1990~99年の執筆物

概要

(概要・写真作成中)

本文

南アフリカのひと

二年前の夏、カナダのセスゥル・エイブラハムズさんのお世話になった私が、今度は宮崎で、ミリアム・トラーディさんをお迎えすることになるとは夢にも思わなかった。エイブラハムズさんはカナダに亡命中の文学者、ミリアムさんは国内で活動を続ける作家、ともに南アフリカのひとである。

カナダに住むエイブラハムズさんにお会いしたいと思ったのは、ミシシッピ州オクスフォードの本屋のリチャードさんから届いたエイブラハムズさんの新刊『アレックス・ラ・グーマ』(1985年刊)を読んだからだった。お訪ねしてもいいですか、と手紙を書いたら、「どうぞ。北アメリカに着いたらお電話下さい。」との返事がかえってきた。

北アメリカに着いて電話をしてみたが、つながらなかった。オハイオ州ケントの伯谷嘉信さんとニューヨーク州プキープシィでのローレンス・マミヤさんご一家にお世話になりながら、やっと電話がつながったのは一週間のちのことだった。

あとから考えれば、よく行けたなあ、というのが正直な感想である。

*本誌10号1987年7月号に「セスゥル・エイブラハムズ・・・アレックス・ラ・グーマの伝記家を訪ねて・・・」を書かせていただいた。

今回のミリアムさんの場合も、経緯はおおむね同じだった。

京都に住むケニア人サイラス・ムアンギさんから「南アフリカからミリアムさんという作家が日本に来れるようやけど、宮崎に行けないやろかな。」という電話があった。来日の三週間ほど前のことである。「うーん、そうやなあ・・・・」と考えているうちに、「はっきりしたら、また電話します。」ということになった。

同行される大阪の佐竹純子さんから、来られることになりましたのでそろそろ切符の手配をという電話があったのが、ほぼ2週間まえである。さっそく航空会社に予約の電話を入れてみたが、全日空の6便はすべて満席だった。最近乗り入れた日本エアシステムの座席をなんとか確保したが、それが最後の2席だった。ホテルにも電話を人れてみたが、どこもほぼ満員とのこと、かろうじて市街地にあるワシントンホテルを予約するのが精一杯だった。あとで判ったのだが、到着予定の日が運悪く、年に一度の「みやざき納涼花火大会」の開催日であった。

26日あたりから台風の影響で、雨と曇りの毎日で、我が家のカーポートの屋根は無残な姿をさらし、物置は吹き飛ばされたままだった。飛行機が飛ばないと東京での予定が狂うから宮崎での日程を早めて帰京して下さい、という東京からの声も無理からぬと思えるほどの荒天続きだった。しかし、東京の予定に合わせていたとしたら、宮崎での講演会を中止して昼の1時22分宮崎発の特急「富士」に乗っても、東京到着は翌朝の9時58分である。ミリアムさんと佐竹さんはあやうく20時間以上の長旅を強いられるところだった。

東京にいると、東京がすべての中心と考えて宮崎の遠さもわからなくなるものらしい。

幸い、到着前日の4日から、空は嘘のように晴れわたった。

宮崎空港から一ツ葉海岸ヘ

ミリアムさんと佐竹さんが宮崎空港に降りたったのは8月5日のお昼まえである。出迎えたのは河野次郎君と小島裕子さんと私、それにコンスタンス(コニー)・ヒダカさんと二人の子供ラティファンちゃんとイマニュエル君の6人だった。次郎さんと小島さんは「運転手」を快く引き受けてくれた医科大生、コニーさんは県内都城市に住む南アフリカのひとである。

空港に姿を現わしたミリアムさんは長旅の疲れの色が顔ににじんでいるようだった。ミリアムさんとコニーさんは、耳慣れぬ言葉で挨拶を交わしながらしっかりと抱き合った。はるかな日本の、しかも都心から遠く離れた土地で、まさか南アフリカの同胞と巡り合えるとは思っていなかった感慨からであろう。あとからコニーさんに尋ねてみたら、二人が交わした挨拶は「こんにちわ」の意の「デュメラ」(Dumela)というツワナ語だったそうである。

真夏の太陽の照りつけるなか、八人は二台の車に分乗して、すぐ一ツ葉海岸に向かった。ミリアムさんが一年の半分ずつを過ごされているというヨハネスブルグもレソトも内陸部にあるので、日向灘に面した一面の砂浜にまずお連れしたいと考えたからである。宮崎に来るまえに住んでいた明石で見慣れていた瀬戸内海と違って、島もなく、行き交う船も少なく、見えるのはただ一直線の水平線である。そして何より、海の色が美しい。穏やかに見える海は予想以上に荒く、遊泳禁止を無視して泳ぐ若者が毎年のようにおぼれるという。案の定、砂浜に駆けおりたラティファンちゃんは波に足をすくわれてしまった。捕まえようと慌てて海に入った次郎さんと小島さんの革靴は、哀れずぶぬれとなった。

砂浜に降りたったミリアムさんは、浜辺に打ち上げられた朽ち木と発泡スチロールを手にカメラのレンズのまえに立たれた。海辺のレストランでは、日本食の苦手らしいミリアムさんは、ステーキののったカレーライスをおいしそうに食べ、フルーツ・ジュースを飲みながら、コニーさんと佐竹さんとの会話を楽しんでいた。

食べ物はいかがでしたか、と尋ねたら、レセプションやパーティ続きで余り食べられなかったからやっと一息ついた感じ、との答えが返ってきた。

「カレーは南アフリカの国民的な食べ物ですよ」といいながらカレーを作ってくれたエイブラハムズさんのことを思い出しながら、ミリアムさんにもカレーはやはり食べやすかったのかな、と思った。

コシ・シケレリ・アフリカ

ホテルのチェック・インをすませて、少し休んだあと、夕方から家で小さなパーティをもった。パーティには、宮田敏近さん、大塚和之さん、さらに波多野義典君が加わった。波多野君は準備の段階から何かと手伝ってくれた医科大生、宮田さんと大塚さんはともに良き先輩である。

夕食を食べながら、宮田さんが質問役、大体はコニーさんが、ときおり佐竹さんが解説役をしながら、ミリアムさんの話を聞いた。人数が少ないうえ、飲んだり食べたりしながらだったので、割合ざっくばらんの話だったように思う。そのとき撮った写真を見ても、ミリアムさんの表情がかなりくつろいでいたのが解る。

近所のお菓子屋さん「梅月」のWELCOME MIRIAM!の文字入りのデコレーションケーキのろうそくの火をミリアムさんが吹き消す前に、ピアノ伴奏でコサ語の「コシ・シケレリ・アフリカ」を歌った。ザンビア、タンザニア、ジンバブエの国歌として歌われている賛美歌調のこの歌は、南アフリカが解放されたとき、国歌になるだろうと言われている。最近よく練習していたこの歌を、南アフリカのひととわが家で歌うとは考えてもみなかった。ミリアムさんとコニーさんがきれいなハーモニーを聞かせてくれたが、無情にも録音テープは一番いい所でプツンと切れていた。私がこの瞬間を逃しては、とシャッターをきり続けていたからである。

歌い終わってミリアムさんが右手の拳を握り締めて「アマンドラ!」とやると、すかさずコニーさんと佐竹さんが同じ動作で「ガウェツゥ!」と呼応した。

映画『遠い夜明け』や『ワールド・アパート』の中でも、黒人の指導者が聴衆に向かって「アマンドラ!」(力は!)とやると、聴衆が「ガウェツゥ!」(我らに!)と応じる場面があった。あらかじめ解説をうけたことのある次郎さんはなるほどとうなずいていたが、宮田さんと大塚さんは初めて見る光景に目を白黒させた。

大淀川の花火

その夜は、疲れているのでホテルでゆっくりされる予定だった。しかし、いざホテルの近くに来て花火のバンバン鳴っている音を聞くと、やっぱり花火を見に行きましょう、ということになって、大淀川河畔まで歩いて行くことになった。

早く歩くのは大変だろうと気づかってみんながゆっくり歩いていると、そんなにゆっくり歩いていたら南アフリカではやっていけないのよ、とミリアムさんはひとり先にどんどん進んでいった。

花火はオハイオ州立大学に留学中に見て以来二度目であったそうだが、かき氷を食べながらの花火見物に、ミリアムさんはご満悦の様子だった。翌朝の新聞によれば、打ち上げられた花火は一万発、ざっと15万人の人出があったとのことである。

次の日の講演で、ミリアムさんがこの夜のことを「忘れ難い出来事」として紹介されたが、日本の夏の夜の一風物詩として心の中に永くとどまればうれしい限りである。

宮崎医科大学にて

11時頃、次郎さんと一緒にホテルに迎えに行ったとき、ミリアムさんはすっかり元気を取り戻されたように見えた。

昨晩は夜中の2時まで、アレックス・ラ・グーマを読んでいて、久し振りに興奮しました、とのことだった。差しあげた門土社版のアレックス・ラ・グーマの大学用のテキスト』A Walk in the Night(『夜の彷徨』)だが、発禁処分を受けて南アフリカ国内では読めないラ・グーマの本が宮崎の学生に読まれているとは、ミリアムさんも予想していなかったに違いない。

大学に着くと、小島さん、波多野くんに加えて医科大生の日高恵子さんと松浦由佳さんがすでに待機してくれていた。

ミリアムさんを囲んで簡単な昼食を済ませてから、手分けして会場の準備に取りかかった。会場では受け付けに福永一美さんの加勢もあって、なんとか一時の開演にこぎつけることが出来た。

会場の臨床講義室には、NHKの取材陣なども含め、百人近い人が集まっていた。

私が今回の宮崎での状況と簡単な南アフリカの歴史を、佐竹さんが来日の経緯と人物の紹介を少ししてから、さっそくミリアムさんの話が始まった。昨夜のくつろいだ表情とはうってかわり、赤を基調にした鮮やかなターバンを頭に巻いた演壇のミリアムさんの表情は、さすがにきりっと引き締まっていた。

短かい挨拶のあと、さっそく講演「南アフリカの文学と政治」に入ったが、私の通訳がもたもたしたり、講演論文のコピーがあらかじめ配られてあったこともあって、論文の途中から質疑応答形式に切りかえ、ミリアムさんが参加者から質問を受けることになった。

