アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』

2019年11月2日1990~99年の執筆物アレックス・ラ・グーマ,南アフリカ

概要

アレックス・ラ・グーマの第二作 And A Threefold Cord (イギリスクリップタウン社一九八八年刊)の日本語訳で、初めての翻訳本です。初版は西ドイツベルリンセブンシィーズ社で一九六四年に出版されました。

クリップタウン社刊

 教科書版の注釈書(一九九一刊)を英語の授業で使っていましたが、門土社の關功さんのお誘いを受けて、翻訳しました。学生時代に、教員の姿をみて、翻訳本と教科書は出さないと思っていましたが、教科書についで翻訳本も出すことになりました。

注釈書 And a Threefold Cord(一九九一刊、表紙絵小島けい画)

 一九九二年に家族でジンバブエの首都ハラレにいたときに、本が届きました。表紙絵は、奥さんに描いてもらいました。衛星放送で見たナミビア辺りの映像からイメージをもらい、自分の理想の犬を放して、水彩で描いてくれました。

本文(写真作業中)

『まして束ねし縄なれば』(門土社、平成四年、1992年)

大切なブランシにこの本を捧げます

目次は↓

序 5 (収載)

まして束ねし縄なれば 17

アレックス・ラ・グーマの思い  169 (収載)

地図(南アフリカとケープタウン) 174

南アフリカ略史アレックス・ラ・グーマ年譜 175

ここでは①ブライアン・バンティングの「序」と②「アレックス・ラ・グーマの思い」を掲載します。

南アフリカで「芸術のための芸術」という概念を持ち出すのは容易なことではありません。人生そのものが執拗に様々な問題を投げかけ、その執拗さを無視できないからです。世界中を見渡してみても、この国ほど、頭に「政治的」という言葉がつく問題に人々が深くかかわっている国も少ないでしょう。アパルトヘイト政策は、始めた人たちが政略的な理由からその政策を否定している今日でも、人生のあらゆる局面に顔を出し、(白人の、カラードの、あるいはインド人の) 国会議員であれ、実業家であれ、労働者や聖職者、あるいは運動家や芸術家であれ、その政策の必然的な結果から逃れることはできません。もし、芸術というものに意義があるとすれば、この国の人々に取りついて離れない強迫観念や、南アフリカの人々の魂を憔悴させ、時には魂を崩壊させる感情を映しだすべきです。

反対勢力の激しい政治論争に恐れをなしたり、抗争の激しさに圧倒されたり、あるいは単に恐怖心を抱いて、自分の立場を明らかにしてある判断を示すよりも沈黙を守ろうとする作家もいることは確かです。しかし、全体として、まだ歴史は浅いながらも、南アフリカ文学ははっきりと政治的な状況を意識していることを示してきました。色々な事実に怯むことなく、人生や真実を大切に思う人たちによって、最も優れた、味わい深い文学が生み出されてきたのです。

いくらそのつもりでも、南アフリカのすべての人々が様々な事実を知るのは容易なことではありません。人口登録や居住区の人種による隔離政策は厳しく、黒人と白人の間の分け隔ては非常にはっきりとしていて、両者の接点は極めて少ないのです。したがって、法的な障害があり過ぎて、現実に親しく付き合うのは極めて稀なことです。白人が黒人の生活を書こうとすれば、経験によるより、むしろ直感や当て推量に頼らざるを得ない場合が多くなります。そのために、時には人物の扱いが上すべりになっていたり、ごまかされたりしている場合もありますが、自ら望んだり意図したりしたものでないだけに、かえって残念です。

南アフリカの黒人作家は、白人の作家に劣らず、うまく洗練された形で全体の状況を描きだすのが難しいと感じながらも、作品を通して、南アフリカの全体像をただすのに大きな成果を収めてきました。黒人作家には、たえず一つだけ、白人作家よりも有利な点があったのです。つまり、南アフリカの人口の大多数を占める黒人に悲劇をもたらしている条件や状況を、詳しく、個人的に知っているという点です。白人の作家は、法律や習慣や黒人と比較すれば極めて安楽な生活によって保護され、人種の闘争からワン・クッションおかれた社会に所属しながら、どちらかと言えば、自分が直接かかわってはいない戦闘の状況を描く従軍記者に似た立場から、南アフリカの闘いを遠くから観察します。しかし、黒人作家の場合は、戦場で実際に闘っている戦士としてものを書きます。南アフリカのドラマがもっとも強烈に演じられるのは、黒人の生活の真っ只中においてです。喜びも悲しみも、嬉しさも厳しさも、その人たちの心の奥深くで感じたもので、たいていの白人の経験の枠をこえた状況のなかで体験したものです。

