『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(27)

2020年3月7日2010年~の執筆物ケニア,医療

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の27回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(27)

 第28章 カナーンホスピス

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第28章 カナーンホスピス

普通の病院というよりも、末期患者の介護施設でした。とは言え、大抵の病院にある設備は整っていました。救急病棟から、手術室、X線、実験室、産科、育児室、死体安置所まで、最新の医療施設にあるものは何でも揃っていました。4つに分けられた病棟には、全部で28床のベッドがあり、産科に7床、一般女性患者棟には8床、50歳以上の男性患者と特別に認められた16歳以上50歳未満の男性患者に6床でした。ホスピスは整形外科、小児科、精神科、眼科の患者以外はすべての患者を受け入れました。しかし、産科、婦人科、呼吸器科、皮膚科の病気は特別で、入院許可が出る前に5万シリングの前金を払うことに同意すれば、患者は最高の待遇が受けられるとホスピス側は主張しました。

食事や、宿泊設備、棺桶、芳香剤、寝台用のシーツ、食器はどれも、ケニア山サファリクラブのものに負けないほど上品で、超現代的なものばかりでした。施設にはディンシン、ギチンガ、ヒュー・マクドナルドと、同性愛者だと判って解雇されたフィリピン人のト・クツーンの四人の医者がいました。施設長が熱心に代わりの医者を探していて、そんな時にアイリーンが事情を説明して、真剣に考えるように言ってくれました。ホスピスには医療上の色んな事態に対処出来るだけの人と設備があるので、薬局や診療所や一般の介護施設に比べて、感染の心配は少ないとアイリーンは言いました。

ホスピスは前の大学教育クラブを利用して作られたユニークな場所で、元雇用主からもっとしっかり話を聞くようにアイリーンに言われました。

誰もがミドリザル病を恐れて不安になっていましたので、このホスピスではどのように対処しているのだろうかと思いました。

「ここは費用が高くつくから、患者には私たちが最後の砦だ。普通はどこか他で治療を受けたことがある患者を受け入れるので、患者の状態は事前に充分にわかっている。末期の患者なら、まあそのケースが多いんだが、必要な処置はやっている。」と、ギチンガはあっさりと言いました。
「例の新型の病気にはどんな必要な処置をしているんですか?」と、私は聞きました。
「見てのとおりみんなが着けているマスクに、柵を付けた特別な部屋に、特別な葬式に、死を迎えている人間に必要な特別なすべての処置だよ。」と言いましたが、ギチンガ医師にはきっと何か公にはしたくないことがあると私は感じました。

カナーンホスピスは経済にも強い開業医のディンシンが考え出したものでした。ディンシン医師はケニアの貧乏人と金持ちの大きな格差を実感して、ヒルトンやセレナやビーチのような高級ホテルで宿泊客の動向を観察し続けてきました。リバーロードの薄汚い酒場で安い酒を飲む人もいましたが、いくら高くても「人生最後の豪華な旅路のお手伝い」と呼ぶ特別安置所付きの商品が必ず売れると考えました。街には、棺に10万シリングも払う人間がいるのが分かりました。ケニアでは安楽死は違法でしたが、最後の豪華な死出の旅路のお手伝いとして提供出来る特別な場合もありました。その他に、養子縁組や特別に引き受ける中絶の処置もありました。ディンシン医師はプリンスクワン病院で医療相談も行なっており、そこで、自分のやっている特別サービスの顧客を確保しました。ある日の午後に、ディンシン医師は医者の会食会場でギチンガ医師に会い、安楽死や中絶や医療倫理などの最近の医療問題について話をしました。

「例えば今回の新型の病気ですが、治療法がないですね。」と、ギチン医師が言いました。
「本当ですな、感染した患者は気の毒です。病気にかかったと診断された人は監禁されていますよ。」と、ディンシン医師は付け加えて言いました。
「ええ、気休めに薬を出すよりも、薬を出さないというわけですね。」
「しかし、患者の痛みを和らげるのは可能ですよ。」と、ディンシン医師は言って、カナーンホスピスを創立する計画にギチンガ医師を誘いました。ギチンガ医師は、金持ちが個人の病院で大金を出して内密に治療を受けることは何も目新しいことではないと知りました。ディンシン医師の話を聞いてギチンガ医師は、ヘンリー6世が梅毒になったとき、豚をまるごと食べてしまったと言われていたのを思い出しました。

