1990~99年の執筆物

概要

宮崎に来て暫くしてから、バングラデシュから国費留学生として医学科で高血圧を勉強するために来たというカーンさんが、英語をしゃべる、という理由だけで、寄生虫の名和さんに連れられて僕の研究室にやって来ました。内科、薬理とたらい回しされたあと、寄生虫に拾ってもらったようでした。話し相手がいなかったのか、よく部屋に来るようになりました。奥さんと子供を家に来てもらったり。そのうち、友だちも部屋に来るようになって、その中の一人のエジプトの留学生に国のことについて英語で書いてもらい、僕が日本語訳をつけました。

本文

-エジプト-古代歴史ゆかりの地 

マグディ・カァリル・ソリマン / 日本語訳 玉田吉行

「ゴンドワナ」18号(1991)2-6ペイジ

私の名前はマグディ・カァリル・ソリマンです。エジプトのアレクサンドリア大学獣医学部魚類病態学科の講師で、現在、文部省の十八ヵ月奨学生として宮崎大学農学部獣医学科博士課程に在籍しています。日本には家族で来ており、妻ソフィナズ・モハメドと愛娘アスマァがいます。家族全員、日本での生活を、特に宮崎での生活を楽しんでいます。このエッセイでは、エジプトとエジプトの名所旧跡をご紹介したいと思います。

とても温暖な気候と親切な人々で名高い古代歴史ゆかりの地、現代エジプトでは、人々がとても親切に、友好的に迎えてくれます。エジプトは、世界の「中心部」つまりあらゆる空路、航路の中心部(アフリカ北部)に位置しています。エジプトでは、歴史が息づいていて、他とは比べものにならないほど豊かな古代エジプト、ギリシャ、ローマ、コプト、イスラム的な遺跡から明らかなように、五千年以上もさかのぼる、今も生き続ける物語に思いをはせることが出来ます。エジプト全土は約百万平方キロ、人口は約五千五百万人です。国の正式な宗教はイスラム教、公用語はアラビア語です。

刺すような冬の寒さが始まるとき、何マイルにも渡って美しく広がるエジプトの海岸には、暖かい太陽の光がふり注ぎます。他の海岸を圧倒するその陽の光は、太陽がエジプトの神であった古代を賞め讃えているようにも思えます。歳月が流れたにもかかわらず、太陽は今もエジプトに優しく、厳しい雪の寒さから遠く離れて冬の暖かさを楽しんだり、激しい日中の暑さから逃れて夏のさわやかな涼風を満喫することも出来ます。

世界的に知られた冬のリゾート地エジプトには、たくさんの美しい浜辺があります。サルームからラファまでの北海岸は一一八一キロ、スエズからハラィブまでの東海岸は約一◯八五キロの長さです。なかでもスエズ湾とアカバの海岸線が最も美しく、すばらしい珊瑚礁が広がり、他ではめったには見られない色鮮やかな魚がたくさん住んでいます。その一部でも見た人は、まるで地上で最も美しい絵画を見るように、記憶に焼き付いたすばらしいイメージを目や耳でもう一度確かめるために、何度も戻って来るに違いありません。

カイロ

カイロはエジプトの首都で、空路で訪れると、世界でも最もドキドキする町です。広い砂漠から突然、緑の谷が現われたり、夜には、無数のキラキラ輝く夜景が見えたり、町の中を優雅にくねって流れるナイル川が見えたりするからです。空から見るカイロの魅力の一つは、カリーファ、ファティミド、サラディンなどの古い町と高いビルや大きな広場とが混在する、古代と現代の姿が対照的に見えることでしょう。

(カイロの観光)エジプト博物館……この博物館には、コプト人教会(初期のキリスト教)を描いたたくさんのコレクションがあります。展示品には、建造物の破片、木の彫刻品、ガラス、土器、織物、鉄製の聖像、フレスコ壁画など、エジプト学者の興味をかきたてるような古代の遺品がたくさんあります。

サルタン・ハッサンモスク……紀元後一三五六年に建造された、アラブ建築の傑作です。カイロで一番高い二百二フィートの塔に加えて、コーランの文章が刻んである八本の大理石柱で支えられている、半球型の屋根に覆われた美しい中庭があります。また、お祈りの前の体を浄める儀式に使う中央の噴水やエナメル細工のガラスランプもあります。 サラディンの城……モカタン山の中腹にあり、城からはカイロ全体が見え、遠くはギザピラミッドが望めます。一一八三年、サラディン王によって建てられ、古代の城壁内には、アラバスタルモスクやソライマンモスクなどの興味深い建物がたくさんあります。岩の中、九十メートルの深さに掘ったジョセフの井戸もあります。城を後にする前に、もし時間が許せば、ここでの華麗なサン〓エ〓ルミィェール(音と光のショー)を見てみるのもいいでしょう。

エル・スークス(市場)……世界に知られる、市街地を迷路のようにくねるこのエジプトの通りは、古代オリエントと現代オリエントの魅力や色彩に満ちあふれています。たくさんあるそれぞれのスークス(市場)が市場全体を形成しており、そこに行けば、色々豊富な品物やみやげ物がそろっています。一番大きな市場エル・モスキーと、絹織物とじゅうたんが豊富なハーン・エル・ハーリーが、おそらく最も知られていて、そのうちのいくつかの通りでは、ある特定の品物を専門に扱っています。

エル・アズハルモスクとエル・アズハル大学……ここがイスラム教育の最も重要な中心であると考えられています。世界で一番古いとされるこのイスラム教大学は、紀元後九六九に創立され、そのモスクは、九七◯~九七二年にまでさかのぼります。

イスラム芸術の博物館……この博物館には、イスラム勢力が近東を支配していた時代からの、イスラム教芸術の世界でも最も貴重で、幅広いコレクションがあり、展示品は、モザイク画、ガラス細工から、貴金属にまで及んでいます。

 マニアル宮殿博物館……モロッコ、シリア、トルコ、エジプト建築折衷様式のこの興味深い博物館には、古いイスラムの木製品だけでなく、珍しいじゅうたん、織物、碑文、宝石などが収められていさす。

 ギザ・ピラミッドとスフィンクス……古代世界の七不思議の一つにたくさんのエジプトのピラミッド建築が含まれています。ピラミッドのそばには、ハフラの頭だと信じられている人間の頭と、権力の象徴と言われるライオンの体からなる大スフィクスが立っています。夜、ギザを訪れて、音と妖しい光の中で語られる人類初期の文明の話を聞きながら、息を飲むような夜の壮観を、ぜひ楽しんでみて下さい。

メンフィスとサッカーラ

カイロから南に二十四キロ行くとサッカーラがあり、そのなかのやしの森を抜けると、歴史的に有名なメンフィスに着きます。旅行会社などによって、この二つのすばらしい町への日帰り旅行がたくさん組まれています。言うまでもなく、一番おもしろいのは、ギザのピラミッドよりも遥かに古い、第三王朝(紀元前二十八世紀)のゾゥサル王によって建てられた階段ピラミッドです。

ロクソル

現代風の町ロクソルはカイロの南約六七一キロにあり、テーベの古代都市の一部で、メンフィスの次の、古代エジプトの首都でした。古い時代には、ホーマーがそう呼んだように、「百の門を持ったテーベ」が世界各地から訪れる人たちを引きつけました。その時代から、エジプトの地に旅行に来る人々は必ずロクソルを訪れて、遺跡をぶらぶらと見て歩いたり、過ぎ去った古い時代の懐かしい雰囲気を味わったりして来ました。寺院を尋ねたり、色々な銘文の刻まれた荘厳な墓に驚嘆したりしながら、忘れられない時を過ごすことになると思います。ロクソルはカイロから列車で十二時間かかります。その方面の列車はたいてい冷暖房が完備され、食堂車と寝台車がついています。カイロとロクソル間には、エジプト航空の定期便も飛んでおり、飛行時間は約九十分です。

アスワン

アスワンは世界第一の冬のリゾート地です。冬の穏やかな天候に恵まれ、エキゾチックな東洋とバイタリティあふれるアフリカの雰囲気が混ざり合った景色を見ながら、ゆっくりとくつろぐことが出来ます。アフリカへの重要な通路にたって、かつて古代テーベの王が彫像や記念碑のためのピンクの大理石を手に入れた地域の採石場に沿って、昔がしのばれるのも、この町です。今日その地域には、世界でも有数の技術の粋を集めた偉業と考えられているアスワンハイダムが作られています。カイロからアスワンまで、列車で十六時間の旅です。ここの列車も、たいてい冷暖房が完備され、寝台車と食堂車がついています。毎日、エジプト航空の定期便があり、飛行時間は一時間です。

宮崎に住んで

日本に来る前から、私は日本や日本人について、いい印象を持っていました。日本とエジプトが友好関係にあるばかりではなく、個人的に何人かの日本人の技師と接する機会があったからです。その人たちは、私の町アレクサンドリアで、中東でも有数の石油会社を作る協力をしていました。その人たちから、日本人が規律に厳しく、働き者で、時間を大切にすると聞きました。その人たちから、日本の文化についての考え方も聞きました。

日本に着いたとき、その考えが全く本当だということが分かりました。

私が日本に来てもう十か月が過ぎたなんて、信じられないくらいです。最初来た時は、自分の意思が伝えられるだろうか、友達ができるだろうか、買物に行けるだろうか、ひとりで旅行が出来るだろうかなど、本当に心配でした。でも、そんな心配は必要ありませんでした。宮崎に十か月住んで、だいぶ慣れ、たくさん友達も出来ました。こんな短い間に色々経験したことが、自分でも信じられないくらいです。私の場合、一番いい教授といっしょに研究が出来るのはラッキーでした。実際、教授の接し方は父のようで、同僚といっしょに研究しやすい環境を整えて下さいます。その上、たくさんの日本人と家族付き合いも出来ました。だから、妻ともども、日本の生活の仕方をたっぷりと経験できました。私の方から出掛けたり、あるいは来てもらったりする中で、日本の文化や私たちの国の文化についてお互いに理解を深められるのはありがたいと思います。心を開いて接して下さる親切な宮崎の人たちは、生涯忘れられない思い出になりそうです。私は、きれいな海岸や山があり、親切な人々のいる宮崎での生活を、いま楽しんでいます。

執筆年

1991年

収録・公開

「ゴンドワナ」18号2-6ペイジ

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マグディ・カアリル・ソリマン「エジプト 古代歴史ゆかりの地」(翻訳)

1990~99年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(写真作業中)

 

執筆年

1991年

収録・公開

「ゴンドワナ」19号10-22ペイジ

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自己意識と侵略の歴史

1990~99年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマの第二作 And A Threefold Cord (イギリスクリップタウン社一九八八年刊)の編註書で、大学の教科書として使いました。初版は西ドイツベルリンセブンシィーズ社で一九六四年に出版されています。

クリップタウン社刊

And a Threefold Cord(1991年、表紙絵小島けい画)

 1992年に家族でジンバブエの首都ハラレにいたときに、本が届きました。表紙絵は、奥さんに描いてもらいました。衛星放送で見たナミビア辺りの映像からイメージをもらい、自分の理想の犬を放して、水彩で描いてくれました。

本文

①献辞とエピグラフ、②編註書の前書きとして書いた「アレックス・ラ・グーマとA THREEFOLD CORD」、③ブライアン・バンティングの「序」、④その日本語訳を掲載します。

①献辞とエピグラフ

This is for Blanche with Love

Two are better than one; because they have a good reward for their labour.

For if they fall, the one will lift up his fellow: but woe to him that is alone when he falleth; for he hath not another to help him up.

Again, if two lie together, then they have: heat, but how can one be warm alone?

And if one prevail against him, two shall withstand him; and a threefold cord is not quickly broken.