講演と質疑応答については、掲載している翻訳を参照していただければ幸いである。通訳では伝えられなかったところを補えればと考えて、コニーさんの助けを借りてテープを起こし、日本語訳したものである。

最近では、従来の西洋一辺倒ではない視点から書かれた南アフリカに関する本も何冊か出ているし、注意して見ていれば、南アフリカに関する情報は以前よりたくさん流されるようになっている。そのあたりの事情を考慮すれば、「質問は、言語、検閲、教育など多岐にわたった」(8月19日付け「朝日新聞」)が、そのレベルは必ずしも高くなかったように思う。あとで書いてもらったアンケートの中でも、大学の授業で歴史や文学を中心に南アフリカのことをやっている学生が「やや新鮮味に欠けた」という感想を書いていた。しかし、全般的には、厳しい抑圧のなかで活動する作家の生の迫力に感動したという人が多かった。会場にいた記録作家川原一之さんは、担当する「朝日新聞」のコラム欄「目ン玉かかし」に「検閲や発禁にめげず小説を書き続ける、その誇りと信念がトラーディさんの大きな体から発散していた・・・・久しく耳にすることのなかった、文学の初源を教えられる講演会だった」と、また西日本新聞の吉本秀俊さんは、コラム欄「みやざき点描」に「・・・・”生の声”の訴えは、すごい力で胸に迫った」と書かれた。

最近、本誌8号でも紹介されたケープタウン在住の「カラード」作家リチャード・リーブが殺されたが、ミリアムさんはすでに、同じように国内で作家活動を続ける同胞の死をご存知だった。個人的ではなく、南アフリカの人々の一般的な意見を述べています、とミリアムさんは自らの立場を説明したが、史実にもとづきながら、言うべきところは言い、決して一歩も譲らなかったように思う。それは国内で踏みとどまる作家が、常に「死」と隣り合わせのところで生きなければならない状況の厳しさに裏付けられているようだった。

その時は会場を見渡す余裕がなくて気がつかなかったのだが、あとから写真を見ると、ミリアムさんが最後の挨拶のあと立ち上がって深くお辞儀をされたとき、たくさんのひとが立ち上がって拍手を送っている。拍手はなかなか鳴り止まなかった。

NHKは当日の夜のニュースで講演会の内容を簡単に紹介した。「西日本新聞」が翌日に報告記事を、14日には吉本さんのスケッチ入りの「自由平等を訴える南アの黒人女性作家」と題するコラムを、「朝日新聞」は19日に「南アの反アパルトヘイト作家ツラーリさん宮崎医大で講演『小説の半分削られた』差別の大きさ訴え熱弁」の記事と12月22日に川原さんのコラム「南アの女性作家」を掲載した。

みやざきのひとびと

最初、ムアンギさんから話があったとき、日本での日程がきつそうだから宮崎でゆっくり出来れば、ということだったので、宮崎のきれいな海を見てもらい、コニーさんに会ってもらって、もし出来れば、英語による小さな集まりでもというのが最初のぼんやりした心づもりだった。しかし、連絡の段階で、そんな機会は宮崎ではめったにありませんから是非公開して下さいよ、という宮崎大学の高須金作さんの言葉に心がぐらつきかけたとき、医科大生の中村政人君から「川原さんが新聞社とかを一緒に回って下さるそうですから、車で迎えに行きます」と電話があった。

にわか仕立ての写真入りチラシを持って川原さんを訪ね、中村君の車で新聞社や放送局を回っていただいた。新聞社、放送局巡りが初めての私には反応の程は分からなかったが、川原さんによれば「反応、いいですね。」ということだった。

30日に読売新聞と毎日新聞が短かい記事を、4日に西日本新聞、5日に宮崎日日新聞、6日当日に朝日新聞がそれぞれ少し詳しい記事を掲載した。(毎日新聞では「ソウェト」が「ソビエト」になっていたが。MRT宮崎は一週間まえあたりから何回か、また、NHKは当日の朝のニュースで「講演会案内のお知らせ」を放映した。FM宮崎の電波にも案内の知らせが流れたとのことである。川原さんに回っていただいたところは、UMKテレビ宮崎を除いてすべて取り上げて下さったことになるが、いつもこうではないとのことであった。「アパルトヘイト」は、「今」の問題なのかも知れない。

川原さんは宮崎在住の記録作家である。新聞記者として宮崎県の亜砒鉱毒の山村「土呂久」に出会い、「本格的にのめりこむ覚悟を決めて朝日新聞社を辞め」て、十数年来「土呂久」とともに歩んで来られた。「土呂久」を「近代日本の縮図」ととらえ、1980年に「鉱毒の里の人びとの生き死にを記録した」『口伝 亜砒焼き谷』(岩波新書)を、1986年に「百年裁判の覚悟を胸に」闘う「土呂久」と川原さんの記録を綴った『辺境の石文』(径書房)を、1988年には『浄土むら土呂久 文明といのちの史記』(筑摩書房)を上梓されている。『浄土むら土呂久』は、土呂久や他の鉱山の歴史から諸外国の公害問題にも触れ、土呂久をもっと大きな、地球規模の視点から捉えようとする労作である。「朝日ジャーナル」等に取材記事を載せながら、昨年から朝日新聞宮崎版のコラム欄「目ン玉かかし」を担当、宮崎のいろいろな人や出来事を紹介され続けている。

小説を書いておられる宮崎大学の岡林稔さんは「宮崎で一番いい人に、新聞社回ってもらったね」と言われたが、アンケートに、新聞を見て講演会に来ました、と書かれた人も多かった。

中村君は「社会人の苦労に比べたら、学生としての苦労はやっぱり何でもないですね」と言う医科大生、三児の父親である。宮崎大学の学生時代に「土呂久」と出会い、川原さんとも知り合ったとのこと、野外キャンプに行く子供たちのためにマイクロバスの運転手をつとめ、パーティや講演会には参加出来なかったが、何十枚もチラシを持っていろいろな人の所を回ってくれた「影の功労者」である。

会場では、次郎さんがビデオをうつし、波多野君と小島さんがマイクを持って質問者の間を走りまわった。波多野君は写真もたくさん撮ってくれた。本誌の講演の写真は波多野君の「ウデ」のお陰である。誰もが自分の意志と判断でごく自然に振るまえたのが何よりも大切なものに思えた。

準備の段階での資料作りや電話の問い合わせに応じて協力下さったのは、一般教育事務室の戸高幸子さんである。

アンケートから、担任の先生から聞いて来たという高校生、子供から聞いて駆けつけた父親、親から聞いて出席した大学生などが参加されたのを知ったが、なんとなく心暖まる思いがしてうれしかった。

2日目の夜は、一ツ葉の海の見えるホテルに泊まっていただき、翌朝、自然動物園の観覧車から日向灘を一望していただいた。

空港では、次郎さんが別れ際に白い封筒を手渡していた。中には、英語で書かれた手紙と小さな贈り物が入っていたようだった。

みやざきから

今回もまた、あとから考えれば、ミリアムさんをよく宮崎にお迎えできたなあ、というのが正直な感想である。

ずいぶんと急な話であったが、いろいろな人の協力により、結果的にはミリアムさんの宮崎訪問は成功だったように思う。

亡命をいさぎよしとせずあくまで国内で闘うミリアムさんとお会い出来たのはもちろんだが、ミリアムさんにきれいな海を見ていただいたことや、「ひとのよい」宮崎の人たちと接していただけたのが、何よりだった。

今回の来日は、南アフリカの文学を研究する日本人の佐竹さんと南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんとの個人的な交流から生まれ、大部分は佐竹さんの骨折りによって実現したものである。

とかく何事も、国と国とのレベルで捉えられがちであるが、個人と個人のレベルでの交流のほうが、本当の意味で、もっと大切な何かを含んでいる。

最近、ミリアムさんの著書『アマンドラ』を翻訳出版された佐竹さんと、無事に帰国されたのちすぐにイェール大学にわたられたと聞くミリアムさんの、ますますのご活躍をみやざきの地からお祈りしたいと思う。

1990年1月10日

(宮崎医科大学講師・アフリカ文学)

執筆年

1990年

収録・公開

「ゴンドワナ」15号2-8ペイジ

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「ミリアムさんを宮崎に迎えて」(作業中)

1990~99年の執筆物

概要

この五百年ほどのアングロサクソンを中心にした侵略の歴史の意識の問題に焦点を当てて書いたものです。

理不尽な侵略行為を正当化するために白人優位・黒人蔑視の意識を植え付けて来ましたが、意識の問題に正面から取り組んだアメリカ公民権運動の指導者の一人マルコム・リトルと、アパルトへイトと闘ったスティーブ・ビコを引き合いに、意識の問題について書きました。

アパルトヘイト反対運動の一環として依頼されて話した講演「アフリカを考える—アフリカ」(南九州大学大学祭、海外事情研究部主催)や宮崎市タチカワ・デンタルクリニックの勉強会での話をまとめたものです。

本文

白人優位・黒人蔑視

奴隷貿易に始まる西洋諸国の侵略によって、支配する側とされる側の経済的な不均衡が生じましたが、同時に、白人優位・黒人蔑視という副産物が生まれました。支配する側が自らの侵略を正当化するために、懸命の努力をしたからです。支配力が強化され、その格差が大きくなるにつれて、白人優位・黒人蔑視の風潮は強まっていきました。したがって黒人社会は、支配権を白人から奪い返す闘いだけでなく、黒人自身の心の中に巣食った白人優位の考え方を払しょくするという二重の闘いを強いられました。アメリカ映画「遠い夜明け」で広く知られるようになったスティーヴ・ビコは、ある裁判で黒人意識運動の概念について質問されたとき、その「二重の闘い」に言い及んで、次のように述べています。

基本的に「黒人意識」が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で二つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。二番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から育ったものです。[I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1986), p. 100.神野明他訳の日本語訳『俺は書きたいことを書く』(現代企画室、 一九八八年)が出ています]

南アフリカを本当の意味で変革していくためには、先ず何よりも黒人ひとりひとりが、厳しい現状に諦観を抱くことなく、自らの挫折感とたたかい、自分自身の人間性を取り戻すべきだと、ビコは説きました。自己を同定するために自分たちの歴史や文化に誇りを持ち、次の世代に語り伝えようと呼びかけました。そして、経済的な自立のための計画を立てて、実行に移しました。

