1990~99年の執筆物

概要

宮崎医科大学のすずかけ祭実行委員会の委員から依頼があって書いたものです。

本文

なぜ英語が出来なかったか              英語助教授 玉田吉行

英語が出来なかったのか、英語をしなかったのか。僕はことごとく大学に落ちた。
家を出る望みも果たせず、崩壊家庭の家事をやりながらの、夜間学生となった。自らが切り拓いての夜間通いではなかったので、往路にすれ違う「同級生」に少しばかりの引け目を感じた。
しかも、それまで考えたこともない英米学科だった。六年間在籍したが、結局英語はしなかった。六年目に取り残していた教養の哲学の講義を受けながら、これなら自分ひとりでもやって行けるだろう、大学にいてもしようがないなと感じて、大学院にでもいくかという気持ちになった。
好きだった新田さんが面接官の一人だった。玉田くん、in itselfは、いんにとせるふと読むんですかと、にたり微笑みながら聞いた。あとで、研究室を訪ねたら、二十六人中飛び抜けて二十六番でしたねと言ったあと、夜間高校の先生とかあなたに出来ることがあるんですがねえ、と付け加えた。
今から考えると、それが英語をするきっかけだった。憐れまれるのが、それも好きな人に憐れまれるのが耐えられなかったからだ。一年後、再び大学院の試験を受けた。大学院を出たら大学を世話してやるよという先輩もいたが、書いた答案をきれいに消して、教室を出た。大学なんかに行けるか、心のなかでそんな声がしたからである。

神戸市外国語大学(旧学舎、ホームページより)

八十一年に初めてアメリカに行った。十五年前のことである。一ドルが三百円近かったように思う。たった五年間の高校教員の生活に疲れ果ててある大学院に進んでいたが、そこで修士論文に取り上げた作家の移り住んだ地を訪ねることと、その作家が一九四二年にだした短篇のコピーをニューヨーク市ハーレムの図書館で手に入れるのが目的だった。
英語なんかしゃべれるか、そんな思いを通してきたせいか、話されている言葉が殆んどわからなかった。高校の英語の教師をしている事実も障害だった。高校の英語教師をしていますとはさすがに言えなかったが、十年以上も英語をしてきたのにしゃべれないんですと繰り返す自分が馬鹿らしくなった。結局、図書館や古本屋や街の通りを黙々と歩いていた。ニューヨークの街中で、日本人の方ですかと日本語でしゃべりかけられたが、話す気になれなかった。

7年いた兵庫県立東播磨高校(ホームページより)

九年前に宮崎に来てから、自然に英語を話すようになった。スウェーデンの人、南アフリカの人、バングラデシュの人、エジプトの人。みんな英語を第二外国語として話している人たちだった。日本に来て間もなくという人たちで、英語の方がお互いに気持ちを通わせることができたからである。
言葉とは本来そういうものだろう。そう考えると、使うことを目的としない学校での英語がそもそも不自然なのだと思えて来る。英語が使えなくても高校の英語の教師がつとまるのは、やはり不自然である。
英語の偏重も不自然だろう。距離的に近いアジアの言葉や、侵略の言葉でないアフリカの言葉が選択の教科である方が、よほど自然ではないか。

宮崎医科大学(ホームページより)

四半世紀のち、英語の出来なかった僕が、医学生の英語の授業を担当している。(一九九六年八月)

執筆年

1996年

収録・公開

宮崎医科大学医学部医学科すずかけ祭第27回パンフレット
(現物がありません。誰かお持ちの方はいらっしゃいませんか?)

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なぜ英語ができなかったか(22KB)

1990~99年の執筆物

概要

医学科1年生の授業の初めに配った僕の英語の「エセイ」です。

本文

I Like Michel           TAMADA Yoshiyuki

My mind is still out of balance since my two and a half month stay in Harare, Zimbabwe. The devastating situation has left me speechless. I cannot find suitable words for expressing myself. One day I wrote to Michel Fabre, a professor of English at the Sorbonne, Paris, I’m sorry I can’t write soon. After coming back home from Africa, my mind is out of balance, I’m afraid. I sometimes feel too reluctant to write to anybody. Now ‘I’m sorry I write too late.’ has become one of my mottoes.” The reply came as follows: “It is always a pleasure to hear from you. But do not apologize if you are behind in your correspondence. Friends are people with whom one need not apologize because they like you for what you are and accept you as you are.”

ソルボンヌ大学を背景に家族と

  I met him first in 1985 at an international symposium at the Mississippi State University. He was one of the speakers. I had come to know his name through his writings. I was lucky enough to spend one night with him in the dormitory, but I was not able to make myself understood in English. I had long rejected English speaking and listening because the overbearing American influence on Japan.

 ライトのシンポジウムで、ミシシッピ大学にて

I keenly felt that I wanted to share feelings with him. That motivation led me to polish my English speaking and listening.

I was glad to find that I was talking freely with him in Paris when I dropped in on our way home from Zimbabwe in 1992. He taught my children how to play domino in English. They enjoyed the play though they understood few English words.