ECCLESIASTES IV: 9 – 12

②「アレックス・ラ・グーマとA THREEFOLD CORD」

アレックス・ラ・グーマは1925年2月20日,ケープタウンのカラード居住地区第6区で生まれました.父親ジミーが解放運動の草分けの一人でしたから,ラ・グーマは早くから政治意識に目覚め,ハイスクールを中退したあと,46年にはストライキを先導して会社を解雇されています。48年には共産党に入党し,55年には南アフリカ・カラード人民機構の議長に選ばれています。同じ年にケープカラード社会での人望と文才を認められて,反政府路線の週刊紙「ニュー・エイジ」に記者として採用されました。57年からコラム「わが街の奥で」を書き始め,62年に破壊活動法によって記者活動を断念させられるまで健筆を揮いました、
56年に他155名とともに反逆罪の嫌疑で逮捕されて以来,60年,61年,63年,66年にも逮捕・拘禁されていますが,それはラ・グーマが白人政府に脅威を与える存在だったからです。66年に釈放され,5年間の自宅拘禁を強いられたラ・グーマは,家族と共にロンドン亡命の道を選び,祖国を離れます。
亡命してからのラ・グーマは,積極的に反アパルトヘイト運動を推進します。70年にはアフリカ民族会議(ANC)ロンドン地区譜長に,78年にはカリブ代表としてキューバに赴任しました。キューバでは,南アフリカからの留学生の世話をして後進を育てたり,多くの作家会議に出席して様々な国の作家と連帯しながら精力的な創作活動をも展開します。70年にアジア・アフリカ作家会議69年度ロータス賞を授与され,79年には同作家会議議長に選出されています。81年には来日し,アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議などに出席して講演したりしています。
67年の小説『石の国』に続いて,編集評論集『アパルトヘイト』(1971),小説『季節の終わりの霧の中で』(1972),紀行文『ソビエト紀行』(1978),小説『百舌鳥のきたる時』(1979)と,単行本も次々に出版されました。しかし,ラ・グーマは,85年11月11日夕刻,心臓発作のために,キューバの首都ハバナで二度と還らぬ人となりました。60歳の若さでした。
南アフリカに最初に来たヨーロッパ人はオランダ人ですが,植民地支配を確立したのはイギリス人です。インドヘの中継地にしか過ぎなかった南アフリカの存在は,十九世紀後半にダイヤモンドと金が発見されてから急変します。オランダ人とイギリス人はその利権をめぐって争いますが,双方とも深手を負い,このままでは多数派のアフリカ人にやられるという危機感の中で,アフリカ人搾取という点に利害の一致点を見つけ出し,南アフリカ連邦(`The Union of South Africa’)をつくります。「イギリス国王に承認された」ヨーロッパからの移住者の国ということにはなっていましたが,白人がアフリカから土地を奪って作り上げた植民地に他なりません。植民地経済に組み込まれたアフリカ人の安価な労働力を基盤に,南アフリカは第一次,第二次世界大戦をへて工業国になっていきました。
1948年には,社会の底辺に沈む危機感を感じていた大半のアフリカーナーの支持を得て,国民党が政権を取り,アパルトヘイト政策を前面に掲げて反体制勢力を弾圧し始めます。
第二次大戦で殺し合った白人社会の力が低下したとき,今まで権利を主張しても聞き入れてもらえなかった黒人社会が,声を上げ始めます。アメリカでは公民権運動が激しく展開され,1956年のエジプトの共和国宣言,1957年のガーナの独立などアフリカ大陸でも解放運動は勢いを増していきました。
南アフリカでも,諸外国の動きに励まされて,1955年にクリップタウンで国民会議が開かれ,国の指針として自由憲章が採択されました。政府は反逆罪の名で指導者を弾圧しますが、解放闘争は激しくなっていきます。1960年のシャープヴィルの虐殺で,国際社会の非難を浴びますが,弾圧を強化して一歩も譲りませんでした。政府の強硬な態度に対抗して,黒人を主導する解放闘争組織ANCは,それまでの非暴力の戦略を捨てて,武力闘争を始めます。
ラ・グーマも,そんな闘いのなかで自分自身を精一杯に生きていたのです。
そして,『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)が生まれました。
ラ・グーマが『まして束ねし縄なれば』を書いたのは,歴史を記録して,後の世の人に伝えたかったからです。そのために,南アフリカの人々の日常を語りました。1962年に,運よくナイジェリアで出版された『夜の彷徨』(A Walk in the Night)では,ケープタウンのカラード居住地区第6区の夜をさまよいながら,無為な時を過ごす若者たちを描きだしています。(1988年に,門土社からテキストが出ています。従って,本書はその続編になります)
本書では,舞台をラ・グーマは第6区からケープタウン郊外のスラムに移しています。心やさしいチャーリーを軸に,家族や恋人や親戚との日常の出来事・・・・・・葬式や出産や警察の手入れなど・・・・・・や,孤独な生き方しか出来ない寂しい人々などを織りまぜながら,アパルトヘイト体制の中で呻吟しながらも,力を合わせながらなんとか生き永らえている人々について書きました。助け合って生きる人々の姿が,ラ・グーマの目には,エピグラフの「二人は一人にまさる。其はその骨おりのために・・・・・・人もしその一人を攻め撃たば,二人してこれにあたるべし,まして東ねし縄なれば、たやすくは切れざるなり」という文章に重なったのでしょう。
ラ・グーマは世界の人々に南アフリカの実際の姿を知って欲しいとも考えて本書を書きました。作品中の多くの出来事を雨と絡ませたのは,美しい南アフリカを強調する政府の観光宜伝とは裏腹に,スラムの住人が現実に雨風に苦しんでいる姿を知って欲しかったからです。色彩語,擬声語などを駆使して,ケープの冬を「一連の絵画的,散文的銅版画」(バンティングの序)で見事に捕えています。
本書は,1988年にイギリスのクリップ・タウン社(Klip Town Books)から新たに出版された版に基づいています。初版は,ラ・グーマが未だ南アフリカにいた1964年に,東ベルリンのセブン・シィーズ社(Seven Seas Books)から出版されました。旧版にも、同僚ブライアン・バンティング(Brian Bunting)の序がついています。
作品理解の一助にと,巻末にラ・グーマ略年譜・著訳一覧・地図・南アフリカ小史を付けました。なお,ラ・グーマの人と作品については,カナダに亡命中の南アフリカ人セスゥル・エイブラハムズ(Cecil Abrahams)氏のAlex La Guma(Twayne Publishers, Boston, 1985)をお勧めしたいとおもいます。また,門土社の翻訳『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)や著訳一覧の中で紹介しているアジア・アフリカ総合誌「ゴンドワナ」(ゴンドワナ協会発行)に寄せた私の作家・作品論も併せてお読み下されば光栄です。
1950年代のケープタウン郊外のスラムのことで,辞書では解決のつかない箇所もたくさんありましたが,ヨハネスブルグ生まれで,1980年代の初めにケープタウンに住んだ経験もある都城市在住のコンスタンス・ヒダカ(Constance Hidaka)さんに,色々とお話を伺いながら註をつけました。私たちの国南アフリカのことですからと,多くの時間を割いて下さいました。今はイギリスにいる友人のジョン(John Bi1ligsley)にも色々とお世話になりました。また、佐々木孝臣さん,宮下和子さん,奥村修一さん,南太一郎さんにも資料のお願いをしました。深くお礼申し上げます。

1991年4月宮崎にて
玉田吉行

③ブライアン・バンティングの「序」

PREFACE

It is difficult to propound the notion of `art for art’s sake’ in South Africa. Life presents problems with an insistence that cannot be ignored, and there can be few countries in the world where people are more deeply preoccupied with matters falling generally under the heading of `political’. The doctrine of apartheid, even though today foresworn by its progenitors for reasons of expediency, permeates every sphere of life, and whether you be member of parliament (White, Coloured or Indian chamber), businessman, worker, priest, sportsman or artist you cannot escape its consequences. If art is to have any significance at all, it must reflect something of this national obsession, this passion which consumes and sometimes corrodes the soul of the South African people.
Some writers, caught in the cross-currents of fierce political controversy, appalled by the intensity of coflict, or simply fearful, have, it is true, lapsed into silence rather than commit themselves to making of a judgement. But on the whole the young South African literature has shown an intense awareness of the political situation, and the most successful and profound literature has been produced by those who have loved life and truth well enough not to shrink from the facts.
It is not easy for all South Africans, however well intentioned, to know the facts. Population registration and residential segregation are so entrenched, divisions between Black and White so sharp, points of contact so few, that real intimacy is rare and surrounded by legal obstacles. Whites writing about the lives of Blacks must often rely on intuition and guesswork rather than experience; this has sometimes led to superficiality of treatment and a falsification no less regrettable because unwanted or unintentional.
The work of South Africa’s Black writers has done a great deal to correct the perspective, though they themselves have found it no easier than their White colleagues to present a fully rounded picture of the South African scene. But the Black writer has possessed one great advantage, and that is detailed and personal knowledge of the conditions and situations which cotribute to the making of the South African tragedy for the great majority of the population. While the White writer, belonging to a community which is protected and cushioned by law, custom and comparative ease of life,observes the South African struggle from afar, somewhat in the positionof a war correspondent describing the course of a conflict in which he or she is not directly involved, the Black writers as a participant on the field of battle itself. It is in the lives of the Black people that the South African drama is played out with the greatest intensity. Their joy and sorrow, happiness and hardship are experienced with a depth of feeling and in a context which is beyond the range of experience of most Whites.
The work of Alex La Guma, born and bred in Cape Town’s District Six, the heartland of a vibrant community now bullozed into history, vividly illustrates its origins. Born in 1925, Alex was the son of Jimmy La Guma, one of the pioneers of the South Afriican liberation movement who in his day had played a prominent part in the affairs of the Indus-trial and Commercial Workers’ Union (ICU), the African National Congress and the Communist Party, of whose Central Committee he was a member before its dissolution in 1950. Politics was the stuff of Alex’s life from the year of his birth right up to his death in Havana in 1985.
After completing his education at Trafalgar High School and Cape Technical College, Alex worked as a clerk, bookkeeper and factory-hand before entering the service of the liberation movement full-time. As a young man he joined the Communist Party and was a member of the Cape Town District Committee of the Party until it was banned. He maintained his political activity in the succeeding years, taking a foremost part in the preparations for the historic 1955 Congress of the People where the Freedom Charter was adopted, setting out the perspectives of the Congress Alliance headed by the African National Congress.
The 1950s witnessed a sustained assault on the Coloured community by the Nationalist regime – it sought to eliminate Coloured franchise rights and impose segregation in alll spheres of life under the provisions of the Population Registration and Group Areas Acts. Thousands of men and women were rounded up and subjected to sordid classification procedures. One woman described her ordeal at the hands of a reclassification officer in the Transvaal:

He looked at my profile from the right side, then from the left, then he examined my hair and he has a fine comb there which he runs through the head of some. He touched my nose and asked me what my mother’s looked like.

As vice-chairman of the South African Coloured People’s Organisation (SACPO), Alex La Guma was in the forefront of the people’s resistance to these barbarities. Later, Alex took over the position of chairman of SACPO, and in that capacity led the campaign against the introduction of apartheid on the Cape Town buses. (SACPO was later renamed the South African Coloured People’s Congress.)
Speaking at a protest meeting in the Cape Town Banqueting Hall in August 1955, he said:

If we all unite under the banner of the Congresses, we cannot lose the struggle for freedom and democracy. We have the strength of millions on our side, not only in South Africa but outside. The Freedom Charter is going to be the basis of the new South Africa and the future belongs to us.