白人支配の体制に闘いを挑む前に、先ず自己意識の変革をと唱えたのは、もちろんビコだけではありません。ビコに大きな影響を及ぼしたアメリカ公民権運動の指導者の一人、マルコムXも同じようなことを言い、経済的に自立するための企画を試みました。マルコムはあらゆる機会を利用して、黒人自身の自己意識の変革の必要性を説きました。暗殺される直前の一九六五年一月二十四日の集会では、アメリカ黒人の歴史についての話をしています。奴隷船でアフリカから連れて来られる以前に、アフリカにいかに豊かな文化があったか、いかに自分たちの祖先が優れた人々であったか、又、いかに巧妙な手段を使って白人たちが黒人に白人優位の考え方を植えつけてきたか、そして今、自分たちが何をしなければならないのかなどを語りました。マルコムは、翌月に予定されていた「黒人歴史週間」やアメリカ黒人の呼び方「ニグロ」の欺瞞性を厳しくただして、次のように言っています。

なかでも、特に質の悪いごまかしは、白人が私たちにニグロという名前をつけて、ニグロと呼ぶことです。そして、私たちが自分のことをニグロと呼べば、結局はそのごまかしに自分が引っ掛かっていることになってしまうのです。……私たちは、科学的にみれば、白人によって産み出されました。誰かが自分のことをニグロと言っているのを聞く時はいつでも、その人は、西洋の文明の、いや西洋文明だけではなく、西洋の犯罪の産物なのです。西洋では、人からニグロと呼ばれたり、自らがニグロと呼んだりしていますが、ニグロ自体が反西洋文明を証明するのに使える有力な証拠なのです。ニグロと呼ばれる主な理由は、そう呼べば私たちの本当の正体が何なのかが分からなくなるからです。正体が何か分からない、どこから来たのか分からない、何があなたのものなのかが分からないからです。自分のことをニグロと呼ぶかぎり、あなた自身のものは何もない。言葉もあなたのものではありません。どんな言葉に対しても、もちろん英語に対しても何の権利も主張できないのです。[『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』 Malcolm X on Afro-American History (New York: Pathfinder, 1967), p. 15]

そして、ニグロが、人類をコーカソイド、モンゴロイド、ニグロイドと分類した「いわゆる文化人類学」の用語に由来しており、アフリカ・アジア侵略を正当化し、白人優位の考えを浸透させようとする西洋列強の手先にしか過ぎなかった文化人類学者のでっち上げであるとマルコムは断言しました。もちろん、マルコムはニグロという言葉の問題だけを言ったのではありません。むしろ、ニグロという言葉、つまり、その現象を生んだ背後にひそむ、侵略を正当化しようとする白人社会の総体的な意志や利欲、白人優位・黒人蔑視の考え方を指摘し、そのことに気づくための自己意識の変革の大切さを語ったのです。

ビコもマルコムと同じように、白人優位の思想から生み出された「ノン・ホワイト」という言葉を拒みました。植民地支配の道具に使われた宗教や教育など、白人から押しつけられたものを拒否し、自分自身の意識変革から出発しようとしました。死を覚悟して銃弾に立ち向かった一九七六年のソウェト蜂起は、アフリカーンス語教育を押しつける体制側ヘのたたかいであると同時に、自己意識の変革を通して、長年の抑圧によって蝕まれた心から白人優位の考えを洗い流し、自らの人間性を取り戻そうとする、若者たちの二重のたたかいでもあったのです。

マルコムは三十九歳、ビコは三十歳の若さで体制の犠牲になって、二度と還らぬ人となりました。しかし、二人の問いかけは、西洋中心社会から今だに抜け出られないでいる現在の私たち自身の問題でもあるのです。

従来の白人優位の考え方を根本的に見直して、アフリカを考える試みが、アフリカ人だけでなく、色々な国の人たちによってもなされています。今回は「スウェーデンのアフリカ・グループ」が出版した『アフリカの闘い』The Struggle for Africa (London: Zed Press, 1983)と、数年前にNHKで放映された、イギリスの歴史家バズゥル・デヴィドスンが語るイギリスMBTV制作「アフリカ八回シリーズ」を軸に、ルネッサンス以降の西洋諸国によるアフリカ侵略の歴史について考えてみたいと思います。

 

奴隷貿易

デヴィドスンは、ルネッサンス以前のヨーロッパ絵画を紹介し、白人優位・黒人蔑視の風潮を「比較的、近代の病なのです」と指摘しながら、つぎのように語ります。

八世紀、十九世紀のヨーロッパ人は、祖先の知識を受け継ごうとはしなかったようです。それ以前のヨーロッパ人は、例えば西アフリカに、中世ヨーロッパにひけをとらない立派な王国がいくつもあることをよく知っていました。しかも、そうした王国を訪れた貿易商人や外交官の報告には、人種的な優越感をにおわせる態度は全く見られません。人種差別というのは、比較的、近代の病なのです。この違いを何よりよく語っているのは、ルネッサンスまでのヨーロッパ絵画です。ここには、黒人と白人が対等に描かれています。非常に未熟な人間という後の世の言葉を思わせるものはありません。美術の世界だけではありません。中世では、広く一般に、黒人は白人と対等に受け入れられていました。「アフリカシリーズ 第一回 最初の光 ナイルの谷」

西アフリカにヨーロッパ人が来るようになるのは十五世紀の半ば頃からですが、最初は貢ぎ物と引き換えに、国王たちが許可を与えるという形で交易が始まりました。当時のヨーロッパ人は、その頃の王の権威や宮廷の華やかさを伝える記録を多く残しています。そのような王国の一つ、ベニン王国を千六百年頃に訪れたオランダ人は次のように書いています。

都は三十の大通りが碁盤の目に交錯している。どの大通りも真っすぐで、大層広い。家は整然と並び、鏡のように磨きたてられている。清潔さという点では、ここの人たちは、オランダ人に少しもひけをとらない。立派な法律や警察組織もあり、住民は交易にきた外国人に極めて友好的であった。「アフリカシリーズ 第三回 王と都市」

ヨーロッパは八世紀から十五世紀にかけて、急速な社会の発展を遂げますが、それでも、かなりの発達段階に達していた近隣のアフリカ諸国には多くの点で劣っていました。たとえば、一四九七年に初めて喜望峰を回って北上したヴァスコ・ダ・ガマは、ペムバ、キルワ、モンバサなどの華やかな都市に目をみはっています。アラビア商人によってアフリカの内陸部やメソポタミヤ、ペルシャ、インド、中国を結ぶ黄金の交易網が張りめぐらされて、二百年に渡る繁栄を続けていたからです。ポルトガル人は東アフリカとの交易をもくろみますが、商品が劣っていたために相手にされませんでした。そこで、ポルトガル人は東海岸の貿易を独占するために掠奪を始めます。キルワの例をあげて、デヴィドソンが語ります。

その年、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる小さなポルトガル船三隻が、歴史上初めて喜望峰を回り、インド洋へと入っていきました。ここにヨーロッパ人の侵略が始まります。ポルトガルへ戻ったガマは、旅先で目にしたものを報告しました。そして、七年後の一五○五年、今度は前より大きな武装した船団が水平線に姿を現わしたのです。それに同行したドイツ人ハンス・マイルは、目撃したことをこう書いています。

「ダル・メイダ提督は、軍人十四人と六隻のカラブル船を率いてここに来た。提督は、大砲の用意をするように全船に命令した。七月二十四日木曜未明、全員ボートに乗り上陸、そのまま宮殿へ直行し、抵抗するものはすべて殺した。同行した神父たちが宮殿に十字架を下ろすと、ダル・メイダ提督は祈りを捧げた。それから、全員で街の一切の商品と食料を掠奪し始めた。二日後、提督は街に火をつけた」「アフリカシリーズ 第四回 黄金の交易路」(本誌十四号十一、十二頁参照)

こうしてヨーロッパ人のアフリカ侵略が始まります。ヨーロッパ人のねらいは、主にスパイス、布、金、象牙などでしたが、明らかに理不尽な侵略が出来たのは、火薬を人殺しの道具に使用した狡猾さ、相手にされないなら掠奪してしまえという侵略性、祈りを捧げてから掠奪や殺戮行為をなし得る傲慢さや残虐性などをヨーロッパ人が備えていたからでしょう。マルコムもヨーロッパ人の侵略性や残虐さを指摘し、中国で発明された火薬をヨーロッパ人が人を殺すための道具として使い出してから黒人が戦場で敗北し始めた、と言って、次のように続けます。

中国人は、火薬を平和な目的のために使いました。たしか、マルコ・ポーロだったと思いますが、マルコ・ポーロは火薬を手に入れて、ヨーロッパに持ち帰りました。そして、ヨーロッパ人はすぐにその火薬を人を殺すために使い始めます。ここが違う所です。ヨーロッパ人は、他の人たちが求めないものを必死になって獲ようとするのです。ヨーロッパ人は、殺すことが好きなんです、そう、本当にそうなんです。アジアやアフリカでは、食べ物のために殺します。ヨーロッパでは、楽しみのために殺すのです。そのことに気が付いたことはありませんか。あの人たちは血に飢えているんです、血が好きなんです。自分の血ではなく、他人の血が流れるのを見るのが好きなんです。あの人たちは血に飢えていますが、昔のアジアやアフリカのどの社会でも、獲物を殺すのは、食べ物のためで、楽しみのためではなかったのです……白人が黒人をリンチした話をよく聞きますが、黒人をリンチしながら、白人は刺激を得て、スリルを楽しんでいたんですよ。でも、あなた方も私も、殺すときは、食べ物のためか自分を守るためかのどちらかの必要性があるからなんです。そこのところをよく考えてほしいのです。(『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』二十八頁)

当初、ポルトガル人は海路と海岸線を支配しただけでしたが、ポルトガルに続いて、初めはオランダが、次にはイギリスとフランスが参入して、東海岸貿易の支配権をめぐって競争を繰り広げ、次第に本格的な侵略を開始していきます。

