2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の9回目で、エイズ治療薬と南アフリカ(1)です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズ治療薬と南アフリカ(1)

1996年はエイズ治療元年と言われます。それまで有効な治療の手段がなかったエイズも複数の薬を使って効果的な治療が出来るようになったからです。

「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)でも書きましたが、免疫機構(外部から侵入してくる細菌やウィルスなどの異物を排除する仕組み)を調整するCD4陽性T細胞の染色体に組み込まれたHIV(ヒト免疫不全ウィルス)を除去する手立ては今のところありません。しかし、従来の逆転写酵素阻害剤と新たに開発されたプロテアーゼ阻害剤を組み合わせる多剤療法によって発症を遅らせることが可能になりました。HIVの増殖を抑えて免疫機能を保つために継続的にたくさんの薬を飲まなければなりませんが、HIVに感染してもウィルスを抱えたまま普通の生活が出来るようになったというわけです。


それまではHIVに感染すれば死を覚悟するしかなかったのですが、多剤療法のお陰でエイズは死の病ではなくなったのですから、画期的な変化です。

米国のテレビドラマ「ER緊急救命室」の第2シーズンに、母子感染でHIVに感染した男の子に逆転写酵素阻害剤AZTによる治療を続けるかどうかで悩む母親が登場しています。「ER緊急救命室」は1994年の9月に開始されたシカゴを舞台にしたドラマで、この話は恐らく1990年代前半、多剤療法が始まる以前の状況を描いたもので、今となっては貴重な歴史的な資料だと思います。当時、エイズ治療には有効な薬はなく、辛うじて逆転写酵素阻害剤AZT(アジドジブジン)が使われていましたが、副作用も極めて強かったようです。腰椎から大量に薬を入れる時に伴う苦痛も激しく薬の効果も不確かで、治療に当たった小児科医ロスの薦めで治療を始めたものの、毎回激痛に耐える子どもを見るのが耐え難くなり、グリーン医師から見込みのない治療を続けるよりは残された時間を大切にする方がいいと助言された母親が治療を断念して我が子を家に連れて帰る決断をするという話です。子供にHIVを感染させてしまったという自責の念と、苦痛に耐える子供を見るに忍びない母親の苦悩がひしひしと伝わって来ますが、多剤療法が可能になったもう少し後の時期なら、母親の苦悩も軽減されていたのに、と思わずにはいられませんでした。

1996年がエイズ治療元年になったのにはわけがあります。最大の理由は、当時のクリントン政権が多額の予算を投入して薬の開発がし易くなったからでしょう。治験に応じる患者が多かったことも新薬の開発には有利だったようです。それまでのレーガンとブッシュ政権はほとんどエイズ問題に手をつけませんでしたが、クリントンは1992年の大統領選で、縦割り行政ではなく責任者を決めて国が積極的に包括的な関与をすべきだとするマンハッタン計画をスローガンの一つに掲げました。1993年に大統領になるとさっそく責任者を決めて計画を推し進め、研究予算を3倍に、治療の予算も2倍にしています。

クリントン大統領

臨床治験の参加者ウィリアム・W・ドッジ氏は当時の状況を次のように語っています。

大量の薬を飲みました。3種類の薬を1度に20錠も。もの凄く副作用の強い薬で、かなり具合が悪くなりました。・・・退院するときウィルスが検出出来なくなるまでどれくらいかかるかと聞きました。すると、もう検出出来なくなっている、投与を始めてから5日目にはねという答えが返ってきました。驚きましたよ。でも、喜びを友人と分かち合うことは出来ませんでした。私は病気の発症を免れましたが、友人には発症している人もいるんです。誰でも治療を受けられるわけではありません。自分が歴史の転換点にいるように感じました。私より前のHIVの世界と私より後のHIVの世界はまるで別の世界でした。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

米国アーロン・ダイヤモンド・エイズ研究所のマーティン・マーコウィッツ氏とデヴィド・ホー氏は、HIVがあまりうまく複製出来ないウィルスで頻繁に突然変異が起こって薬に耐性が出来てしまう点に注目しました。そして、複数の薬で同時にウィルスを追い詰めるとHIVがすべての薬に対して同時に耐性を作ることが極めて難しいことを突き止め、プロテアーゼ阻害剤を含む3種類の薬で臨床治験を行ないました。その結果を1996年のカナダのバンクーバーでの世界エイズ会議で発表しました。複数の薬を同時に処方するこの治療法はカクテル療法(多剤療法)と呼ばれるようになり、HIVの感染が死の宣告だった時代が終わりを告げました。