On 5 December 1956 Alex La Guma was one of the 156 men and women who were rounded up by the police all over the country and flown by military plane to Johannesburg to stand trial on a charge of treason. The prosecutor argued that the democratic rights set forth in the Freedom Charter were of such a radical nature that the organisers must have envisaged the overthrow of the government by force and vio-lence as the only means of bringing them about. It took nearly five years of legal argument and political struggle before the charges were thrown out by the court and the accused enabled to return to their normal lives.
Life for the political activist and the rebel in South Africa, however, is never normal. One night in 1958 Alex was the target of an assassintion attempt when two bullets were fired through the window of the room in his home where he sat working at his desk. One bullet missed, the other grazed his neck. The would-be assassins were never traced, but a few days later Alex received an anonymous letter through the post reading: `Sorry we missed you. Will call again.
The patriots.’ The treason Trial was not yet over when the country was plunged into further turmoil following the police massacres at Sharpeville and Lang; on 21 March 1960 and the declaration of a State of Emergency by the Nationalist regime. Ruling by decree, the government arrested 20000 people throughout the country. Some dubbed `idlers’ and `tsotsis’ were hastily processed by kangaroo courts held secretly in the jails and pressed into forced labour in remote districts. Owr 2,000 of the top political leaders of the people were detained in prison without trial for periods of up to five months. Among them was Alex La Guma. He spent the weary months of incarceration reading and writing, preparing himself for the career in which he was later to have such success.
Alex had been a voracious reader all his life and from an early age he had tried his hand at writing. His first professional efforts, however, were as a member of the staff of the progressive newspaper New Age whose staff he joined in 1956 and whose pages he dominated with cartoons, news reports, stories and many striking vignettes of life and struggle among the population of Cape Town.


All the while he continued with his political work and was in no way discouraged by the persecution to which he was subjected. In 1959 he was arrested with Ronald Segal and Joseph Morolong for entering Nyanga township, Cape Town, without a permit and with pamphlets calling for an economic boycott of apartheid firms and institutions. In 1961, when Nelson Mandela, as spokesman of the National Action Committee of the Pietermaritzburg. All-in African Conference, called for a three-day strike at the end of May in protest against the inauguration of the Verwoerd Republic, Alex La Guma and his colleagues in the Coloured People’s Congrss threw themselves into the campaign but were arrested and held for 12 days without bail under a new law specially passed to deal with the threat posed by the strike call. Although its leaders were in jail or in hiding during the crucial period before the strike was due to start, the Coloured community responded magnificently and Cape Town industry and commerce suffered heavily during the three days of the strike.
In July 1961 Alex was banned under the Suppression of Communism Act and in September charged under the Act for organising an illegal strike, but the charges were later withdrawn. In December 1961 he was ordered by the Minister of Justice to resign from the Coloured People’s Congress. That same month, however, the people’s patience ran out and on 16 December a series of bomb explosions directed against government buildings and installations in various parts of the country heralded the appearance of Umkhonto we Sizwe, the military wing of the liberation movement.
The regime’s response was the notorious General Laws Amendment Act of 1962, the so-called Sabotage Act, providing inter alia for the placing of government opponents under house arrest. In December 1962 Alex La Guma was served with a notice confining him to his home for 24 hours a day. The only visitors permitted him for the five years of his notice were his mother, parents-in-law and a doctor and lawyer who had not been named or banned under the Suppression of Communism Act.
The fact that he was living under 24-hour house arrest, and thus completely cut off from all possibility of political action, did not save Alex La Guma from still further victimisation. Following the passing of a 90-day detention-without-trial law in 1963, Alex was one of those arrested and detained without trial. In prison he was held in solitary confinement, locked in his cell alone for 231/2 hours a day, the remaining half-hour being allowed for `exercise’ – also on his own. As was the case with the other detainees, he was denied visitors and any reading or writing material, refused access to his legal adviser and generally subjected to the most abominable forms of mental torture so that he might be forced to answer questions to the satisfaction of the police.
He did not give way, and in order to bring further pressure to bear on him, his wife Blanche, a nursing midwife, was also detained. Their two children Eugene and Bartholomew, had to be cared for by relatives. Blanche La Guma was later released, but almost immediately served with a banning order and in due course Alex was also released, but on bail, facing a charge of being in possession of banned literature. He was convicted and given a suspended sentence of three years’ imprisonment.
In 1966 Alex La Guma was detained again. By, this time the repression was so intense that on release he and Blanche were forced to leave the country with their two children. They first settled in London, where they played a large part in consolidating the ANC presence in the United Kingdom. Later they moved to Havana when Alex was appointed chief representative of ANC in Cuba. Under the supervision of Alex and Blanche hundreds of South African students were able to acquire the education in various fields which was denied them at home.
During the years of exile Alex devoted as much time as possible to his writing, and also involved himself in the affairs of the Afro-Asian Writers’ Association. He was one of the presidents of the World Peace Council. He died in hospital in Havana on 11 October 1985 after a heart attack. He was 60 years old.
At the time of his death Alex La Guma had been secretary-general of the Afro-Asian Writers’ Association for several years and in 1969 was a winner of the Association’s Lotus Prize for Literature. In honour of his sixtieth birthday in 1985 he received the Order of the Friendship of the Peoples from the USSR, the Order of Arts and Letters from France and a literary award from Congo.
It was with the publication of his novel A Walk in the Night in 1962 that Alex La Guma’s talents as a writer were first revealed to a wider audience. Because he had been banned, nothing he said or wrote could be reproduced in any way in South Africa, so his first novel was brought out by Mbari Publications in Nigeria. A few copies were smuggled into the country and passed from hand to hand. The book won instant recognition as a work of talent and imagination, was circulated world-wide and translated into several languages.
It is a short novel – barely 90 pages long. But in its pages teem the variegated types of Cape Town’s District Six – the bar flies, the louts and touts, the workers and their wives, the prostitutes and pimps, the skollies, who constituted the most colourful community in Cape Town. District Six is no more, its buildings flattened and its population dispersed in terms of the Group Areas Act, but nobody who ever passed through District Six could ever forget its winding, crowded streets, its jostling humanity, its smells, its poverty and wretchedness, its vivacity and infinite variety. For all its outward degradation, the pulse of life beat strongly in its veins – so strongly that to this day the regime’s attempts to convert it into a `White’ area have been frustrated by the resistance of the whole Cape Town community, Black and White alike. The resentment of the people of District Six against their dispossession by the racists is being echoed today in an all-out struggle by the youth of the Western Cape against the regime and its police and military forces.
Alex La Guma knew District Six intimately, having lived there, in No.2 Roger Street, for most of his early life before moving to Garlandale. He knew and understood the people and their problems, their `troubles’, as they called them, and he wrote of them with intimacy and care. These are not cardboard characters, strutting lifelessly through his pages, but real, live, flesh and blood men and women who, though weighed down by the neglect and insult of the world, yet proclaim insistently their determination to survive, to eat, drink and make love, to endure the loneliness and terror and to welcome the cleansing dawn of tomorrow.
It is the very completeness of his knowledge and understanding of his milieu that gives Alex La Guma’s prose its incisive bite. He does not strain for effect but etches his cameos of working class and lumpen life with artistry and precision. You can feel the grime on the tenement walls, smell the mounds of rubbish in the back lanes, hear the bursts of laughter from the corner bar, see the flash of the knife drawn in the heat of the quarrel. It is as dramatic and vivid as if it were taking place before your very eyes.
Part of the secret of Alex La Guma’s success is the fidelity of his dialogue to the living speech of the people. The words burst from the page with startling realism, crackling like newly-printed bank notes. He has the knack of creating a character from his speech, the language of one subtly differentiating it from another. These are real people talking – terse, racy, humorous and convincing as truth.
Nothing Alex wrote was ever able to circulate in South Africa except illegally. His name is still on the banned list. As though to make doubly sure, the censors seized copies of A Walk in the Night as they entered the country by post in January 1963, declaring they found the book `objectionable’. But the quality of Alex’s writing overcame the efforts of the censors to suppress it, and his work over the years won widespread recognition both at home and abroad. A Walk in the Night was followed in 1964 by And A Threefold Cord, this time dealing with life in one of the shanty towns sprawled on the periphery of Cape Town. Here are housed the tens of thousands of Blacks-Coloured and African-for whom there is no `official’ place to live, clutching precariously to life on the outskirts of the cities which offer their only hope of subsistence. Many of the inhabitants are in the urban area illegally, lacking the papers which establish their right to existence, a prey to perpetual police raids, insecurity and poverty. Home for them is a crazily-constructed shack providing only the barest shelter from the elements.
There are no paved streets, sanitation, drainage or electric light in these areas; water has to be bought by the capful. In the Cape winter, when rain comes pouring down, the roofs leak and the whole neighbourhood becomes sodden and waterlogged. Over all hovers the smell of dirt and wretchedness. Children play in the mud, and men and women flounder in the dark going to and from work-if they are lucky enough to have work.
And A Threefold Cord is drenched in the wet and misery of the Cape winter, whose grey and dreary tones Alex La Guma has captured in a series of graphic prose-etchings. It could have been depressing, this picture of South Africa’s lower depths, with its incidents of sordid brutality and infinite desolation. But Alex La Guma’s compassion and fidelity to life infuse it with a basic optimism. His electric dialogue flashes with the lightning of the human spirit. His message is: unity is strength – if people face the world on their own, they get destroyed; if they work together, they can survive anything.
Alex La Guma’s next novel was The Stone Country (1967), a story of bleak walls, dark corridors and clanging doors distilled from his prison experiences; followed by In the Fog of the Season’s End (1972), recounting the danger and daring of work underground, and Time of the Butcherbird (1979), dealing with people’s resistance to the threat of forced removal to a bantustan. In addition to writing many short stories,
Alex La Guma also edited Apartheid: A Collection of Writings on South African Racism by South Africans and after extensive travels in the Soviet Union, A Soviet Journey (1978) . He wrote pieces besides and was busy on a new work Crowns of Battle at the time of his death.
It was the mixture of realism and optimism which was the hallmark of Alex La Guma’s work. He faced life squarely and did not try to hide its nastiness for those at the bottom of the tip but always retained his confidence that working together, the oppressed people could transform their world, end the nightmare of capitalsm, exploitation, racism and prejudice and build a new world based on rationality and co-operation. But he was not a preacher. He was essentially a story-teller with a sharp eye for detail and a warm sense of humour There was no malice in him.
In one of the first pieces he wrote for the newspaper New Age (30 August 1956), Alex looked at the plight ofthe Coloured people in Cape Town:

There is a story told among the old people which says that one day, many years ago, God summoned White Man and Coloured Man and placed two boxes before them. One box was very big and the other small. God then turned to Coloured Man and told him to choose one of the boxes. Coloured Man immediately chose the bigger and left the other to White Man. When he opened his box, Coloured Man found a pick and shovel inside it; White Man found gold in his box.
The people have many explanation for their lot. Some of these take the form of folk tales, superstitions and myths; others are downright logical. But in all there is a common cosciousness that oppression, suffering and hardships are facts of life. And they have learned to temper hardship with humour, and to sweeten the bitter pill of their drab lives with the honey of a satirical philosophy. But they have always been aware of pain….

The census declares that we are almost one and a quarter million. But if you identify a people, not by names and the colour of their skin, but by hardship and joy, pleasure and suffering, cherished hopes and broken dreams, the grinding monotony of toil without gain, despair wand starvation, illiteracy, tuberculosis and malnutition, laughter and vice, ignorance, genius, superstition, ageless wisdom and undying confidence, love and hatred, then you will have to give up counting. People are like identical books with only different dust jackets. The title and text are the same.
And since man is only human, he must rise in the morning, throw off the blanket of night and look at the sun.

