ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族

2020年3月1日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した9回目の「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

それから5日のちに、ゲイリーの家族がやって来ました。奥さんはフローレンス、男の子はウォルター、女の子は上がメリティ、下がメイビィと言います。すべて、英語の名前です。どうしてショナの名前ではないのでしょうか。メイビィは「多分」という意味なのでしょうか、名前としては初耳です。

ウォルターとメイビィ

フローレンスは鼻筋が通って、涼しそうな顔つきです。フローレンスも子供たちもどことなく緊張した面持ちですが、私たちの子供たちは、同じ敷地内に住むのだから毎日一緒に遊べるぞと、早くもわくわくしています。ゲイリーの子供たちはショナ語しか話せないと言いますし、二人の方も日本語しか話せません。これから遊ぶのはいいとして、どんな言葉を使って遊ぶのでしょうか。

フローレンス

歓迎の意味も込めて、一緒に写真を撮ろうと子供たちが言い出しました。早速カメラの用意です。ゲイリーたちはと見ますと、部屋に帰りかけています。どうするの?と聞きましたら、写真を取るんですから一帳羅に着替えて来ますという返事がかえって来ました。

ゲイリーたち

庭で二家族の写真を撮りました。お決まりのチーズなどと言ってはみましたが、顔はどことなく硬張ったままです。撮り終わったよと言ってからカメラを動かさずによそ見をしながら連続でシャッターを切ってみましたが、それでも笑顔はあまり見られませんでした。初めてですから、仕方がないのかも知れません。

しかし、日本から持ってきたフィルムが足りなくなってカメラ屋に行き、24枚撮りのフィルム1本が38ドルで、その焼増し料金が100ドル近くもすると知ったとき、気軽に笑えなかったはずだと思わずにはいられませんでした。写真を撮るのは、一大事なのです。今のこの国の状況では、自分でフィルムを買ってカメラを自由に使える人はそう多くはないでしょう。

子供たちが一緒に遊べるボールを探しに行きました。大学のコートで使う予定のバスケットボールはすでに持っていましたので、新たにバレーボールを買ってきました。ゲイリーには何となく気がひけて言えませんでしたが、バレーボールは169ドル99セント、ゲイリーの給料とほぼ同額です。ゴムのバスケットボールの方は189ドル99セントで優にゲイリーの月給を超えていました。

総じて、生活必需品でない品物は値段が高く、何日かのちにスーパーで質の悪いサッカーボールを買いましたが、それでも50ドルもしました。硬式用のテニスボールを1個下さいと言って、店員の白人青年ににゃっと笑われてしまいましたが、1個35ドルでした。それでも、どのボールも充分に元が取れるほど子供たちには役に立っていたと思います。なかでもサッカーボールは、ウォルターと長男をむきにさせてしまうだけの魔力を秘めていたようです。ボールをはさんだとき、子供たちに言葉は要らないようで、大人の心配をよそに、連日楽しそうにボールを追いかけていました。

画像

いっしょにボールを蹴る子供たち

子供たちにとって、広い庭先をかけ回る毎日は本当に楽しかったようです。日本からの2人にとっては最高の夏休み、ジンバブエのウォルター、メリティ、メイビィにとっては忘れられない冬休みとなりました。日曜日以外は英語やアート教室がありましたので、午前中こそ遊べませんでしたが、午後からは庭に出て5人入り乱れて遊んでいました。投げたり、蹴ったりのボール遊びが多かったようですが、鬼ごっこや木登りなどもやっていました。
相撲好きの長男は、日本の国技のアフリカでの伝授に成功したようで、長男とメリティが取り組み合っている横で、末っ子のメイビィが大きな声でノコッタ、ノコッタと囃子たてていました。

ウォルターはゲイリーに似て穏やかな性格で、笑顔の素敵な少年です。精悍な体つきで身のこなしが素早く、サッカーボールを追いかける姿が堂に入っていました。

メリティは、はにかみ屋さんです。表面に感情を表わしませんが感受性が強く、いつも人の陰にそっとかくれているような少女でした。お互いに感ずるところがあったのでしょうか、長女と一番近かったように思います。

メリティと長女長女

メイビィは茶目っ気たっぷりです。陽気でいつも周りを明るい気持ちにさせてくれました。愛敬もたっぷりで「メイービィッ」という掛け声とともに始まるオリジナルの踊りは、腰が入った本格派です。みんなが手拍子を取ると、歌いながら得意そうに何度もその踊りを披露してくれました。写真を撮るときは、必ずカメラを意識してポーズを取ります。いくらみんなが笑わせようとしても、最後までそのポーズを崩さず、表情はいつも真剣そのものでした。