病院を見てまわったあと、ギチンガ医師がカナーンのチームで一緒にやらないかと私に聞いてきました。月給は車と住宅付きで二万シリングでした。私は信じられない思いでギチンガ医師を見ました。しかし後でギチンガ医師の共同経営者のディンシン医師に会ったとき、非常に正直そうな人に見えましたので、私はその人を信じて申し出を受けました。

次の朝、私はリバーロード診療所を閉めてカナーンホスピスに報告し、自分の息子を病院で産むという条件だけをつけました。

「どの息子だって?」と、ギチンガ医師が尋ねました。
「私の血の流れた息子ですよ。」と答えながら、あと1ヶ月で父親になってドクターGGの娘と結婚すると改めて思いました。しかし、その日の午後にアイリーンと会って私は複雑な思いになりました。私は他の女性に会うためにアイリーンを何度も置き去りにしてきましたが、認めているのかいないのかを全く私に感じさせないで、いつもアイリーンは平然と見ていました。アイリーンが私を本当は心の中でどう思っているかを知りたいと思っていました。

ホスピスで働き始めてから2日後、私は乗組員が諦める前に沈みかけた船から逃げ出した船長のような気分になり始めました。ミドリザル病の患者への体制が整い、医薬品が準備出来るようになったらすぐにまた、性病患者の低価格の治療を再開しようと心に誓いました。暫くは、リバーロード診療所は閉めたままで、診療所についても、治療費をいくらでも払えるコンボ元少佐のような患者に最上級のケアが提供出来ればいいと考えるこのホスピスの危ういやり方についてもあまり考えないでおこうと思いました。診療所の常連とホスピスの患者は見ていても驚くほど対照的で、ホスピスの患者の場合、特に全般的に物腰も違いますし、自分の症状についても自由に話をし、治療費の心配もしていませんでした。一般にカナーンの患者は金で病気が治ると信じ、健康には人一倍気を遣っていました。私は専門の性感染症科の担当になり、すぐにこのホスピスに金を出しているような上流階級の間でも性感染症が広がっているのを知って驚きました。それまで私は、衛生状態がよければそれだけ事態もよくなるだろうと信じていましたが、実際には富裕層も、リバーロード診療所の患者が感染していたように、高い頻度でクラミジアやトリコモナス症、ヘルペスや淋病に感染していました。私の仕事は、性病の最新の治療法を研究し、ここの患者に可能な限り最良の治療を施すことでした。迅速さより金が優先され、薬が国内で手に入るかどうかは問題ではありませんでした。

イライザ法検査器具

重要なのは症状にあった薬を見極めて手許の問題とうまく組み合わせることでした。正しくても間違っていても、カナーンホスピスは何年間か発展を続け、常連の患者が、金さえ出せばどんな病気でも治してくれると信じる場所になりました。しかし受付の係員は、前金を受け取りながら、眼科と精神科と整形外科に関しては
「他の病院をご照会します。」と念を押していました。どうしてその3つの科だけが例外なのかと聞いたとき、ディンシン医師は肩をすくめて「医者なら誰でも好き嫌いがあるもので、その3つの分野はずっと好きになれなくてね。」と答えました。

「ムングチ先生も、腰より下の病気を専門に選んだ。同じように、カナーンも眼と脳と骨を仕事から外して選んだだけだよ。君は集中して感染症に関してすべてを学んだ方がいい。特に、ミドリザル病の難問を解決してくれると期待しているよ。」と、ディンシン医師は私に言ってから、好きな「医療倫理」の話を始めました。ディンシン医師はその分野については非常によく知っていました。今世間で話題になっている安楽死や試験官ベイビー、中絶や養子縁組や幼児殺害、輸血、心臓と腎臓の移植、脳死や自死や、世界中の医療に関わる人たちが抱えるたくさんの問題について話をしました。ディンシン医師は広く世界を旅行していて、医療問題と特に米国と西欧の訴訟報告の新聞記事の切り抜きを集めていました。その切り抜きを綴じた大きなファイルを読むようにと私にくれました。記事の中に、両親を含む周りの人たちの願いに反して、ある兄妹が裁判所に申請して結婚を許された有名な裁判の記事がありました。2年間取り付けられた生命維持装置を大切な子供から外してやりたいと両親が願った「死ぬ権利」を求めた米国の少女の闘いの記事もありました。専門が性感染症学だからだと思いますが、非常に興味を惹かれたのは、貞節な白人の妻が黒人の子供を産んだという記事でした。遺伝学の理論がたくさん述べられていましたが、どれも納得のいく説明にはなっていませんでした。しかし、近所の売春婦が見つかってやっとその謎が解けました。夫のペニスの包皮に売春婦の体に残っていた黒人男性の精液がついていたからです。医療行為に関するケニアの法律の議論になりましたがディンシン医師は極めて柔軟な感じでした。