BRIAN BUNTING, 1988

④ブライアン・バンティングの「序」の日本語訳

南アフリカで「芸術のための芸術」という概念を持ち出すのは容易なことではありません。人生そのものが執拗に様々な問題を投げかけ、その執拗さを無視できないからです。世界中を見渡してみても、この国ほど、頭に「政治的」という言葉がつく問題に人々が深くかかわっている国も少ないでしょう。アパルトヘイト政策は、始めた人たちが政略的な理由からその政策を否定している今日でも、人生のあらゆる局面に顔を出し、(白人の、カラードの、あるいはインド人の) 国会議員であれ、実業家であれ、労働者や聖職者、あるいは運動家や芸術家であれ、その政策の必然的な結果から逃れることはできません。もし、芸術というものに意義があるとすれば、この国の人々に取りついて離れない強迫観念や、南アフリカの人々の魂を憔悴させ、時には魂を崩壊させる感情を映しだすべきです。

反対勢力の激しい政治論争に恐れをなしたり、抗争の激しさに圧倒されたり、あるいは単に恐怖心を抱いて、自分の立場を明らかにしてある判断を示すよりも沈黙を守ろうとする作家もいることは確かです。しかし、全体として、まだ歴史は浅いながらも、南アフリカ文学ははっきりと政治的な状況を意識していることを示してきました。色々な事実に怯むことなく、人生や真実を大切に思う人たちによって、最も優れた、味わい深い文学が生み出されてきたのです。

いくらそのつもりでも、南アフリカのすべての人々が様々な事実を知るのは容易なことではありません。人口登録や居住区の人種による隔離政策は厳しく、黒人と白人の間の分け隔ては非常にはっきりとしていて、両者の接点は極めて少ないのです。したがって、法的な障害があり過ぎて、現実に親しく付き合うのは極めて稀なことです。白人が黒人の生活を書こうとすれば、経験によるより、むしろ直感や当て推量に頼らざるを得ない場合が多くなります。そのために、時には人物の扱いが上すべりになっていたり、ごまかされたりしている場合もありますが、自ら望んだり意図したりしたものでないだけに、かえって残念です。

南アフリカの黒人作家は、白人の作家に劣らず、うまく洗練された形で全体の状況を描きだすのが難しいと感じながらも、作品を通して、南アフリカの全体像をただすのに大きな成果を収めてきました。黒人作家には、たえず一つだけ、白人作家よりも有利な点があったのです。つまり、南アフリカの人口の大多数を占める黒人に悲劇をもたらしている条件や状況を、詳しく、個人的に知っているという点です。白人の作家は、法律や習慣や黒人と比較すれば極めて安楽な生活によって保護され、人種の闘争からワン・クッションおかれた社会に所属しながら、どちらかと言えば、自分が直接かかわってはいない戦闘の状況を描く従軍記者に似た立場から、南アフリカの闘いを遠くから観察します。しかし、黒人作家の場合は、戦場で実際に闘っている戦士としてものを書きます。南アフリカのドラマがもっとも強烈に演じられるのは、黒人の生活の真っ只中においてです。喜びも悲しみも、嬉しさも厳しさも、その人たちの心の奥深くで感じたもので、たいていの白人の経験の枠をこえた状況のなかで体験したものです。

ブルドーザーで一掃され、今は歴史の中に消えてしまいましたが、かつては活気に満ちたカラード社会の中心地であった、ケープタウンの第六区に生まれ育ったアレックス・ラ・グーマの作品は、その街の姿を鮮明に描き出しています。アレックスは、ジミー・ラ・グーマの長男として、一九二五年に生まれました。父親ジミーは、南アフリカ闘争の草分けの一人で、当時すでに、通商産業労働者組合(ICU)、アフリカ民族会議、それに南アフリカ共産党の業務で、重要な役割を演じていました。共産党では、党が一九五〇年に解散させられるまで、中央委員会の一員でした。生まれた年から、一九八五年にハバナで死ぬ間際まで、政治は、アレックスの生命そのものだったのです。

トラファルガル・ハイスクールとケープ・テクニカル・カレッジを終えたあと、解放闘争に常時専念するようになるまで、事務員や会計係や工員として働きました。若年ながら共産党に入党し、党活動が禁止されるまで、党のケープタウン地区委員会のメンバーでした。その後も政治活動を続け、自由憲章が採択され、アフリカ民族会議の主導で会議運動が始まるきっかとなった、歴史的な一九五五年の国民会議の準備をするために、重要な役割を果たしました。

一九五〇年代には、政府の承認を受けて、国民党政権が、カラード社会に激しく襲いかかりました。体制は、人口登録法と集団地域法の条文をたてに、カラードのすべての権利を剥奪し、生活のあらゆる局面に人種隔離政策を押しつけようとしたのです。何千人もの人々が逮捕され、人種別に分類するという浅ましい作業に屈してしまいました。トランスバール州で人種別再分類の作業を担当した係官の手にかかった自らの苦い体験を、ある女性が次のように語っています。

検査官は、初めは右側から、次に左側から、私の横顔を見ました。それから、髪を念入りに調べました。目の細かい櫛をちゃんと持っていて、髪を少し摘むと、毛先のほうに櫛の目を入れたのです。そのあと、鼻に触って、おまえの母親の鼻はどんな形をしているかと聞きました。

南アフリカ・カラード人民機構(SACPO)の副議長として、アレックス・ラ・グーマは、こういった非道な行為に抵抗する最前線に立っていました。のちに、アレックスはSACPOの議長を引き継ぎ、その立場から、ケープタウンのバスにアパルトヘイト政策を導入しようとする動きに反対して、抗議運動を展開しました。(SACPOは、のちに南アフリカ・カラード人民会議と改名されました)

一九五五年八月のケープタウン会館での抗議集会で、ラ・グーマは次のように語っています。

みんなが国民会議の旗の下に団結すれば、自由と民主主義を求める闘いに敗れることはありません。南アフリカ国内だけでなく、国外にも、我々の側には、何百万という味方がついています。自由憲章が新しい南アフリカの基礎となり、未来は我々のものなのです。

一九五六年十二月五日、国じゅうで百五十六名の男女が警察に逮捕されましたが、アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。百五十六名は軍用機でヨハネスブルクに運ばれ、反逆罪で起訴されて裁判にかけられました。告訴側は、自由憲章で述べられた民主的な諸権利は極めて過激なものであり、国民会議を主催した人たちは、目的を達成する唯一の手段として武力と暴力によって政府の転覆をはかっていたに違いないと主張しました。この法廷論争と政治闘争については、裁判所で起訴事実が却下され、被告が自分たちの普段の生活に戻れるようになるまで、ほぼ五年の歳月が必要でした。

南アフリカで、積極的に政治活動をする人や、体制に反対して闘う人の生活は、決して正常ではありません。一九五八年のある夜、アレックスは暗殺計画の標的にされ、机に向かって仕事をしていた部屋の窓から二発の銃弾を撃ちこまれました。その一発は外れましたが、もう一発がアレックスの首をかすめました。暗殺者に見せかけた犯人の捜査は行なわれず、二、三日してからアレックスはポストに投げこまれた「おまえを殺りそこなって残念だ。またやって来る。愛国者」という匿名の手紙を受け取っています。

反逆裁判が未だ結審しないうちに、一九六〇年三月二十一日のシャープヴィルやランガでの警察による大量虐殺や、国民党政権による非常事態宣言に続いて、国じゅうがさらに激しい騒動に巻きこまれていきました。法に従って、政府は全国で二万人を逮捕しました。〈怠け者〉や〈浮浪者〉の名のもとに、急遽刑務所内で極秘裡に開かれた私的裁判にかけられて、遠隔地での強制労働につかされる者も出ました。二千人以上の政治的指導者たちが、裁判なしに、最高五か月のあいだ、刑務所に拘禁されたのです。アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。アレックスは、本を読んだり、ものを書いたり、のちに成功を収めることになる自らの仕事の準備をしながら、その幽閉された退屈な数か月間を過ごしたのです。

アレックスは生涯を通じて大の読書家で、かなり早い時期からものを書く腕試しをやっていました。しかしながら、仕事として本格的にやり始めるのは、一九五六年にスタッフに加わった進歩的な新聞『ニュー・エイジ』の記者としてでした。アレックスはそのペイジを、ケープタウンの人々の生活や闘争についての漫画やニュース記事、物語やたくさんの印象的な写真などで飾り立てました。

「ニュー・エイジ」一九六二年八月六日 ラ・グーマの活動禁止を報じている。カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)所蔵

その間じゅう、アレックスは政治活動も続け、嫌な思いを強いられる迫害にも決して気落ちすることはありませんでした。一九五六年、アレックスは、アパルトヘイト政策をとる事業や公共施設への経済的なボイコットを呼びかけるパンフレットを持って、許可証なしにニャンガ黒人居住区に入ったという理由で、ロナルド・シーガル、ジョゼフ・モロロングと共に逮捕されました。一九六一年には、ピーターマリッツブルク全アフリカ人会議の全国行動委員会のスポークスマンであるネルソン・マンデラが、ファヴールトの共和国宣言の式典に抗議して五月の終わりに三日間のゼネストを呼びかけた時、アレックス・ラ・グーマとカラード人民会議の仲間は、その呼びかけに応じて抗議運動に加わりましたが、逮捕され、政府がストライキの脅しに対処するために特別に成立させた新法の下で、裁判までは保釈金も積めない状態で、十二日間拘禁されました。ストライキが始まる前の大事な時期に指導者たちが刑務所にいるか、どこかに潜んでいたにもかかわらず、カラード社会の対応はすばらしく、ストライキの行なわれた三日間、ケープタウンの会社や商店は大きな打撃を受けています。

一九六一年六月に、アレックスは共産主義弾圧法で一切の活動を禁止されました。九月には不法なストライキを組織した嫌疑により、同法で起訴されましたが、その起訴はのちに取り下げられました。一九六一年十二月には、法務大臣からカラード人民会議の議長を辞めるように命じられました。しかし、同月、人々の忍耐は限界を越え、国じゅうのあらゆる地域の政府の建物や施設に対して向けられ一連の爆破事件は、解放運動の武力闘争部門、ウムコント・ウェ・シズウェの出現の前ぶれとなりました。

政府の反応は、悪名高い一九六二年の一般法修正令、いわゆる破壊活動法 (サボタージュ・アクト) で、なかでも、反体制の人間を自宅拘禁できる条文を含んでいました。一九六二年十二月に、アレックス・ラ・グーマは、一日に二十四時間、自宅拘禁を命ず、という通告書をつきつけられました。その通告の五年間に、アレックスを訪れることができる者は、わずかに母親と、妻の両親、それに過去、共産主義弾圧法に触れたり、活動を禁止されたりした経験のない医者と弁護士だけでした。

二十四時間の自宅拘禁生活をしていたという事実、その結果政治的な活動の可能性を完全に奪われたと言う事実でさえも、アレックス・ラ・グーマがさらに犠牲を強いられるという事態を救えませんでした。一九六三年に九十日間無裁判拘禁法が議会を通過したのに続いて、アレックスも逮捕され、裁判なしに拘禁されたのです。刑務所では、一日に二十三時間半、独房に監禁され、残りの半時間が「運動」と自分の時間にあてられるという孤独拘禁の状態におかれました。他の拘禁者の場合と同じように、アレックスも来訪者や読むもの、書くものを許されないばかりではなく、法的な助言者が近づくことも拒まれ、もっとも忌まわしい形の精神的な拷問を強いられて、警察の満足がいくまで尋問に答えることを強要される可能性もあったのです。

アレックスは屈しませんでした。アレックスにさらに圧力をかけるために、政府は、看護婦と助産婦をしていた妻ブランシも逮捕しました。二人の子供ユージーンとバーソロミューは、親戚が世話しなければなりませんでした。ブランシ・ラ・グーマは、のちに釈放されましたが、ほとんど同時に活動禁止命令も言い渡されました。当然の順序としてアレックスも釈放されましたが、保釈中の身で、発禁処分の文学書を所持していたとの罪で起訴される事態に直面しました。アレックスは有罪とされ、執行猶予つき三年の実刑を言い渡されたのです。

一九六六年、アレックス・ラ・グーマは再び拘禁されました。この頃までには、弾圧は非常に厳しいものになっていましたから、アレックスとブランシは二人の子供と一緒に祖国を離れることを余儀なくされました。家族は、最初ロンドンに落ち着き、イギリスにおけるANCの存在を強固なものにするために、大きな役目を果たしました。のちにアレックスがキューバでのANC主代表に指名されたとき、家族はハバナに移り住みました。アレックスとブランシの監督のもとに、何百人もの南アフリカの学生が、祖国では拒否された様々な分野の教育を受けることができました。