同じ会議に招待されたエイズ患者のザンビア人の母親が「滞在費を出して下さってありがとうございます。それは私の3年分の家賃と同額です。航空運賃を出していただき感謝します。子どもたちが大人になるまで食べて行ける金額です。ありがとうございました。」と虚ろな表情で謝意を述べました。会議では薬が途方もなく高額なことには触れられませんでしたが、いくら新薬が開発されても薬代を出せない人には何の意味もないと訴えたのです。南アフリカから参加していたクワズール・ナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「その年のテーマは、一つの世界、一つの希望だったと思います。会議の終わりに私は本当にがっかりしていました。一つの世界なんて夢のような話です。私たちには希望のかけらもありませんでした。南アフリカであんな高価な薬を手に入れられる人はほとんどいません。」(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と嘆いています。

抗HIV製剤

1997年、南アフリカ政府は急増するHIV感染者が新薬の恩恵を受け易いように、薬の安価な供給を保証するために「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。同法の下では、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられるというものでした。(その法律には、他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれていました。)

しかし1999年の夏に、アメリカの副大統領ゴアと通商代表部は、南アフリカ政府に「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めました。開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIP’s Agreement)に違反していると主張したのです。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めており、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当らないと実質的に主張したゴアは、国際社会から集中砲火を浴びることになりました。

HIV

次回は欧米の製薬会社と南アフリカの状況と、2000年のナタール州ダーバンでの世界エイズ会議について書きたいと思います。

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執筆年

  2009年12月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 17

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  →『ナイスピープル』を理解するために―エイズ治療薬と南アフリカ(1)

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の8回目で、南アフリカとエイズです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

南アフリカとエイズ

 前々号の「『ナイスピープル』理解6:アフリカでのエイズの広がり」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)で紹介しましたが、「エイズは、ザイールやウガンダのような中央アフリカの国々からケニア、ルワンダ、タンザニア、マラウィ、ジンバブエを通る輸送経路を下り始め」、南アフリカでは短期間の間に爆発的に感染が広がりました。最大の原因は、ヨーロッパ人入植者がつくりあげた鉱山などでの短期契約労働です。ホステルやコンパウンドと呼ばれる宿泊施設に暮らす単身の出稼ぎ労働者とその周辺にたむろする売春婦が感染を拡大させました。

南部アフリカの地図

南アフリカに最初に入植したのはオランダ人で、17世紀の半ばのことです。そのあとイギリス人がやって来ました。入植者はアフリカ人から土地を奪って課税し、短期契約の大量のアフリカ人労働者を作り出して、鉱山や農場、工場や白人の家庭でこき使いました。オランダ人とイギリス人は金やダイヤモンドをめぐって争いますが決着はつかず、アフリカ人を搾取するという共通点を見い出して国を作ります。1910年の南アフリカ連邦です。基本は土地政策で、法律を作って奪った土地を「合法的に」自分たちのものしたわけです。経済的に優位なイギリス人と、大半が貧乏な農民のオランダ人による連合政権でした。

キンバリーでのダイヤモンドの採掘(NHK「アフリカシリーズ」、1983年)

第二次世界大戦後、アフリカ人労働者が総人口の僅か15%に過ぎないヨーロッパ人入植者に解放を求めて立ち上がりますが、最終的には人種差別を政治スローガンに掲げるオランダ人中心の政権が誕生します。それがアパルトヘイト政権です。人種によって賃金格差をつけたわけで、目的は大量の短期契約の安価なアフリカ人労働者からの搾取体制を温存することでした。

人種差別をスローガンとする理不尽な政権が何十年も続いたのは、協力者がいたからで、イギリス、アメリカ、西ドイツや日本が主な良きパートナーでした。

その体制も、東側諸国の崩壊や経済制裁、イギリス人主導の経済界の動きやアフリカ人の闘争の激化などで維持するのが難しくなり、アフリカ人の搾取構造は基本的に変えない形でアフリカ人に政権委譲を行ないました。新政権が誕生したのは1994年のことです。

1990年の2月にマンデラが釈放された頃、南アフリカでのHIV感染者は成人のおよそ1%にしか過ぎませんでした。汎アフリカニスト会議の活動家マンドラ・マジョーロさんは当時を思い返して

