『ナイスピープル』理解12:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1
概要
エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の12回目で、エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)
『ナイスピープル』(Nice People)
本文
エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1
今回から何回かは2000年のダーバン会議で大旋風を巻き起こした元南アフリカの大統領タボ・ムベキとムベキが提起した問題について書きたいと思います。今回は、ムベキの育った時代の南アフリカの社会状況についてです。
ムベキほど、一個人でアフリカのエイズ問題で論争を巻き起こした人物もいないでしょう。前回の「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」(「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)で一部を紹介しましたが、政府のエイズ対策に失望していた国内の医療従事者や活動家の願いや、抗HIV製剤を売り込もうとする欧米の製薬会社の圧力も充分に承知したうえで、「すべてを一つのウィルスのせいには出来ず、ありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要がある」というそれまでの主張を繰り返しました。「会場は水を打ったように静まりかえりました。」(20066年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)ムベキの演説を聞いて「数百人が会場から出て行きました。」(「ワシントンホスト」紙、2000年7月10日)つまり、大半の人たちが思い描いていた期待にムベキの演説が応えられなかったということでしょう。
ダーバン会議でのムベキの発言に、欧米のメディアは過剰に反応しました。ほとんどが極めて否定的な報道でしたが、アフリカ内の反応は決して否定的なものではありませんでした。極めて対照的な反応だったわけです。当時のメディアの反応については別の機会に詳しく触れたいと思いますが、今回は欧米のメディアに叩かれたムベキについてです。
ムベキが大半の人たちの期待に反して、敢えてなぜそれまでの主張を繰り返したのか。その真意を知るためには、ムベキがどのような人物なのか、ムベキの生きた南アフリカはどんな社会状況だったのかを知る必要があるでしょう。先ずは、ムベキの育った時代と社会状況を見てゆきたいと思います。
ムベキは1942年に東ケープ州で生まれています。父親はゴバン・ムベキ。1964年のリボニアの裁判ではネルソン・マンデラ他7名と共に終身刑を言い渡されたあのゴバン・ムベキで、1963年にフォートヘア大学で教員免許といっしょに政治と心理学の学位を取得したインテリです。
ゴバン・ムベキ(『差別と叛逆の原点』より)
フォートヘアは1916年創立の伝統校で、ソブクウェやマンデラをはじめ、詩人のデニス・ブルータスや、1980年の独立以来今だに大統領職にしがみついているジンバブエのロバート・ムガベなど、アフリカ人の超エリートを輩出したアフリカ人向けの大学です。南アフリカの歴史の本としては古典の部類に入る野間寬二郎さんの『差別と叛逆の原点』(理論社、1969年)には、リボニアの裁判での様子が、「被告のなかの最年長者で、もっとも学識があるといわれるゴバン・ムベキは、終始落着きを失わず、しずかに、ときには聖職者を思わせる口ぶりで、とくにリザーブでのアフリカ人の貧困と苦悩について陳述した。」と紹介されています。あとで紹介するアレックス・ラ・グーマなどと同じく、ムベキもそんな父親の影響を受けて早くから解放闘争にかかわるようになったわけです。
『差別と叛逆の原点』
白人が殺し合いをした二つの世界大戦によって世界の秩序が大きく変わりました。それまで絶対的だった白人の力が低下し、それまで押さえつけられていた人たちが権利を主張し始めました。欧米で教育を受けたアフリカ人が祖国に戻り、抵抗運動を先導しました。変革の嵐と言われた1950年代後半から1960年代にかけてのアフリカ諸国の独立も、1955年にインドネシアで開かれたバンドン会議も、米国の公民権運動もその延長線上にあります。南アフリカでも1955年に国民会議が開かれました。
南アフリカは元々ヨーロッパ入植者が侵略して創り上げた国です。最初にオランダ人が、次にイギリス人が来てアフリカ人から土地を奪い、アフリカ人を安価な労働者に仕立てあげました。当初国自体は、軍事的に見てさほど重要性を持ちませんでしたが、19世紀後半に金とダイヤモンドが発見されてから、事態が急変します。オランダ系の入植者とイギリス系の入植者は壮絶な覇権争いを繰り広げますが決着はつかず、結局1910年に南アフリカ連邦を創設し、アフリカ人を搾取する点に妥協点を見い出しました。イギリス系の統一党とオランダ系の国民党の連合政権でした。経済的に優位だった統一党が与党で、南アフリカ連邦の根幹は、アフリカ人から奪って法制化した土地と、土地を奪って無産者に仕立てたアフリカ人の安価な労働力でした。アフリカ人は短期契約の労働者(今でいう昇級のない一番安上がりなパート従業員です)として、鉱山で鉱夫として、大農場で小作農として、工場ではパート職員として、白人家庭ではメイドやボーイという召使いとしてこき使われます。
ヨーロッパ入植者の侵略にアフリカ人が抵抗しなかったわけではありません。槍と楯で果敢に立ち向かっていますが、ヨーロッパ人入植者の銃と金の力は圧倒的でした。1912年には今の与党アフリカ民族会議(ANC)の前身南アフリカ原住民民族会議を結成して土地政策の制定を阻止しようとしていますが、圧倒的な力の前になす術もありませんでした。
事態が動き出したのは第二次大戦後です。連合国側にいた南アフリカは、二つの大戦を経て、食料や工業製品を輸出する一大工業国になっていました。当然、アフリカ人労働者の需要も増していたわけです。ここで若いアフリカ人が動き出します。1943年、ネルソン・マンデラ、オリバー・タンボなどがANC青年同盟を結成しました。その中にムベキの父親もいたわけです。若い人たちはそれまでの世代のやり方に飽きたらず、充分に戦略を練り、労働者を組織して大規模なデモやストライキを精力的に展開しました。ゴバン・ムベキは、地元東ケープ州トランスカイの農民を組織し、アパルトヘイト政府がでっちあげたバンツースタン政策に強硬に反対しました。(トランスカイの反乱として知られています。)1956年から1960年の農村社会での政府との対決を主導し、のちに出版された『南アフリカ:農民の革命』(1964)に、農民やトランスカイの実態を書き残しています。
『南アフリカ:農民の革命』(South Africa: The Peasants’ Revolt)
ストライキによって、食料や鉱物や工業製品などの生産に支障が出るようになり、社会は騒然としてきました。そんな社会情勢のなかで、1948年に総選挙が行なわれます。総選挙と言っても人口のわずか15%足らずの白人だけの選挙です。勢いに乗るアフリカ人労働者をもはや押さえきれなくなった与党統一党に変わって政権を取ったのは、オランダ系アフリカーナーの国民党です。人種差別をスローガンに掲げた国民党は、白人の六十%を占める貧しい農民の票を獲得して、過半数の議席を取りました。大半のアフリカ人の給料を据え置き、少数の貧しいオランダ系農民を優遇する戦略が見事に功を奏したわけです。
次回も続きを書きたいと思います。
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執筆年
2010年3月10日