「充分に国が発展をして、すべての問題で英国議員の真似をやめる時が来れば、ケニアでも、安楽死や中絶や自殺を受け容れるようになるだろう。国内の呪術師や薬草師や偽医者やいかさま師が、こう言った問題で自由な選択肢を与えられると想像出来るかね?」
「かなり混乱しそうですね。」と、私はディンシン医師に賛成して言いました。
「10代の堕胎を手伝ったり、末期患者の苦しみを和らげるというような害のない問題には、裁判所は一切触れないというのは覚えておくといいね。つまり私たちは、多くのダウン症や体に障害のある赤ん坊をこの世の悲惨な毒牙から救ってきたということだね。」と、ディンシン医師は話をまとめ、ミドリザル病の今後の問題点をたくさん指摘して話を終わりました。
「君の専門には、陰嚢の象皮症にかかるよりもずっと恥ずかしいと世間がみなす末期の病気も含まれるからね。最近読んだのだが、母子感染の例もあるそうだよ。ジョゼフ・ムングチ先生、どうか準備を怠りなく。カナーンは君に大いに期待してるから。」と、ディンシン医師は私に言いました。

1日おきに、国内の日刊紙シチズンとヤードスティックとシティタイムズがミドリザル病の記事を載せていました。私は記事をとても興味深く読みました。特に問題になっていたのはその病気の起源でした。西洋のメディアは、中央アフリカのミドリザルサバンナモンキーが起源であると報じました。アフリカ諸国は憤慨してすぐにその説に反対して立ち上がり、アフリカ人の間には殆んど同性愛は存在しないことを論拠に反論しました。ロシア人は、生物兵器にこの病気を利用しようと考えた米国人の遺伝子工学が病気の原因だという説を持ち出しました。

私は特に米国国立癌研究所の報告書を何時間も読みました。ヒトT細胞白血球ウィルス3型(HTLV3型)に関する総合的な報告が載せられていました。パリにあるパスツール研究所では、リンパ節が肥大した患者からミドリザルウィルスを単離して、リンパ節症関連ウィルス(LAV)と名づけていました。カナーンに来てから三ヶ月ほど経った頃には、患者がホスピスの入所許可をもらう前にミドリザル病の検査のために送られる監視役に私はなっていました。私は出発点に戻ったわけです。私にHTLV3型の治療が出来ると考えて患者が押し寄せて来たリバーロード診療所のときと同じマスクと手袋をつけました。

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ムンビは1985年3月15日にカナーンに着きました。恋人ではなく患者として来たとムンビは言いました。診療室にムンビを連れて来て、まず、HTLV3型の検査をしたあと、カナーンで働く条件として話をした私の子供の出産の為に母親が来たとギチンガ医師に伝えました。その母親がドクターGGの娘であることも言いました。ムンビが治療費は自分で払うので、料金に関しては特別扱いはしないで欲しいと言い張りましので、2人とも驚いてしまいました。しかし、ギチンガ医師は、自分や他の大勢の医者が如何に病人を診るかを教わったあなたのお父様ドクターGGのためにカナーンの好意を受けて欲しいとムンビを説得しました。ムンビにはミドリザル病で見受けられる下痢や帯状疱疹、皮膚の異常や高熱はなく、ムングチ医師の息子を宿しているのですから、入院費も要りませんでした。

ムンビがカナーンに到着した次の日、私の診療室に白人の患者が運びこまれました。背の高い男でしたが、ひどい腹痛のために体を半分に折り曲げていました。ディンシン医師は当局が空港でこの患者を引き止めたと説明しました。その白人が例の死の病にかかっていると疑って、どこの航空会社も搭乗を嫌がりました。その見方に反論して、この患者の病気が死の病ではないと記した証明書を私が発行するようにディンシン医師に頼まれました。そうすればその患者は母国の英国に戻って治療が受けられるでしょう。ディンシン医師が一個人の都合で偽の情報を出すように私に求めたのが信じられませんでしたので、そんな取引の当事者になるのを私はきっぱりと断りました。