「まだ、外国の出来事と思われていました。テレビでエイズで死ぬ人の姿を見ても、遠い国の話だとみんな思っていました。人ごとでしたね。」
(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と述べています。

感染を広げたのはヨハネスブルグ近郊の鉱山に働きに来ていた外国人労働者でした。

ヨハネスブルグ近郊の鉱山(NHK「アフリカシリーズ」、1983年)

「スティメラ」と呼ばれる列車(1987年の2月中旬にジンバブエの首都ハラレのサッカー競技場で行われた公演で、1960年から亡命生活を強いられていた南アフリカのトランペット奏者ヒュー・マセケラは「スティメラ」で短期契約の出稼ぎ労働者の悲哀を熱唱し、ポール・サイモンの『グレイスランド:アフリカン・コンサート』の中にも収録されています。)がザンビア、ジンバブエ、アンゴラ、ナミビア、マラウィ、スワジランド、レソト、モザンビークなどの近隣諸国から出稼ぎ労働者を運んで来ました。

『グレイスランド:アフリカン・コンサート』

手がつけられないほどエイズが流行している国から来た人たちで、南アフリカの労働者と共に働き、同じ宿泊施設で暮らしていたのです。鉱山の周りの村には商店があり、金で身を売る女性もいました。HIV予防活動家ゾドーワ・ムザイデュメさんは番組の中で、段ボールの切れ端を持って実際の場面を再現する女性たちを連れて歩きながら、

「鉱山で働く人たちはこの道を通って必要なものを買いに行っていました。女性たちは道の脇の繁みで鉱山労働者を相手に売春をしていたんです。繁みの中に座って宿泊施設から村へ向かう男性を待っていました。このような女性たちはHIVに対して何の知識も持っていませんでした。コンドームも使わずに、次々違う相手と性交渉をしていたんです。」
と解説しています。

ヒュー・マセケラ

南東部のクワズールー・ナタール州ではエイズで死亡する人が現われ始め、鉱山で働く夫や恋人から感染した女性の患者が増えていました。看護師のD・E・ンドワンドゥエさんが

「元々は男性患者の方が多かったのですが、だんだん男性より女性患者の方が多くなりました。その結果、男性用だった病棟を女性用に変更し、スタッフも大勢女性患者の方へ回さなければならなくなりました。」
と当時の状況を語っています。感染者が爆発的に増えて行きますが、政府は何も手を打てませんでした。政権委譲に向けての作業で手一杯で、エイズまで手が回らなかったというのが実情のようです。

ヨハネスブルグ近郊の巨大スラムソウェトのような密集した地域では感染が広がっていました。厳しい現実と向き合うことになったソウェトのバラグワナス病院のグレンダ・グレイ医師は「目の前で爆発的に流行していくのをただ見守るしかありませんでした。子供のエイズ患者が増え、集中治療室が一杯になりました。やがて子供の患者は集中治療室には入れないという決定が下されました。その子たちは末期患者だからです。もっと助かる見込みのある子供のためにベッドを空けておく必要がありました。エイズが新たな人種隔離政策を生んだかのようでした。エイズの病状による差別が始まったのです。医師も看護師も無気力でした。何もしない政府への怒りもありました。」と当時を振り返っています。

NHKスペシャル「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」(2002年2月20日)では、

「この国を直撃しているエイズは、アパルトヘイトと深い関係があると言われます。現在、エイズ感染者は500万人、6人に1人、ここソウェトでは3人に1人が感染しています。アパルトヘイト時代、鉱山で隔離され、働かされていた単身者が、先ず、売買春によって感染し、自由になった今、パートナーに感染を広げているのです。」
と報告されています。

番組では、月に1度、国立病院に薬をもらいにくる末期のエイズ患者が紹介されていますが、その女性患者が手にしたのはエイズ治療薬ではなく、抗生剤とビタミン剤だけでした。ウィルスの増殖を防ぐ抗HIV薬は1人当たり100万円で、その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉して10分の1の価格で輸入出来るようにはなりましたが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者があまりにも多すぎて薬代を政府が賄うことが出来なかったからです。感染者すべてに薬を配るとすれば、年間6000億円が必要で、国家予算の3分の1を当てなければなりませんでした。