メイビィ

ゲイリーもそうでしたが、初めから家族も控えめでした。その態度は最後まで渝りませんでした。何かをせがまれた記憶はありません。ゲイリーの子供たちの方も、自分たちの方から言い出せない場合が多く、いつも2人が庭に出てくるのを心待ちにしているようでした。

私たちがいなくても、好きなように庭の広い所で遊んで下さいとゲイリーには言ってありましたが、3人は部屋の中に居るか、部屋のすぐ前の小さな空き地で遊ぶか、南西に広がっている数メートルのマルベリーの木に腰を掛けているかでした。

最初は気づきませんでしたが、部屋の近くを離れない大きな原因はデインだったようです。子供たちを見ると、いつも大きな声で吠えるからです。陽気なメイビィも、自分よりもはるかに大きな犬に吠えられて青ざめていました。ウォルターなどは、脱兎の如く部屋に逃げ込んでいました。

よく観察していますと、デインは白人には吠えないで、アフリカ人を見ると吠えるのです。滞在した期間中に、ゲイリーの親戚や知人などたくさんのアフリカ人が家に来ましたが、慣れているゲイリーとグレイス以外は、誰に対しても必ず吠えていました。ですから、ゲイリーか私たちが出ていかない限り、恐がって門から入って来る人はいませんでした。訪ねて来てくれた学生の一人は、追いかけられて気の毒なくらいでした。

偵察(?)にきた中年女性やおばあさんを訪ねてきた男性や、家主の妹さんやそのお孫さんらしき人は吠えられませんでした。最初から吠えられなかった私たちはデインの目の中では白人に分類されているのかも知れないとふと考えました。

南アフリカには、英語と並ぶ公用語アフリカーンス語を話すアフリカーナーと呼ばれるオランダ系の人たちが圧倒的に多い地域があります。アパルトヘイト政権を支えるその人たちのアフリカ人に対する態度は非常に強硬で高圧的、その地域では飼い犬もアフリカーンス語で吠えるとさえ言われるほどです。犬を借りてその偏狭性を表現したものでしょう。

デインを見ていると、そんな南アフリカの話を連想します。仔犬の時から、アフリカ人を見たら吠えるように訓練されてきたのではないかとさえ思えてきます。子供たちが5人で遊んでいる時でも、時折り急に吠え始めたりする場合があって、その都度みんなで叱りつけました。そのせいでしょうか、休みが終わるころには、5人が遊んでいても顔を前脚に乗せて、うっとおしそうに目を閉じて昼寝を続けるようになりました。

ゲイリーとデイン

トランプなどのゲームや絵を描いたりして、室内で遊ぶ日もありました。日本から持っていった色鉛筆や画用紙を使って、お互いの似顔絵や自分たちの学校の絵を一心に描いていました。色鉛筆や画用紙を買う経済的な余裕などはゲイリーにはないでしょうから、街で買ってウオルターたちにプレゼントしましたら、自分たちの部屋でも絵を描く時間が増えたようです。描いた絵をよく見せに来てくれるようになりました。

長女は日本で使っている中学2年生用の英語の教科書を持ってきて、6年生のウォルターと一緒に声を出して読んでいました。長男はメリティとメイビィにショナ語を教えてもらっています。象の絵を描いてンゾウと言えば、象のショナ語が相手に分かる訳です。長男は教えてもらったショナ語を忘れないように、よくメモをとっていました。言いたいことが相手に通じないもどかしさを感じたときには、大人が通訳として引っ張り出されることもありましたが、大体はお互いの気持ちが通じ合っているようでした。

ジンバブエでもサッカーが盛んです。ウォルターのボールの蹴り方を見ても、そのサッカー熱が伝わって来ます。人々の関心も想像以上に高く、大多数の人たちが食べるだけで精一杯の毎日ですから、せめて観て楽しもうと思うのも無理はないと思いました。
サッカーのナショナルチームに託す人々の思いも強く、観て楽しめるプロスポーツがそうあるわけではないようですので、外国との対抗試合はさながら国民のお祭りです。

ウォルター

8月16日の日曜日、国立競技場で南アフリカとの対抗試合が行なわれました。マンデラの釈放以来、南アフリカは徐々に国際社会にも復帰出来るようになって、今回のサッカーチームも、22年振りに国際試合への参加が叶い、アフリカカップのEグループの予選に飛行機で乗りこんできたというわけです。

