『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(7)第8章 ハリマ

2020年3月9日2000~09年の執筆物ケニア,医療

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の7回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(7)第8章 ハリマ

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第8章 ハリマ

 ハリマには選択肢は一つしかありませんでした。子どもたちは皆、死にかけていました。もはや愛人を迎えることのない狭い部屋では、子どものうちの2人が間に合わせの長椅子の上に力なく横たわっていました。女の子のムリシが最も衰弱が激しく、2番目に弱っていたのは2歳のマケニャでした。下痢にはやられていましたが、マコボも何とか生き永らえていました。殆んど立ち上がれませんでしたが、しゃべることは出来ました。4歳半で、飢饉さえ起きていなければ、年老いた母親を支える賢い子でした。ノラは、食べ物を探しに前日に家を出たまま、まだ戻って来ていませんでした。

手ぶらで戻ると気まずくなるのをノラは知っていました。まだ戻らないのは、ノラがまだ食料を捜しているか、独りで生きることにしたのかのどちらかです。5歳半という年齢を考えれば、まず自分が生き延びることを優先的に考えても充分に理解出来ます。7歳になる双子がどこへ行ったかをハリマはもう気にしませんでした。2人とも自分を嫌がって逃げているように思えたからです。他の子どもたちは、ハリマの両親の居るワンザに逃げて行っていました。そこでは解体処理をした肉の残骸を食べて何とか人々が生きのびていたのです。

ハリマは、家の中に食べ物がなくなってもう6日目になると思いました。ブコバもタンザニアの他の地域と同様に、文字通り飢えで死にかけていました。周りの国は少しましな状態でした。ウガンダもケニアも厳しい事態になっていました。ここ3年間雨は降りませんでした。ハリマは二日前に袋の中からはたき出した小麦粉でお粥を作りました。店ではもう小麦粉は買えませんでした。誰も食べ物を捨てたりしませんでしたし、お互いに笑顔も出ませんでした。近くの店屋の主人は、ハリマが小麦粉をつけにして欲しいと言ったとき、あからさまに嫌な顔を見せました。まるで、3シリング分の小麦粉の代金に体を提供されても、そんな気力も望みもないねと言いそうな雰囲気でした。世の中はどうしてこんなに惨めなのでしょうか。

ハリマはやっとの思いで、私に自分の悲痛な体験を打ち明けました。心に色々ものが積もりに積もって、ハリマは末の子を殺してしまっていました。それは安楽死だったのでしょうか?幼児殺害容疑で裁判にかけられて無罪を言い渡されましたが、すべての事実が明らかになった後も、飢えとものがない恐怖から立ち直れませんでした。それが引き金となり、「飢え」をはね除けるためについ暴飲暴食になってしまうんです、とハリマは私に説明してくれました。すべてハリマの心が産み出した想像の産物でした。

「先生、あたしみたいな経験をした人間に、また子どもを作ればいいなんて言えますか?男たちはみんな善良な人間を孕ませたら、さっさと離れて見捨ててしまうんだから。苦しんでる人間がその苦しみを訴えてもぜんぶ知らん顔なんだよ」と、ハリマは、明らかに毒を込めて言いました。

適者生存説を唱えたダーウィンなら、父親や母親に働きかけて愚か者にも狂った者にも赤ん坊を生むことを許す神の力について言いたいこともあったでしょうが、ハリマが正しいと私は認めざるを得ませんでした。
きっと力になりますよ、と約束すると、ハリマは帰って行きました。

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 車に乗った男数人が通りで女漁りをやっていました。夜の11時頃には人通りのなくなるママ・ンギナ通りやスタンダード銀行、郵便局、市役所通り辺りの決まった場所に、毎晩決まって若い女性が姿を現わしました。時速10キロくらいで車を流しながら商売女のいる暗がりを覗き込ので、男たちの顔がはっきりと見えました。たまに警察が巣窟荒らしに現われましたが、通りの角の街灯の陰から見えるので、不道徳にも街角に立って体を売るという古来からある犯罪を目論むわけではない振りをするのは女性たちには簡単なことでした。
ハリマは妊娠していましたが、自分に責任があることは充分に分かっていました。7人目は絶対に産むむまいと決めていましたが、日が経つにつれて、ハリマはますます自暴自棄になっていきました。どんなことをしても、妊娠を終わらせる必要がありました。9週目辺りで、上手くいくことを願って、ハリマはマラリアキニーネを6錠飲み込みました。その日はずっと正気を失なっていましたが、結局胎児に異常は見られませんでした。それでも意を決して、翌週ハリマはコルマン社のアジュール・ブルーという衣類染料を飲みましたが、これも効き目はありませんでした。

