『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2

2020年3月5日2010年~の執筆物ケニア,医療

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の10回目で、エイズ治療薬と南アフリカ(2)南アフリカ政府とゴアです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズ治療薬と南アフリカ(2)南アフリカ政府とゴア

前回の「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)紹介した南アフリカ政府と米国副大統領ゴアとのエイズ治療薬をめぐる論争は、「先進国」と製薬会社との関係を鮮明にあぶり出しました。手の届かない抗HIV製剤を何とか安価に手に入れたいと願う南アフリカと、エイズをも利潤の対象にして稼ごうとする「先進国」の製薬会社。それはまさに、第二次世界大戦後に巧妙に「先進国」が再構築した多国籍企業による搾取構造そのものでした。

製薬会社(「エイズの時代」)

エイズ治療元年と言われる1996年以降、エイズは不治の病ではなくなりましたが、カクテル療法に使われる抗HIV製剤は高すぎて、南アフリカの大半の人の手には届きません。欧米諸国や日本が搾取体制を維持するために設立した世界貿易機関が貿易関連知的財産権協定で、開発者の利益を守るために特許権を設定しているからです。南アフリカ政府は薬を安く手に入れるために、1997年、協定が「国家的な危機や特に緊急な場合」に認めているコンパルソリー・ライセンスを使えるようにするための法律を国会に提案してその法律を成立させました。そこにゴアが介入したのです。1999年、当時のエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」には当たらず、コンパルソリー・ライセンス法は特許権を侵害すると主張しました。そんなゴアを英国の科学誌「ネイチャー」(1999年7月1日)は次のように鋭く批判しました。

抗HIV製剤

熱き民主党の大統領候補者オル・ゴアは、エイズ問題に関してそれなりの信念を持ってやってきていましたが、ある緊急のエイズ問題で、製薬会社の言いなりの冷たいおべっか使いという汚名を着せられて、自らを弁護する窮地に立たされています。

この春に行なわれた出産前の臨床調査では、性的に活発な年齢層の22%がHIVに感染しており、2010年までにエイズによって平均寿命が40歳を下回ると予想されています。発症と死の時期を遅らせることが可能になったカクテル療法はごく少数の恵まれた人以外、南アフリカでは誰の手にも届きません。

この事態に直面して、1997年、政府はある法律を通しました。同法の下では、権利の保有者にある一定の特許料を払うだけで国内の製薬会社が特許料を全額は支払わずともより安価な製剤を製造することが出来るという権利、いわゆるコンパルソリー・ライセンスを厚生大臣が保証出来るというものでした。・・・

欧米の製薬会社はそれを違反だとして同法の施行を延期させるように南アフリカを提訴し、ゴアと通商代表部は・・・その法律を改正するか破棄するように求めました。

公平に見て、アメリカの取り組みを記述するその強引な文言は、数々の巨大製薬会社の本拠地であるニュージャージー州から選出された共和党議員の圧力に屈して国務省がでっち上げたものです。・・・

しかしながら、動機がどうであれ、最近のゴアの記録は事実として残ります。南アフリカ大統領タボ・ムベキとともに、米国―南アフリカ2国間委員会の共同議長としての役割を利用して、副大統領は、悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返したのです。これまで「良心の価値」を唱え続けて来た人の口から出た言葉であるだけに、その発言は、少し喉元にひっかかりを感じます。

タボ・ムベキ

大統領選挙で、ゴアはブッシュに僅差で敗れました。石油業界や兵器産業界が地盤のブッシュは父親がした湾岸戦争にならって、武器の在庫を一掃するかのようにイラク戦争を強行しました。エイズは、そういった意味でも世界を左右する大きな問題でもあります。

<コンパルソリーライセンス法>を成立させた背景

「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)で紹介しましたが、HIVは売春婦や鉱山労働者を介して急激に広がっていきました。ジョハネスバーグ近くの最大のスラムソウェトのような密集したアフリカ人居住地区では特に感染者の数は多く、出産や授乳で乳児にも感染しました。医師や看護師は、目の前で爆発的に流行していくのをただ見守るしかありませんでした。ソウェトのバラグワナス病院のグレンダ・グレイ医師が当時の様子を次のように語っています。

子供のエイズ患者が増え集中治療室が一杯になりました。やがて子供の患者は集中治療室には入れないという決定が下されました。その子供たちは末期患者だからです。もっと助かる見込みのある子供のためにベッドを空けておく必要がありました。エイズが新たな人種隔離政策を生んだかのようでした。エイズの病状による差別が始まったのです。医師も看護師も無気力でした。何もしない政府への怒りもありました。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

1990年2月に釈放されたネルソン・マンデラは1994年5月に大統領に就任しました。エイズ予防に奔走した人たちはマンデラに期待しましたが、エイズには何も触れずに、すべてを副大統領のタボ・ムベキに一任しました。大統領だった5年間、マンデラはエイズ問題にほとんど関心を示しませんでした。政権委譲に伴なう問題が山積みで、エイズ問題までは手が回らなかったというのが実情でしょう。1964年のリボニアの裁判でどうして武力闘争を始めたのかを説明するのにアフリカ人の強いられた惨めな毎日の生活状況をとうとうと述べ、その後27年間も獄中にいた人が、アフリカ人の窮状を知らないわけがありません。しかし、南アフリカのHIV感染者は毎年2倍のペースで増え続けて行きました。

クワズールナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「流行を食い止めようといくら努力しても希望の光はまったく見えて来ませんでした。手強い相手と戦うにはすぐれた武器が必要です。でも私たちには、流行を止める有効な手段が何もありませんでした。」(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と述べています。

グレイ医師は政府の無策について「アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。黒人の病気だからと切り捨てたからです。新しい黒人政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です。(「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」)と批判しています。

2000年のダーバン会議は、次回です。

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執筆年

  2010年1月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 18

ダウンロード・閲覧

  →『ナイスピープル』を理解するために―エイズ治療薬と南アフリカ(1)