『ナイスピープル』理解13:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ2 育った時代と社会状況2 アパルトヘイト

2020年3月3日2010年~の執筆物ケニア,医療

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の13回目で、エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(2)育った時代と社会状況2 アパルトヘイト、です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(2)育った時代と社会状況2 アパルトヘイト

 今回はムベキが闘ったアパルトヘイトについて書きたいと思います。
前々回の「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)では、内外の厳しい批判を受けながらもムベキがそれまでの主張を繰り返したダーバン会議について紹介し、前回の「『ナイスピープル』理解12:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1」 「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)では、ムベキが大半の人たちの期待に反して、どうして敢えてそれまでの主張を繰り返したのかを知るために、ムベキの生まれた1942年からアパルトヘイト政権の誕生した1948年までを取り上げました。今回はアパルトヘイトについてです。

すでに書きましたが、ムベキの生まれた頃の世界は大きく揺れており、南アフリカでも大きな転換期を迎えていました。連合国側にいた南アフリカでは英国や米国が消費物資を求めたために製造部門が飛躍的に伸び、アフリカ人労働者の需要が高まっていました。

ANC(アフリカ民族会議)では、1943年にネルソン・マンデラやオリバー・タンボなどが青年同盟(ユースリーグ)を結成し、労働者を組織して大規模なデモやストライキを積極的に展開しました。

オリバー・タンボ

1910年にヨーロッパ人入植者が一方的に創った南アフリカ連邦がイギリス系の統一党とオランダ系の国民党の連合政権だとすでに書きましが、与党の統一党は過激化するアフリカ人労働者を抑え切れなくなりました。より多くのアフリカ人労働者を必要としていた国内産業は、賃金の引き上げによってアフリカ人労働者を獲得しようとしましたが、安価なアフリカ人労働者に依存していた白人の農場経営者や鉱山所有者の反対に遭います。その人たちは逆に安定したアフリカ人の安価な労働力を保証してくれる労働力市場を国に要求しました。

そういった国内が揺れていた1948年に総選挙を迎えます。もちろん総選挙と言っても人口の僅か15%足らずの白人だけの選挙で、イギリス系40%、オランダ系60%の人口構成でした。それまでも製造部門で人種による優遇策を一部で実施し、第二次大戦ではナチスドイツに傾倒した国民党は、選挙のスローガンに人種差別を前面に掲げました。実はオランダ系の大半は貧しい農民(プアホワイト)で、その人たちにとっては組織化されて力を見せ始めたアフリカ人労働者との競争に勝つためには、国民党の掲げる人種差別主義が社会の低辺に沈まない唯一の道だったわけです。ボーア戦争でイギリス人と闘って味わった屈辱も後押しして、大半が国民党に投票し、国民党が過半数を得て第一党になりました。

人種差別するためにアパルトヘイト(人種隔離)政策が行なわれたと思われがちですが、そうではありません。人種差別はあくまで利用されただけです。実態は土地を奪って課税して作りだした大量のアフリカ人労働者の安い賃金を据え置いて、人口の少ないオランダ系のアフリカーナーの賃金を優遇して搾取構造を最大限に温存するために人種差別を利用した、白人とアフリカ人の間に人種の壁(カラーライン)を引いて利用したということです。アフリカ人は賃金の高い仕事(Civilized Labour)を法律で禁じられ、単純労働(Manual Labour)しか許されませんでした。

僕はアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(1908-1960)を読んだ時に作品を理解したいと思ってアフリカ系アメリカ人の歴史について資料を探したり、アメリカの南部にも行ったのですが、アングロサクソン系の人たちは、アメリカでも南北戦争や奴隷解放をめぐって同じことをやっているのを知りました。中学や高校の歴史の教科書にはリンカーンが奴隷を解放したと書かれているようですが、そんなことはありません。理論上は解放されたことになってはいますが、実質的には何も解放されませんでした。南北戦争は奴隷貿易で資本を蓄積した北部の資本家が南部に保持されている奴隷を解放して自分たちが安い労働力を得るために起こした内戦で、北部に負けて奴隷解放を認める代わりに、多数いた貧しい農民(プアホワイト)を少し優遇し多数のアフリカ系アメリカ人の賃金を据え置くという実質をとって搾取構造を温存しました。白人と黒人の間に人種の壁(カラーライン)を引いて、人種差別を利用したわけです。解放された奴隷は実質的には当面は移動の自由もなく、奴隷から小作農(シェアクロッパー)に名前を変えて元の農園に留まらざるを得ませんでした。アメリカの場合、差別主義的な白人の組織KKKやリンチなどを利用し、暴力によってそのカラーラインを守りました。

シェアクロッパー

アパルトヘイト政権の場合は、アフリカーナーは与党として「合法的に」数々の法律を作り、国家予算の30%近くも警察力や軍事力に費やして反対勢力を押さえ込みました。もちろん僅か15%の白人政権だけで多数派を押さえ込めるはずもなく、豊かな鉱物資源や安価なアフリカ人労働力の恩恵を受けるために、貿易や資本投資や国際援助の名目で協力を惜しまない英国や米国、それに戦後国交を再開した西ドイツや日本がいての話です。その構図を考えると、南アフリカのアフリカ人が日本を敵視したのも無理ありません。

「Thabo Mvuyelwa Mbeki」(ANCの公式サイト)によれば、ムベキは1956年、14歳の時にユースリーグに参加して学生運動に関わり始めています。1959年には大規模なストライキで学校に通えなくなり自宅での学習を余儀なくされました。後にヨハネスバーグに移り、オリバー・タンボやデュマ・ノクウェなどの指導を受け、アフリカ学生会議の書記をしたあと、1962年にANCの指示でタンザニアからロンドンに渡り、1966年にサセックス大学で経済学の修士号を得ています。その間、亡命者による学生組織を作るのに尽力し、1970年に軍事訓練のためにソ連に派遣されています。その後、ボツワナ(1973-74年)、スワジランド(1975年)、ナイジェリア(1978年)を経て、ザンビアのANC本部に戻ってオリバー・タンボの政策秘書になりました。

1989年からはANCの国際関係部門の責任者となり、白人政府との折衝の重要な役割を果たしています。1994年のマンデラ政権では最初の大統領代行となり、1997年にANCの議長、そして1999年の6月にはマンデラのあとを受けて、第2代の大統領に就任しています。

タボ・ムベキ

このように見て来ますと、ムベキの人生の大半は命をかけたアパルトヘイトとの闘いの連続であったことがわかります。同じ世襲の世代でも、親から多額の選挙資金をもらっても知らなかったと言い続ける日本の首相とは、ずいぶんと違います。

少し長くなりますが、次回はムベキも関わらざるを得なかったアパルトヘイト政権との闘いについてです。

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執筆年

2010年4月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.21

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(13)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(2)育った時代と社会状況2 アパルトヘイト」