ブルドーザーで一掃され、今は歴史の中に消えてしまいましたが、かつては活気に満ちたカラード社会の中心地であった、ケープタウンの第六区に生まれ育ったアレックス・ラ・グーマの作品は、その街の姿を鮮明に描き出しています。アレックスは、ジミー・ラ・グーマの長男として、一九二五年に生まれました。父親ジミーは、南アフリカ闘争の草分けの一人で、当時すでに、通商産業労働者組合(ICU)、アフリカ民族会議、それに南アフリカ共産党の業務で、重要な役割を演じていました。共産党では、党が一九五〇年に解散させられるまで、中央委員会の一員でした。生まれた年から、一九八五年にハバナで死ぬ間際まで、政治は、アレックスの生命そのものだったのです。

トラファルガル・ハイスクールとケープ・テクニカル・カレッジを終えたあと、解放闘争に常時専念するようになるまで、事務員や会計係や工員として働きました。若年ながら共産党に入党し、党活動が禁止されるまで、党のケープタウン地区委員会のメンバーでした。その後も政治活動を続け、自由憲章が採択され、アフリカ民族会議の主導で会議運動が始まるきっかとなった、歴史的な一九五五年の国民会議の準備をするために、重要な役割を果たしました。

一九五〇年代には、政府の承認を受けて、国民党政権が、カラード社会に激しく襲いかかりました。体制は、人口登録法と集団地域法の条文をたてに、カラードのすべての権利を剥奪し、生活のあらゆる局面に人種隔離政策を押しつけようとしたのです。何千人もの人々が逮捕され、人種別に分類するという浅ましい作業に屈してしまいました。トランスバール州で人種別再分類の作業を担当した係官の手にかかった自らの苦い体験を、ある女性が次のように語っています。

検査官は、初めは右側から、次に左側から、私の横顔を見ました。それから、髪を念入りに調べました。目の細かい櫛をちゃんと持っていて、髪を少し摘むと、毛先のほうに櫛の目を入れたのです。そのあと、鼻に触って、おまえの母親の鼻はどんな形をしているかと聞きました。

南アフリカ・カラード人民機構(SACPO)の副議長として、アレックス・ラ・グーマは、こういった非道な行為に抵抗する最前線に立っていました。のちに、アレックスはSACPOの議長を引き継ぎ、その立場から、ケープタウンのバスにアパルトヘイト政策を導入しようとする動きに反対して、抗議運動を展開しました。(SACPOは、のちに南アフリカ・カラード人民会議と改名されました)

一九五五年八月のケープタウン会館での抗議集会で、ラ・グーマは次のように語っています。

みんなが国民会議の旗の下に団結すれば、自由と民主主義を求める闘いに敗れることはありません。南アフリカ国内だけでなく、国外にも、我々の側には、何百万という味方がついています。自由憲章が新しい南アフリカの基礎となり、未来は我々のものなのです。

一九五六年十二月五日、国じゅうで百五十六名の男女が警察に逮捕されましたが、アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。百五十六名は軍用機でヨハネスブルクに運ばれ、反逆罪で起訴されて裁判にかけられました。告訴側は、自由憲章で述べられた民主的な諸権利は極めて過激なものであり、国民会議を主催した人たちは、目的を達成する唯一の手段として武力と暴力によって政府の転覆をはかっていたに違いないと主張しました。この法廷論争と政治闘争については、裁判所で起訴事実が却下され、被告が自分たちの普段の生活に戻れるようになるまで、ほぼ五年の歳月が必要でした。

南アフリカで、積極的に政治活動をする人や、体制に反対して闘う人の生活は、決して正常ではありません。一九五八年のある夜、アレックスは暗殺計画の標的にされ、机に向かって仕事をしていた部屋の窓から二発の銃弾を撃ちこまれました。その一発は外れましたが、もう一発がアレックスの首をかすめました。暗殺者に見せかけた犯人の捜査は行なわれず、二、三日してからアレックスはポストに投げこまれた「おまえを殺りそこなって残念だ。またやって来る。愛国者」という匿名の手紙を受け取っています。