抗HIV製剤

次回は南アフリカでの「エイズ治療薬と欧米の製薬会社」について書きたいと思います。

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執筆年

  2009年11月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.16
  

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(8)南アフリカとエイズ

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の7回目で、アフリカのエイズ問題を捉えるにはです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

アフリカのエイズ問題を捉えるには

 アフリカ大陸がエイズの猛威に晒されて危機的な状況にあるのは間違いないのですが、私たちが目にする新聞やニュースなどの報道が必ずしも実相を伝えているとは限りません。エイズの報道に限らず、アフリカに関しての報道は西洋中心のものが多く、実際に苦しむアフリカ人の声も、アフリカ人がエイズをどう考え、エイズ問題にどう対処しようとしているのかは、あまり伝わって来ません。

その点で、レイモンド・ダウニングさんの著書『その人たちはどう見ているのか?―アフリカのエイズ問題がどう伝えられ、どう捉えられて来たか―』(2005年出版)の中の主張は示唆的です。ダウニングさんはアメリカ人の医師でアフリカでの生活の方が長く、日々エイズ患者と向き合っているそうです。欧米の抗HIV製剤一辺倒のエイズ対策には批判的で、病気を社会や歴史背景をも含む大きな枠組みの中でアフリカのエイズ問題を考えるべきで、そのためには大半のメディアを所有する欧米の報道を鵜呑みにせずに、南アフリカの前大統領ムベキが提起する問題や、アフリカ人が執筆する「ニュー・アフリカン」などの雑誌やアフリカ人が書く小説などを手がかりに、アフリカ人の声に耳を傾けるべきだと力説しています。本の中で、2003年に米国大統領ブッシュがアフリカなどのエイズ対策として抗HIV製剤に150億ドル(約1兆350億円)を拠出したあとで応じた前ザンビアの大統領カウンダのインタビューを紹介していますが、印象的です。エイズ問題の根本原因は貧困であると発言したムベキについて聞かれて、次のように答えています。

ダウニング著『その人たちはどう見ているのか?』

違った角度から見てみましょう。私たちはエイズのことがわかっていますか?いや、多分わかってないでしょう。どしてそう言うのかって?欧米西洋諸国では、生活水準の額は高く、HIV・エイズと効率的にうまく闘っていますよ。1200ドル(約10万8千円)、1200ドル(約108万円)で生活していますからね。数字は合ってますか。年額ですよ。アフリカ人は100ドル(約9千円)で暮らしてますから。もしうまく行って・・・将来もしアフリカの生活水準がよくなれば、生活も改善しますよ。たとえ病気になっても、もっと強くなれる・・・私は見たことがあるんです。世界銀行の男性です、HIV陽性ですが、その人は頑健そのものですよ!基本的に強いんです。それは、その男性がしっかり食べて、ちゃんと風呂にも入り、何もかも何不自由なく暮らしているからです。その男性にはそう出来る手段がある。だから、ムベキの主張は、わざと誤解されて来た、いや、わざと言う言葉は使うべきじゃないか、わざとは撤回しますが、ムベキの言ったことはずっと理解されないままで来たと思いますね。

カウンダ自身も子供をエイズでなくし、貧困の原因があからさまな植民地支配だけでなく、今も容赦なく続く、開発や援助の名の下の経済的な支配であることを、政権を担当した当事者として身に沁みていますので、巨額の援助金が、実際には抗HIV製剤を製造する巨大な製薬会社に戻っていくのが予測出来るから、そんな発言になったのでしょう。

ケネス・カウンダ

2000年のダーバンの国際エイズ会議は主に欧米の製薬会社の資金で開催されましたが、病気をもっと広い観点から捉えるように提言したムベキは欧米のメディアに散々に叩かれました。しかし、免疫不全の病気と戦うのに、免疫力を低下させる根本原因である貧困や栄養不良などの要因を考えずに、ウィルスを撃退する抗HIV製剤だけを強調する欧米や日本の対応の方が、むしろ不自然です。