When I called him Mr. Fabre, he said, “I call you Yoshi. You call me Mr. Fabre. It’s not fair. Call me Michel.”

Outside the country I am called Yoshi. I was called Tama by my basketball teammates. When I was a high-school teacher, I was called Tama-san. Some students called me Tama, like a cat. I don’t like to be called sensei. Maybe I cannot identify with that word. In the same way that I like to say “Michel," I hope you call me Tama-san, not sensei.

April, 1995

Tama.

1990年の医学科一年生の英語のクラス、研究室で撮影

 

執筆年

1995年

収録・公開

未出版

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I Like Michel(33KB)

1990~99年の執筆物

概要

1992年のジンバブエ大学への在外研究のあと、教務・厚生委員会から依頼があって書いたものです。

本文

海外研修記

アフリカは遠かった       英語講師 玉田吉行

渇いた大地

アフリカの大地は渇いていた。8月のある日、石で造られた遺跡グレート・ジンバブエを訪れる機会があったが、行き帰りにプロペラ機の上から眺めた赤茶けた大地は、一体どこに人が住めるのだろうと思えるほど、からからだった。あとで知り合った学生に、あんな渇いた所でどうやって生きているのかと尋ねてみたら、昔から、生きる術を知っているのです、ということだった。

リチャード・ライトの生まれたミシシッピを見たくなって、7年前に出かけたように、今回は、南部アフリカに住むことが出来ればと考えて、在外研究先にジンバブエの首都ハラレを選び、7月の半ばから3ヵ月足らず、家1軒を借りて、家族で住んできた。

ハラレは、近郊も含めると100万人の人口を抱える大都市である。シェラトンもあり、「欧米並み」に、1泊170米ドルもする。大統領官邸だってある。緯度から言えば、北半球なら北ベトナム辺りなのに、1500メートルの高地にあるので、極めて過ごしやすい。宮崎から猛暑と冬を除いたくらいの気候である。庭には、マンゴウやパパイヤがなっていた。行く前に、ライオンに食べられないようにと気遣ってくれた人もいたが、日本の街中に「ニンジャ」が走っていないように、ついぞライオンにお目にかかることはなかった。

大学と子供の学校に近く、自転車で、という条件で家を探してもらった。不動産事情が恐ろしく悪いので、ホテル住まいになるかも知れませんと言われていたが、新聞広告が効いて、家が見つかりましたと、連絡があった。出発の2週間前だった。

アレクサンドラ・パーク

その家は、アレクサンドラ・パークという白人街にあった。500坪ほどあって、大きな番犬と「庭番」のゲイリーが「付いて」いた。家賃は2ヵ月半で2000米ドル(月額10万円ほど)、住み込みで24時間拘束されるゲイリーの月給が170ジンパブエドル(Z$/4200円ほど)、番犬の餌代が150Z$だった。

ゲイリー

家には大きなジャカランダの樹が生えていた。「遠い夜明け」の白人街である。両隣の家にはプールがあった。片方の家には、敷地内に2、30メートルの樹が繁っている。2軒隣の家には、夜間照明付きのテニスコートがあって、番犬が何匹も飼われていた。

ショナの人々

ゲイリーとは、すぐ仲良しになった。正直で、優しい人だった。10日ほどして、冬休み(日本の夏休み)を一緒に過ごすために、奥さんと3人の子供たちがやってきた。2人の子供たち(14歳の女の子と10歳の男の子)と3人の子供たちとは、すぐ仲良しになった。同じ敷地内に、2家族が同居した経験のない私の子供たちには、うれしい毎日だった。学校にも行かなくていい。勉強もしなくていい。来る日も来る日も、ポールを追い掛けたり、相撲をとったり、花を摘んだり、子供たち全員が「今までで一番の夏休みだ」と叫んでいた。しかし、毎日蹴っていたボールの値段が140Z$……何とも複雑な気持だった。

ジンンバブエ大学で知り合ったアレックスに子供たちが英語を、僕がショナ語を教えてもらった。アレックスは、今年12月にジンパブエ大学を卒業して、高校の教師をしながら、修士号を取る予定の英語科の学生である。自分のいる寮に案内してくれた時、アイスクリームのお礼にと、金もないのに、礼儀だと言って、アレックスはコーラをおごってくれた。75セントの出会いだった。食べること自体が難しい大半のショナの人々にとって、3度の食事を保障してくれる3年間の大学生活は「パラダイス」であるらしかった。

アレックス

英語科の教員ツォゾォさんは、ショナの人々のためにショナ語で教科書や小説や劇などを書いている。今度の本で、22冊目になった、と喜んでいた。いつか、ツォゾォさんのショナ語の本を日本語に翻訳出来たらと、ひそかにもくろんでいる。