反逆裁判が未だ結審しないうちに、一九六〇年三月二十一日のシャープヴィルやランガでの警察による大量虐殺や、国民党政権による非常事態宣言に続いて、国じゅうがさらに激しい騒動に巻きこまれていきました。法に従って、政府は全国で二万人を逮捕しました。〈怠け者〉や〈浮浪者〉の名のもとに、急遽刑務所内で極秘裡に開かれた私的裁判にかけられて、遠隔地での強制労働につかされる者も出ました。二千人以上の政治的指導者たちが、裁判なしに、最高五か月のあいだ、刑務所に拘禁されたのです。アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。アレックスは、本を読んだり、ものを書いたり、のちに成功を収めることになる自らの仕事の準備をしながら、その幽閉された退屈な数か月間を過ごしたのです。

アレックスは生涯を通じて大の読書家で、かなり早い時期からものを書く腕試しをやっていました。しかしながら、仕事として本格的にやり始めるのは、一九五六年にスタッフに加わった進歩的な新聞『ニュー・エイジ』の記者としてでした。アレックスはそのペイジを、ケープタウンの人々の生活や闘争についての漫画やニュース記事、物語やたくさんの印象的な写真などで飾り立てました。

「ニュー・エイジ」一九六二年八月六日 ラ・グーマの活動禁止を報じている。カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)所蔵

その間じゅう、アレックスは政治活動も続け、嫌な思いを強いられる迫害にも決して気落ちすることはありませんでした。一九五六年、アレックスは、アパルトヘイト政策をとる事業や公共施設への経済的なボイコットを呼びかけるパンフレットを持って、許可証なしにニャンガ黒人居住区に入ったという理由で、ロナルド・シーガル、ジョゼフ・モロロングと共に逮捕されました。一九六一年には、ピーターマリッツブルク全アフリカ人会議の全国行動委員会のスポークスマンであるネルソン・マンデラが、ファヴールトの共和国宣言の式典に抗議して五月の終わりに三日間のゼネストを呼びかけた時、アレックス・ラ・グーマとカラード人民会議の仲間は、その呼びかけに応じて抗議運動に加わりましたが、逮捕され、政府がストライキの脅しに対処するために特別に成立させた新法の下で、裁判までは保釈金も積めない状態で、十二日間拘禁されました。ストライキが始まる前の大事な時期に指導者たちが刑務所にいるか、どこかに潜んでいたにもかかわらず、カラード社会の対応はすばらしく、ストライキの行なわれた三日間、ケープタウンの会社や商店は大きな打撃を受けています。

一九六一年六月に、アレックスは共産主義弾圧法で一切の活動を禁止されました。九月には不法なストライキを組織した嫌疑により、同法で起訴されましたが、その起訴はのちに取り下げられました。一九六一年十二月には、法務大臣からカラード人民会議の議長を辞めるように命じられました。しかし、同月、人々の忍耐は限界を越え、国じゅうのあらゆる地域の政府の建物や施設に対して向けられ一連の爆破事件は、解放運動の武力闘争部門、ウムコント・ウェ・シズウェの出現の前ぶれとなりました。

政府の反応は、悪名高い一九六二年の一般法修正令、いわゆる破壊活動法 (サボタージュ・アクト) で、なかでも、反体制の人間を自宅拘禁できる条文を含んでいました。一九六二年十二月に、アレックス・ラ・グーマは、一日に二十四時間、自宅拘禁を命ず、という通告書をつきつけられました。その通告の五年間に、アレックスを訪れることができる者は、わずかに母親と、妻の両親、それに過去、共産主義弾圧法に触れたり、活動を禁止されたりした経験のない医者と弁護士だけでした。