亡命の期間中、アレックスはできるだけ多くの時間を書くことに専念し、自らアジア・アフリカ作家会議の仕事にもかかわりました。アレックスは、世界平和評議会の議長の一人でもありました。一九八五年十月十一日、アレックスは、心臓発作のため、ハバナの病院で亡くなりました。六十歳でした。

死ぬ時までの数年間、アレックス・ラ・グーマはアジア・アフリカ作家会議の事務総長を務め、一九六九年にはその作家会議のロータス文学賞の受賞者になりました。一九八五年には、六十歳の誕生日を記念して、ソビエト連邦から民族友好勲章を、フランスからは文芸勲章を、コンゴからは文学賞を受けました。

アレックス・ラ・グーマが作家として、より広範な読者にその才能を最初にあらわしたのは、一九六二年の小説『夜の彷徨』の出版と同時でした。アレックスはすでに活動を禁じられ、喋ったり書いたりしたものは国内ではいかなる手段でも再現されることはありませんでしたから、最初の小説はナイジェリアのムバリ出版社から出版されました。二、三冊の本が密かに国内に持ちこまれ、人の手を経て読み継がれました。その本はただちに、想像力に富んだ優れた作品としての評価を得て世界中に出まわり、数力国語に翻訳されました。

その本は、わずか九十ペイジの長さの短篇小説です。しかし、そのペイジとペイジの間には、ケープタウンで最も色鮮やかな社会を構成した、カフェの常連や田舎者や客引き、労働者の夫婦、商売女やポン引きにちんぴらなど、ケープタウン第六区のさまざまなタイプの人物が登場するのです。建物がなぎ倒され、そこに住んでいた人たちが集団地域法によって四散させられて、第六区はすでにありませんが、かつて第六区を通ったことがある者は、その曲がりくねった混雑する通りを、その人間味あふれる騒がしさを、その臭いを、その貧しさと惨めさを、そして活発さと限りない多様性を忘れることはできないでしょう。いくら見た目が悪くても、その静脈の中には生命の鼓動が激しく鳴り響いていたのです。その鼓動があまりにも激しいので、今日まで度々その地区を「白人」地区に変えようと政府が努力してきましたが、黒人白人を問わず、ケープタウン社会全体の抵抗にあって、その計画は失敗に終わっています。人種差別をする人たちに土地を奪われたことに対する第六区の人々の憤りは、今日、ケープ西部の若者による政権と政策と軍隊に反対する全面的な闘争の中にこだましています。

1966年に強制立ち退きにあったケープタウン第六区の今と昔(タイム誌)

 アレックス・ラ・グーマは第六区をよく知っていました。ロジャー通り二番に住み、のちにガーランディルに移り住むまで、幼い頃の大半をそこで過ごしたからです。アレックスは、そこに住む人たちと、その人たちが「トラブル」と呼んでいたその人たちの問題を理解し、よく知っていて、心をこめ、細心の注意を払ってその問題について書きました。そこに登場する人物は、ペイジとペイジの間を生気なく気取って歩くような非現実的なものではなく、リアルで生き生きとした血肉の通った男性であり、女性なのです。その人たちは、世の中に無視され、軽蔑されて気落ちしてはいますが、生き延びて、食べたり飲んだり愛し合ったり、あるいは寂しさや恐怖に耐え、汚れを洗い流してくれる明日の夜明けを迎える自分たちの意志の固さを、執拗に物語っているのです。

アレックス・ラ・グーマの散文が鋭く訴えるのは、自分の環境をよく知り、完全に理解していたからです。効果をねらって努力するのではなく、芸術的な手腕と正確さで、労働者階級と権利を奪われた生活を浮き彫りにしています。住まいの壁にこびりついた汚れを感じ、裏通りのごみの山の臭いを嗅ぎ、街角のバーからどっと聞こえてくる笑い声を聞き、喧嘩の真っ最中に抜かれたナイフのきらっと輝く光を見ることができます。すべて、実際に目の前で起こっているかのように、劇的で、鮮明なのです。

アレックス・ラ・グーマが成功した秘訣は、物語の中の会話が人々が実際に話している会話に忠実であったことにもよっています。新しく刷り上がった紙幣のようにぱりっと音を立てながら、こちらをどきっとさせるような現実味を帯びて、人々の言葉が物語のペイジからあふれてきます。アレックスは、登場人物の言葉を次々と微妙に変化させながら、自分の語り口から物語の人物を創り出すこつを心得ています。それらの話は、真実のように、きびきびとして元気よく、ユーモラスで説得力のある、現に生きている人々の話なのです。

アレックスの書いたものは、法律に違反することなく、南アフリカで一般に読まれる可能性はありません。アレックスの名前は、活動を禁止された人のリストにまだ記載されています。重ねて念を押すかのように、一九六三年一月に郵便で『夜の彷徨』が国内に送られてきたとき、検閲官はその書が反政府的であると認定する、と宣告して、何冊もの『夜の彷徨』を押収しました。しかし、アレックスの書いたものは、それを押さえこもうとする検閲官の活動にもうち勝ち、その作品は長年にわたって、国内外の広範な評価を得てきました。『夜の彷徨』に続いて、一九六四年には『まして束ねし縄なれば』が出版されました。今回は、ケープタウン周辺に広がるスラムの生活を取り扱ったものでした。そこには、何万人という黒人 (カラードとアフリカ人) が小屋を立てて雨風を凌いでいます。その人たちは、「公式に認められた」住むための場所を持たず、生き延びる唯一の希望を自分たちに提供してくれる都市の周辺での不安定な生活にしがみついているのです。その住民の多くは存在する権利を保障してくれる書類もなく、度重なる警察の手入れや不安や貧乏の餌食となりながら、不法に都市地域に滞在しています。その人たちの家は、とにかく何とか雨露だけでも凌げるようにとあらゆる材料を使って立てられた粗末な小屋なのです。

それらの地域には、舗装された道路も、下水も、排水施設や電灯もありません。水も、バケツなどを運んで買いに行かなければならないのです。雨が激しく降りつけるケープの冬には、屋根は雨漏りがして、その辺りは一帯に水浸しとなり、地面はじゅくじゅくの状態です。どこに行っても、泥と惨めさの臭いが漂います。子供たちは泥の中で遊び、大人たちは泥に足を取られながら、暗闇の中を仕事に通うのです、それも、運よく仕事にありつけばの話なのですが・・・・・・。

『まして束ねし縄なれば』は全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅板画で捉えています。この作品は忌まわしいほど残虐な、限りなく絶望的な数々の出来事で南アフリカの奥深くを描きだしているので、あるいは読者の気を滅入らせたこともあったでしょう。しかし、物語の根底には、アレックス・ラ・グーマの人生に対する情熱と誠実さにより、楽観的な雰囲気が漂っています。わくわくする会話は、心の機微を捉えて生き生きと輝いています。アレックスのメッセージは・・・・・・団結は力である。独りで世間に立ち向かっても打ち負かされるが、みんなで協力してやれば、何事も切り抜けられる・・・・・・というものです。

その次のアレックス・ラ・グーマの小説は『石の国』(一九七六年) で、自らの獄中体験から生み出された、寒々とした壁や暗い廊下やガチャーンと響くドアの物語です。そのあと、危険で大胆不敵な地下活動を詳しく書いた『季節の終わりの霧の中にて』(一九七二年)、バンツースタンヘの強制移住に反対して闘う人々の抵抗運動を取り扱った『百舌鳥のきたる時』(一九七九年) と続きます。数々の短篇だけでなく、『アパルトヘイト―南アフリカの人種差別に関する南アフリカ人の著作集』(一九七一年) をも編集し、広くソビエト連邦を旅行したのちに『ソビエト旅行』(一九七八年) も出版しました。他にもたくさんの小品を書き、死ぬ間際には、新作『闘いの王冠』の執筆にいそしんでいました。

Stone Country (神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

 アレックス・ラ・グーマの作品の特徴は、リアリズムと楽天性を混ぜ合わせたものでした。アレックスは人生に真っ向から立ち向かい、掃き溜めの底にいる人たちに対する不快感を隠そうとはしませんでしたが、力を合わせてやれば、虐げられた人たちが自分たちの世界を変革し、資本主義や搾取、人種差別や偏見という悪夢を終わらせ、理性と協調に基づく新しい世界が構築できるという確固たる信念をいつも持ち続けていました。しかし、説教師ではありませんでした。アレックスは、本質的に、細部にまで行き届いた鋭い目と温かいユーモアの感覚を備えた物語作家でした。アレックスに敵意はありませんでした。

『ニュー・エイジ』紙に書いた初期の作品 (一九五六年八月三十日) の中で、アレックスはケープタウンの人々の窮状を次のように見ていました。

年寄りの間で語られる次のような話があります。何年も前のある日、神さまは白人とカラードの人を召されて、二人の前に箱を二つお置きになりました。箱の一つは大変大きく、もう片方の箱は小さいものでした。そのあと、神さまはカラードの人の方を向いて、箱をどちらか選ぶようにとおっしゃいました。カラードの人はすぐさま大きい箱を取り、もう片方を白人に残しました。箱を開けたとき、カラードの人はつるはしとシャベルを見つけました。一方、白人の方は、箱の中に金を見つけました。

人は、自分の運命を解釈する様々な説明づけを行ないます。民間説話、迷信、神話などの形を取る場合もあれば、完全に論理に適っている場合もあります。しかし、いずれの場合にも共通して、抑圧や苦しみや苦難が現実の人生であるという自覚があります。そして人々は、辛さをユーモアで和らげ、単調な生活の苦い薬を風刺的な人生哲学という蜂蜜で甘くするようになりました。しかし、人々はいつも痛みを意識しているのです・・・・・・。

国勢調査では、私たちカラードの人口はほぼ百二十五万人と言われています。しかし、身元の確認を姓名とか肌の色とかでは行なわず、厳しさと喜び、楽しさと苦しさ、憧れと挫折、報われることのない辛く単調な仕事、絶望と飢餓、文盲、肺炎と栄養失調、笑いと悪徳、無知、天才、迷信、永遠の知恵と揺るぎない自信、愛と憎しみなどで行なえば、きっと数えること自体を諦めざるを得ないでしょう。人々は、違った表紙によって初めてそれぞれの違いが区別できる本と似ています。

そして、人はしょせん神ならぬ身、人間でしかないのですから、朝起きれば、夜の毛布を投げ捨て、太陽に顔を向けなければならないのです。

一九八八年      ブライアン・バンティング

本文(写真作業中)

 

執筆年

1991年

収録・公開

註釈書、Mondo Books

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And a Threefold Cord by Alex La Guma(本文は作業中)

1990~99年の執筆物

概要

ラ・グーマの第2作目の物語『三根の縄』(1964年ナイジェリアムバリ出版社刊、のちに日本語のタイトルを『まして束ねし縄なれば』と改題)の作品論です。

第1作『夜の彷徨』では、夜と黒のイメージを使ってアパルトヘイト下での第6区の抑圧的雰囲気を醸し出しましたが、今回は雨と灰色のイメージを利用して惨めなスラム街の雰囲気をうまく伝えています。ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にケープタウンのスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからで、世界に現状を知らせなければという作家としての自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感から、この作品を生み出しました。

聖書の伝道之書の「もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり」に準えて、自ら虐げられながらも、他人への思い遣りを忘れず、力を合わせて懸命に働き続ける人々の姿を描いています。

*発音記号はThe sounds of English and the International Phonetic Alphabet …を参照下さい。()

本文

「三根の縄」

聖書・・・・・・『三根の縄』では、『夜の彷徨』のシェイクスピアに次いで、ラ・グーマは聖書を借用し、伝道之書第4章の9節から12節をエピグラフに掲げた。ダビデの子、イスラエルの王である伝道者が世の中の抑圧について語る第4章は次のように始まる。