タボ・ムベキ

西洋社会は1505年の東アフリカのキルワでの虐殺を皮切りに、西海岸での350年にわたる大規模な奴隷貿易によって莫大な富を集積し、その資本で産業革命を起こしました。大量の工業製品を生み出し、その製品を売るための市場の争奪戦でアフリカを植民地化し、やがて第一次、二次世界大戦を引き起こしました。大戦で総力が低下したために一時アフリカ諸国に独立を許しますが、やがては復活を果たし、今度は援助と開発の名の下に、新植民地体制を再構築して今日に至っています。侵略を始めたのは西洋人ですが、奴隷貿易や植民地支配では首長などの支配者層が西洋と取引をし、新植民地支配でも、少数のアフリカ人が欧米諸国や日本などと手を携えて大多数のアフリカ人を搾取して来ました。何よりの問題はその搾取構造が今も続いているということです。エイズ問題もそういった歴史の延長線上で考えなければ、実像を捉えることは出来ません。私はアフリカ系米国人の文学がきっかけでアフリカの歴史を追って30年近く、医科大学に職を得て医学に目を向けるようになって20年余りになりますが、その過程で得た結論から言えば、アフリカとエイズの問題を考えても、根本的な改善策があるとは思えません。根本的な改善策には先進国の大幅な譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩のかけらも見えないからです。

しかし、文学や学問に役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国の人々に意識改革を促すような提言を模索し続けることでしょう。僅かな希望でも、ないよりはいいのかも知れない、そう自分に言い聞かせています。おそらく、『ナイスピープル』の翻訳も解説も、その延長線上にあると思います。

1992年に門土社が南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1960)の『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)を出版して下さいました。ラ・グーマは反アパルトヘイト運動の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者として働かされ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようとこの本も書きました。そこにはケープタウン郊外のスラムの厳しい状況の中で懸命に生きるカラード社会の人々の姿が生き生きと描かれています。観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府が強調するきれいな海岸や豪華なゴルフ場とは違った、南アフリカの人々の姿が浮かび上がります。

『まして束ねし縄なれば』

1930年代から、貿易や投資を通して南アフリカから莫大な利益を得ながらほとんど関心を払わない日本人が、その国の実情を知るのは難しいと思いますが、ラ・グーマを読めば、少なくともメディアで伝えられている映像とは違った人々の様子が垣間見られます。おそらく、文学にはそういった人々の姿や心の襞を伝える働きがあるのだと思います。(作品論「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、「ゴンドワナ」16号14-20頁)と「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、「ゴンドワナ」17号6-19頁)はこのブログに載せてあります。)

アレックス・ラ・グーマ

次回は、南アフリカと抗HIV製剤について書きたいと思います。

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執筆年

  2009年10月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.15

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(7)アフリカのエイズ問題を捉えるには

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の6回目で、アフリカでのエイズの広がりです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

アフリカでのエイズの広がり

 前号で紹介したアラバマ大学のハーン博士が「・・・ウィルスに感染した人が都会へ出て、大勢の客を相手にする女性と関係を持てば、そこから更に多くの人が感染し、病気はどんどん広がっていきます。感染経路さえあれば、感染の拡大は時間の問題でした。」と推論した通り、瞬く間にアフリカ大陸でHIVウィルスの感染は拡大しました。

『ナイスピープル』の26章で初めてのエイズ患者が主人公のムングチ医師のリバーロード診療所を訪ねて来るのが1984年の12月、著者が『ナイスピープル』の覚え書きに使ったオーストラリアの新聞が発行されたのが1987年6月の設定です。その覚え書きには次のように惨状が記されています。

(ナイロビ発)中央アフリカと東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、かつてない大惨事だと思われています。

この命を脅かす病気は世界で最も貧しい大アフリカ陸には、特に厳しい脅威となっています。専門知識や技術を要する、数少ない専門性の高い職業人の間でもその病気が広がっているからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でもある意味、エイズの流行でアフリカの何カ国かは「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。(「モンド通信」No. 3、2008年12月10日)

著者紹介の載っている『ナイスピープル』の背表紙

『ナイスピープル』が出版されたのが1990年です。CDCの調査班がコンゴでエイズ患者を確認した1980年代初頭から僅か十年余りで、東アフリカでも既にエイズが社会に深刻な影響を及ぼしていたことがわかります。南部アフリカの事態は更に深刻で、感染率が30%を超えたと報じられる国も出てきていました。感染率が1%に満たない先進国もありましたから、南部アフリカの感染率の高さは際立っていたことになります。もちろん、瞬く間に感染が拡大したのにはわけがあります。長年の西洋諸国の搾取によって食うや食わずで体力のない多くのアフリカ人を免疫機構を破壊するウィルスが襲い、侵略者が収奪品を運ぶために建設したまっすぐな道路を伝ってウィルスの感染は爆発的に広がっていったのです。天然痘撲滅のために1980年代初頭に一斉に行なわれた同じ針を使ってのワクチンの接種も感染拡大の一因となりました。都会を走るトラックの運転手は先々で売春婦と接触し、ウィルスを運びました。短期契約の男性労働者ばかりが住むコンパウンド(ホステルとも呼ばれます)周辺が感染の温床となりました。セックスワーカーから感染した男たちが村に戻って配偶者に感染させていたのです。免疫不全症・性感染症であるエイズは、貧困であえぐアフリカ人の住む町や村を容赦なく襲ったわけです。