二十四時間の自宅拘禁生活をしていたという事実、その結果政治的な活動の可能性を完全に奪われたと言う事実でさえも、アレックス・ラ・グーマがさらに犠牲を強いられるという事態を救えませんでした。一九六三年に九十日間無裁判拘禁法が議会を通過したのに続いて、アレックスも逮捕され、裁判なしに拘禁されたのです。刑務所では、一日に二十三時間半、独房に監禁され、残りの半時間が「運動」と自分の時間にあてられるという孤独拘禁の状態におかれました。他の拘禁者の場合と同じように、アレックスも来訪者や読むもの、書くものを許されないばかりではなく、法的な助言者が近づくことも拒まれ、もっとも忌まわしい形の精神的な拷問を強いられて、警察の満足がいくまで尋問に答えることを強要される可能性もあったのです。

アレックスは屈しませんでした。アレックスにさらに圧力をかけるために、政府は、看護婦と助産婦をしていた妻ブランシも逮捕しました。二人の子供ユージーンとバーソロミューは、親戚が世話しなければなりませんでした。ブランシ・ラ・グーマは、のちに釈放されましたが、ほとんど同時に活動禁止命令も言い渡されました。当然の順序としてアレックスも釈放されましたが、保釈中の身で、発禁処分の文学書を所持していたとの罪で起訴される事態に直面しました。アレックスは有罪とされ、執行猶予つき三年の実刑を言い渡されたのです。

一九六六年、アレックス・ラ・グーマは再び拘禁されました。この頃までには、弾圧は非常に厳しいものになっていましたから、アレックスとブランシは二人の子供と一緒に祖国を離れることを余儀なくされました。家族は、最初ロンドンに落ち着き、イギリスにおけるANCの存在を強固なものにするために、大きな役目を果たしました。のちにアレックスがキューバでのANC主代表に指名されたとき、家族はハバナに移り住みました。アレックスとブランシの監督のもとに、何百人もの南アフリカの学生が、祖国では拒否された様々な分野の教育を受けることができました。

亡命の期間中、アレックスはできるだけ多くの時間を書くことに専念し、自らアジア・アフリカ作家会議の仕事にもかかわりました。アレックスは、世界平和評議会の議長の一人でもありました。一九八五年十月十一日、アレックスは、心臓発作のため、ハバナの病院で亡くなりました。六十歳でした。

死ぬ時までの数年間、アレックス・ラ・グーマはアジア・アフリカ作家会議の事務総長を務め、一九六九年にはその作家会議のロータス文学賞の受賞者になりました。一九八五年には、六十歳の誕生日を記念して、ソビエト連邦から民族友好勲章を、フランスからは文芸勲章を、コンゴからは文学賞を受けました。

アレックス・ラ・グーマが作家として、より広範な読者にその才能を最初にあらわしたのは、一九六二年の小説『夜の彷徨』の出版と同時でした。アレックスはすでに活動を禁じられ、喋ったり書いたりしたものは国内ではいかなる手段でも再現されることはありませんでしたから、最初の小説はナイジェリアのムバリ出版社から出版されました。二、三冊の本が密かに国内に持ちこまれ、人の手を経て読み継がれました。その本はただちに、想像力に富んだ優れた作品としての評価を得て世界中に出まわり、数力国語に翻訳されました。

その本は、わずか九十ペイジの長さの短篇小説です。しかし、そのペイジとペイジの間には、ケープタウンで最も色鮮やかな社会を構成した、カフェの常連や田舎者や客引き、労働者の夫婦、商売女やポン引きにちんぴらなど、ケープタウン第六区のさまざまなタイプの人物が登場するのです。建物がなぎ倒され、そこに住んでいた人たちが集団地域法によって四散させられて、第六区はすでにありませんが、かつて第六区を通ったことがある者は、その曲がりくねった混雑する通りを、その人間味あふれる騒がしさを、その臭いを、その貧しさと惨めさを、そして活発さと限りない多様性を忘れることはできないでしょう。いくら見た目が悪くても、その静脈の中には生命の鼓動が激しく鳴り響いていたのです。その鼓動があまりにも激しいので、今日まで度々その地区を「白人」地区に変えようと政府が努力してきましたが、黒人白人を問わず、ケープタウン社会全体の抵抗にあって、その計画は失敗に終わっています。人種差別をする人たちに土地を奪われたことに対する第六区の人々の憤りは、今日、ケープ西部の若者による政権と政策と軍隊に反対する全面的な闘争の中にこだましています。

1966年に強制立ち退きにあったケープタウン第六区の今と昔(タイム誌)