その朝、ゲイリーとフローレンスが仲良く手をつないで台所の入り口に現われました。今日は南アフリカとのサッカーの試合があるので、テレビを見せてもらえないかと言っています。お安い御用で、さっそく二人を居間に案内し、どうぞと言って私は部屋を後にしました。

最初、ゲイリーは居間に入るとき、靴を脱ごうとしました。そんな必要はないよと言いましたら、にっこり笑ってそのまま上がってきました。今まで家に入る時は必ず靴を脱ぐように言われていたのでしょう。

ある日、テレビがあるのにどうして見ないのかとゲイリーから聞かれました。映りが悪いせいもありましたが、2局しかない国営放送は放映時間も短かく、内容が硬くてあまりおもしろくなかったからです。黒人霊歌やジャズに馴れている耳には、テレビから流れてくる音楽がどれも同じような曲に聞こえたせいもあります。それにテレビを見ている時間的な余裕もありませんでしたし。しかし、テレビがありながら見ようとはしない状況が、テレビやラジオなどの楽しみさえかなわないゲイリーには、納得出来ないようでした。

2時間ほどしてから部屋を覗いてみると、2人は黙って音の出ないテレビをじっと見つめていました。どうしたのと聞くと、色々やってみましたが音が出ないんですと言います。ずっと音なしで見ていたのと尋ねると、こっくりとうなずきました。そろそろ終わりも近いようで、ジンバブエが南アフリカを4対1で下したようです。ゲイリーもフローレンスも高揚しています。私は手を差し出して、ゲイリーとがっちりと握手しました。何もジンバブエが南アフリカに勝ったからといって、私までが喜ぶ理由は何も見当りませんが、ことの成り行きです。

この勝利によって、ザンビアなど他のチームとの得失点差次第で、94年にチュニジアで開催されるアフリカカップに代表として出場出来る可能性が大きくなったと、翌日の新聞で大々的に報じられていました。

フローレンスはスカートの上から、鮮やかな色の布を巻いています。洗って少し色が落ちているようですが、色といい鳥の図柄といい、なかなかアフリカ的な感じがします。それは何ですかと聞きましたら、手を拭いたり、座る時に広げて下に敷いたりする綿の布ですよとゲイリーが教えてくれました。エプロンや割烹着などの類です。赤ん坊を背中にくくり着けるのに使う時もあるようで、フローレンスがはずして見せてくれました。もともと北隣のザンビアやマラウィで使われていたらしく、ザンビアとかマラウィとか呼ばれているそうです。

ある日、妻がザンビアを着たフローレンスに絵のモデルになってもらえないかなと言い出しました。短期間の滞在でもありますし、子供と一緒なので何かと大変でしょうから、花のスケッチでも出来れば大満足と当初は考えていたようですが、フローレンスを見て、描いてみたいという気持ちが湧いてきた感じでした。スケッチした絵は毎日のようにゲイリーたちに見せに行っていましたので、フローレンスの方も絵には関心があったらしく、モデルになってくれませんかという依頼にまんざらでもなさそうな様子でした。

フローレンス(小島けい画)

体調が整わなかったりもして、フローレンスのスケッチを始めたのは、8月の終わりに近い頃でした。1週間のちには新学期が始まりますので、子供たちを田舎に連れて帰らなければいけませんとフローレンスは言います。お礼に10ドルを渡しました。日本ではとてもそんな値段でモデルさんには来てもらえませんが、この国では1日「メイド」をして働いてももらえない額なので、それで許してもらいました。時間給10ドルのモデルフローレンスの誕生です。

初めての経験ですので、フローレンスは相当緊張していましたが、慣れてくるに従って硬さも取れていきました。時折り通りすがりに私にからかわれてポーズを崩し、スケッチが中断される時もありましたが、二人とも真剣な様子でした。1日に1時間前後しか時間は取れませんでしたが、それでも予期せぬ幸運で有り難いことでした。

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フローレンス(小島けい画)

8月の最終土曜日に、お別れ会を計画しました。9月から学校が始まるとはいえ、子供たちにとっても遊び友達がいなくなるのは何よりもさびしいことです。お客様好きの子供たちが招待状を作り、前の日の夕方に4人でゲイリーの部屋まで届けに行きました。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2012年3月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」(No.43 )

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