「ムングチ先生、ミドリザル病については今のところ誰も事実を把握していないんだよ。今日の報告だと、この病気は同性愛者の間だけの問題ではなくて、異性間でも病気が広がっているらしい。真実が明らかになっていないのに、偽証もなにもない。」
私はボブ・スミスと呼ばれている患者を診察しました。その男には確かに見覚えがありました。頬骨が突き出て、体重が三割も減っていました。肋骨と恥骨と大腿骨までが、まるで体から離れたように浮き出ていました。ナイロビ病院で咳の治療は受けていましたがうまく行かず、下痢の症状がひどくてすっかりお腹をやられていました。その白人を悩ませている病気は疑う余地もなく、患者にミドリザル病にかかっていると言いました。そうではないかと思っていたが、多額の治療費が払える英国に戻る必要があると患者は言いました。通常の旅客機が搭乗を許してくれないのなら、ジェット機を貸し切りにすればどうかと薦めましたが、一緒の飛行機に乗ろうという乗客がいるとも思えませんでした。

なぜ私が検査結果を偽証すべきなのかはわかりませんでした。カナーンは一万シリングを稼げたのでしょうが、ミドリザル病の感染拡大を容易に早める取引の当事者にはならないと私は心に誓いました。ずっと以前に『カサンドラクロス』という映画を見て、閉ざされた公共交通機関内での伝染病の恐ろしさを知りました。そういった危険性を私が心配していることをギチンガ医師と、私を馘にすると脅すディンシン医師に説明しました。次の日、すべての新聞が、ミドリザル病の患者がカナーンホスピスでの治療を拒んでベンツの中で銃を撃って自殺したという話を載せました。警察はイングランドのシェフィールド出身のイアン・ブラウンだと名前を公表しました。

イアン・ブラウンの死を悲しいとは思いましたが、自責の念は起きませんでした。カナーンで2万シリングの仕事を手に入れたときに考えていたよりもたくさんの問題が起きました。マクドナルド医師が取り上げた赤ん坊がミドリザル病にかかっているとわかりました。もし状況を教えられていれば、母親はその赤ん坊を殺そうとしたでしょうが、感染を恐れて、病院は他の赤ん坊と一緒の育児室には置きませんでした。そういった患者の責任者として、私は最良の選択肢を助言しなくてはいけませんでした。ディンシン医師は安楽死を考えていましたが、私はヒポクラテスの誓いに反するからと言って反対しました。雨が降れば土砂降りという予言めいた言葉どおり、私に健康な男の子が産まれましたが子供は白人だったという知らせをギチンガ医師が運んで来ました。ああ、なんということでしょう。恥ずかしさのあまり、ここから逃げ出して隠れたい気分でした。ドクターGGの娘ムンビとの間に子供を作る競争では、私よりもあのフィンランド野郎が一歩先を行っていたわけです。私はまともにムンビも子供も見られないまま、ムンビが出産後の2日間をカナーンで過ごしたあと、退院してそのまま空港に行き、欧州行きの英国航空に乗ったと、部屋に来てくれたアイリーンから聞かされました。目から涙が溢れましたが、こぼれ落ちないようにじっと我慢しました。アイリーンには私の苦悩がわかっていて、私は「これが人生だね。」と応え、アイリーンをドアの向こうに見送って部屋に鍵をかけました。

次の日、ヤードスティック紙は銀行から20万シリングを引き出し、その一部を使ってニエリの町で売春婦と過ごした大金持ちゴッドフリィ・マインバがミドリザル病で苦しんでいたという話を詳しく載せました。マインバは逮捕されましたが、自分の金で楽しんではいけないという法律はありませんから、結局は釈放されました。1週間後、ユーニス・マインバがカナーンに来て、夫が釈放されてミドリザルのウィルスを死ぬ前に自分にうつすので、国を出なければいけないと言いました。マインバにはもう逃げ道が無いと私は感じました。その病気は国じゅうで人々の大きな脅威となっているようでした。メルでは、町で評判の天使のようにかわいい女の子が、その病気に感染した後も町の役人連中と寝るのをやめなかったと報じられました。役人たちは一斉に女の子を責めましたが、何も規制は出来ませんでした。現段階では法律上、ミドリザル病にはまだ報告義務はなく、もし仮に報告があっても、治療のための薬が存在しないので、医者が治療義務を怠ったとして起訴することも出来ませんでした。ケニアでは同性愛や静脈注射による麻薬常用者の患者が少なくても、私たちが非常に大きな危険にさらされているという証拠が、じわじわと明らかになっているにも関わらず、当時の政府は病気の存在も認めませんでした。

ナイロビ市街

執筆年

  2011年3月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 32

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(27)