 アレックス・ラ・グーマは第六区をよく知っていました。ロジャー通り二番に住み、のちにガーランディルに移り住むまで、幼い頃の大半をそこで過ごしたからです。アレックスは、そこに住む人たちと、その人たちが「トラブル」と呼んでいたその人たちの問題を理解し、よく知っていて、心をこめ、細心の注意を払ってその問題について書きました。そこに登場する人物は、ペイジとペイジの間を生気なく気取って歩くような非現実的なものではなく、リアルで生き生きとした血肉の通った男性であり、女性なのです。その人たちは、世の中に無視され、軽蔑されて気落ちしてはいますが、生き延びて、食べたり飲んだり愛し合ったり、あるいは寂しさや恐怖に耐え、汚れを洗い流してくれる明日の夜明けを迎える自分たちの意志の固さを、執拗に物語っているのです。

アレックス・ラ・グーマの散文が鋭く訴えるのは、自分の環境をよく知り、完全に理解していたからです。効果をねらって努力するのではなく、芸術的な手腕と正確さで、労働者階級と権利を奪われた生活を浮き彫りにしています。住まいの壁にこびりついた汚れを感じ、裏通りのごみの山の臭いを嗅ぎ、街角のバーからどっと聞こえてくる笑い声を聞き、喧嘩の真っ最中に抜かれたナイフのきらっと輝く光を見ることができます。すべて、実際に目の前で起こっているかのように、劇的で、鮮明なのです。

アレックス・ラ・グーマが成功した秘訣は、物語の中の会話が人々が実際に話している会話に忠実であったことにもよっています。新しく刷り上がった紙幣のようにぱりっと音を立てながら、こちらをどきっとさせるような現実味を帯びて、人々の言葉が物語のペイジからあふれてきます。アレックスは、登場人物の言葉を次々と微妙に変化させながら、自分の語り口から物語の人物を創り出すこつを心得ています。それらの話は、真実のように、きびきびとして元気よく、ユーモラスで説得力のある、現に生きている人々の話なのです。

アレックスの書いたものは、法律に違反することなく、南アフリカで一般に読まれる可能性はありません。アレックスの名前は、活動を禁止された人のリストにまだ記載されています。重ねて念を押すかのように、一九六三年一月に郵便で『夜の彷徨』が国内に送られてきたとき、検閲官はその書が反政府的であると認定する、と宣告して、何冊もの『夜の彷徨』を押収しました。しかし、アレックスの書いたものは、それを押さえこもうとする検閲官の活動にもうち勝ち、その作品は長年にわたって、国内外の広範な評価を得てきました。『夜の彷徨』に続いて、一九六四年には『まして束ねし縄なれば』が出版されました。今回は、ケープタウン周辺に広がるスラムの生活を取り扱ったものでした。そこには、何万人という黒人 (カラードとアフリカ人) が小屋を立てて雨風を凌いでいます。その人たちは、「公式に認められた」住むための場所を持たず、生き延びる唯一の希望を自分たちに提供してくれる都市の周辺での不安定な生活にしがみついているのです。その住民の多くは存在する権利を保障してくれる書類もなく、度重なる警察の手入れや不安や貧乏の餌食となりながら、不法に都市地域に滞在しています。その人たちの家は、とにかく何とか雨露だけでも凌げるようにとあらゆる材料を使って立てられた粗末な小屋なのです。

それらの地域には、舗装された道路も、下水も、排水施設や電灯もありません。水も、バケツなどを運んで買いに行かなければならないのです。雨が激しく降りつけるケープの冬には、屋根は雨漏りがして、その辺りは一帯に水浸しとなり、地面はじゅくじゅくの状態です。どこに行っても、泥と惨めさの臭いが漂います。子供たちは泥の中で遊び、大人たちは泥に足を取られながら、暗闇の中を仕事に通うのです、それも、運よく仕事にありつけばの話なのですが・・・・・・。