ここに我身をめぐらして、目の下に行われる諸々の虐げを視たり。ああ虐げらるる者の涙流る、これを慰むる者あらざるなり。また、虐ぐる者の手には権力あり。彼等はこれを慰むる者あらざるなり。

ラ・グーマの目には、この1節が南アフリカの現実と重なったのであろう。独りでいることの辛さについて伝道者が触れたあと、エピグラフに用いられた次の4節が続く。

 

二人は一人にまさる。其はその骨おりのために善き報いを得ればなり。

即ち、その倒る時には、ひとりの人そのともを助け起こすべし。然れど、ひとりにして倒る者はあわれなるかな、これを助け起こす者なきなり。

又、二人とも寝ぬれば温かなり、一人ならばいかで温かならんや。

人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり

タイトルの『三根の縄』はその12節から取られており、この「三根の縄」に準えた人物を中心に物語は展開される。

「三根の縄」の人間関係を支えるのは相手を思いやる心遣いである。「大切なブランシに本書を捧ぐ」という献辞にもその思いが込められている。それは、自ら虐げられながらも、他人への思い遣りを忘れず、貧しい人々の間で懸命に働き続ける妻に寄せるラ・グーマの共感でもあろう。本書とブランシヘの思いをラ・グーマは振り返る。

この物語をラブ・ストーリーにしていたという可能性もありますが、それとは別に『三根の縄』の中で表現されている思いがすべて、妻ブランシと貧しく虐げられた人々への気持ちに何か係わりがあると思います。さらに、ブランシは地域の貧しい人々の間で助産婦や看護婦として多くの時間を費やして来ました。ですから、ブランシには私が何かどこかで触れるだけのねうちがあると信じています。

ラ・グーマが本書をラブ・ストーリーにしなかったのは、歴史を記録したい、真実を伝えたいという気持ちが強かったからである。その意味では、本書は『夜の彷徨』の続編でもある。ただし、ラ・グーマはケープタウンの市街地の第6区からケープタウン郊外のスラム街に舞台を移した。本書のねらいについてラ・グーマは語る。

再び歴史を記録する、状況を書き留めるという問題です。この本は、それがソウェトであれ、アレキサンドラタウンシップであれ、クックブッシュであれ、南アフリカの特徴的な情景とも言える郊外のスラム街についての物語です。それはその地域の生活の一場面でもあり、その写真のひとコマでもあるのです。

更に補足してラ・グーマは言う。

付け加えると、私はある段階でこの本がラブ・ストーリーになると考えていました。作家は誰でもいつかはラブ・ストーリーを書きたいと望むようですし、私にも絶えずその気持ちはあります。しかし、全般的に見て、この本は本当の意味でのラブ・ストーリーではなく、ある特定の家族とその仲間のつき合いから照らし出される、人々の極く普通の生活の記録であると私は考えています。

父・母・・・・・・ラ・グーマは「三根の縄」の人間関係をすべて、母親を軸に展開させる。厳しい抑圧の中での、生活を支える女性の役割を強調したかったからである。自分の母親を回想して「あの人は親切で心の寛い母親であり、献身的な妻でもありました。そして、第6区の他の女性たちのように辛い日常の生活の雑事をやりこなしていました」とラ・グーマは語る。アパルトヘイトと闘う男たちを支え、子供を育て、黙々と日々の雑事をこなす母親やブランシの存在の大きさをラ・グーマは充分に承知していたのである。

「三根の縄」の人間関係の基調は他人への思いやりである。本書では特に、身近な人を大切にする気持ちをラ・グーマは中心に据えた。

朝方、母親が弟ロナルド (通称ロニー) をからかうチャーリーをたしなめるのも、チャーリーと母親が父親への不満をこぼすロニーを諭すのも、或いはチャーリーが釘を打たずに石を置いて屋根に応急処置を施すのも、すべて病床で苦しむ父親への配慮からである。

ラ・グーマは物語の中で、父親に直接喋らせることはしなかった。従って、読者に聞こえてくるのは、病床からの咳ばらいや呻き声ばかりである。それだけに、父親の様子を描くくだりは哀れをさそう。

骨だけになった両膝が掛け蒲団の下で山がたに盛り上がり、小さな地震のように震えていた。壁の隙間や古い釘穴から吹き込んで来る隙間風と病のせいで、ベッドの中で全身がぶるぶると震えていた。歯の抜け落ちた口が開き、痩せさらばえた胸からは、やかんのように、ぜいぜい、すーすーと音がして、からだ全体が機械仕掛けのオモチャのように揺れ動いていた。

「父さん、どう?」と問いかけるチャーリーに父親からの返事はなく、次に続く。

空ろな目をチャーリーの方に向け、浜辺に打ち上げられた魚のように、口だけをぱくぱくさせた。一人の患った老人が、いのちの崖っ縁に脆い爪で懸命にしがみつき、何とか持ちこたえようとしている。

チャーリーは父親に目くばせをしながら、「父さん、そのまま。休んでてよ」と言い残してその場を離れるしか術がなかった。

ラ・グーマは父親の咳ばらいや坤き声に喋る以上の働きをさせたわけだが、それが可能になったのも、家族の父親に対する思いやりがあったからである。家族の父親に対する思いやりは、父親の死と葬式を通して更に印象づけられて行く。

ラ・グーマは小屋の出来上がった経緯を語る中で父親の人となりに少し触れていたが、その死と葬式を通じて父親フレデリック・ポールズが如何にかいがいしく働いて来たかを明らかにする。

一家の主の死に際してうろたえなかったのは母親レイチェル・ポールズである。検死の医者や葬式の手配などを済ませてから、死者にとっておきの真新しい下着を着せた。生前から死者が望んでいたのだが、手厚く葬ってやることが死者への最善の供養になると信じていたからである。苦しい家計の中から、葬式に備えて幾何かの積立金を工面していたのもその気持ちのあらわれだった。

うろたえこそしなかったが、チャーリーに語りかけた言葉の端々に伴侶への思いや悲しみが滲む。

おまえの父さんは逝ってしまった。もう二度と戻っては来ないんだよ。おまえの父さんは良い人だった。みんなが食べていけるようにずっと働きづめだった、あの人は私に子供たちを授けてくれ、みんなが大きくなるのを見守ってた。あの人は私にも子供にも良い人だった、そして神様を信じていたよ。あの人はただ生きて、働いて、神様の目にとまるような悪いことはこれっぽっちもしなかった。家族のために働き、もうこれ以上は働けなくなったとき、横になって、神さまが来て天国に連れて行って下さる時を待ったんだよ。今、あの人は神さまのもとへ行っちまった。病気に苦しむこともなく、お腹をすかせることもなく、仕事から解放されて休みに行ったんだよ。イエス様のように、あの人はいつも十字架を背負っていたけど、今やっと、肩から背負っていた荷物を降ろしてもらえたんだよ・・・・・・。

母親は夫の臨終の委細を死亡証明書を書いてくれた隣人のンズバにしんみり語って聞かせる。

静かな死に際でした。私はすぐそばについてました。あの人、昨夜のスープを少し飲んで、それから私を見て「レイチィ」って言いました。あの人いつも私のことほんとそう呼んでいましたよねえ。「子供らは大丈夫か?」って聞くんです。それで「そりゃ、父さん、子供たちは大丈夫ですよ、心配しないでいいよ」と言ったら、又「ワシはみんなにもっとましな家に住まわせてやりたかったよ、あんな瓦屋根の家になあ・・・・・・」って言うんです。だから私、「まあなんてことを、家のことは気にしないで」と言ったんです。するとあの人、私を見て目を閉じました。それからタメ息みたいなのをついて、次に喉をぐるぐる鳴らしました。そうして死んで行きました。

ラ・グーマはそのように語る母親の様子を次の1節で締めくくる。

涙をこらえたしわかれ声が続き、両肩が震えた。母親ポールズの目に涙こそなかったが、言葉が母親の涙だった。

母親の言葉から、父親が家族のために黙々と働き続けた末に体をこわしたことを知る。そして、苦しみの病床でさえ愚痴一つこぼさず、ひたすら子供たちを気遣いながら死んで行った父親の姿がありありと目に浮かぶ。父親が来る日も来る日も天井のしみを見つめながら最後に、子供たちを瓦屋根の家に住まわせてやりたかった、と言い残して死んで行く話を聞かされるとき、その無念を思わずにはいられない。同時に、日々衰えゆく夫をそばに見ながら医者を呼ぶ金もなく、むなしく薬草を煎じて飲ませてやるしかなかった母親への同情も禁じ得ない。そして、その思いはそんな惨状を生み出したアパルトヘイト体制へと及ぶ。

子供たちと夫に尽くし続ける母親、家族のために働き、家族を思いながら死んで行った父親、生来の楽天的性格で陰ながら両親を支え、思いやるチャーリー、そんな親子の関係を通して、ラ・グーマは「三根の縄」の貴さを見事に描き出している。

伴侶・・・・・・父親と母親のいたわりの世界を引き継ぐのはチャーリーと恋人フリーダである。ラ・グーマはその2人と母親に、もう一つの重要な「三根の縄」の役割を演じさせた。チャーリーは未だ定職に就けずぶらぶらしてはいるが母親の信頼は厚い。

フリーダは2年前に夫を亡くし、今は白人の所でメイドをしながら懸命に2人の子供を育てている。現実の厳しさを感じながら暮らしている母親にはフリーダのひたむきさが理解出来る。そんなフリーダを暖かく見守ってやれるチャーリーの姿勢も痛い程わかるのである。2人がいずれ結婚すると母親は信じており、2人を見つめる目は温かい。

その点では、弟ロニーと相手スージィに対する見方とは対照的である。チンピラ連中といざこざの絶えないロニーと尻軽なスージィヘの母親の目は厳しい。

ラ・グーマはフリーダを軸に2つの事件を通してアパルトヘイトの惨状を物語る。

1つは警察の手入れである。事件はチャーリーがフリーダの家に泊っている夜に起きた。夜中の突然の侵入者に子供たちは怯え、フリーダは身構える。尋問から2人が夫婦でないのを知った警官の1人は「この黒んぼ淫売め」と捨てぜりふをして帰って行った。

ラ・グーマは前章で、パス法の手入れで交歓現場に踏み込まれた男を描いていた。男は裸同然の姿で手錠をされて引き立てられながら「どうしてこんなことするんだね。同じアフリカ人にどうしてこんなことするんだね」とアフリカ人警官に訴えていた。そして今、手入れがチャーリーとフリーダに及ぶのを見て、アパルトヘイトという怪物の前ではチャーリーの優しさも打ち砕かれ、愛しい子供たちや恋人さえ守ってやれない現実を思い知らされる。

更に、ナイトガウンを引っ掛けて手入れ騒ぎを見に出た男が家の前で捕えられ「パスは家の中にある!」と叫びながら連れて行かれる光景からは、シャープヴィルの虐殺事件が思いおこされる。あの人たちはこのパス法に抗議して集まったのである。その群衆に向かって、白人警官は無差別に発砲した。

南アフリカの子供たちは、フリーダの子供のように、幾度となく恐怖を味わい、感性を切り刻まれながら大きくなっていく。人々は日々の暮らしの中で、人間としての誇りを傷つけられ、絶えず脅かされながら生きることを余儀なくされる。あの虐殺事件ですらそんな日常の単なる延長でしかないのである。ラ・グーマはチャーリーとフリーダの思いやりの世界を背景に警察国家の暴虐をうまく伝えたことになる。

もう1つの事件は、フリーダの小屋の火事である。フリーダが買い物に出かけた隙に子供の1人がストーブを倒して火事は起きた。主に段ボールからなるその小屋は火のまわりが驚くほど早かったうえ、フリーダが外から鍵をかけていたから子供ごと瞬く間に燃え尽きてしまった。途中、男が2人を助けに入ろうとしたが、火力が強くて近寄ることさえ出来なかった。駆け戻ったフリーダは半狂乱になる。