そんな南部アフリカジンバブエの状況を、インディペンダント紙の記事「エイズ流行病、南部アフリカの息の根を止める」(1995年7月30日)は次のように報じています。

この病気による死者が、サハラ以南のアフリカでは年間に30万人を数えており、世界保健機構(WHO)によれば、5年以内には死者が90万人に達すると予想される割合です。ジンバブエでは、総死者数が2000年までに100万人(現人口の約10分の1)を超えると予想されています。5年後には、死者の数が200万人に達する可能性もあります。性的に一番活動的な人口の25~40%が感染していると思われます。あと10年以内にジンバブエの平均寿命は55歳から35歳に下がるという予測もあります。

しかし、ジンバブエの厚生相スタンプスさんが言うところの「流行病の最盛期」についての厳しい統計は、話の一部に過ぎません。若い女性の数が急激に減ることによって、ブヘラのような農村地域は未曾有の経済的、社会的危機に陥る可能性があります。若い女性が農業の生産と、子供や病人や年配者の世話の責任を負っているからです。・・・
しかし、売春婦や、男性が複数の相手を持つことが広く受け容れられている文化では、女性に焦点を当てる「同僚教育」は的外れだと、批評家は指摘しています。WHOは、感染している女性の感染していない男性への感染率が1000分の1であるのに対して、コンドームをつけないセックスで感染している男性が感染していない女性に感染させる可能性は100分の1であると推計しています。既婚女性は、特に影響を受けやすいのです。アフリカでは、HIV陽性の女性の80%が一夫一妻制であるのに対して、HIV陽性の男性の80%に複数の相手がいると考えられています。国連開発計画は、「大抵の女性のHIV感染の主な危険因子は結婚していることである。」と最近の報告で述べています。
ムランビンダの売春婦は、顧客と寝るとき平均10ジンバブエドル(当時約250円)、約80ペンス、1晩約2ポンドの料金を取ります。エイズ防止キャンペーンによって売春婦たちが顧客の多くにコンドームを使うのを納得させたという人もいます。しかし男性の間では、特に5万人強の国軍の間ではコンドーム装着への抵抗感は依然として強く、医療関係者は、国軍のHIV感染率は少なくとも50%と推計しています。・・・

ジンバブエの地図

20年前にエイズは、ザイールやウガンダのような中央アフリカの国々からケニア、ルワンダ、タンザニア、マラウィ、ジンバブエを通る輸送経路を下り始めたと医療関係者はみています。優れた輸送路、出稼ぎ労働者の歴史、それに男性が複数の性交渉の相手を持つ文化があるために、ジンバブエは特にその影響を受け易いのです。次の標的は南アフリカで、推計では一日当たり550人もの人が感染していると言われています。

1986年までムランビンダ教会病院の年間報告には、エイズの名前も出て来ませんでした。現在、ブヘラ地区の医療役員代行として働いているグレンショウさんは、病院のスタッフの25%がHIV陽性者だとみています。「私が特に感じるのは、田舎の方ではどの家の周りでも墓の数が増えているということです。何よりも悲しいのは、エイズという病気が日常の生活の一部になってしまっている、つまりマラリアのように、もう一つ別の死因として受け容れられてしまっているということです」、とグレンショウ医師は悲しそうに言いました。・・・

1992年に私はジンバブエに行って2ヶ月半の間、首都のハラレで家族と暮らしました。このあと、『ナイスピープル』の翻訳を一時中断して、その時に感じた私の「ジンバブエ滞在記」を連載したいと考えていますが、その前に、アフリカのエイズ問題をどう捉えるかという基本姿勢と、南アフリカについて少し書いておきたいと思います。

ジャカランダの咲くハラレ街

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執筆年

  2009年9月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 14
  →

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『ナイスピープル』を理解するために―(6)アフリカでのエイズの広がり