2000~09年の執筆物

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に連載した『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』をよりよく理解出来ればと願って書いた27回分です。門土社のブログから「書いたもの」に移行しました。その一覧です。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo.47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」のブログも下にリンクを貼ってあります。

『ナイスピープル』(Nice People

 

<1>→「『ナイスピープル』理解1:『ナイスピープル』とケニア」」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)

<2>→「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)

<3>→「『ナイスピープル』理解3:1981年―エイズ患者が出始めた頃1」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)

<4>→「『ナイスピープル』理解4:1981年―エイズ患者が出始めた頃2 不安の矛先が向けられた先」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)

<5>→「『ナイスピープル』理解5:アフリカを起源に広がったエイズ」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)

<6>→「『ナイスピープル』理解6:アフリカでのエイズの広がり」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)

<7>→「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)

<8>→「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)

<9>→「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)

<10>→「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)

<11>→「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)

<12>→「『ナイスピープル』理解12:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1」 「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)

<13>→「『ナイスピープル』理解13:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ2 育った時代と社会状況2 アパルトヘイト」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)

<14>→「『ナイスピープル』理解14:エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代3 アパルトヘイト政権との戦い」「モンド通信 No. 31」、2011年3月10日)

<15>→「『ナイスピープル』理解15:エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代4 アパルトヘイト政権の崩壊とその後」「モンド通信 No. 32」、2011年4月10日)

<16>→「『ナイスピープル』理解16:メディアと雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 33」、2011年5月10日)

<17>→「『ナイスピープル』理解17:雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 34」、2011年6月10日)

<18>→「『ナイスピープル』理解18:『ニューアフリカン』:エイズの起源1 アフリカ人にとっての起源の問題」「モンド通信 No. 38」、2011年10月10日)

<19>→「『ナイスピープル』理解19:『ニューアフリカン』:エイズの起源2 アフリカ人の性のあり方」「モンド通信 No. 39」、2011年11月10日)

<20>→「『ナイスピープル』理解20:『ニューアフリカン』:エイズの起源3 アフリカの霊長類がウィルスの起源」「モンド通信 No. 40」、2011年12月10日)

<21>→「『ナイスピープル』理解21:『ニューアフリカン』:エイズの起源4 米国産の人工生物兵器としてのウィルス」「モンド通信 No. 41」、2012年1月10日)

<22>→「『ナイスピープル』理解22:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告1」「モンド通信 No. 42」、2012年2月10日)

<23>→「『ナイスピープル』理解23:「シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告2」「モンド通信 No. 43」、2012年3月10日)

<24>→「『ナイスピープル』理解24:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告3」「モンド通信 No. 44」、2012年4月10日)

<25>→「『ナイスピープル』理解25:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告4」「モンド通信 No. 45」、2012年5月10日)

<26>→「『ナイスピープル』理解26:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告5」「モンド通信 No. 46」、2012年6月10日)

<27>→「『ナイスピープル』理解27:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告6」「モンド通信 No. 47」、2012年7月10日)

2000~09年の執筆物

『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳の一覧です。

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)のNo. 5(2008年12月10日)からNo.35(2011年6月10日)まで30回に渡って連載した分で、このブログに載せました。