叫び声や残り火のパチパチいう音に混って別の声が聞こえて来た。それは最初咽び声だったが、次第に金切り声になり、やがてぞっとするほど低い呪文のような泣き声に変わった。それはどこかの未開人が行なう忌まわしい死の儀式かとまちがえるほどの恐しい阿鼻叫喚図絵だった。それは高く神経を掻きむしるような泣き叫びになった。その声は単なる叫び声や金切り声以上のもので、あり得ないほどの悲しみの声、苦悶を通り越した声、範ちゅうを越えた佗しく耐えられない程の悲痛な叫び、貫き抜けた悲しさであった。それはフリーダだった。

火事は確かにストーブが倒れて起きたのだが、いつ火災が起きてもおかしくない状況である。床は牛糞などで固めてならされ、安物の油紙が敷かれている。しかし、その地面は油紙がはがれて今は平担でない。足のとれたストーブがマッチ箱を支えにしてその床の上に置かれているが、最近はつまってどうも調子が芳しくない。段ボールに紙を貼りつけた壁には所々広告の印刷の文字が見える。低い天井には古ぼけたランプが吊されており、出入りの度に小屋が揺れる。手入れの時には警官がドアを叩いたので小屋全体が激しく揺れた。こんな状態だから今まで火事にならなかった方がむしろ不思議なくらいである。

しかしながら、ラ・グーマはフリーダの小屋を特別なものとして描こうとしたわけではない。むしろ、ありきたりの小屋として取り上げたに過ぎない。フリーダの小屋も、大部分拾いものの段ボールや屑鉄などで建てられたまわりの小屋と大差はない。拾ってきた壊れかけのストーブでも真冬には必需品となるこの辺りの小屋の住人には、フリーダの叫びは個人を越えた、言わばその地域の人々の叫びである。そしてフリーダの小屋の火事は、その人たちの悲惨な住宅事情や劣悪な生活環境の象徴と言えるだろう。

ラ・グーマは先の手入れ事件では、官憲の横暴により人格を挫かれる人々の精神面を強調したが、フリーダの火事では、惨めな生活環境を強いられて苦しむ人々の物質面に焦点を合わせて、アパルトヘイト体制の生み出す惨状を描き出している。

・・・・・・もうひとつの「三根の縄」の役は、チャーリーと妹の、キャロラインと母親で演じられ、ラ・グーマはキャロラインの出産をその軸に据える。人々の日常生活を描こうとするラ・グーマには死や葬式と並んで出産が重要な意味合いを持っていたからである。

キャロラインは17歳で出産を間近に控えているがまだ頼りなく、18歳の夫アルフレッドと共に支えが必要である。父親が死んだ今、チャーリーが父親代わりだが、展開の中心はここでも母親である。産婆が間に合わず、駆けつけてくれた隣人ンズバの手を借りて母親は娘の出産を無事済ませる。

ラ・グーマが出産を通して強調したかったのは出産の状況のひどさである。アルフレッドから産気づいたとの知らせを受けて母親が駆けつけた時、娘は床のマットレスの上で毛布を掛けて横たわっていた。オイルランプの火は薄暗く、戸口の所に溜っていた天井からの雨もり水が床を流れ始めていた。しかし、母親に出来たことと言えば、持参のランプを吊り、娘の気持ちを落ち着かせ、雨もりの個所に水差しを置いてから、用意させていた新聞紙を腰の下に敷いてやるくらいだった。あとは産婆を待つしかなかった。

部屋の状況のひどさを印象づけるのにラ・グーマはキャロラインの叫びを聞いて駆けつける白人警官を登場させた。叫び声が酔っ払いによるものだと思い込んで手入れに来たという設定である。娘のお産だと言い張る母親の言葉を信じない白人警官は無理やり小屋を覗き込む。

その瞬間キャロラインは叫び声を上げた。警官は「何てことだ」と言い、母親ごしに小屋の中を覗き込み、マットレスに横たわっている娘にンズバの大きな体がかがみこんでいるのを見た。煙った天井、泥まみれの床、天井の雨もり、大売り出しの時に並べられたようなぼろ布を見ながら警官は目をきょろきょろさせた。けむりとランプ油と出産の臭いが入り混って室内はたまらなく臭かった。

再び警官は「赤ん坊?何、ここでか?」と言い、それから肩をすくめて低い声で「わかった、分った」と言った。警官が向きを変えて部下に鋭く命令を出している最中に、母親は目の前でぴしゃりとドアを閉めた。

かつてキャロラインは、父親とチャーリーが小屋を建てるのが間に合わなくて鶏小屋のような場所で生まれた。そして今、キャロラインはこんな惨めな場所で子供を産んだ。おそらく、アパルトヘイト体制が続く限り、キャロラインの子孫もまた、いずれ同じ運命に晒されるだろう。

母親を軸に、親と子、やがて結ばれる2人、兄と妹という3組のいたわり合いを通じて、ラ・グーマは「三根の縄」の重要性をもの語った。

孤独な人々

「三根の縄」の重要性をより印象づけるために、ラ・グーマは人を信頼できず孤独な生き方をする人物像を対照的に持ち出した。伝道之書第4章9-12節の「三根の縄」とは極めて対照的な同章8節にあるような孤独な世界で苦しむ人々である。

ここに人あり、只独りにして伴侶なく子もなく兄弟もなし。然るにその労苦はすべてきわまりなく、その目は富に飽くことなし。かれまた言わず、ああ我は誰がために労するや、何として我は心を楽しませざるやと。是もまた空にしてほねおりの苦しきものなり。

ロニーとロマン・・・・・・ラ・グーマは孤独な生き方をする3つのタイプの人物像を登場させる。一つは『夜の彷徨』で克明に描き上げたタイプで、いつも不満を持ち、街にたむろして無為な時を過ごしている類の不良連中である。尻の軽いスージィをめぐって争ったロニーとロマンがこれにあたる。

ロニーはチャーリーの忠告に耳をかさず、白人モスタートに身を売ったと邪推してスージィを惨殺して刑務所行きになる。

ロマンは妻子がありながら女を追いまわしたり、盗みで刑務所入りしたりする日々が続く。11人の子供を常に飢えさせており、妻子には烈しく暴力を振う。

両者は何事に対しても刹那的で、自己の欲望を満たすことに窮々としており他人を思いやれない点で共通している。ロニーがスージィを殺したのも自分の思い通りにならない女への苛立ちからである。又、ロマンが妻子に暴力を加えるのも弱者を虐めることで自分の不満を解消しようとしたからである。虐げられながらも他人への思いやりを基調に結ばれた「三根の縄」の世界とは対照的である。

アンクル・ベン・・・・・・2つ目は厳しい世の中にすっかり諦観を抱き、酒などの逃避手段に溺れてその日を暮すタイプで、叔父のベンがそれにあたる。ベンは、病気の義兄や家族のことで悩む姉を気使う優しさを持ちながらも、僅かの稼ぎを殆んど酒代に替えてしまう生活を改められないでいる。持参した安ワインを酌み交しながら、深酒への忠告をしてくれるチャーリーに、そのやる瀬ない心境をベンは語る。

それがどうしてだがワシにもわからんのじゃよ、チャーリー。人はつい酒に手を出してしまうんじゃ。じゃが、ワシの場合、何かにせかされて飲む、飲む、飲むのようじゃ。チャーリーよ、どこかの悪魔が無理やりベロベロになるまで人に酒を飲ませ続けるんじゃよ。悪魔なんじゃ、なあ。

チャーリーが友人の言葉を借りて「もし貧乏人たちが協力して世の中の富を分かち合えば、誰も、貧しい者はいなくなるよ」と社会のあり方を説いてみても「そりゃアカの言うことじゃよ。政府に反対する話じゃ」と全く取り合わない。その生き方の姿勢はおそらく死ぬまで変わらないだろう。

友人のことを思い出しながら、チャーリーが傷心のフリーダにしんみり語りかける次の言葉は、他からはどうもしてやれないロニーやベンヘのやる瀬ない思いと「三根の縄」の貴さを教えてくれる。

あいつの言うように、人は世の中でひとりではやっていけず、みんなで力を合わせることが必要だ・・・・・・たぶんロニーの奴の場合もそうだったよ。ロニーは人に助けてもらいたがらなかった。何でもひとりでやりたがった。決してオレたちと一緒じゃなかった。わからないが、たぶんベンおじさんも同じだろう。人がひとりでいるのは自然じゃないよ。

ジョージ・モスタート・・・・・3番目は妻に逃げられ佗しいやもめ暮らしをする白人ジョージ・モスタートである。スラム街に隣接するさびれたガソリンスタンドを営むモスタートはスラムの住人と接する機会が多い。自分の佗しい生活と比べて、貧しいながらもスラム街には何か生気が感じられて仕様がない。屑鉄などを与えた縁で知り合ったチャーリーのパーティヘの誘いに乗る決心をしたのも孤独な生活の佗しさからだった。しかし1度は出かけたものの、結果的には途中から引き返してきてしまった。「集団地域法」に触れるのを恐れたからである。又、心は揺れながらスージィの甘い誘いに乗れなかったのも「背徳法」が恐かったからである。結局は1人の世界から1歩も踏み出せないで苦しむモスタートもやはり、アパルトヘイト体制の犠牲者のひとりなのである。

各人各様に苦しみながらも孤独な生き方をするしかないその人たちの存在は「三根の縄」の重要性をより印象づけている。

闘いの中から生み出された『三根の縄』がスローガンではなく、すぐれた文学作品であるのはラ・グーマの文学的手腕による。

ラ・グーマは「三根の縄」の関係をさらに印象づけるのに、冬のスラム街に容赦なく降り注ぐ雨を持ち出した。

『夜の彷徨』でラ・グーマは、夜と黒のイメージを使って第6区の抑圧的雰囲気を醸し出したが、今回は惨めなスラム街の雰囲気を作り出すために、雨と灰色のイメージを利用した。

ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからである。

次のインタビューからそんな真意が汲み取れる。

暫く前に、なぜいつも私が南アフリカの天候について書くのかと尋ねられました。たぶん、1つには天候がその雰囲気を作り出す役割を果たし、実情などを描き出す助けとなっているからです。又、この国がとてもすばらしい気候の国だという政府の観光宣伝を海外の人が信じているという事実もあるからです。私にはその気候を南アフリカの1特徴として使えたらという考えもありましたが、同時に象徴としての可能性から見て、最も南アフリカ的なものにしたい、或いはしようとする考えもありました。言い換えれば、私は自然美を謳う政府の観光宣伝とたたかい、美しいゴルフ場だけが南アフリカのすべてではないことを世界の人々に示そうとしているのです。

ラ・グーマは物語を雨で始め、雨で終える。しかも、主題に係わる事件はすべて雨に絡ませ、雨のイメージで物語全体を包み込む。まえがきでバンティングが言うように『三根の縄』は「ケープの冬の湿り気と惨めさに濡れそぼり、その灰色と佗しい色調をラ・グーマは一連の絵画的、散文的銅版画」で捕えている。

第1章遠景・・・・・・山々を背景にひかえ、海に面した町の遠景から先ずラ・グーマは書き始める。次に映画のクローズアップ手法さながらに、国道や鉄道線路脇のスラム街をゆっくりと写し出して行く。

南半球の7月はもう冬、木々は既に落葉し、重くたれこめた暗雲は、雨の気配を漂わせる。最初は細やかな霧雨が地面に湿り気を与えるだけだが、雨はやがて本降りとなり、見渡す限り灰色の世界が広がる。ラ・グーマは次の言葉でその冬景色を語る。

太陽は遮られてどんよりした灰色の世界が広がり、昼には不似合いなじめじめした薄明かりがさしていた。雨は突然の烈しい風で再び始まり、断続的な大粒の雨でその世界を垣間見せた。それから、雨脚は次第に一定となり、容赦ない本降りの雨となる。それは灰色一色の世界だった。