『まして束ねし縄なれば』は全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅板画で捉えています。この作品は忌まわしいほど残虐な、限りなく絶望的な数々の出来事で南アフリカの奥深くを描きだしているので、あるいは読者の気を滅入らせたこともあったでしょう。しかし、物語の根底には、アレックス・ラ・グーマの人生に対する情熱と誠実さにより、楽観的な雰囲気が漂っています。わくわくする会話は、心の機微を捉えて生き生きと輝いています。アレックスのメッセージは・・・・・・団結は力である。独りで世間に立ち向かっても打ち負かされるが、みんなで協力してやれば、何事も切り抜けられる・・・・・・というものです。

その次のアレックス・ラ・グーマの小説は『石の国』(一九七六年) で、自らの獄中体験から生み出された、寒々とした壁や暗い廊下やガチャーンと響くドアの物語です。そのあと、危険で大胆不敵な地下活動を詳しく書いた『季節の終わりの霧の中にて』(一九七二年)、バンツースタンヘの強制移住に反対して闘う人々の抵抗運動を取り扱った『百舌鳥のきたる時』(一九七九年) と続きます。数々の短篇だけでなく、『アパルトヘイト―南アフリカの人種差別に関する南アフリカ人の著作集』(一九七一年) をも編集し、広くソビエト連邦を旅行したのちに『ソビエト旅行』(一九七八年) も出版しました。他にもたくさんの小品を書き、死ぬ間際には、新作『闘いの王冠』の執筆にいそしんでいました。

Stone Country (神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

 アレックス・ラ・グーマの作品の特徴は、リアリズムと楽天性を混ぜ合わせたものでした。アレックスは人生に真っ向から立ち向かい、掃き溜めの底にいる人たちに対する不快感を隠そうとはしませんでしたが、力を合わせてやれば、虐げられた人たちが自分たちの世界を変革し、資本主義や搾取、人種差別や偏見という悪夢を終わらせ、理性と協調に基づく新しい世界が構築できるという確固たる信念をいつも持ち続けていました。しかし、説教師ではありませんでした。アレックスは、本質的に、細部にまで行き届いた鋭い目と温かいユーモアの感覚を備えた物語作家でした。アレックスに敵意はありませんでした。

『ニュー・エイジ』紙に書いた初期の作品 (一九五六年八月三十日) の中で、アレックスはケープタウンの人々の窮状を次のように見ていました。

年寄りの間で語られる次のような話があります。何年も前のある日、神さまは白人とカラードの人を召されて、二人の前に箱を二つお置きになりました。箱の一つは大変大きく、もう片方の箱は小さいものでした。そのあと、神さまはカラードの人の方を向いて、箱をどちらか選ぶようにとおっしゃいました。カラードの人はすぐさま大きい箱を取り、もう片方を白人に残しました。箱を開けたとき、カラードの人はつるはしとシャベルを見つけました。一方、白人の方は、箱の中に金を見つけました。

人は、自分の運命を解釈する様々な説明づけを行ないます。民間説話、迷信、神話などの形を取る場合もあれば、完全に論理に適っている場合もあります。しかし、いずれの場合にも共通して、抑圧や苦しみや苦難が現実の人生であるという自覚があります。そして人々は、辛さをユーモアで和らげ、単調な生活の苦い薬を風刺的な人生哲学という蜂蜜で甘くするようになりました。しかし、人々はいつも痛みを意識しているのです・・・・・・。

国勢調査では、私たちカラードの人口はほぼ百二十五万人と言われています。しかし、身元の確認を姓名とか肌の色とかでは行なわず、厳しさと喜び、楽しさと苦しさ、憧れと挫折、報われることのない辛く単調な仕事、絶望と飢餓、文盲、肺炎と栄養失調、笑いと悪徳、無知、天才、迷信、永遠の知恵と揺るぎない自信、愛と憎しみなどで行なえば、きっと数えること自体を諦めざるを得ないでしょう。人々は、違った表紙によって初めてそれぞれの違いが区別できる本と似ています。

そして、人はしょせん神ならぬ身、人間でしかないのですから、朝起きれば、夜の毛布を投げ捨て、太陽に顔を向けなければならないのです。

一九八八年      ブライアン・バンティング

②アレックス・ラ・グーマの思い

一九八一年、川崎にて。小林信次郎さん撮影

 翻訳しながら、さまざまのことを感じました。なかでも、強く感じたのは、言葉にこめられたラ・グーマの思いでした。

ラ・グーマの作品の根底に流れるものは、身近な人への思いやり、人を大切に思う心です。その思いをひとつひとつ真綿に包むように行間にこめ、アパルトヘイト体制の下で虐げられながらも、肩を寄せ合って生きている周りの人たちを描いています。真綿に包まれた言葉をひとつひとつほぐす翻訳をやっていくと、言葉にこめられたラ・グーマの思いが、行間から滲み出てくるのです。