<1>→「(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学」No. 5(2008/12/10)
<2>→「(2)第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所」 No. 6(2009/1/10)
<3>→「(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」No. 8(2009/3/10)
<4>→「(4)第5章 ベネディクト神父」No. 9(2009/4/10)
<5>→「(5)第6章 メアリ・ンデュク」No. 10(2009/5/10)
<6>→「(6)第7章 イアン・ブラウン」No. 11(2009/6/10)
<7>→「(7)第8章 ハリマ」No. 12(2009/7/10)
<8>→「(8)第9章 マインバ家」No. 13(2009/8/10)
<9>→「(9)第10章 ンデル警察署」No. 14(2009/9/10)
<10>→「(10)第11章 リバーロード診療所」No. 15(2009/10/10)
<11>→「(11)第12章 初めてのX線機器」 No. 16(2009/11/10)
<12>→「(12)第13章 行方不明者」No. 17(2009/12/10)
<13>→「(13)第14章 ドクターGGの娘(前半)」No. 18(2010/1/10)
<14>→「(14) 第14章 ドクターGGの娘(後半)」No. 19(2010/2/10)
<15>→「(15) 第15章 ユーニス」No. 20(2010/3/10)
<16>→「(16) 第16章 豚野郎フィル」 No. 21(2010/4/10)
<17>→「(17) 第17章 医師用宿舎B10」No. 22(2010/5/10)
<18>→「(18) 第18章 ナイセリア菌」No. 23(2010/6/10)
<19>→「(19) 第19章 花婿の値段」No. 24(2010/7/10)
<20>→「(20) 第20章 四十年間の投獄」No. 25(2010/8/10)
<21>→「(21) 第21章 一九七九年モンバサ」No. 26(2010/910)
<22>→「(22) 第22章 仮論文」No. 27(2010/10/10)
<23>→「(23)第23章 一匹狼の医者」No. 28(2010/11/10)
<24>→「(24)第24章 一九八二年」No. 29(2010/12/10)
<25>→「(25)第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気」No. 30(2011/1/10)
<26>→「(26)第27章 男の赤ん坊」No. 31(2011/2/10)
<27>→「(27)第28章 カナーンホスピス」No. 32(2011/3/10)
<28>→「(28) 第29章 カナーン証明書」No.33(2011/4/10)
<29>→「(29) 第30章 タラで過ごした一週間」No.34(2011/5/10)
<30>→「(30) 最終章」No.35(2011/6/10)

僕のホームページ→「ノアと三太」にも載せてあり、クリックすると、門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」が見られます。

<1>→「(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学」No. 5(2008/12/10)
<2>→「(2)第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所」 No. 6(2009/1/10)
<3>→「(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」No. 8(2009/3/10)
<4>→「(4)第5章 ベネディクト神父」No. 9(2009/4/10)
<5>→「(5)第6章 メアリ・ンデュク」No. 10(2009/5/10)
<6>→「(6)第7章 イアン・ブラウン」No. 11(2009/6/10)
<7>→「(7)第8章 ハリマ」No. 12(2009/7/10)
<8>→「(8)第9章 マインバ家」No. 13(2009/8/10)
<9>→「(9)第10章 ンデル警察署」No. 14(2009/9/10)
<10>→「(10)第11章 リバーロード診療所」No. 15(2009/10/10)
<11>→「(11)第12章 初めてのX線機器」 No. 16(2009/11/10)
<12>→「(12)第13章 行方不明者」No. 17(2009/12/10)
<13>→「(13)第14章 ドクターGGの娘(前半)」No. 18(2010/1/10)
<14>→「(14) 第14章 ドクターGGの娘(後半)」No. 19(2010/2/10)
<15>→「(15) 第15章 ユーニス」No. 20(2010/3/10)
<16>→「(16) 第16章 豚野郎フィル」 No. 21(2010/4/10)
<17>→「(17) 第17章 医師用宿舎B10」No. 22(2010/5/10)
<18>→「(18) 第18章 ナイセリア菌」No. 23(2010/6/10)
<19>→「(19) 第19章 花婿の値段」No. 24(2010/7/10)
<20>→「(20) 第20章 40年間の投獄」No. 25(2010/8/10)
<21>→「(21) 第21章 1979年モンバサ」No. 26(2010/910)
<22>→「(22) 第22章 仮論文」No. 27(2010/10/10)
<23>→「(23)第23章 一匹狼の医者」No. 28(2010/11/10)
<24>→「(24)第24章 1982年」No. 29(2010/12/10)
<25>→「(25)第25章 1983年2月・第26章 1984年ー謎の病気」No. 30(2011/1/10)
<26>→「(26)第27章 男の赤ん坊」No. 31(2011/2/10)
<27>→「(27)第28章 カナーンホスピス」No. 32(2011/3/10)
<28>→「(28) 第29章 カナーン証明書」No.33(2011/4/10)
<29>→「(29) 第30章 タラで過ごした一週間」No.34(2011/5/10)
<30>→「(30) 最終章」No.35(2011/6/10)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の30回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(30)

