『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(30)最終章
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の30回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(30)
最終章
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
最終章
私がエイズ検査を受けるつもりだと言うと、アイリーンは私が一度も検査を受けたことがないのを知って驚きました。私が感染する理由がないと言うと、自分は敢えて治そうとはしない医者ですね、とアイリーンは笑って言いました。ナイロビ病院では医者は検査が必要だそうですよとも言いました。最初は簡単な血液検査をするだけと言われて、後でイライザ法の検査結果を知らされるのだそうです。アイリーンのは陰性でした。
エドワード・キマニ医師が私の左腕から血液を200ミリリットル採りましたが、結果は私以外には言わない神に誓って約束してくれるようにとエドワード・キマニ医師に頼みました。この呪わしいウィルスに苦しむ患者を何人も見て来た後では、検査結果はどうでもいいとその時は思っていました。しかし、実際に結果の知らせが電話で来たとき、私は興奮のあまり飛び上がってしまいました。
「ムングチ先生、大丈夫でしたよ。」と、キマニ医師が言いました。
「今のところ大丈夫という意味ですか?」
「そうですよ。」
「コンドームを発明した人に感謝です。」
HIV検査イライザ法器具
ナイロビ研究所のマックスウェル・ハングという人が署名した通知書を渡されるまで、私は信じられませんでした。新しい人生を与えられたようで、ただ一人の人とこの気分を分かち合いたいという気分でした。
私は車でムンビの葬式に行きました。すっかり葬式が終わった後、崩れ落ちそうになる私を暖かい手が支えてくれているのに私は気付きました。泣く人たちの姿でそれまで見えなかったのですが、背の高いその人の姿が見えました。
「アイリーン、ジュネーブで仕事をしないかと誘われていてね。」
「まあ!それは良かったですね。」
「でも、引き受けないつもりだけど。」と、私は付け加えました。
「どうして?ほんとに頑固な人ですね。」
「君のそばを離れたくないんだよ。」
「離れる必要はありませんよ。」
「君もジュネーブに来てくれるの?」
「ご一緒しますよ。」と、アイリーンは短かく言いました。ケニア中央病院とリバーロード診療所、そしてカナーンホスピスとタラでアイリーンと共に過ごした時間は、すべてアイリーンに繋がっていたのだと思いました。1987年の4月22日に、私たちはジュネーヴに出発しました。
私がエイズ検査を受けるつもりだと言うと、アイリーンは私が1度も検査を受けたことがないのを知って驚きました。私が感染する理由がないと言うと、
「自分自身は敢えて治そうとはしない医者ですね」とアイリーンは笑って言いました。ナイロビでは、医者には検査が必要だそうですよ、とも言いました。最初は簡単な血液検査をするだけと言われて、後でイライザ法の検査結果を知らされるのだそうです。アイリーンは陰性でした。
エドワード・キマニ医師が私の左腕から血液を200ミリリットル採りましたが、結果は私以外には言わないと神に誓って約束してくれるようにと頼みました。この呪わしいウィルスに苦しむ患者を何人も見て来た後では、検査結果はどうでもいいとその時は思っていました。しかし、実際に検査の結果を電話で知ったとき、私は興奮のあまり飛び上がってしまいました。
「ムングチ先生、大丈夫でしたよ。」と、キマニ医師が言いました。
「今のところ大丈夫という意味ですか?」
「そうですよ。」
「コンドームを発明した人に感謝です。」
ナイロビ研究所のマックスウェル・ハングという人が署名した通知書を渡されるまで、私には信じられませんでしたが、新しい人生を与えられたようで、ただ1人の人とこの気持ちを分かち合いたいという気分でした。
私は車でムンビの葬式に行きました。すっかり葬式が終わった後、崩れ落ちそうになる私を温かい手が支えてくれているのに気が付きました。泣く人たちの姿でそれまで見えなかったのですが、背の高いその人の姿が見えました。
「アイリーン、ジュネーブで仕事をしないかと誘われていてね。」
「まあ!それは良かったですね。」
「でも、引き受けないつもりだけど。」と、私は付け加えました。
「どうして?ほんとに頑固な人ですね。」
「君のそばを離れたくないんだよ。」
「離れる必要はありませんよ。」
「君もジュネーブに来てくれるの?」
「ご一緒しますよ。」と、アイリーンは短かく言いました。ケニア中央病院とリバーロード診療所、そしてカナーンホスピスとタラでアイリーンと共に過ごした時間は、すべてアイリーンに繋がっていたのだと思いました。1987年の4月22日に、私たちはジュネーブに向けて出発しました。
ナイロビ市街地
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「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―」の連載はこれで終わりです。
次回からは、1992年に家族で行ったアフリカ南部ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の「ジンバブエ滞在記」を連載(→「ジンバブエ滞在記一覧」(「モンド通信」No. 35、2011年7月10日~No. 59、 2013年7月10日)する予定です。
作品の解説(玉田吉行)(「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)→)と翻訳こぼれ話(南部みゆき)は、もう少し続けます。
ジンバブエの首都ハラレで暮らした白人街の500坪の借家
執筆年
2011年6月10日