ラ・グーマがどんな生涯を送ったかは、ロンドンに亡命中の同僚ブライアン・バンティングが新版を祝って本書に寄せた熱き序に譲ることにしますが、常々ラ・グーマが語っていたところを総合すると、ラ・グーマは二つの思いに駆られて物語りを書いています。一つは、後の世の人のために、特に若い人たちのために歴史を書き留めておきたいという思いでした。そこから第一作『夜の彷徨』が生まれています。ラ・グーマの生まれ育ったカラード居住地区ケープタウンの第六区を舞台に、そんな若者たちに焦点を当て、もしアパルトヘイト体制という抑圧がなかったら、ごく普通に生きたと思われる若者が、八方塞がりの中で、いともた易くちんぴらの世界に足を踏み入れてしまう状況を描き出しました。

ケープタウンの第六区

 もう一つは、南アフリカで起こっていることを世界に知らせたいという思いでした。その思いから、第二作のこの『まして束ねし縄なれば』が生まれました。ラ・グーマは、舞台をケープタウン郊外のスラムに移し、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、スラムで暮らす住人が現実に悪天候に苦しめられている姿を描きました。ラ・グーマは、そのイメージをより鮮明に読者に印象づけるために、雨をうまく使っています。物語を雨で始め、雨で終え、しかも、主題にかかわる事件はすべて雨に絡ませ、雨のイメージで物語全体を包みました。バンテイングが序の中で言うように、この『まして束ねし縄なれば』は「全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅版画で捉えて」います。『夜の彷徨』は、一九六二年にナイジェリアで、『まして束ねし縄なれば』は六十四年にドイツで出版されました。しかし、六十一年暮れから開始された黒人側の武力闘争に対抗して急遽改悪された破壊活動法によって、六十二年の八月にラ・グーマがすべての活動を禁止されてから今日まで、ラ・グーマの作品を読むことも、引用することさえも、南アフリカ国内では、法律で禁じられています。裏を返せば、ラ・グーマとラ・グーマの作品が、体制側にとって大きな脅威であることに他なりません。宮崎県都城市に住む南アフリカ出身のコンスタンス・ヒダカ (Constance Hidaka) さんも「南アフリカにいるときは、もちろんラ・グーマなんて知らなかったヨ。だって、本がないもの」と話してくれたことがあります。

A Walk in the Night(神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

And a Threefold Cord(神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

 ラ・グーマの物語は、一つ一つの文章も長く、取り立てて言うほどの展開もなく、いわゆる英米の小説とはいささか趣を異にしています。「プロットがない」「人物像の内面が深く掘り下げられていない」「表現が淡泊すぎる」と評する人もいますが、ラ・グーマは、何よりもケープタウンの普通の人びとの語り口で、ケープタウンの人びとの物語を語りたかったのです。ラ・グーマ自身の言葉を借りれば「形式的な構造とかいった意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。私は、ただ書き出しから始めて、おしまいで終わったというだけです。大抵そんなふうにしてできました。ある一定の決まった形を持つというのは必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短い物語でも長い物語でも、私はただ頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶのです。頭の中でいったんでき上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決まった形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います」ということになります。

翻訳に際して、コンスタンス・ヒダカ (通称コニー) さんに色々とお聞きしました。この物語は一九五十年代のケープタウン郊外のスラムを舞台にした話ですから、アフリカーンス語で書かれている部分も含め、辞書だけでは解決のつかない箇所が多すぎたからです。コニーさんは、私たちの国のことですからと、快く質問に応じて下さいました。ヨハネスブルクに生まれて、キンバリーに育ち、八十年代前半にはケープタウンにも住んだ経験のあるコニーさんは、根気よく説明して下さいました。そして、コニーさん自身がケープタウンの人に似た語り口を、たっぷりと聞かせて下さいました。