あくまでも静かな書き出しである。第1章には音に関する表現が殆んど見当たらない。殊に、全体を通してあれほど多く使われている擬声語が皆無である。視覚に焦点を置き、特に雨の灰色のイメージをラ・グーマはまず読者の心に植えつけたかったのであろう。それはまさしくこれから始まる騒々しい物語の「嵐の前の静けさ」を象徴している。

第2章小屋・・・・・・チャーリーは雨の音に起こされる。第1章とは対照的に音に関する表現が多い。自然音を模した擬声語が書き出しだけでも、ヒュッ (hissing)、パラッ (rattling)、ドオッ (roar)、ポトポト (drip-drip)、ポツポツポツ (plop-plop-plop) などと多彩だ。雨が小屋に当たって様々な音を発するからである。小屋は拾ったり、盗んだり、或いはもらったりした材料で建てられており、錆びたトタン板や石油缶、段ボール紙などから出来ている。瓦屋根の家なら余程の雨が降らない限りそれほど音はしない。つまり、雨の音は小屋の貧しさの象徴なのである。

雨脚が弱ければその音はポタッやポトッであるが、ひどくなればポタ、ポト、ボタ、ボトにかわる。チャーリーが雨漏り水を缶に受ける一光景はこうだ。

チャーリーは天井から落ちて来る雫の下に缶を置いた。ポツポツ (plop-plopping) が金属に当たることで、突然小さなバシャン (rumbling) に変わり、次第に鈍いポトン (tinkling) になった。

3つの擬声語に含まれる流音こは雨漏り水の流れ落ちるさまを、plop (ポツ) の2つの無声破裂音pは雨水が床に当たる澄んだ階音を、rumbling (バシャン) の有声破裂音bは缶の中にこもる軽い金属音の感じを、tinkling (ポトン) の無声破裂音kは缶の中に溜った水の表面に雨水が落ちる際に発するリズミカルな快音をそれぞれ言い写している。又、語尾の鼻音 [N] はその音が余韻を残して響く様子を、更に別の鼻音 [m]、[n] との繰り返し音 (rumbling [rV’mbliN]・tinkling [tiNkliN) は、その音の短い楽音的な響きをうまく言い当てている。家族がまだ眠っている静かな部屋の中では、それらの響きがより広がりと余韻をもつ。3つの擬声語は短いながら、室内のそんなイメージを伝える働きをしている。

風が烈しくなれば、雨の音も大きくなる。同じ章に次のような別の光景がある。

外では風が再び烈しくなり、小屋に雨を叩きつげ、暫くの間トタン板にバシャ(rumbling) という音がした。それから風向きが変わって風は止み、それまでのパラッ (rattling)、ポタッ (tapping) という低い音が消えた。

Tap (ポタッ) には元来「そっと打つ」という含意があるから「低い」がなくても風の弱かったことはわかるが、この場合、rumbleとrattleの強弱、清濁の対比的使い方がおもしろい。雨の流れるさまを象徴的に示す両鼻音r, lにはさまれたmbと辞の対比である([rV’mbl]・[rA’tl])。

烈しい風が雨を小屋に叩きつける濁った鈍い音と弱い風による小さな雨の澄んだ軽い音の差を、余韻を残す鼻音mと濁った音を表わす有声破裂音bとの組み合わせmbと澄んだ音を示す無声破裂音pとの対比で言い分けたのである。先の場合と同じように、室内が静かなだけに雨の音はよけいに、響きの広がりをもつ。

又、同章には、ヒュッ (hiss) を巧く使った光景がすぐあとにある。弟ロニーを起こしてしまったチャーリーがベッドに戻って座る場面である。

チャーリーは汚れた下着でベッドに腰を掛けた。もう1人の弟のジョー二ーは、顔を壁の方に向け、中身の出かけた古い掛けぶとんから刈り込んだ黒い頭だけを見せて眠っていた。雨が家に当たってヒュッと音を立てた。(hissed)。

Hiss (ヒュッ) は短い言葉だが、両摩擦音h, sで雨の叩きつけられる激しいイメージを、短母音iでその速さ、鋭さを象徴している。ラ・グーマは静かな小屋の雰囲気と対照的なそのイメージを短い動詞1語で簡潔に言い当てている。

数えあげればきりがないのだが、ラ・グーマは直接的、感覚的な感じを与える擬声語を駆使することによって、雨に苛まれる人々の実状を鮮明に、聴覚から訴えかけていると言える。

雨は小屋に騒音をもたらすだけではない。雨の湿気が小屋内の悪臭を助長する。じめじめした小屋は一種の臭いの溜り場と化す。そんな臭いに関する1節もある。

室内にも又、臭いがこもっていた。汗、毛布、むっとする寝具の臭いがしみこんで、どこからともなくすえた食べものとこもった湿気、それに濡れた金属の悪臭が漂っていた。

それは貧乏の臭いであり、スラム街の別の象徴的存在でもある。哀しいことに、小屋の住人たちはその臭いが気にならないほど慣れてしまっている。

第1章でラ・グーマが視覚に訴えているとすれば、第2章では聴覚と嗅覚に直接訴えかけていることになる。

雨・雨・雨・・・・・・父親の臨終、2つの手入れ、キャロラインの出産、ロニーのスージィ惨殺など、既に触れたように主だった事件ではすべて雨が降っていた。

例えば、フリーダの小屋の手入れやキャロラインの出産では、雨がフリーダや子供たち、またキャロラインの、それぞれの不安を助長する一因となる。

そして、裸同然の姿で引き立てられて行く場面、スージィ惨殺の場面においては、状況の苛酷さが雨によって増幅されている。

終章 小屋・・・・・・第2章と同じ書き出しで始まる第28章もやはり雨で終わる。灰色の世界である。火事で2人の子供を亡くしたフリーダを今は亡き父親のベッドに休ませて、母親とチャーリーがやさしく慰める。

ある友人のことを思い出しながらチャーリーはフリーダに語りかける。

 

ある時あいつは、人間は大抵ひとりの時に問題を起こすもんだ、というような意味のことを言った。それが今にピッタリかどうか分からない。そのことを俺がはっきり解っているかどうかもわからない。でも、あいつの頭にゃ、いいことが一杯詰まってたと思うよ。

あいつの言うように、人は独りではやってけないのさ。力を合わせなきゃ。あいつは正しかったと思うよ。かしこい奴だった。

 

外では烈しい嵐が吹き荒んでおり、その様子をラ・グーマは次のように描く。

雨は土台を掘り起こし、表面の土をさらった。そして継目が口を開け、外の壁が騒々しい音を立てた。家はたわんで倒れそうになり、歪んだひし形に形を変えた。雨は庇のところで、ゴボゴボ、ブクブタ、タツタツと音を立て、天井に沿って水銀のように流れた。下では、貧しい人々が吹いて缶に火を起こし、容赦ない雨のなか、悪寒に震えてうずくまり、歯をガタガタ鳴らせながら、肩を寄せ合って暖を取った。

吹き荒ぶ外の嵐はアパルトヘイト体制を死守する白人政権の暴挙を連想させる。又、土台を掘り起こされ、倒れそうになりながらも嵐に耐える小屋の姿は、白人でない人々の社会的立場を暗喩する。その小屋の中で寒さに震えながら肩を寄せ合って暖を取る光景は、アパルトヘイトの嵐の中で何とか生きのびている南アフリカの人々の姿の象徴でもある。

ラ・グーマは雨のイメージをうまく利用して、視覚から、聴覚から、そして嗅覚から直接的に読者の感性に迫っている。

ラ・グーマの思い

世界に現状を知らせなければという作家としての自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感からラ・グーマは『三根の縄』を書いた。62年から63年にかけてのことである。以来、4半世紀の歳月が流れたにも拘わらず、現状は基本的に何ら変わってはいない。

昨年の春に来日した、マンデラの同僚オリバー・タンボ現ANC議長は、63年モシで開かれた第3回アジア・アフリカ人民連帯会議で日本代表団に申し入れたと同趣旨の内容を日本各地の講演で訴えた。

今春開設された宮崎県立図書館に設けられた<国際コーナー>には、東京にある南アフリカ観光局 (South African Tourism Board) 寄贈の本や地図が並べられている。すばらしい「南アフリカ共和国」を強調する写真入りの美しい装丁で、20数年前にラ・グーマが雨のイメージを用いる動機となった政府の観光宣伝用と同じ類のものである。

84年から3年余り、記者としてヨハネルブルグに在駐した伊高浩昭氏は『南アフリカの内側』の中で次のように記している。

白人政府は1955年、ケープタウンを中心とするケープ西部の商工業地帯を、カラード雇用優先地域に指定した。雇用主は、カラード労働者を補充できない場合に限って黒人を雇うことが認められた。この地域での黒人用住宅の建設は同年、中止された。

それから20年後の70年代半ばには、20万人を越える家のない黒人たちがケープタウン郊外に住みついていた。この事実を背景にして、81年に「不法居住者」問題が改めて浮き彫りになった。

ケープタウンの東方20キロの荒地に、ダンボール、ナイロン、トタン、木の切れ端などで掘立小屋が立ちはじめた。小屋はキノコのように次々に現われ、いつしか荒地を埋め尽くしてしまった。81年7月のこと、荒れ地の名はンヤンガ。

『三根の縄』の中に描かれたスラム街の再現である。かつてラ・グーマによって描かれた世界が、現にそのまま南アフリカで繰り広げられているのだ。

ラ・グーマは次の1節で『三根の縄』を終える。

それから暫く、チャーリーは家の屋根や壁に激しくはね返る雨にじっと耳を傾けていた。そして、台所の方へ行き、止め金を引いて、戸を少し開けた。サッと風が吹き込み、雨がまともに顔に当たった。

チャーリー・ポールズはそこに佇んで降り頻る雨をながめていた。雨は地面をたたきつけていた。外の光は灰色をして、雨が心臓の鼓動のように絶え間なく降っていた。チャーリーが雨を見上げた時、驚いたことに、鳥が一羽、継ぎはぎだらけの小屋の屋根の間から、頭をまっすぐ、まっすぐにして、空の彼方めざして、突然飛び立って行った。

激しい雨のなか、大空に向かって鳥が飛び立つ印象的な締め括りは、チャーリーのその後の成長を暗に灰めかす。それは、極めて厳しい状況のなかでさえ、力を合わせて「三根の縄」の世界を築き上げれば必ず何とかなるさ、というラ・グーマ流の楽観から生み出されたものである。そこに絶望はない。

かつて「あなたにとって写実的表現とはどんな意味を持っていますか」と聞かれた時、ラ・グーマは次のように答えた。

自らの観点を投影する流儀を自分で選ぶ創作において、作家は好きならどんな手段でも選びます。私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです。その進展状況の中で写実的表現を見るべきです、写実的表現には原動力が含まれています、活力や様々な直接的反応とつながりがあります。写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こることをほのめかす必要性があります。その目的は人の心を打つことなのです。

すべての政治活動を禁じられても怯むことなく、マンデラやビコとは違った局面で、その理想のために、ラ・グーマは自らの命を燃やし続けた。

「三根の縄」の世界は、単なる南アフリカだけの問題ではない。国を越え、時代を越えて、ラ・グーマのその思いは「人の心」を打つ。

「三根の縄」の貴さを言葉にくるんで残していったラ・グーマ。私たちはその魂の叫びを引き継いで、後の世に伝えていきたい。

1988年10月19日

*昨年10月のウォルター・シスルらについで、本年(1990)2月に、ネルソン・マンデラは釈放されました。

「ネルソン・マンデラが釈放された日」と題して稿を改めたいと考えています。

リボニアの裁判については野間寛二郎氏の『差別と叛逆の原点』(理論社、1969年) に負うところが多く、記して感謝したいと思います。

<終>

(宮崎医科大学講師・アフリカ文学)

執筆年

1990年

収録・公開

(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」17号6-19ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②