  最終章 

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

    (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

最終章

私がエイズ検査を受けるつもりだと言うと、アイリーンは私が一度も検査を受けたことがないのを知って驚きました。私が感染する理由がないと言うと、自分は敢えて治そうとはしない医者ですね、とアイリーンは笑って言いました。ナイロビ病院では医者は検査が必要だそうですよとも言いました。最初は簡単な血液検査をするだけと言われて、後でイライザ法の検査結果を知らされるのだそうです。アイリーンのは陰性でした。

エドワード・キマニ医師が私の左腕から血液を200ミリリットル採りましたが、結果は私以外には言わない神に誓って約束してくれるようにとエドワード・キマニ医師に頼みました。この呪わしいウィルスに苦しむ患者を何人も見て来た後では、検査結果はどうでもいいとその時は思っていました。しかし、実際に結果の知らせが電話で来たとき、私は興奮のあまり飛び上がってしまいました。

「ムングチ先生、大丈夫でしたよ。」と、キマニ医師が言いました。
「今のところ大丈夫という意味ですか?」
「そうですよ。」
「コンドームを発明した人に感謝です。」

HIV検査イライザ法器具

ナイロビ研究所のマックスウェル・ハングという人が署名した通知書を渡されるまで、私は信じられませんでした。新しい人生を与えられたようで、ただ一人の人とこの気分を分かち合いたいという気分でした。

私は車でムンビの葬式に行きました。すっかり葬式が終わった後、崩れ落ちそうになる私を暖かい手が支えてくれているのに私は気付きました。泣く人たちの姿でそれまで見えなかったのですが、背の高いその人の姿が見えました。

「アイリーン、ジュネーブで仕事をしないかと誘われていてね。」
「まあ!それは良かったですね。」
「でも、引き受けないつもりだけど。」と、私は付け加えました。
「どうして?ほんとに頑固な人ですね。」
「君のそばを離れたくないんだよ。」
「離れる必要はありませんよ。」
「君もジュネーブに来てくれるの?」
「ご一緒しますよ。」と、アイリーンは短かく言いました。ケニア中央病院とリバーロード診療所、そしてカナーンホスピスとタラでアイリーンと共に過ごした時間は、すべてアイリーンに繋がっていたのだと思いました。1987年の4月22日に、私たちはジュネーヴに出発しました。
私がエイズ検査を受けるつもりだと言うと、アイリーンは私が1度も検査を受けたことがないのを知って驚きました。私が感染する理由がないと言うと、
「自分自身は敢えて治そうとはしない医者ですね」とアイリーンは笑って言いました。ナイロビでは、医者には検査が必要だそうですよ、とも言いました。最初は簡単な血液検査をするだけと言われて、後でイライザ法の検査結果を知らされるのだそうです。アイリーンは陰性でした。
エドワード・キマニ医師が私の左腕から血液を200ミリリットル採りましたが、結果は私以外には言わないと神に誓って約束してくれるようにと頼みました。この呪わしいウィルスに苦しむ患者を何人も見て来た後では、検査結果はどうでもいいとその時は思っていました。しかし、実際に検査の結果を電話で知ったとき、私は興奮のあまり飛び上がってしまいました。

「ムングチ先生、大丈夫でしたよ。」と、キマニ医師が言いました。
「今のところ大丈夫という意味ですか?」
「そうですよ。」
「コンドームを発明した人に感謝です。」

ナイロビ研究所のマックスウェル・ハングという人が署名した通知書を渡されるまで、私には信じられませんでしたが、新しい人生を与えられたようで、ただ1人の人とこの気持ちを分かち合いたいという気分でした。

私は車でムンビの葬式に行きました。すっかり葬式が終わった後、崩れ落ちそうになる私を温かい手が支えてくれているのに気が付きました。泣く人たちの姿でそれまで見えなかったのですが、背の高いその人の姿が見えました。