コニーさんは、八十八年八月にカナダで開かれたラ・グーマとベシー・ヘッド記念大会で録音したブランシ夫人 (Blanche La Guma、二ペイジに写真を載せています) のテープを聞いたとき、「これ、これなのヨ。ケープタウンの人の話し方。腕を組んで、じっと考え、大きなジェスチャーでゆっくりと喋る。そうだったでしょう。これなのヨ」と大声で言いました。その説明を聞いたとき、記念大会で、ラ・グーマとの生活を振り返りながら、大きなジェスチャーを交えながら、しみじみと語りかけていたブランシ夫人の姿が、目の前に鮮やかに甦りました。

ブランシ夫人

 また、コニーさんは、私の質問のあと、いつも本文をじっくりと読むのですが、読みながら堪え切れずに何度も声を出して笑うのです。そして言います。「ワタシ、ここに書いてあるのと同じのを南アフリカで何度も見たヨ。いまでも同じネ」。特に、ユーモラスに描いてあるンズバやアンクル・ベン、裸同然でごみの山の中をうろつく子供たち、スージーやロマンなどの人物描写を読みながら、「ほんと、そっくりなひとがいたヨ」と感心し、スラムの様子などに対しては、「今でも、いっしょなのヨ」と言って、悲しそうな表情を見せました。

ラ・グーマは、生涯、自分を大切にし、周りの人たちを思いやって生きてきました。ラ・グーマの伝記家でもあり、良き理解者でもあった南アフリカ出身のセスゥル・エイブラハムズ (Cecil A. Abrahams) さんは、そんなラ・グーマを「わが子を見つめる父親のように」と評して、次のように語ります。

セスゥル・エイブラハムズ さん

 アレックスは、事実、カラード社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました。と言うのも、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けてきたと感じていたからです。また、自分たちが何らかの価値を備え、決してつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることができたらとも、ラ・グーマは望んでいました。ですから、あの人の物語を見れば、その物語がとても慈しむ心に溢れているのに気づくでしょう。あの人はいつも誰に対しても暖かくて、腹を立てて、「仕方がないな、この子供たちは・・・・・・」と言いながらも、なお暖かい目で子供たちを見つめる父親のように、その人たちを理解しているのです。ラ・グーマの本を読めば、あの人が記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしていると感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕され、拘置され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面を見つめていました。いつも山の向う側を見つめていました。だから、他の人がよくないことをしても許せたのです・・・・・・。

激しい雨のなか、大空に向かって鳥が飛び立つ印象的な締めくくりは、チャーリーのその後の成長を暗に仄めかしています。それは、極めて厳しい状況のなかでさえ、みんなで力を合わせれば必ず何とかなるさというラ・グーマ流の楽観から生み出されたものでしょう。そこに絶望はありません。

ラ・グーマは、祖国の民主的な統合国家実現を夢見ながら、二度と南アフリカの地を踏めずにこの世を去りましたが、いま、ラ・グーマの果たせなかった夢を若い人たちが引き継いでいます。

アメリカ合衆国で公民権法が成立したのは一九六四年、実に、奴隷解放宣言より百年余りものちのことでした。その史実一つを取ってみても、アパルトヘイト法が廃止されたからといって、解放に向けての南アフリカの歩みが決して楽観的なものではないことがはっきりしています。しかし、九十一年八月の終わりに、エイブラハムズさんが政府の許可を得て南アフリカに一時帰国し、二十数年ぶりに家族との再会を果たしたという知らせなどを聞くと、ラ・グーマの夢の実現に向けて、少しずつは、歴史の流れが進みつつあるのだと思わずにはいられません。

印刷や編集などに携わった人たちと一緒に、『まして束ねし縄なれば』の翻訳ができてよかったなあと思います。と同時に、これが一つの機会となって、また新たな世界が広がってゆけばとも考えます。ブランシ夫人やコニーさん、今はイギリスに帰っている友人のジョン (John Bilingsley) をはじめ、ご協力下さった多くの方々に深くお礼申し上げます。

この『まして束ねし縄なれば』もすでに公のものですから、読者を得て版が重ねられ、不十分なところが改訂されて、よりよいものになってほしいと心から願っています。

一九九二年七月             宮崎にて                   玉田吉行

執筆年

1992年

収録・公開

翻訳書、門土社、表紙絵小島けい画

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アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』