西海岸で海賊まがいの行為をしていたポルトガル人は、すでにアフリカ人を奴隷として本国に連れかえっていました。しかし、その規模は小さく、奴隷も権利は認められてはいなかったものの結婚も認められ、一般の貧しい人たちとそう変わらない生活を送っていました。奴隷貿易の性質や重要性を根本的に変えたのは、スペイン人による南アメリカ大陸の侵略です。栄えていたペルー、ボリビア、メキシコなどを武力で制圧したスペイン人の多くは、農民としてその地に留まり、そこに住んでいた人たちを強制的に働かせました。しかし、病気や劣悪な労働条件に耐えられず、強制労働を強いられた人たちの大半が死んでしまいます。鉱山や農場での汚なくて辛い仕事をする労働者を必要としたヨーロッパ人は、その労働力をアフリカに求めました。ヨーロッパ人がアフリカに目を向けたのは、もちろん距離的に近かったこともありますが、当時、アフリカが鉱山技術でヨーロッパよりも優れていたために熟練した鉱山技師が少なからずいたからでもありました。

一五一八年に、スペイン船が初めての積荷を直接アフリカからアメリカに運んだと言われています。それから三百五十年に渡って、アフリカ人が奴隷として西インド諸島や北、南、中央アメリカに売られていきました。奴隷の三分の二は西アフリカから、残りの大部分はコンゴやアンゴラから連れ出されました。デヴィドソンによれば、少なく見積もって千五百万のアフリカ人が売買されたと言います。輸送の途中や、奴隷狩りやそれに伴なう争いや飢きんなどの際に多くのアフリカ人が死んでいますから、おそらく被害者の数は、二千万から、三千万、あるいはそれ以上であったと考えられます。

奴隷貿易は「ヨーロッパで奴隷船に銃や布を積みこんでアフリカに向かう➝アフリカで銃や布を奴隷に換え、奴隷船に積みこんでアメリカに運ぶ➝アメリカで奴隷を売り、綿や砂糖、タバコなどの原材料を積んでヨーロッパに帰る➝ヨーロッパで原材料をさばいて高利を得て、その利益を布や銃の製造にあて、再び布や銃を積みこんでアフリカに向かう」というヨーロッパ、アフリカ、アメリカの三点を結んで行なわれました。いわゆる三角貿易です。一九七七年に全米を沸かしたテレビ映画「ルーツ」は、奴隷貿易の一部を画面に再現しましたが、ニューイングランドのアナポリス港に着いた奴隷船の中で、奴隷を商うアンドルーズ商会の代理人ジョン・カリントンと奴隷船ロード・リゴニア号のデイヴィス船長が交わす次の会話は、三角貿易の内容を端的に示しています。

デイヴィス「ガンビア川の河口で、百四十人の奴隷をロード・リゴニア号に乗船させました」

カリントン「それは、ゆったりとした積み方で。それで……」

デイヴィス「そのうち、港に着いたときの生き残りは九十八人でした」

カリントン「九十八人。そうですか、それじゃ死んだのは三分の一以下ですな。入港した時に、生き残りが半分以下でも、まだかなりの利益があった奴隷商を私は何人も知っておりますよ。おめでとうございます、船長」

デイヴィス「一刻も早く積荷を下ろしたいのですがね」

カリントン「直ちに船を引いて行って、岸壁にお着けしましょう」

デイヴィス「船倉で燃やす硫黄の粉をぜひご用意いただきたい。もう一度、きれいになった船が見たいのです」

カリントン「それは、もう、船長。それから、船長はまた、ロンドンへタバコを運んで行かれることになりますね」

デイヴィス「そして、ロンドンで……」

カリントン「ギニア海岸向けの貿易の品を、それから、またガンビア川に向けて」

デイヴィス「そして、もっとたくさんの奴隷を……」

カリントン「その通りですよ、船長。かくして天は我らにほほ笑みかけ、黄金の三角で点と点を結ぶ。タバコ、貿易の品、奴隷、タバコ、貿易の品など、永遠に限りなく。誰もが得をし、損するもの誰もなし、ですよ」

「誰もが得をし、損するもの誰もなし」の言葉どおり、奴隷船の船長をはじめ、奴隷商や奴隷を使う大農園主が暴利をむさぼりますが、これほど大規模な経済的不均衡が生じたことは、それまでにはおそらくなかったでしょう。奴隷貿易や奴隷制によって生じた偏った経済的不均衡によって、アフリカ社会は甚だしく疲弊し、西洋社会、特にアメリカとイギリスの金持ちは莫大な利益を獲得します。その利益は蓄積されて、やがて産業革命を引き起こす要因となるのです。

奴隷貿易や奴隷制によって生じたのは、経済的不均衡だけではありませんでした。それまであった交易の相手としての平等な関係は消え去り、白人優位・黒人蔑視の考え方が定着していきます。鎖につながれて船に運ばれるとき、あるいはアフリカからアメリカに向かう奴隷船の中で、あるいはアメリカの岸壁での競買で、アフリカ人は家畜並みの扱いを受けました。また、アメリカの農園では、アフリカ人とその子孫は、しばしば人間以下の扱いを受け、時には見るものが目をそむけたくなるような屈辱を味わいました。

奴隷貿易の最盛期に、初めて奴隷船に乗ったデイヴィス船長から、黒人についての質問を受けたスレイター一等航海士の次の話からも、黒人がどのように白人に考えられていたかの一端がうかがえます。

奴らは別の人種なんですよ、船長。人間が狩り用に犬を育てたり、女子供のペット用に育てたりするのに似ていますな。黒人っていう人種は、まあ、おつむの方は弱いんですが、体の方はいたって頑丈なんです。奴ら、奴隷にぴったりなんです。ちょうど、船長がこの船の船長にぴったりなように。自然の摂理ってやつですかな。

奴隷貿易が激しくなるにつれて、ますますその考えは浸透していきました。

奴隷貿易によって苦しみを味わったのは、連れ去られたアフリカ人やその子孫だけではありません。残された人たちもまた、共同体の柱を奪われて深い苦しみを味わったのです。奴隷貿易の被害にあった地域は人的な資源を失なって、急速に疲弊していきます。そして、ヨーロッパから来た安い製品によって、それまでかなり発達していた手工業の技術も衰えていきました。

植民地支配

奴隷貿易によってもたらされた最大の変化は、蓄積された資本によって産業革命が可能になり、資本主義に向けての発達過程が早まったことです。おそらく、欲に目のくらんだデイヴィスもカリントンも、自分たちのやっている奴隷貿易が、後の世にそれほど大きな経済的、社会的変化をもたらすことになろうとは、当時、夢にも思わなかったでしょう。

奴隷貿易やアメリカの鉱山や大農園の奴隷労働から得た多額の利潤を、自国の産業の発展のために投じるようになったヨーロッパの資本家は、徐々に力をつけて、それまで国を動かしていた奴隷商をしのぐようになり、奴隷制を廃止するに至ります。奴隷制よりも儲かる商売を見つけたというわけです。その人たちの関心は、産業のための原材料と労働者の低賃金を保障してくれる安価な食糧を確保することでした。

産業革命が最初に起こったのは、奴隷貿易で一番潤ったイギリスでした。十九世紀前半のことです。それまでは手で作っていたものを機械でつくるわけですから、かなり多くの製品が生産されるようになります。それでも、まだ、製品をさばくための市場の問題は起きていませんでした。しかし、十九世紀後半になって状況は一変します。イギリスに続く他のヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国が、関税を引き上げて自国の産業を保護したために産業が巨大化し、余剰生産物を生み出す結果になったからです。つまり、消費者が買える以上の生産が可能になったのです。アメリカとドイツはなお、自国産業の保護政策を取り続けますが、イギリスとフランスは、生産拡大のための新しい市場を探さなければならない段階にまで産業が発達していました。そうした事態を打開してくれるのが、市場と原材料を確保してくれる植民地でした。こうして、ヨーロッパ列強によるいわゆるアフリカにおける植民地争奪戦が始まります。

アフリカ争奪戦はかなり激しいものとなり、戦争の危機さえはらむようになりますが、植民地を搾取するという共通の利害関係と、台頭しつつあった自国内の労働者階級への不安もあって、一八八四年から八五年にかけて、西洋諸国が調停のために話し合いのテーブルにつきます。これがベルリン会議です。ヨーロッパ列強によって「正式に」アフリカが植民地として分割されたわけですが、実際は、すでに行なわれていた植民地争奪戦の結果を確認し合っただけに過ぎませんでした。

一番大きな分け前を取ったのはイギリスで、エジプト、ケニア、ナイジェリア、ゴールド・コースト(現ガーナ共和国)など一番いい場所を確保しました。次いでフランス、ドイツの順で、特に産業化のすすんだその三国で全体の八十%を占めました。残りを、ベルギーとイタリア、それにポルトガルとスペインが分けてアフリカ分割が完了し、本格的な植民地支配が始まります。余剰製品を売りさばく市場を確保し、原材料の価格を思い通りに操作するためには、植民地内のアフリカ人を完全に掌握し、管理しなければなりませんでした。支配の仕方は、その地域社会の発達段階によって異なりますが、中央集権化の進んだ地域では、その統治機構や支配者層をうまく利用しました。これがいわゆる間接統治で、進んだ地域を占領したイギリスは、おおむねこの支配形態を取りました。あまり発達していない地域を支配したフランスなどは、直接統治の形態を取りました。

一部の地域を除いて、各地でアフリカ人による強い抵抗運動がありますが、ヨーロッパ列強は資本と武器の力にまかせて強引にそれらの抵抗運動を鎮圧します。ドイツに支配された南西アフリカのように、大量虐殺に及んだ例も少なくありませんでした。植民地での搾取は苛酷を極め、直接統治によって一千万人以上もの人が殺されたと言うレオポルド二世のベルギー領コンゴの例などは特によく知られています。

多くの植民地では、農園や鉱山での労働者を獲得したり、植民地支配のための資金を得るために、強制労働や人頭税や小屋税などの税金、あるいは輸出用作物の耕作などの方法が取られました。アフリカ人は否応なしに貨幣経済に巻きこまれ、重い税金を払うために、あるいは巷にあふれるヨーロッパ製品を買うために、現金収入の道を求めて村を離れざるを得ませんでした。出稼ぎ労働者の誕生です。ほとんどの場合、短期間の契約労働の形が取られました。熟練した技術を覚えさせずに単純労働に従事させるには短期契約が一番都合がよかったからです。契約期間が切れたら、賃金のベースアップなしに、新たに他のアフリカ人を雇えばいいのです。あり余る出稼ぎ労働者は、低賃金を確保するにはもってこいのシステムでした。出稼ぎ労働者として村の働き手を奪われることで、旧来のアフリカ社会は完全に崩壊していきます。