「アイリーン、ジュネーブで仕事をしないかと誘われていてね。」
「まあ!それは良かったですね。」
「でも、引き受けないつもりだけど。」と、私は付け加えました。
「どうして?ほんとに頑固な人ですね。」
「君のそばを離れたくないんだよ。」
「離れる必要はありませんよ。」
「君もジュネーブに来てくれるの?」
「ご一緒しますよ。」と、アイリーンは短かく言いました。ケニア中央病院とリバーロード診療所、そしてカナーンホスピスとタラでアイリーンと共に過ごした時間は、すべてアイリーンに繋がっていたのだと思いました。1987年の4月22日に、私たちはジュネーブに向けて出発しました。

ナイロビ市街地

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「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―」の連載はこれで終わりです。
次回からは、1992年に家族で行ったアフリカ南部ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の「ジンバブエ滞在記」を連載(→「ジンバブエ滞在記一覧」(「モンド通信」No. 35、2011年7月10日~No. 59、 2013年7月10日)する予定です。
作品の解説(玉田吉行)(「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)→)と翻訳こぼれ話(南部みゆき)は、もう少し続けます。

ジンバブエの首都ハラレで暮らした白人街の500坪の借家

執筆年

2011年6月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No.35

ダウンロード・閲覧

『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(30)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の29回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(29)

   第30章 タラで過ごした1週間

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

    (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第30章 タラで過ごした1週間

金曜日の夕方6時に車でタラに着き、私はまっすぐに家に向かいました。ちょうど農場から戻ってきた母親は、マツダ625に乗った私を見てとても喜びましたが、父親の調子が悪くタラ総合病院に入院していると言いました。病院とはまだ関わりたくなかったので、その晩父親に会いに行くのはやめました。しかし、私が帰って来たときに焼いて食べようと父親が育てていた山羊を絞めると言って弟が譲りませんでした。家族が皮を剥ぐのをながめながら、放蕩息子が父親に大事に育てられた子山羊を締めてもらっているような気分でした。今でも3人の弟は家の敷地内に住み、4人の妹は家に関わりがあり、2人はまだ母親と暮らし、あとの2人も結婚して家から1キロも離れていない所に住んでいました。家族も一緒に来て山羊を食べるようにと誰かが電話をしてくれたのでしょう、9時に食事を始め、夜中過ぎまで食べていました。昔ながらの習慣で、先ずは肝と腸から食べ始め、そのあと前脚を食べました。肝と腸は家族全員に行き渡るようにしないといけませんでした。その後、肋のおいしい肉と後ろ脚、最後は4つの胃袋で終わりでした。

後ろ脚の1本は後でスープになる頭と蹄といっしょに母親に渡されました。1時頃に1人、2人と帰り始め、最後には私1人になって、あとは何年も使っていないベッドで寝るだけでした。

ぐっすりと寝て次の日の土曜日に目が覚めたとき、太陽が昇っていて、いつも通りに農場での畑仕事に出かけて誰もいませんでした。台所に行くと、母親が洗面用に湯を温めていてくれ、火には、紅茶の入った薬罐がかけてありました。顔を洗い、紅茶を飲んでから、新聞を買って地元の噂話を聞こうと車でタラの街に行きました。タラでは原則として新聞が午前中に届きませんから、正午まで1時間もありました。歩いて市場に行って、食料の供給が不足するこの時期にどんなものを売っているかを確めることにしました。大抵の店には、高値で売られる少量の粉を計るカップが置いてありました。タラでは、市場の値段は変わっていないようでした。11月と12月が食べものの値段が高い時期だと子供ながらに知りましたが、何も変わっていないようでした。玉蜀黍の粉が2キログラムで10シリング、もろこし粉が15シリング、稗の粉が20シリングだと言われました。何キロも離れたカカメガから来たものか、タラ辺りの農家から来たものでした。

