経ったころ、私はギクユのバーで初めてポール・ウェケサに会いました。ドクターGGが、一杯飲ろうとギクユのバーに私を連れてきたとき、髭をきれいに剃った背の高く浅黒い男が入ってきて、ドクターGGにスワヒリ語で呼びかけて挨拶をしたのです。明るい目の色をしたウェケサは、控えめに微笑みました。しかし、誰の目にも誠実さが見て取れるような雰囲気が漂っていました。

「やあ、警部補どの。一緒にどうです?」と、ドクターGGが誘いました。
「いえ、先生。ちょっと急いでますから。カムディア主任警部補を見かけませんでした?」
「ここ2、3週間見てないな。こっちは、仕事仲間のムングチ医師だよ。」
「これはどうも。今じゃ、早めに医者は乳離れさせられるんですな。」と言ってウェケサは手を伸ばしてきました。
「え、どういうことです?」
「20歳のドクターには、初めて会いますよ。」

20歳に見えないのは確かですが、ウェケサ警部補は、医者はずっと年上だと思いこんでいたんでしょう。年齢の29歳よりもずっと年上に見える、と言われることもありましたから。

「警部補どの、一杯くらいいいでしょう?」と、ドクターGGは強く勧めると、ウェイターを呼び、警部補にビールを2杯注文しました。警部補は医者に心から尊敬の念を抱いているらしく、断れませんでした。ただ、2杯だけ飲んだらすぐに仕事に戻らないと、と念を押していました。警部補が店を出て行くと、ドクターGGはウェケサのことを少し私に話してくれました。
「あいつはサツだが、いい男だよ。注射器みたいに汚れてないな。だが、公務員はみんなそうだが、みんなを満足させるのは無理な話だ。あいつには、警察の仕事が宗教で、警官なしの世の中は考えられないのさ。」と言って、ドクターGGは口をつぐみました。

法と秩序を伴う自分たちの仕事の優位性に関して、時には二人の意見が激しく分かれることもありました。二つの物体が摩擦を起こす際の抑止力が宇宙の原理であるのと同じように、警察が国の原理であるとウェケサは考えていました。もしその抑止力の価値を疑う人がいれば、二つの物体が摩擦を起こす際の抑止力がない世界、ブレーキがなく、宇宙の空間で物体と物体とがお互いに衝突を繰り返す世界を考えてみればいい、とウェケサ警部補は言ったものでした。ウェケサにとって二つの物体が摩擦を起こす際の抑止力がない世界とは、大混乱した地獄のような混沌とした状況のことだったのです。

ウェケサはとても良心的な人でした。警察隊にいた14年間、賄賂を受け取ったことは一度もないとウェサカを知る人たちは言いました。職務に精を出して容赦なく事件を追いかけ、事件の真相を掴むか事件の謎を解明して、逮捕すべき人間を連行して来るのでした。
1973年は、ある意味での国の転換点でした。犯罪を見逃したり、報告書のファイルをわざと失くしたり、どうすれば逮捕されないで済むかを犯罪者に教えたりして賄賂をもらう警官が出始めていたのです。
ポール・ウェケサはンデルの一匹狼で、一徹なうえに職業意識も高く、法律に忠実な人間でした。ウェケサには警察ほど崇高な仕事は他になく、その職務は、社会には法と秩序が存在することと、誰も特に刑法の規定をねじ曲げないことを保証するというものでした。

「強姦やポン引きや売春婦、それに窃盗犯や殺人犯が好き勝手にのさばる世の中が想像出来ますか?」と、ウェサカはよく反対派と正面からぶつかりました。
「じゃ、下水の担当者についても同じことが言えそうだな。」とドクターGGは言いましたが、淋病やほかの病気を治療する自分のような職業の優劣についての議論を持ち出す気はありませんでした。
「私の仕事のことを言っているんです。下水処理課はどうか知りませんが、ンデルどころかギクユにも、何ら影響を与えているとは思えません。警察署としてはですね、・・・つまり、私が何を言おうとしているかは、ギチュア先生なら分かって下さると思うんですが。」とウェサカは言いました。

ギチュア・ギケレ医師は過去30年間、診療所の助手をしてきました。第二次世界大戦中は、英国がイタリア軍と戦っていた朝鮮とビルマで、兵隊の治療にあたりました。ビルマから帰国すると、公務員としてキング・ジョージ病院で働きましたが、そこで医療について学ぶべきことをすべて学んだと思いました。喘息、再発性淋病、副鼻腔炎、関節炎など、「キング・ジョージ病」と自分勝手に呼んでいる病気ならどの病気も治療は出来ると信じていました。

「患者には、別の所に紹介しますよとは決して言わない方がいい。」とギチュア医師はよく言ったものです。人々が祈祷師と神の支配下にあるからという理由で、ギクユの祈祷師が患者の付き添いに山羊の毛皮を巻くように頼む時代はもう終わってるし、アラバマ州のウォレス知事だって、車イスなしで過ごすためには中国の鍼灸師の所まで出向かなければならなかったからね。もし知事がこのンデルの万能診療所に来れば、翌日には歩けるようになるのにねえ。」とドクターGGは自慢そうに言いました。

ドクターGGは69歳で、精神的にもしっかりしていて振る舞いも冷静でした。少年に割礼を行ない、ルオ社会の通過儀式として必要な6本の抜歯や、マサイ社会の儀礼として必要な刺青や耳のピアスや耳たぶに切り傷を作る処置までやりました。しかしながら、ギチュア医師の専門性と喜んで施す専門的な手術は、政府の認可が得られずに助けを必要とする母親を手助けして、「神の名をかたる偽善者」といつも蔑んで呼んでいたローマ法王を悔しがらせました。
ギチュア医師は、ビルマで9歳の子どもが妊娠しているのを見たことがあり、望まない妊娠で誰にも苦しい思いをさせてはいけない、と心に決めていました。最終的には、ケニアに白人が来る前から、ケニアのあらゆる階層の若い女性たちが、あらゆるやり方で密かに子供を堕ろしてもらって助かっていたのだ、と自分に言い聞かせるのでした。

ナイロビ市街

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com/0000274176/index.html

執筆年

2009年9月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 13

ダウンロード

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(9)第10章 ンデル警察署