また、多くの地域では輸出向けの換金作物を強制的に作らされました。セネガルのピーナッツ、ガーナのココア、タンザニアのコーヒーとサイザル麻、モザンビークの綿などです。大体が単一の作物で、以前のように自分たちが食べるのではなく、宗主国の産業用だったのです。土地を休めずに連作を強いられて土壌が疲弊しただけでなく、それまでの自給自足の形態も根本から崩れて、のちの飢餓の要因となります。輸出価格を含め、植民地の経済は、完全に宗主国に支配されるようになりました。

一方、ヨーロッパでは、アフリカ人を幼稚で怠け者で救いようのない野蛮人と決めつけて、さかんに笑い者にしました。そうでもしなければ、国を取り上げて甘い汁を吸うことを正当化できなかったでしょう。ありとあらゆる形で自らの侵略を正当化する試みがなされて、白人優位・黒人蔑視の考え方はしっかりと定着していきました。

新植民地支配

「白人同士が殺し合った」第一次、第二次世界大戦では、アフリカ人も駆りだされ、多くの犠牲者を出しました。しかし、両大戦で白人と共に銃を持って闘ったアフリカ人は「自分たちにもやれる」という自信を持ちました。戦争で荒れ果てた自国の復興に追われる西洋諸国を尻目に、アフリカは独立に向けて静かに動き始めます。

独立の先頭に立ったのは、宗主国のヨーロッパやアメリカに留学したことのある知識階級の若者たちでした。ブラック・アフリカでは、それまで模範的な植民地とされていたゴールド・コースト(現ガーナ共和国)が一九五七年に最初に独立を果たします。イギリスはあらゆる手段で独立を阻止しようとしますが、大衆の圧倒的な支持を得たクワメ・エンクルマの勢いを止めることは出来ませんでした。時代の流れには逆らえず独立を許しますが、元植民地の利権を守るための新たな手口を考え出します。いったん独立を認め、形式的にアフリカ人に政治はやらせるものの、混乱に乗じてやがては軍事介入、実質的な経済力を握ってそれまでの利権を守るというやり方です。これが今も続く新植民地政策です。その意図は、エンクルマの次の自伝の一節からもはっきりと読み取れます。

遺産としてはきびしく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとのイギリス総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。とくべつの家具が一つあったほかは、わずか数日まえまで、人びとがここに住み、仕事をしていたことをしめすものは、まったく何一つなかった。ぼろ布一枚、本一冊も、発見できなかった。紙一枚も、なかった。ひじょうに長い年月、植民地行政の中心がここにあったことを思いおこさせるものは、ただ一つもなかった。

この完全な剥奪は、私たちの連続性をよこぎる一本の線のように思えた。私たちが支えを見い出すのを助ける、過去と現在のあいだのあらゆるきずなを断ち切る、という明確な意図があったかのようであった。[クワメ・エンクルマ著野間寛二郎氏訳『アフリカは統一する』(理論社、一九七一年)十四頁。Kwame Nkrumah, Africa Must Unite (1963; Panaf, rep. pp. xiv-xv.)]

結局、エンクルマは、一九六六年にベトナム戦争収拾の協力で極東に出向いている間に、クーデターを起こした軍部に失脚させられてギニアに亡命、六年後、失意のうちに病死するはめに陥りました。

ベルギー領コンゴ(現ザイール)の場合は、もっと悲惨です。一九六〇年、ベルギー政府は、政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか六ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げし、行政の経験者はほとんどなく、三十六人の閣僚のうち大学卒業者がわずかに三人といった状態になります。その結果、独立後一週間もせずに国内は大混乱し、そこにベルギーが軍事介入、コンゴは「自治の能力なし」のレッテルを貼られてたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(シャバ州)での経済利権を確保するために、首相パトリス・ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいます。

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえるはずもありません。名前こそ変わったものの、搾取構造は植民地時代とあまり変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされているのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」で、高い関税をかけられるので加工して輸出することも出来ず、結局は原材料のまま売るしかないのが現状です。サイザル麻を作らされているタンザニアの元大統領ニエレレは次のように嘆きます。

第一次五ヵ年計画を準備していた当時、サイザル麻の価格はトン当たり百四十八ポンドの高値でした。これは続くまいと考え、トン九十五ポンドの値を想定して計画を立てました。ところが、七十ポンド以下に暴落です。私たちにはどうしようもありません。

原料生産者は、一体どうしたらいいのか。サイザル麻を作って売るしかありません。その価格が下がったら、もうお手上げです。苦しむのはいつも弱者です。「アフリカシリーズ 第八回 植民地支配の残したもの」

また、カカオが主要輸出品であるガーナのローリングス議長は、怒ります。

ひどい話です。買い手が一方的にカカオの値段を決定する。昔はトン当たり三千五百ポンド。それが、今では千ポンド。奴隷並みに働いて、カカオを差し出している。一方で、輸入品の値段は天井知らずに上がっているが、押しつけられ、慣らされて、今や、買わずにはいられない。「同シリーズ 第八回 植民地支配の残したもの」

第二次大戦後は、再進出の西ドイツと、アメリカ、日本を加えた多国籍企業に経済を握られ、開発援助の名の下に累積債務は増えるばかり、より巧妙かつ複雑になった搾取構造の下で、アフリカ諸国は苦しんでいます。「先進国」の大幅な経済的譲歩がない限り、先の希望は望めそうにありません。その意味では、デヴィドスンのつぎの提言は、傾聴に値するでしょう。

飢えている国の品を安く買いたたき、自分の製品を高く売りつける。こんな関係が続いている限り、アフリカの苦しみは今後も増すばかりでしょう。アフリカ人が本当に必要としているものは何か。私たちは問い直すことを迫られています。

戦争、内乱、飢え、貧困、その中で、今、アフリカは何とか前進しようとしています。それを支えているのは、虐げられた歴史を覆した自信と未来に賭ける夢です。

奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た先進国は、形こそ違え、今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取ってきた富、今はそれを返す時に来ているのです。(「同シリーズ 第八回 植民地支配の残したもの」本誌十四号十三頁参照)

アフリカを考える

ニューヨークのラ・ガーディア空港か、シカゴのオヘア空港だったかは忘れましたが、もし日本だったら、こんな対応をするのかなあと考えたことがあります。予約の変更か何かで立ち寄ったのだと思いますが、どうも私の至らぬ英語がカウンターの相手には解りかねたと見えて、ちょっとお待ちくださいと言って「言葉」のわかる同僚を奥から連れてきました。しかし、「言葉」のわかるその人は、英語をゆっくりと話すだけで、日本語でサービスをなどという考えは全く念頭にはない様子でした。十年ほど前のことです。

アメリカ国内を旅行するとき、日本人がそこで話されている英語をしゃべるのは当たり前なのかも知れませんが、アメリカ人が日本を訪ねる場合には、必ずしもそうではありません。今では空港のカウンターで日本語がしゃべれなくてもそれほど不自由を感じる人は少ないでしょうし、観光地や地方の駅に行っても、不自由ながらも係員が英語を使ってくれたり、それでも通じないなら英語の話せる人を探してくれたりします。それが、日本を訪れた外国人に対する自発的な好意や親切心から生まれたものなら喜ばしいことなのでしょうが、中国語で話す中国の人に、ベンガル語で語りかけるバングラデシュの人に、果たして同じ対応をするのかと考えるとき、個人を超えた大きな意思のようなもの、黒人蔑視・白人優位にも似た風潮がここにも厳然と生き続けていると感じないわけにはいかないのです。

確かに、国際社会での英語の重要性は増しています。しかし、裏を返せば、イギリスがそれだけ多くの国からたくさんのものを奪い取ったということです。たとえば、八十九年十月にクアラルンプールで開かれたに英連邦首脳会議には、四十九ヶ国が参加していますが、それは、英語を公用語にしている南アフリカを加えた五十ヶ国にも及ぶ国が、かつてイギリスに支配され、搾取されただけでなく、母国語以外の言葉を押しつけられるという蹂躙を受けたことに他なりません。一九八六年にノーベル文学賞を受けたナイジェリアのウォレ・ショインカが八七年に来日した際に「自分の言語であるヨルバ語でものを書くことは石器時代に逆戻りするにも等しい」と発言したことにケニア人のムアンギさんが異議をはさんでいるのは、それまで英語で作品を書いていたグギさんがギクユ語とスワヒリ語でしか書かなくなった意味合いを考えてほしかったからでしょう。また「ショインカが語るのを聞いた日本人の中でショインカが自分の言葉を低く見ていることを気にした人はそう多くはいなかっただろう」という評は、第二次大戦後、特にアメリカの影響をもろに受けて、横文字が氾濫し、まるで英語を話すことが美徳でもあるかのような日本の風潮への厳しい警告ではなかったでしょうか。(サイラス・ムアンギ「グギの革命的後段言語学1」、本誌十一号三十四頁~三十八頁参照)

今回の湾岸戦争で、西側の情報がいかに一方的に流されていたかを痛感した人も少なくないでしょう。その背後には、中東における石油の権益を確保しようと躍起になっている西側諸国の総体的な意思が見え隠れしていました。その点ではアフリカに関しても、同じことが言えます。たとえば、経済的につながりの強いケニアに関する情報は、いまだに美しい自然や野性の王国といったものばかりです。独裁的な恐怖政治のもとで多くの人が亡命を強いられているといった負のイメージはなかなか伝わってきません。しかし、グギさんは、新植民地主義支配の手先であると体制を批判してナイロビ大学を追われ、亡命生活を強いられています。また、ナイロビ大学の卒業生でもあるムアンギさんによれば「私と同世代のナイロビ大学関係者や政治の批判者たちはディテンショナルな刑務所に入れられているか、亡命しているか、殺されたか、これら三つのどれかにあてはまっていると言える程である」とのことです。(本誌十二号二十四頁参照)そこにもやはり、マスメディアを巧みに利用する体制側や貿易によって潤っている大企業や国の大きな意思のようなものが垣間見られます。そのように考えますと、マルコムXやビコが問いかけた自己意識の問題は、本当は、大きな総体的な意思に慣らされてしまって本質を見失いがちになっている現在の私たちの問題なのではないでしょうか。