ツォゾォさん

大使館や大学との折衝、予防接種など、行く前から「アフリカは遠かった」が、乗り換えも入れてヨーロッパまで15時間、それからまた10時間の飛行機の旅は、やはり遠かった。社会主義の国だったことも、遠かった原因の一つだったかも知れない。大阪空港に着陸した飛行機の中で、下の男の子が「僕には長い旅だった」とつぶやいた一言は、機内にいる間、吐き続けていただけに、真実味があった。

短い滞在だったが、一生続くと思える人々に巡り合えた旅であった。

執筆年

1993年

収録・公開

宮崎医科大学「学園だより」 第47号 10-11ペイジ

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海外研修記『アフリカは遠かった』(32KB)

「学園だより」 第47号

1990~99年の執筆物

概要

1992年のジンバブエ大学への在外研究のあと、庶務課から依頼があって書いたものです。

本文

海外滞在日誌

ジンバブエの旅          英語講師 玉田吉行

ジンバブエ

南部アフリカジンバブエの首都ハラレに行って来ました。ここ何年間かは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ (1925-1985) を紬に、南部アフリカについて考えてきましたから、色々な意味で、その地で生活出来ればと願っていました。本当は、ラ・グーマの生まれ育った南アフリカのケープ・タウンが一番よかったのですが、在外研究を申請した時点では、まだ文化・教育交流が禁じられていましたし、国内が独立に向けての混乱期でもあるので、南アフリカは次回に、ということにしました。初めてのアフリカ行きでもあるので、どこにしようかと少し考えましたが、現在は四国学院大学にいるケニア人のサイラス・ムアンギさんの薦めもあって、アフリカ各地から人が集まって活気があるうえ、治安も比較的いいというジンバブエに行くことにしました。

ジンバブエ大学

ジンバブエ大学の構内

ジンパブエは、南アフリカの第5州としての道は選ばず、移住したイギリス人は本国から孤立した独目の路線を取ったために、南アフリカとはやや異なった歩みをしたのですが、少数派白人による多数派アフリカ人支配という基本的な構図は、南アフリカと非常に似通っています。1980年に独立は果たしたものの、経済力を完全に白人に握られているので、本当の意味での独立は果たしていません。1963年に独立を果たしながら、経済力を握られて改革もままならず、上層部にいる少数のアフリカ人が私利私欲にふけるというケニアの跡を、現在、ジンバブエは着実に追いかけています。体制の批判者は、たとえぱケニアでは、作家グギ・ワ・ジオンゴのように国外に亡命することを強いられた状態が続いていますが、ジンバブエでは、批判する前に厳しい検閲制度がもうけられていて、批判もかないません。従って、ジンバブエには本当の意味での体制を批判出来る作家が、現在は存在し得ませんが、それでも、政治的なテーマではなく、社会問題を通して、白人支配の下で、いかにアフリカ人固有の伝統社会が崩壊させられていったかをアフリカ人自身に問いかけ、これからの問題を提起している作家はいます。ジンバブエ大学文学部英語科のトンプソン・クンビライ・ツォゾォさんもそのような作家のひとりですが、今回の受入先の科長代行をしていたツォゾォさんと親しく接する機会を持つことができたのは幸いでした。個人的なインタビューや、演劇、小説、映画などに関する講義などを通じて、示唆を受けた点は多かったと思います。ジンバブエ大学は、ハラレの白人街にある広いキャンパスをもった総合大学で、学生数は約1万、今は70パーセントがアフリカ人(大半がショナ人)だそうです。農学部に小象がいたりして広々としていますが、施設の方は日本のようにはいきません。体育館もなく、図書館の蔵書も貧しかったように感じました。それでも、大半の学生が教科書を買えず、試験前には本が取り合いになるということでした。コピーの設備もほとんどないし、かりにあったとしても経済的に利用するのは難しいので、学生は、授業の間、質の悪い紙のノートに、ボールペンを走らせるばかり、そんな印象が強く残っています。新聞では、毎日のように、30年ぶりの大早魅で死者多数、などと報じられていましたが、広々とした芝生の上では散水器が勢いよく回っていました。

トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん

ロンドン・パリ

ジンパブエには、行きはロンドンを、帰りはパリを経由しました。

ロンドンでは、アレックス・ラ・グーマ夫人と、パリでは、ソルボンヌ大学のミシェル・ファーブルさんと再会しました。

ロンドンに亡命中のブランシさんと家族で

ソルボンヌ大学を背景にファーブルさんと家族で

85年に、ラ・グーマがキューパで亡くなって以来、ブランシ夫人は一人でロンドンに住んでいらっしゃるのですが、66年に亡命してから、未だ祖国に帰れぬ現実に、南アフリカの厳しい現状を思わずにはいられませんでした。

3ヵ月の短い旅でしたが、色々な人に巡り合えてよかったと思います。ただ、搾取する側にいる人間としては、搾取される側の歪みばかりが感じられて、重く、しんどい旅でもありました。

執筆年

1993年

収録・公開

宮崎医科大学「学報」 第50号 18-19ペイジ

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海外滞在日誌『ジンバブエの旅』(32KB)