なぜ英語ができなかったか

2020年1月17日1990~99年の執筆物随想

概要

宮崎医科大学のすずかけ祭実行委員会の委員から依頼があって書いたものです。

本文

なぜ英語が出来なかったか              英語助教授 玉田吉行

英語が出来なかったのか、英語をしなかったのか。僕はことごとく大学に落ちた。
家を出る望みも果たせず、崩壊家庭の家事をやりながらの、夜間学生となった。自らが切り拓いての夜間通いではなかったので、往路にすれ違う「同級生」に少しばかりの引け目を感じた。
しかも、それまで考えたこともない英米学科だった。六年間在籍したが、結局英語はしなかった。六年目に取り残していた教養の哲学の講義を受けながら、これなら自分ひとりでもやって行けるだろう、大学にいてもしようがないなと感じて、大学院にでもいくかという気持ちになった。
好きだった新田さんが面接官の一人だった。玉田くん、in itselfは、いんにとせるふと読むんですかと、にたり微笑みながら聞いた。あとで、研究室を訪ねたら、二十六人中飛び抜けて二十六番でしたねと言ったあと、夜間高校の先生とかあなたに出来ることがあるんですがねえ、と付け加えた。
今から考えると、それが英語をするきっかけだった。憐れまれるのが、それも好きな人に憐れまれるのが耐えられなかったからだ。一年後、再び大学院の試験を受けた。大学院を出たら大学を世話してやるよという先輩もいたが、書いた答案をきれいに消して、教室を出た。大学なんかに行けるか、心のなかでそんな声がしたからである。

神戸市外国語大学(旧学舎、ホームページより)

八十一年に初めてアメリカに行った。十五年前のことである。一ドルが三百円近かったように思う。たった五年間の高校教員の生活に疲れ果ててある大学院に進んでいたが、そこで修士論文に取り上げた作家の移り住んだ地を訪ねることと、その作家が一九四二年にだした短篇のコピーをニューヨーク市ハーレムの図書館で手に入れるのが目的だった。
英語なんかしゃべれるか、そんな思いを通してきたせいか、話されている言葉が殆んどわからなかった。高校の英語の教師をしている事実も障害だった。高校の英語教師をしていますとはさすがに言えなかったが、十年以上も英語をしてきたのにしゃべれないんですと繰り返す自分が馬鹿らしくなった。結局、図書館や古本屋や街の通りを黙々と歩いていた。ニューヨークの街中で、日本人の方ですかと日本語でしゃべりかけられたが、話す気になれなかった。

7年いた兵庫県立東播磨高校(ホームページより)

九年前に宮崎に来てから、自然に英語を話すようになった。スウェーデンの人、南アフリカの人、バングラデシュの人、エジプトの人。みんな英語を第二外国語として話している人たちだった。日本に来て間もなくという人たちで、英語の方がお互いに気持ちを通わせることができたからである。
言葉とは本来そういうものだろう。そう考えると、使うことを目的としない学校での英語がそもそも不自然なのだと思えて来る。英語が使えなくても高校の英語の教師がつとまるのは、やはり不自然である。
英語の偏重も不自然だろう。距離的に近いアジアの言葉や、侵略の言葉でないアフリカの言葉が選択の教科である方が、よほど自然ではないか。

宮崎医科大学(ホームページより)

四半世紀のち、英語の出来なかった僕が、医学生の英語の授業を担当している。(一九九六年八月)

執筆年

1996年

収録・公開

宮崎医科大学医学部医学科すずかけ祭第27回パンフレット
(現物がありません。誰かお持ちの方はいらっしゃいませんか?)

ダウンロード

なぜ英語ができなかったか(22KB)