そういう意味では、アフリカを考えることも、自分を見つめ直したり、自分の立場を考えたりする一つのきっかけになると思えてならないのです。

「アフリカを考える—自己意識と侵略の歴史」は、昨年の十月二十二日の月曜会でお話した「アフリカを考える—アフリカ、そして南アフリカ」と、南九州大学大学祭での海外事情研究部の主催による講演会「アフリカを考える—アフリカ」をもとにして書いたものです。

月曜会は宮崎市とその周辺の歯医者さん有志が、毎日見ている小さな口の中ばかりでなく、他の世界のことも知ろうと月一回集まって開いておられる勉強会で、治療や検診でお世話になっているタチカワ・デンタルクリニックの院長立川俊介さんのご紹介で、今回、お招きにあずかりました。

海外事情研究部は、海外渡航や他大学との交流などの広範な活動をしている創立二十五年目のサークルですが、昨年の統一研究のテーマ「アフリカ」と顧問の宮下和子さんのご縁で、講演が実現しました。

お世話下さった月曜会の立川俊介さんと運営委員の石井千春さん、南九州大学海外事情研究部元部長の富田篤さん、現部長の河野弘志さんや部員の皆さん、色々お気遣い下さった宮下さんをはじめ、お話を聞いて下さった月曜会とタチカワ・デンタルクリニックのスタッフの方々、南九州大学講演会に参加して下さった皆様に深くお礼申し上げます。

一九九一年七月              宮崎にて

執筆年

1991年

収録・公開

「ゴンドワナ」19号(横浜:門土社)10-22ペイジ。

 

1990~99年の執筆物

概要

Africa and Its Descendants(英文書、Mondo Books, 1995)の続編です。

Africa and Its Descendants

Africa and Its Descendants 2

本文

目次PrefaceBibliography奥付け、「テキストの解説」(メールマガジンに連載)のリンクです。

<目次>

CHAPTER 1 (pp. 6-29) : The neo-colonial stage: Mechanism and realities

I Introduction
II The mechanism and realities of neo-colonialism

II-1 The age of independence
II-2 The creation of African new classes
II-3 Economic dependence
II-4 Development aid
II-5 Growth without development
II-6 Self-reliance and concession

CHAPTER 2 (pp. 30-47) : Literary works

1 And a Threefold Cord by Alex La Guma
2 The Honourable MP by Gonzo H. Mesengezi

Chapter 3 (pp. 48-75) : Contemporary issues

1 AIDS epidemic
2 Zaire’s turmoil
3 My stay in Harare, 1992

Chapter 4 (pp. 76-91) : Afro-American songs: spirituals and gospel music by African descendants

1冊目はアフリカと南アフリカとアフロアメリカの歴史の簡単な紹介をしましたので、2冊目は、

1章:第二次世界大戦後に先進国が再構築した搾取制度、開発や援助の名目で繰り広げられている多国籍企業による経済支配とその基本構造、

タンザニア初代大統領ジュリアス・ニエレレ(小島けい画)

独立前にガーナを訪れたリチャード・ライト(小島けい画)

コンゴの初代首相パトリス・ルムンバ(小島けい画)

2章:アフリカの作家が書き残した書いた物語や小説、

Alex La Guma’s And a Threefold Cord

H.G. Mesengeni’s The Honourable MP

3章:今日的な問題に絞り、

4章:アフロアメリカについてはゴスペルからラップにいたるアフリカ系アメリカ人の音楽

ゴスペルの女王マヘリア・ジャクソン

に絞って、内容を深めました。①が半分ほどを占め、引用なども含めて少し英文が難しくなっています。医学科の英語の授業で使うために書きました。

<Preface>

Preface Our self-image reflected by Africa
This is the second volume of the AFRICA TODAY series. In the previous work, Africa and its Descendants (1995), I tried to provide a general introduction to African and Afro-American history. In the first chapter I described the colonization of Africa by Europeans, briefly mentioning some contemporary problems, such as the AIDS epidemic. I wanted to show a historical view free from the distortion of Western bias. In the next chapter I gave weight to the struggle on the part of black South Africans for equality and justice, for a key role of the new South Africa is to become a leading nation. In the final chapter I added a survey of Afro-American history to show what has transpired among one part of the diaspora of African descendants. Japan has been too much influenced by the United States of America, not least in its historical perspectives, especially after the Second World War. I felt keenly that it would be of some use for us to reconsider American influence and free ourselves from its bias.

In this second work I’d like to depict the neo-colonial phase in African history, as well as the music of African descendants. In the first chapter the focus is on the mechanism and realities of neo-colonialism. In the second chapter I’ll deal with the neo-colonial scenes in two literary works by African writers: Alex La Guma’s And a Threefold Cord and Gonzo H. Musengezi’s The Honourable MP. In the third chapter, after discussions of the AIDS epidemic and Zaire’s turmoil, I would like to add a brief account of our family’s short stay in Harare, Zimbabwe in 1992. In the final chapter, spirituals and gospel music by African Americans are examined; some messages of their forefathers have been passed on to later generations in the form of music. African descendants are still singing their songs in their own styles.

Since the equal relationship between Africans and Europeans was broken down by the slave trade and colonization process, the exploitation has continued even to this day by changing its forms. Now we are in the last stage: the neo-colonial phase. What we should remember here is that we are on the side of the robber and that some 'chosen’ Africans are in a similar position.

Nowadays all citizens on this earth face some life-threatening problems: nuclear war, global warming, etc. Those urgent issues should take priority over all other problems, but selfish human desire seems to be worsening the situation, as was shown at the Third Conference of the U.N. Framework Convention on Climate Change, held in Kyoto.

I often hear many Japanese say how lucky we are to be living in such a rich and safe country. They seem satisfied with their 'peaceful’ situation with material abundance and convenience. However, we have to reevaluate our way of life and thinking, for our vanity is based partly on the sacrifice of the robbed, who are still suffering from poverty and racial conflicts. It’s time to reconsider our self-image as reflected by Africa and world problems.

I hope the following chapters will be of some help in formulating a new approach to African and Afro-American problems and studies.

I am thankful to have benefited from The Struggle for Africa, 'The Glory of Negro History,’ as well as other works cited in my bibliography, and Basil Davidson, a strong advocate of African solutions to African problems. I borrowed the dedication phrase from his book Can Africa Survive?

I would like to thank Mrs. Blanche La Guma and Dr. Cecil Anthony Abrahams, Mr. Junpei Hasumi, and Mr. Masaki Ota.

I met the two South Africans while they were forced to live in exile. Blanche welcomed our family to lunch at her temporary house in London in 1992, and has kindly permitted me to use her correspondence.

Cecil accepted me with his family at his house in Canada in 1987. He talked about La Guma and gave me the chance to take part in the 1988 La Guma / Bessie Head Memorial Conference, where I met Blanche for the first time.

Both Blanche and Cecil are now back in South Africa. Blanche enjoys her retired life and Cecil plays an important role at the University of Western Cape.

Mr. Hasumi visited Harare this March again and offered me some precious information about Zimbabwe. Mr. Ota gave me some advice on the AIDS issue. They were also kind enough to proofread some sections of my manuscript. Both Mr. Hasumi and Mr. Ota are medical students.

This time again, I wish to thank both Mr. William (Bill) Nikolai, my friend, editor and former colleague (now living in Canada), and Mondo Books, my publisher.
In Miyazaki, Japan                                 Yoshi

Bibliography

CHAPTER One

1. Books

Basil Davidson, Can Africa Survive? (Boston: Little, Brown and Company, 1974)
N’gugi wa Thiong’o, Writers in Politics (London: Heinemann Educational Books, 1981)
N’gugi wa Thiong’o, Writing Against Neocolonialism (Middlesex: Vita Books, 1986)
Kwame Nkrumah, Autobiography (London: Panaf, 1957).
Kwame Nkrumah, Africa Must Unite (London: Panaf, 1963).
Kwame Nkrumah, Neocolonialism: The Last Stage of Imperialism (London: Panaf, 1965).
Ed. Mai Palmberg, The Struggle for Africa (London: Zed Press, 1983).
Andro Proctor et al, People and Power Book Two (Harare: Academic Books, 1992)
Richard Wright, Black Power (New York: Harper & Brothers, 1954).
Steve Biko: I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1978).

2. Periodicals

Brook Larmer, “The New Colonialismーnot Since 1945 Have So Many Nations Needed Rebuilding" in Newsweek (August 1, 1994).
David Gordon, “Haves and Have-NotsーWhat about those who can’t afford the new AIDS drugs? The view from the rest of the world" in Newsweek (December 9, 1996).

3. TV Film

African Series 1-8. 1983. NHK Educational.

CHAPTER Two

1. Books

Cecil Anthony Abrahams, Alex La Guma (Boston: Twayne Publishers, 1985).
Alex La Guma, A Walk in the Night (Ibadan: Mbari Publications, 1962).
Alex La Guma, And a Threefold Cord (Berlin: Seven Seas Publishers, 1964).
Gonzo H. Musengezi, The Honourable MP (Harare: Mambo Press, 1984).

2. Periodicals

“Alex La Guma’s First NovelーBanned by the Sabotage Act" in New Age (August 9, 1962).
Donna Bryson, “Housing South Africans still has long way to go" in the Daily Yomiuri (September 17, 1996).
Mary Braid, “Crooks push Cape Town’s credentials" in the Daily Yomiuri (August 24, 1997).
“Mbeki takes over as president of ANC" in the Daily Yomiuri (December 12, 1997).

3. Film

Cry Freedom. 1987. A director: Richard Attenborough.

CHAPTER Three

1. Books

秋山武久、『HIV感染症』(南山堂、1997年) [AKIYAMA Takehisa, HIV Infectious Diseases (Tokyo:Nanzando,1997)].国立大学保健管理施設協議会特別委員会、『エイズ教職員のためのガイドブック’98』(国立大学保健管理施設協議会特別委員会、1998年) [Ed. by the Special Committee of the Health Facilities of National Universities, AIDSーA ’98 Guide Book for University Teachers and Officials (the Special Committee of the Health Facilities of National Universities, 1998)] .