「キロンゾの子供、医者のジョゼフを覚えてる?」と、1人の女性が言いました。
「覚えてるよ、タラ高校に行った人でしょ?」と、別の女性が言いました。
「今、街にいるよ、大きな車でね。」
「まあ、まだ結婚してないわよ。」
「そう、奥さんはまだもらってないわ。」
「あの子、どうしたのかしらね。」
「あんたの娘をやって探ってみたら?」
「娘だって?私、あの子とだいたい同じ年よ。」
「きっと主婦には手を出さないわね。」

主婦には手を出さないと言うのを聞いて、私は笑いそうになりましたが、もうそれ以上は聞いていられませんでした。ばつの悪い思いをするか、結婚しないでいる理由を2人にあれこれ言われる前に逃げ帰りました。その日の日刊紙ヤードスティックとシティタイムズとシチズンのすべてを買って車で家に戻ると、母親が昼食にムソコイを作っていました。カナーンのニュースがトップ記事で、ジョン・キマルが私についての好意的な記事を書いて、カナーンでの残酷な行為に私が関わっていなかったと弁護してくれていました。ジョン・キマルが記事の中で書いていましたが、「カナーンの背後に潜む悪魔ディンシン医師」は、すでに国外に逃亡していました。しかし、今回の事件では予想外の出来事もありました。恐らく、近くの国に逃げようとしていたときに、ブシアの近くで乗っていたフォルクスワーゲンが正面衝突をして、ギチンガ医師が死んでいました。

みんなでお昼に、昨晩絞めた山羊の後の太股と頭と4本の脚を食べました。スープもついていて、弟2人はとても美味しそうに食べていました。食べ終わったあと、私は母と弟2人と1番下の妹を車に乗せて病院の父親の所に見舞いに行きました。父親は相当に弱っているようでしたが、診断ではマラリアの発病で、治療の効果は出ているとのことでした。タラで受けられる最高の治療を受けているのが分かっていましたから、同じ医者として、その人たちがやっていることに敢えて口を挟みませんでした。今の私には後ろ盾となる病院もありませんし、もっといい治療法を申し出る訳にもいきませんでした。カナーンは肥りすぎて崩れ落ちていましたから。

人生で最高の1週間でした。母親が子供の時のように細々と気を遣ってくれ、弟や妹たちが交代でいっしょに親戚の家に行って慰めてくれて、カナーンでずっと感じていた不安な気持ちがすっかり和らぎました。その時私は、医者をやるのは心も体もすり減るものだとつくづく思いました。タラに帰って来た日、手も足も首も背中もずきずきしていましたから。1日に20キロ歩く日もありましたが、痛みは和らいでいました。

どうしてみんなが平和で治安の心配もない田舎を離れて、騒音、忙しさ、小競り合い、犯罪、孤独、無関心、詐欺、物価高、喫煙、治安の悪さ、全般的な秩序の乱れなどで混乱を極めるナイロビに出かけてゆくのだろうと私は疑問に思い始めました。取り上げたくて仕方がないのに、明らかに誰もが話すのを嫌がっていた話題が死の病でした。しっかりとキャンペーンが行なわれていたようでしたが、私の家族や親戚は、自分たちには影響はないと考えているようでした。

「それはナイロビやモンバサやキスムでの話で、タラじゃ関係ないよ。」と、弟が激しい口調で言いました。

私は敢えて弟に反対はしませんでしたが、弟はカナーンでの仕事の新聞記事を読んでいたようでした。
「ところで、兄さんはその人たちと働いていたと聞いたけど。」と、弟は言いました。
「そうだよ。その人たちが入院している病院にいたね。」
「どうだった?」と、弟が尋ねました。
「そうだな、治療法がないと考えてすごく落ち込む人がいる以外は他の患者と同じだよ。」と、私は出来るだけ丁寧に答えました。そのあと、私たちが見た自殺についての話はしましたが、ディンシン医師が高い治療費を取って病院が患者から搾り取っていた話題は避けました。しかし、弟はそのことについてもすでに聞いていたようでした。

「兄さんが患者を殺していたってみんなが言っているよ。」と、弟はずばっと聞いてきました。
「それはない、誰も殺してはいないよ。ただ、手の施しようがない患者がいて、医者がその苦しみを終わらせた場合が何回かはあったけど。」安楽死の概念は説明するには難し過ぎて、私は話を切り出せませんでした。
「あの女の人たちについてはどうなの?各紙が大々的に報じて、記事でも書いていた『最後の一口』を求めるおかしな年寄り用に金で連れて来られた売春婦についてだよ。」と、弟が続けました。責任逃れをしていると思われないで、どうすればこの問題をうまく説明出来るのか、私には確信が持てませんでした。

「そうだな、売春婦は、値段が合えば色んな相手に自分の体を売って来ているね。ディンシン医師はそこに目をつけて売春婦を釣る餌に使ったんだと思う。自分が死にかけていて、奥さんや恋人や売春婦とも交わりを禁じられているのを自覚しているから、患者の中には、セックスにいくらでも金を払う人もいたんだな。」
売春とは縁がなく、セックスに金を払う必要のないタラで育った弟がこの話を理解するのは難しいだろうと思いました。しかし弟は、田舎には合わない大都会に特有な経済の秩序があると納得したようでした。

ポール・ウェケサは水曜日の午後に私を訪ねてきました。地元の警察で私の居場所を確めてきたに違いありません。いつも夕方の五時半になったら急いで出かけるタラの居酒屋で飲んでいるところに警部が顔を出したからです。正直で親しみやすい人柄のせいだけでなく、カナーンの最新情報を知っているのが分かっていましたから、警部を見て私は嬉しく思いました。私が警部の好きなタスカーエキスポートを注文すると、警部は渋い表情を見せました。それで警部がまだ仕事中だとわかりました。タラはナイロビとは違うので、町から離れて酒を飲みながら話をしましょうと誘いました。ビールを飲みローストビーフを食べながら、ほぼ一週間前に中央警察署で別れてから互いの身辺に起こったことを報告し合いました。私はナイロビにはしばらくは戻らないと警部に伝えました。私は特に何もしないで、母親の料理を食べて満足していました。唯一の心配は使用人で、私がたらふく食べているあいだ、その使用人が飢えていたかも知れなということでした。

ウェケサ警部はナイロビに戻ったらすぐに使用人の様子を見て来ると約束してくれました。カナーンの捜査は完全に終わり、ヒュー・マクドナルド医師は釈放されました。カナーン事件の本当の容疑者はディンシン医師とギチンガ医師でした。カナーンで働いていた看護師11名を取り調べて、ウェケサ警部が立証しました。政府はディンシン医師が逃亡したと言われている英国での捜索の継続を検討していました。私については、ケニア中央病院に戻って欲しいと言う要望が出ていると警部は言いました。現在ケニア中央病院では、すべての医者に、たとえ非常勤でも、医療活動を行なうように求めていました。

「政府のために僕を探しに来たということですか?」と、私は尋ねました。
「いや、そうじゃないですよ。私はナイロビで起こっていることを知らせているだけです。あなたが逮捕を望むなら、地方の警察が逮捕しますよ。」と、ウェケサが言いました。

エイズがもたらした脅威のために、国立病院で医療従事者が不足していましたが、エイズ患者を治療しても危なくはないと政府が認めたので、政府は医者に仕事に戻るように求めていると聞きました。今は1ヶ月の休暇をもらっていますが、休暇が終わったらすぐに戻って国のために働くつもりですと、ウェケサに説明しました。使用人に会って私の無事を知らせると約束して、夜十時ごろに警部はタラを後にしました。

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タラに来てから1週間後の金曜日に、ドクターGGとアイリーンが訪ねて来てくれました。ドクターGGは前に会った時よりも老けたようで、皺も増え、弱々しく見えました。アイリーンはクリーム色のワンピースに青のスカーフと、スカーフにぴったりの踵の低い青い靴を身につけてきれいに見えました。私は母親に長年一緒に働いて来た人だとドクターGGを紹介し、リバーロード診療所とケニア中央病院、最近ではカナーンでも一緒に働いた非常に特別な友人だとアイリーンを紹介しました。母親は2人と握手をしました。母親がアイリーンと握手したとき、目が特別に輝いているのが分かりましたが、それは母親が賛成するか、認めるかした人や出来事やニュースにだけ見せる目の輝きでした。

「こんなきれいな娘さんをどうして今までタラに連れて来なかったんだい?」と、母親は言いました。
「最後までこの娘をとっておいたんだよ。」と、私は冗談を言い、以前ユーニス・マインバを家に連れて来た時、二人はうまくやっているように見えても、母親は決して認めていなかったのを思い出しました。

「タラの血が流れているんだね、きっと。」と、母親が続けました。私に結婚して欲しいと望むタラの娘として、母親がアイリーンを認めていると私にはわかっていました。その話題はそこで打ち切って、ドクターGGを私の小屋に連れて行きました。何か言いたいこと、それも私にだけ聞いてもらいたいことがあると私は感じていました。

長年様々な知らせを聞いて来ましたが、ドクターGGが持って来た知らせはどの知らせよりもこたえました。私の小屋の茅葺きの屋根を見上げ、涙が零れ落ちないように下を向きませんでした。ムンビは兄の1人に手紙を書いて、フィンランドでの事情を説明し、戻りたいと言って来ていました。家族はムンビから、私に伝えて欲しいと頼まれていたようですが、カナーンの危機が山場をむかえていましたので、重荷に思わないようにと私には連絡しないと決めたそうです。しかし、カナーンが壊された日に、ムンビの夫ブラックマン船長から、ムンビが謎の病で死んだので父親が望むなら、親族2人が遺体を引き取りにヘルシンキまで来てもらってもいいという電報が届きました。飛行機の切符を同封し、すべての費用は船長の家族が出すと書いてありました。ドクターGGは途方に暮れましたが、臨床検査の標本を届けたナイロビ病院でアイリーンと出会い、私が休暇を取ってタラに帰ったと聞きました。アイリーンがナイロビ病院のエイズ患者から逃れたいと言ったので、ドクターGGはシゴナ診療所にアイリーンを誘いましが、その前に2人には私を探し出す必要がありました。

私は友人といっしょにナイロビに戻らないといけなくなったと母親に伝えました。近いうちに私がまたアイリーンを連れて来るという約束で、母親は行くのを認めてくれました。昼食のあとタラを発って、車で1週間留守にしたアパートに戻りました。ソファの上でムヤが昼寝をしていましたが、ムヤを起こし、ンデル行きの暖かい格好に着替える間、紅茶を用意してくれるように頼みました。ムヤは外国の切手の貼られた航空便を差し出しました。ジュネーブに知り合いは居ませんでしたが、切手にジュネーブの名前が見えました。しかし、ムンビが書いたかも知れないと思って、手紙を開けました。ムンビからではありませんでした。差出人は、ジュネーブの世界保健機構本部となっていました。

親愛なるムングチ先生

世界保健機構は、貴国であなたが性感染症の分野でやって来られた仕事を興味深く拝見してきました。WHOはエイズの脅威と国際的に戦っていますが、あなたに興味を持っていただきたく、ジュネーブの本部にお招きしてお話をお伺いしたいと思います。

今や世界で15万人近くになると推定されるエイズ患者は、富裕層は殆んど危険性がないという既に広がっている危険な思い込みの影響もあって、今年は二倍に増えるでしょう。往き帰りのすべての費用はWHOでお支払いします。ご承諾のご返事を頂けましたら、早速航空券をお送り致します。   敬具

医師 ジョナサン・マン
世界保健機構 事務局長

ジョナサン・マン

私はアイリーンをアパートで降ろした後、ドクターGGをンデルの自宅に送り届けました。ムンビが死んだという知らせは私にはあまりにも重く、その夜、WHOの申し出を素直には喜べませんでした。しかし、リバーロード診療所で患者を診て来た私の仕事がやっと認められようとしているのは嬉しい限りでした。

執筆年

  2011年5月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 34

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(29)