体を危険にさらすのが分かっていても、ハリマは、妊娠中にしてはいけないことはすべて、あれこれと思い出しては実行に移しました。以前より煙草も酒も量も増やし、出来るだけたくさんの客を取りながら、中絶手術をしてくれる医者を探し続けました。

ケニア中央病院なら2000シリングで安全な中絶手術が受けられると聞いていましたが、どうやってうまくやるかが問題でした。中絶にはケニアの法律は極めて厳しく、医者も患者も数年間投獄される危険性がありました。ハリマは、同業の売春婦ジョセフィンに、ブコバの妹の所に残してきた5人の子供が飢え死にしかけている悩みを打ち明けました。いまやハリマは、家族を養う充分な金が稼げたらと思いながら、プムワニで1回2シリングの短時間セックスをやって稼いでいました。プムワニでは、売春のために急造された土の家の外で、朝9時から1日じゅう座っていました。色んな体格や人相の男たちが狭いマジェンゴの裏通りを歩いて通り、商売女が媚びを売って誘いかけました。

ケニア周辺の地図

ハリマは、行き交う男たちにどのように笑いかけて目配せするかを思い出しました。中には、ことの最中に押さえこまれながら、罵られることもありました。恥ずかしい思いもしましたが、プムワニの客を満足させながら、恥ずかしさをぐっと呑み込んで堪えました!先ずは客を捕まえることが先決で、代金を払ってくれるかが次の大きな問題でした。客とベッドに行く前に代金を払ってくれるように頼む場合もありましたが、敢えて終わったあとで支払いを頼む場合もありました。

どれくらい長かったか、またどれくらい激しかったかには関係なく、仕事は男が射精すれば終わりでした。前払いの方が荒っぽいとハリマは思いましたが、中には、その性急さが原因でより早く射精をすることもあり、結果的にはその方がいい場合もありました。特に朝、男が元気な時はそうでした。面倒臭がって靴をはいたままの男もいましたし、ズボンを穿いたまま乗りかかってくる男もいましたが、獣みたいな体位を求めて来るのは数えるほどでした。

男が酔っていてなかなか射精しない時は、永遠に続くかのように思えて痛み出しました。早く終わらせて、とハリマが求めると、乱暴に済ませ払った二シリングを返せと要求する男もいました。時々はそうしましたが嫌だと言えば、鼻の骨を折られる可能性ももちろんありました。月の中旬辺りは仕事が辛くて大変でしたが、20日頃から少し暇になりました。マジェンゴ通りの客足も鈍り始め、客が来ても気前がよくありませんでした。割引とか、時には全部で50セントでどうだという客もいました!

ハリマは、パムワニのマジェンゴで一年間過ごした後そこの仕事はやめて、ナイロビの街の大通りで角をうろつく夜の女になりました。

ナイロビ市街

この話を全てケニア中央病院を訪ねてきたハリマから聞いたのですが、ハリマは中絶手術の斡旋を必死に頼んできました。そんな時、ジョセフィンがハリマを500シリングで手術を引き受けるギチンガ医師に紹介しました。ギチンガは、抗カンジダ剤と性器に塗る軟膏を処方しましたが、手術はしませんでした。

「くだらん書類をめぐって何故、敢えて刑務所行きの危険を冒す必要がある?分かっているのは、せいぜいお腹の子が奇形も同然だということだからね。これからは、より安全に「奇形堕胎」をうまく処理出来るようにすべきだな」と、ある日ギチンガが言いました。ギチンガは、堕胎という嫌な用語より、自分で考えた造語が気に入っていました。原則としてギチンガは、8週間を過ぎた場合は決して堕胎手術はしませんでした。

13週間目になっても、ハリマは第20病棟にやって来ました。すでに腹部が目立ち始めていました。私にどれほど自暴自棄になっているかを話してくれました。ハリマはスターライトで踊ったり、男にわざと喧嘩をけしかけて、流産のきっかけにならないだろうか、お腹から赤ん坊を蹴り出してくれないだろうかと願っていました。

酒と煙草とナイトクラブの支払いで蓄えは底をつき、ハリマの危機感は増すばかりでした。ギチンガ医師も今ではハリマの存在が鬱陶しくなっていました。もう2度とケニア中央病院に来るなと、ハリマに警告しました。もしまた、しつこく来るようであれば、国内不法滞在容疑で連行してもらうと脅迫していました。

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 ギチンガ医師は、いつものようにむっつりした様子でした。診療台の上に座り、立って長話をじっと聞いているアイリーンと私の方を見ながら、長い足をテーブルの上に投げ出していました。私はギチンガ医師の機嫌、不機嫌がわかるようになっていました。

「社会的な価値という面から見れば意味がない法律の中には、明らかに正しくないものもあるね。」と、ギチンガ医師が始めました。
「たとえば、どんな?」と、アイリーンが尋ねました。
「たとえば、堕胎斡旋に対するこのでたらめな法律を考えて見給え。人口過剰の所では、本来の目的から逸脱してしまっている。」
「しかし、やはり社会的価値は何かあるんじゃないですか。」と、私は反対しました。
「ムングチ先生、神がアダムとイヴを楽園から追い出して子孫を造るよう命じられたのは、ずっと昔のことだよ。その時は、成果を出すのにすべての受胎が必要だったんだよ。」
「ダーウィンの、適者生存の仮説はどうなります?」
神話よりも、科学的に話をすべきだと私は思いました。
「もちろん当時でも、適者が生存するためには、人の手が入っても入らなくても、胎児そのものは邪魔をされずに育つことが保証される必要があった。子宮の発達段階では、それは保証された。全ての哺乳類の子宮は、開けるのに非常に手間のかかる金庫と同じで、複雑極まりない臓器だ。1度受胎が行われると鍵をかけて中に閉じ込め、あとは中身が何であろうが、開けて出すときは、持ち主にはかなりの危険が伴なう。」と、ギチンガ医師が説明しました。
「はあ、そうですか?」
私はそうなのかなと考えました。
「もちろん、誘発剤を使っても使わなくても、自然流産という場合もあり、胎児の発達に何か異常があれば、胎児が排出されるとう機能が働く。」と言ったあと、ギチンガは続けて、
「これがわたしの知る基礎医学だが、ときには注の改訂も必要でね。ローマ法王は、胎児はきわめて神聖であり、たとえ胎児の母親がまだ子どもでも白痴でもレイプの被害者でも誰であっても、堕胎は許されないと言っている。」と、ギチンガはすっかり諦め切った様子で両手を宙にかざして言いました。

「イギリスは、母親の健康面を考慮することを受けいれましたね。それに、もっと踏み込んで、出産には妊婦の同意が必要だと決めたアメリカの州もありますね。確か日本では、妊娠、中絶、子育て、出産といったことは、1人ひとりの選択に委ねられているようですしね。」と、私は言いました。
「ケニアでは、3000シリングくらいは持ってないと選択肢はないでしょうね。」と、アイリーンが言いました。
「でも、どうしてそんなに高いんですかねえ?」と、私は不思議になって尋ねました。
「法律が禁止してるから、危ない仕事なんだよ。それに人目を憚ってやるわけだから、基本的に高くなる。麻酔に輸血に外科的な仕事も通常の土俵外の場所でする必要があるからね。」と、ギチンガは声を荒げて言いました。

既存の解決策のない社会問題の一つであることは明白でした。法律では規制しておきながら、その適用性の判断については社会に委ねられていました。

「母親の健康面に加えてイギリスが配慮しているのは、その子どもの健康と、今いる子どもたちの社会福祉だ。」と、ギチンガは続けました。

「中絶は、避妊よりも効果的な人口管理の方法でしょうね。」と、アイリーンが付け加えました。

「どうりで、日本やスウェーデン、フィンランドでは人口が減ってきているわけですね。」と、私は言いました。

「そうなると女性は、子供を産むように言われるわけですね」と、私の言葉をアイリーンが締めくくり話は終わりました。その話はそのままになりました。

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 私がハリマの件についてギチュア医師に相談したら、ギチュア医師はひどく興奮して突然笑い出しました。たまりかねてやっと立ち上がると、そのまま診察台の上に身を押し付けて笑いました。あまりに笑いすぎで呼吸も切れ切れになり、しまいには涙が頬を流れています。

「つまり君は、年老いた田舎の婆さんでさえ何百年もやってきたことを、現代の医者には出来ない、と言ってるんかね?わたしらは、簡単な道具で胎児を何度も出してるよ。その女を、この、万能ンデル診療所に連れて来ることだな。」と、ギチンガ医師が私に命じました。

HIV

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執筆年

2009年7月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 11

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