2. Periodicals

<On AIDS>

“'AIDS orphans’ rise as Africa battles disease" in the Daily Yomiuri (August 7, 1994).
Karl Maier, “Aids epidemic chokes the life of southern Africa" in the Independent included in the Daily Yomiuri (July 30, 1995).
Roger J. Pomerantz and Didier Trono, “Genetic therapies for HIV infections: promise for the future" in AIDS (1995), 9: 985-993.
John Balzar, “In Uganda, a scourge on families" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (November 27, 1995).
“AIDS onslaughter straining resources in Africa" in the Daily Yomiuri (April 30, 1996).
“Targetting a Deadly Scrap of Genetic Code" in Newsweek (December 9, 1996).
Joanne Kenen, “Reserchers: An AIDS cure likely would involve multidrug therapies" in the Daily Yomiuri (February 1, 1997).
“Zimbabwe battles with alarming rise in rapes" in the Daily Yomiuri (August 17, 1997).
“AIDS rivals malaria as killer in Africa" in the Daily Yomiuri (December 9, 1997).

<On Zaire>

David Orr, “A nation at his finger tips" in the Daily Yomiuri (November 24, 1996).
William Wallis, “Zaire’s Mobutu faces difficult homecoming" in the Daily Yomiuri (December 17, 1996).
Mary Braid, “West gives Mobutu green light to unleash dogs of war in Zaire" in the Daily Yomiuri (February 2, 1997).
Lucy KomIsar, “U.S. Put Him In, Now Get Mobutu Out" in the Daily Yomiuri (February 11, 1997).
Helen Watson Winternitz, “The U.S. Must Cut Its Ties to Mobutu" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (March 24, 1997).
Bob Drogin, “Zaire’s Elite Seek to Keep Positionsーand Wealth" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (March 31, 1997).
Bob Drogin, “Ali Won the Fight, But Zaire Was the Loser" in the Washington Post included in the Daily Yomiuri (April 4, 1997).
Basil Davidson, “Zair’s Turmoil Invites an African Solution" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (April 28, 1997).
Susan Linnee, “Rift on the river: Rebels getting snagged?" in the Daily Yomiuri (April 28, 1997).
Reuben Abati, “World needs to get more involved in Zaire" in the Daily Yomiuri (May 11, 1997).
“Mobutu escapes to Morocco after civil war defeat" in the Daily Yomiuri (May 19, 1997).
“Kabila wins Zaire・ can he keep it?" in the Daily Yomiuri (May 20, 1997).
“Zaire’s Second Chance" in the Washington Post included in the Daily Yomiuri (May 23, 1997).
“Kabila stalls on naming new government" in the Daily Yomiuri (May 23, 1997).
Julius Nyerere, “Pushing Kabila on Early election unrealistic" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (May 25, 1997).
“Kabila takes oath as president of Congo" in the Daily Yomiuri (May 31, 1997).
Mike Tidwell, “Looking Back in Anger: Life in Mobutu’s Zair" in the Washington Post included in the Daily Yomiuri (June 6, 1997).
Ann M. Simmons, “In Congo, Hopes Rise With Fall of Dictator" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (June 23, 1997).
Tina Susman, “Mobutu ーlast of Africa’s Cold War relics" in the Daily Yomiuri (September 9, 1997).
Helen Watson Wintemitz, “Overcoming Mobutu’s Sad Legacy in Congo" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (September 29,
1997).

<On Harare>

“Price rises trigger Zimbabwe riots" in the Daily Yomiuri (January 21, 1998).
“Zimbabwe president warns rioters" in the Daily Yomiuri (January 22, 1998).

3. Dictionary

Stedman’s Medical Dictionary 26th Edition (London: Williams & Wilkins, 1995).

CHAPTER Four

1. Books

Herman Bartelen, The Story of American Popular Music (Tokyo: Macmillan Laguagehouse, 1997).
Langston Hughes, “The Glory of Negro History" in The Langston Hughes Reader (New York: George Braziller, 1958), pp. 464-480.
Eileen Southern, The Music of Black Americans (New York: W・W・Norton & Company, 1983).
Howard Thurman, Deep River and the Negro Spirituals Speak of Life AND Death (Richmond: Friends United Press, 1975).

2. Periodicals

鈴木啓志、「ゴスペルという黒い宗教音楽」(ミュージック・マガジン増刊号、1986年12月)。
Roxanne Brown, “The Glory of Gospel" in Ebony (May, 1988).
Lisa C. Jones, “Kirk Franklin New Gospel Sensation" in Ebony (October, 1995).
Lisa Jones Townsel, “Gospel Star Kirk Franklin Back From the Brink of Death" in Ebony (April, 1997).

奥付け

著者●玉田吉行(たまだよしゆき)

1949年、兵庫県に生まれる。
翻訳書にアレックス・ラ・グーマ著『まして束ねし縄なれば』、注訳書にAlex La Guma, A Walk in the Night,、Alex La Guma, And a Threefold Cord、著書に『箱舟一21世紀に向けて』(共著),、Africa Today 1 Africa and its Descndants (いずれも門土社刊)がある。
宮崎医科大学助教授。

校閲●William Nikolai

Born in Vancouver, Canada in 1956 and graduated from the University of British Columbia. He was a teacher of English at Fukuoka University of Education and Miyazaki Medical College and now conducts reserch in cross-cultural communication in Canada.

挿画●小島けい

<テキストの解説>を、門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」に連載しました。→「Africa and Its Descendants 2 アフリカとその末裔たち2一覧」

執筆年

1998年

収録・公開

英文書、Mondo Books

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Africa and Its Descendants Neo-colonial Stage – Africa Today Series 02 

1990~99年の執筆物

概要

ラ・グーマの初期の作品に見られる文学手法に焦点をあてた作品論です。抑圧の厳しい社会では政治と文学を切り離して考えることは出来ませんが、作者の文学技法によって作品を政治的な宣伝でなく文学として昇華させるのは可能です。ラ・グーマの使うリアリズムとシンボリズムの手法が、読者に期待感を抱かせる役割を果たしている点を指摘しました。

本文(写真作業中)

When Alex La Guma was asked, in an interview, “What do you think of symbolism as a literary device?" he answered, “I have no objection as long as the reader knows how to interpret it correctly. In my novels there is a combination of realism and of transparent symbolism."1

In this paper I would like to give an estimation of realism and transparent symbolism in La Guma’s works, especially in his first two novels A Walk in the Night and And a Threefold Cord.

Needless to say, “one cannot separate literature from life, from human experience and human aspiration."2 That is even more true for Alex La Guma, living in such an abnormal situation where even writers, if necessary, must fight against the oppressors with guns in hand. In South Africa, people were forced to be engaged in a human rights movement, not a civil rights movement as in the United States, because the laws of the country themselves were discriminatory and they could not expect protection and support from their Constitution. They were forced to give up non-violent strategies because the white regime did not have the essential minimum moral standards. History verifies that. La Guma “finds himself with no other choice but to dedicate himself to that movement which must involve not only himself but ordinary people as well."3 He creates his novels in the midst of his liberation struggle, but they are not propaganda or slogans for the struggle. The following interview conveys to us his intention:

  1. What are then the values which you seek to express in your novels?

La Guma: I want to express the dignity of people, the basic human spirit in the least pompous way possible. One must avoid propaganda or slogan. I am also politically involved. In my writing and in my political activities I vindicate the dignity of man, but these are two different activities.4

It is his artistry that enables him to avoid polemical stances in his creative writing. These beliefs have led him to choose realism and transparent symbolism as literary devices, on the presumption that the reader knows how to interpret the South African situation correctly. He once observed in an article:

One of the greatest values of literature is that in deepening our consciousness, widening our feeling for life, it reminds us that all ideas and all actions derive from realism and experience within social realities.5

From his keen desire for “at least letting the world know what is happening,"6 in South Africa, he describes in his stories characteristic scenes in the cities and the suburban slums.

A Walk in the Night is centered on two blacks7 on the verge of criminality, Michael Adonis and Willieboy, and an Afrikaner policeman, Raalt. These are typical and important thematic characters of the South African predicament.

Adonis loses his job by answering back to a white foreman, which frustrates and angers him. His anger and frustration drive him into killing a poor old white neighbour, Uncle Doughty. This act finally makes him get involved in the underground. Through Adonis’ gradual degradation, La Guma shows us how inevitably an ordinary youth gets drawn into illegalism.

Willieboy grows up in a broken family, but takes life very easily and is always unemployed, claiming that it is useless to work for anyone. One day he calls un Adonis, but finds himself wrongly suspected of the murder of Uncle Doughty. He is pursued by Raalt and finally shot to death. Through Willieboy’s tragic fate La Guma hints to us how easily and vainly criminal activity can shorten one’s life.

In And a Threefold Cord we find another kind of gangster called Roman. Roman was once an ordinary worker, but after going through various menial jobs, he takes to petty thieving and finally ends up in jail. In his kennel-like shack, he cannot support his family and they are constantly hungry. In a state of drunken savagery he regularly beats his wife and whips his eleven children, until his wife goes beyond hatred for him. Roman is a typical petty criminal, who compensates for his wretchedness by attacking weaker ones around him.

In that sense Raalt, in A Walk in the Night, is similar in attitude to Roman. Raalt feels dissatisfied with his marital life and resentful of his wife. He tries to discharge his anger and frustration by ill-treating black citizens. While on patrol he longs for anything to happen to release his tension. Unfortunately his gunpoint is directed by chance towards Willieboy. His hunting of Willieboy is relentless; he finally corners him and shoots him mercilessly. He refuses to allow an ambulance to take the dying youth to hospital. He tops off his brutality by dropping in at a store to extort cigarettes, while Willieboy is dying in the police van.

Another disturbing scene involving the white police is found in the same story. On his way home Adonis is confronted by two strolling policemen, who accuse him of having marijuana. He denies the accusation, and they order him to turn out his pockets. “They find his money and accuse him of having stolen it. But in the end they cannot find anything to charge him with, so they push past him, one of them brushing him aside with his elbow, and stroll on away. It is only because he came across them on the street that he was accused. All of this happens in the presence of passers-by in broad daylight.

The same kind of brutality by white policemen figures in And a Threefold Cord. On a pass raid a white policeman with two Africans breaks into a shanty by kicking the door open with his muddy boot. A couple are lying naked in bed. Finding that the man has no pass book, he puts handcuffs on him and takes him out into the falling rain after jerking the blanket from the woman’s naked body. She begins to weep with a high, wailing sound.

In the night raid on his sweetheart Freda’s shanty, when he is staying with her, Charlie is unjustly accused of having marijuana by a white policeman. Freda is humiliated by being sworn at, “Blerry black whore." Her children begin to wail with terror.

Such scenes of inhumanity clearly convey to the reader the harsh reality of a police state which continually harasses black people in everyday life. “The violent scenes make it quite plain that for the white regime even the Sharpeville Massacre in 1960 was just another everyday incident.

Through his true–to-life description La Guma raises a serious dynamic. The more brutal white people become, the more the hatred of black people intensifies. Their gap widens and deepens more and more. They are fated never to attain mutual understanding. In that sense they are both victims of the monster apartheid, because they are permanently at the mercy of the socioeconomic and political environment. If we borrow some words from Shakespeare, some of which are found in the epigraph of this story, brutal whites and hopeless blacks are both “just ghosts, doomed to walk the night." like Hamlet’s father. Thus we can say that the night, haunted both by blacks and whites roaming aimlessly and despairingly, is one of the transparent symbols of this abnormal, segregated society.

In A Walk in the Night La Guma concentrates on the negative side of the society, but in And a Threefold Cord he gives attention to the positive side of the oppressed people.

The story proceeds through the consciousness of Charlie Pauls, the protagonist, and through the experiences of his family and its associates. A number of incidents occur in this story, two of which especially affirm the reality of an oppressed people who are managing to sustain a community even under the severest conditions of apartheid. One incident is Charlie’s father’s death and the other is the birth of his sister’s child. The situation tells us the importance of a “threefold cord" relationship, which means helping each other and living in harmony with love, as is indicated in the epigraph.

Charlie’s father, Frederick Pauls, has worked continually for his family but finally becomes bedridden with illness. Their shabby shanty and meagre food make him worse until at last he dies, all skin and bones. The only sounds from him throughout the story are his moans and coughs in his bed. Through his wife, Rachel, the reader catches his first and final words; “Rachy,…,…is the children awright?… I would have liked them to be living in another place. Like those houses with the roofs."8 The sickness forces him to lie in bed in a dark room with a ceiling stained by constant leaking. Day in and day out there is nothing for him to gaze at but a black map of dampness on the ceiling. He must have dreamed that he could have let his children live in a house with the roofs in which they wouldn’t have to worry about leaks. Though in agony, he continued to feel concerned about his children until his last breath. His final words suggest such sorrowful regrets. His love and sorrow for his family have been great and deep.

This is also true of Rachel. She too is a conscientious worker and carries on all the ordinary chores of a hard life. When her husband dies she does not get upset. Instead of weeping, she performs elaborate arrangements for the funeral, according to her sense of duty to consign one’s dearest reverently to the grave.

With the help of relatives and neighbours, she manages to conduct the funeral decently thanks to her contributions to burial insurance. In those scenes of Frederick’s death and the funeral we can find no actual tears from Rachel, but all her tears are expressed in her deeds. Each of her determined actions is her own way of expressing her deep love and great sorrow for her deceased husband.

Charlie’s sister, Caroline, was born in a sort of chicken-run because her father and brother could not get a shack built in time. Now she is to give birth to her baby in her miserable shanty. The rain drums down and the rainwater, leaking in, spreads across the floor. Her mother arrives in time, but not the midwife. Her mother begins to put old newspapers under Caroline’s waist. The following text shows us the nightmarish conditions of the birth:

At the moment Caroline screamed. The police raider said, ‘Ghod!’ He peered past Ma into the shack, saw Missus Nzuba’s vastness crouched over the girl on the mattress. His eyes moved about, over the smoky ceiling, the muddy floor, the leak in the roof and ragged clothes displayed as if for sale. The smell of smoke and oil and birth made the air fetid.

He said, again: ‘Baby? What, in here?’ Then he shrugged and growled, ‘Awright, awright.’ (pp. 150–151)

Though the policeman cannot believe it, Caroline has given birth to her child successfully with the help of her mother and a neighbour. As long as the social system is not changed, childbirth in such awful conditions will recur from generation to generation, and that is what this episode tells us.

Through these two incidents we realize that South African blacks manage to sustain their existence by honoring the dead and the coming generation even in the harshest conditions through mutual aid.

In the story La Guma makes effective use of rain, falling on their shanties without let-up. It is raining when Frederick Pauls breathes his last in their shanty. He passes away hearing the falling rain and gazing at the dirty ceiling stained by the leak. Death finally forces a regretful separation from his family. Though his wife well understands his disappointment, she can do nothing but look at her husband sorrowfully. When we think of his regret and her grief, it seems to us that the `stained maps’ of the leaks are a visible expression of his blighted hopes and that the falling rain outside is the expression of her tears of sorrow.

It rains heavily when the police raid Freda’s shanty. The falling rain, with its loud roar, symbolizes the fright of Freda and her children and acts to deepen an impression of the cruel policemen who storm the shack.

The ubiquitous rain envelops another shanty raid, too. In this case a white policeman with his men steps into the shanty in muddy boots and takes a naked, handcuffed African forcibly to the police van. The rain in this scene gives us an impression of the ever more merciless police.

Rain is falling again when Caroline gives birth to her baby. Its ominous roar arouses so much fear in her, alone with the labour pains, that she is afraid that she is going to die. The rain drums down and a leak opens in the ceiling. The water forms a puddle in front of the doorway and begins to spread across the floor. We become even more sympathetic to her childbirth.

The downpour also embraces Charlie’s brother, as he hacks his erstwhile girlfriend to death. He stands, soaked, over her dead body while her dead eyes stare up out of the rain-washed face. The rain emphasizes the tragedy of these two, doomed to lire out of their lives of spiritual isolation.

La Guma begins the last chapter in the same way as he did the first chapter; “In the north-west the rainheads piled up,…" and ends it with rain, too. It is a world of greyness. We see Charlie, Freda, and Rachel in their shack. Rachel and Charlie put Freda on Frederick’s bed and try to console her for the children she lost in a fire Outside the shanty the weather rages furiously. The text reads:

The rain excavated foundations and dredged through topsoil and a house sagged and tottered, battered into a jagged rhomboid of gaping seams and banging sides. The rain gurgled and bubbled and chuckled in the eaves and ran like quicksilver along the ceilings, and below, the shivering poor blew on their braziers and stoked their fires, crouched trembling with ague in the relentless dampness, huddled together for warmth and clenching their teeth against the pneumonic chattering. (p.166)

The Pauls family and their hovel are not extraordinary in the suburban slums in Cape Town. Such families and such shanties are everywhere in the country. The family, though its members each have their own troubles, manages to live on together; the shack, though sagging and tottering in the wind and rain, provides shelter to the inhabitants. In a sense the makeshift home is an exact microcosm of those slums. The shanty, weathering the storm outside, symbolizes the position of black people who are somehow making it through the ugly conditions of apartheid.

La Guma tries to compare this relentless rain to the oppressive white regime, and the miserable shanties to the plight of the people. The next passage in the final chapter is highly symbolic:

In the Pauls’ house, those inside heard the rain, but took no notice of it. It was a sound apart from the feeling of sorrow. Miraculously, the house held. Dad and Charlie Pauls and others had built it well; well enough to stand up against this kind of storm, anyway. The rain lashed at it, as if in an anger of frustration. Finding the leak in the ceiling blocked, the water steered towards the ends of the roof and seeped down the walls inside. But the house seemed to clench its teeth and cling defiantly to life. (p. 166)

It is evident that the shanty, standing up against lashing storms outside, is another transparent symbol.

According to one interview, realism is not “a mere projection of the present" for La Guma. “It must convince the reader of truth, suggest that something can happen."9

La Guma’s techniques of connecting realism with transparent symbolism carry through successfully the correlation of night and darkness with the dark truth of apartheid society, while the shanty, with its resistance to the storm, is a note of hope, suggesting indeed “that something can happen." 10

Notes

1 Richard Samin, “Interviews de Alex La Guma," in Afram Newsletter No. 24 (January 1987), p. 11.

2 Alex La Guma, “Literature and Life," in Lotus: Afro-Asian Writings 1, No. 4 (1970), p. 238.

3 Per Wastberg (ed.), The Writer in Modern Africa: African Scandinavian Waters’ Conference, Stockholm 1967 (Uppsala: Scandinavian Institute of African Studies, 1968), p. 24.

4 Samin, p. 13.

5 La Guma, “Literature and Life," p. 238.

6 Dennis Duerden and Cosmo Pieterse ed., African Writers Talking (London: Heinemann, 1972), p. 93.

7 They are the so-called ‘coloured’ youths. Some South Africans are against the usage of ‘coloured’ because the white regime used ‘divide and rule’ tactics and categorized its people into four groups: WRITE, ASIAN, COLOURED, and BLACK. When I interviewed Cecil Abrahams, La Guma’s biographer, he called La Guma and Peter Abrahams black writers, not coloured writers. So I asked, “Can’t we call them coloured writers?" He answered, “No. Today, they don’t like to be called coloured any more. Just white and black, because the government of South Africa tried to divide the black people into BLACK, COLOURED, and INDIAN." (August 22-25, 1987 in St. Catharines, Canada)

8 La Guma, And a Threefold Cord (Berlin: Seven Seas Publishers, 1964), p. 111; further quotations from this work will be cited in parentheses in this paper. 

9 Samin, p. 14. 

10 While he was alive, ‘something’ did not happen to him. He wasn’t able to see the birth of the new government in 1994. He was born in Cape Town in 1925. In 1966 he was forced to flee to London with his family, and never again set foot on the soil of his mother country. In 1985 he suddenly died of a heart attack in Havana, Cuba. He was only sixty years old. His wife Blanche and one of their sons are now back home in Cape Town.

This is a revised version of a paper read at the ‘English Literature Other than British and American’ session of the Modern Language Association of America in San Francisco on December 27, 1987.

(Miyazaki Medical College)

執筆年

1996年

収録・公開

「言語表現研究」12号 73-79ペイジ

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Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels