医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬

2020年2月1日2000~09年の執筆物医療,南アフリカ

概要

多剤療法によりエイズは延命可能な病気にはなりました。しかし、南アフリカでは高価な抗HIV薬は実際には使えず、政府は「コンパルソリー・ライセンス」法を成立させて安価な薬の供給を試みましたが、米国副大統領ゴアや欧米製薬会社に妨害されました。

アフリカ人労働力を基盤とする基本的な搾取機構は温存されたままでアパルトヘイトを廃止した政府には、感染の拡大を防げませんでした。将来医療人となる医学生には必要な、そういった歴史認識の重要性と現状認識の大切さを論証しました。

本文(写真作業中)

医学部学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬

宮崎大学医学部                           玉田吉行

<Summary>

This paper aims to show how important it is for medical and nursing students in the ‘global age’ to understand the AIDS crisis in Africa, especially in Southern Africa, through the analysis of the relationship between South Africa and the AIDS drug issues.

The AIDS situation in Africa is now devastating, so we might easily understand from the data on life expectancy below that the ‘AIDS epidemic chokes the life out of Southern Africa.’1

The consciousness of medical and nursing students in Japan seems not to be ready to understand the harsh realities of the AIDS situation in a fundamental sense. But such students are in an advantageous position to be able to get an accurate grasp of the situation because they can understand the infection mechanisms of the disease. And Japan, as well as the ‘developed’ countries, is responsible for the neo-colonial system imposed under the guise of ‘aid’ and ‘development’ which has been one of the main causes of poverty and ignorance in Africa. We cannot deny the fact that we are on the side of the robber and, consciously or unconsciously, have benefited from the present system.

It has been a long time since the relationship between intellectual property and the WTO on the AIDS drug issue was discussed, but the realities of the disease remain primarily unchanged, perhaps having become even worse.

The AIDS crisis is a global issue that we are facing and cannot avoid, especially medical and nursing students. I hope this paper might motivate them to think about AIDS issues more deeply as something connected to their own lives.

南部アフリカとエイズ

アフリカのエイズの惨状が報じられるようになってから久しいが、事態は改善されず、むしろ悪化している。ほぼ10年前に、イギリスの日刊紙インディペンダントはジンバブエの報告記事で、エイズ流行病が、かつてイギリス人入植者が北方向に切り開いて築き上げた幹線道路を反対方向に辿る形で、1980年代の初め頃から南下し始めてジンバブエに至ったことや、次の標的が南アフリカであること、その当時約55歳だったジンバブエの平均寿命が2010年までには40歳以下に落ち込むことなどを予測した。2

インターネット上に公開されているCIA – The World Fact Book によると、事態はその予測をも上回っている。下の表は、その資料から、主な南部アフリカ諸国と「先進国」の平均寿命、成人のHIV感染率を抜き出したものである。(平均寿命は2004年の推計、感染率は2003年の推計、ジンバブエ、イギリス、ドイツ、ロシアの感染率は2001年の推計である)

国名 全体平均寿命 成人HIV感染率 (%)
南アフリカ 44.19 21.5
ジンバブエ 37.82 33.7
ザンビア 35.18 16.5
ボツワナ 30.76 37.3
モザンビーク 37.10 12.2
マラウィ 37.48 14.2
ナミビア 40.53 21.3
アンゴラ 36.70 3.9
アメリカ合衆国 77.43 0.6
イギリス 78.27 0.1
フランス 79.44 0.4
ドイツ 78.54 0.1
カナダ 79.96 0.3
ロシア 66.39 0.9
日本 81.04 0.1 以下

昨年末に、ドイツ在住の疫学研究 (Epidemiology) の最前線にいる研究者から、ホームペイジ上に載せているエイズ関連の私の文章についての感想を述べたメイルが届いたが、そのメイルには「実際にかつてイギリスの直接支配を受けたアフリカ諸国のHIV/AIDS事情は最悪で、疫学的見地から見れば、特にマラウィと南アフリカは未曾有の人口の激減に直面しており、最貧国(多分、マラウィかコンゴ)は二十年以内に倒壊すると思われます」、4 と書かれてあった。

大半がアフリカに文学があることも知らない日本の医学部の学生が5、この深刻な状況をどこまで理解出来るかは心許ないが、日本が、「開発」や「援助」の名の下に、国連や世界銀行などで維持をはかる体制(新植民地体制)の上に「繁栄」を続ける「先進国」の一つである限りは、人ごとで済ますわけにはいかない。新植民地政策の名の下に金を貸して利子を取る現行のシステムを継続させようにも、エイズによる人口激減により、やがてはそれもかなわず、例外なく「先進国」は早晩の構造変革を迫られているのだから。

しかし、医学部の学生はHIVの複製や免疫不全の仕組み、それに性感染症の怖さを誰よりも理解出来る立場にいる。だからこそ、その有利な立場からエイズ事情の深刻さを理解して、何らかの形で状況の改善に寄与すべき責任がある、とエイズの問題を医学部の英語の授業で取り上げながら、考えるようになった。

今回は、南部アフリカとエイズ治療薬をめぐる問題に焦点を絞ろうと思う。

「アフリカの蹄」

NHKドラマ「アフリカの蹄」6 の中で、主人公の日本人医師作田信がスラムの診療所で反政府活動家のアフリカ人青年ネオ・タウに突然殴られる場面があるが、残念ながら、その青年の微妙な心理を読み取れる日本人はそう多くないだろう。

その時の作田とネオの認識は、どう違っていたのか。

作田は大学の上司とそりが合わずに「心臓移植の研修」の名目で、偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医だが、南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車くらいで、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかった。

しかし、ネオにとっての日本は違う。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ、貿易で莫大な利益を得てきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」恥知らずな日本人だった。

世界の経済制裁の流れに逆行して1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術 (ハイテク) 産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得てきた。石原慎太郎が旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などに支援されて、日本は1988年には最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されている。

当初、作田にもその理由はわからなかったが、ネオが本当に殴りつけたかった正体は、南アフリカと深く関わり利益を貪りながら、加害者意識のかけらも持ち合わせない一般の日本人とその自己意識で、ネオには、作田もそんな日本人に他ならなかった。

では、日本が支援し利益を貪ったアパルトヘイト体制の実体とは何だったか。

出稼ぎ労働

アパルトヘイト体制は、紛れもなくヨーロッパからの入植者が編み出した一大搾取機構であり、その根幹は、土地政策と、17世紀の半ば頃にやってきたオランダ人と遅れて移住して来たイギリス人が考え出した南部アフリカを中心とした出稼ぎ労働制度 (migrant labour system) にある。その制度は、1505年のキルワの虐殺のような一時的な略奪ではなく、アフリカ人から土地を奪って課税をし、大量の安価な労働者を生み出すことによって、恒久的な搾取体制を目論んだヨーロッパ人入植者が、永年に渡って築き上げたものである。土地を奪われて無産者となったアフリカ人は、税金を払うための現金収入を求めて村を離れ、鉱山や農場の賃金労働者として、或いは白人家庭の召使いとして、家族を支えるには不充分な賃金で働くことを余儀なくされた。

入植当初、南アフリカはインドへの中継地でしかなかったが、19世紀の後半に金とダイヤモンドが発見されてから、産業的にも軍事的にも重要な拠点となった。オランダ系入植者とイギリス系入植者は金とダイヤモンドの利権をめぐって戦争を繰り広げたが、アフリカ人を搾取するという妥協点を見つけ出し、1910年に「南アフリカ連邦」を設立した。国家設立と言っても、既に築き上げていた支配体制を法制化しただけに過ぎず、1913年に原住民土地法を制定し、人口の75 % 強のアフリカ人を全土の僅か7.3 % の不毛の土地「リザーブ」に押し込め、必要な労働力だけを白人の近くに住まわせた。アフリカ人は通行証(パス)を持たされ、行動の自由を奪われた。その後、「リサーブ」は「バンツースタン」、「ホームランド」と名前が変わったが実体は同じである。ホームランド政策では、アフリカ人は「外国人」の扱いを受け、パスは文字通り、国家が管理するパスポートになった。

アパルトヘイト体制が出来たのは1948年である。2つの大戦で白人の総体的な力が低下した第2次大戦直後、世界各地で差別撤廃や地位向上の運動が展開された。南アフリカでもアフリカ民族会議 (ANC) の青年同盟が中心となり、盛んにストライキなどを行なって賃上げを要求した。イギリス系の統一党に変わって、1948年の白人だけの総選挙では、人種差別を前面に掲げ、白人の特権を保証することをうたうアフリカーナー(オランダ系)の国民党が政権を取った。白人(総人口の15%)の60%を占めるアフリカーナーの大半が、台頭するアフリカ人労働者にその地位を脅かされ社会の低辺層に沈みつつある自分達を救ってくれる唯一の道だと信じて国民党に投票したからである。国民党は、法律で人種による賃金格差をつけ、アフリカ人を技術を要する仕事 (skilled labour) 、つまり給料の高い仕事には就かせなかったのである。

インドの独立、エジプトのスエズ運河封鎖、ガーナの独立などの動きに刺激を受けて、1950年代、南アフリカでも抵抗運動は激しくなった。ヨーロッパ勢力の復興が少し遅れ、アフリカ人側が分裂していなければ、ヨーロッパ支配を覆す歴史の分岐点になっていたかも知れない。しかし、そうはならなかった。アフリカ人自身による戦いの路線を掲げた理想主義的なロバート・ソブクエと、融和路線を取るネルソン・マンデラが衝突して、ANCが分裂したからである。

その歴史の分岐点で、西ドイツと日本は、アパルトヘイト政権に荷担した。作田に対してネオが取った行動には、そんな歴史的な背景が潜んでいたのである。

ソブクエは1960年から、マンデラは1962年から監禁され続け、欧米と日本の支援を受けたアパルトヘイト政権は、体制を強化していった。不要なアフリカ人はバンツースタンに閉じこめ、使用可能な労働力は、安価な賃金労働者として、鉱山や農場や白人家庭で扱き使ったのである。

鉱山労働者の実態を、鉱山労組書記長ラマフォサ氏は1989年に放映された「ニュースステーション」の中で、次のように解説している。

この国では、ダイヤモンドと金の発見以来百年以上も、鉱山会社は安価な労働力を使って来ました。ずっと、黒人労働者を使ってきました。会社は家族を充分に養っていけないほど安い賃金しか払わずに、ずっと黒人労働者を搾取してきました。現在、白人労働者は、黒人が稼ぐ6倍もの給料を稼いでいます。しかも、南アフリカの鉱山は世界一危険で、毎年800人もの犠牲者が出ています。家を離れ、鉱山にやって来なければならない黒人労働者は、丸1年の間、家族とは会えません。白人は鉱山の近くで家族と暮らせますが、黒人労働者は鉱山の近くで家族と暮らすことを法律上許されていません。年に一度、配偶者に会う場合でも、わずか2週間にしか過ぎません。7

鉱物資源の豊かな南部アフリカでは、村を離れて集まったアフリカ人労働者は、鉱山の近くの粗末な「コンパウンド」と呼ばれるたこ部屋に、(1回の契約期間は、パートタイムとしては一番効率のいいと言われる14ヶ月)一年近く寝泊まりをする。

安価な賃金労働者が扱き使われるという点では、アフリカ大陸のどこへ行っても基本的には同じである。1992年に在外研究で訪れたジンバブエでも同じだった。

不動産事情は極めて悪いと言われていが、運よくスイス人の老婆から月額10万円の家賃で家を借りた。500坪ほどの敷地があったが、老婆に「ガーデンボーイ」として雇われていたショナ人ガリカーイ・モヨさん(通称ゲイリー)が北の小さな部屋に寝泊まりしていた。すぐ仲良しになった。月給が4000円余り、1年の大半は家族と離れて暮らしていた。休みに入ってゲイリーの子供たちが来て、私の子供たちとボールを蹴って遊んだが、その値段が1個5000円ほどだった。

イギリス人入植者がハラレに来たのは1880年代の後半で、目的は金だった。ケープ植民地相セシル・ローズは、現ジョハネスバーグに次ぐ第2の金鉱脈を夢見て、私設の軍隊を送りこんだ。豊かな鉱脈は見つからなかったが軍隊は立ち去らず、アフリカ人から土地と家畜を奪って居座り続けた。後に大量の移住者が流れこむようになる。1920年代に南アフリカとの合併を拒んだが、安価なアフリカ人労働力、豊かな鉱物資源などによって、南ローデシア(現ジンバブエ)は第2次大戦を境に一大工業国になっていた。その後60年代には、イギリス政府の意向を無視して独自の路線を歩む。1966年にはソ連と中国の支援を受けて独立闘争を始め、経済を欧米や日本に依存したまま、1980年に独立を果たして今に至っている。

ハラレで出会ったゲイリーも父親も、白人の貨幣経済の渦中に投げこまれ、現金収入を得るために村を離れることを余儀なくされた、典型的な安価なアフリカ人賃金労働者だったのである。

この出稼ぎ労働制度が、エイズの温床になっている。HIV感染率が南部アフリカで特に高いのも、その制度が感染拡大の大きな要因になっているからである。1年近く男ばかりが住むコンパウンドに、そのおこぼれに与るために売春婦が通う。そこで感染した男性労働者が、期間が過ぎて村に戻り、その配偶者に感染させる。先に引用したジンバブエの記事は「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」8 と報告している。

平均寿命36歳(当時の推計)のボツワナで、「コンパウンド」でHIVに感染した短期契約の鉱山労働者が帰郷後配偶者に感染させて死亡、残されて途方に暮れる配偶者を現地取材する映像が放映された。9

エイズ治療薬をめぐって

NHKスペシャル「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」では、南アフリカのエイズの現状が次のように報告されている。

この国を直撃しているエイズは、アパルトヘイトと深い関係があると言われます。現在、エイズ感染者は500万人、6人に1人、ここソウェトでは3人に1人が感染しています。アパルトヘイト時代、鉱山で隔離され、働かされていた単身者が、先ず、売買春によって感染し、自由になった今、パートナーに感染を広げているのです。10

番組では、月に1度、国立病院に薬をもらいにくる末期のエイズ患者が紹介されている。その女性患者が手にしたのはエイズ治療薬ではなく、抗生剤とビタミン剤だけだった。ウィルスの増殖を防ぐ抗HIV薬は1人当たり100万円で、その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉して10分の1の価格で輸入出来るようにはなったが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者があまりにも多すぎて薬代を政府が賄うことが出来なかったからである。感染者すべてに薬を配るとすれば、年間6000億円が必要で、国家予算の3分の1を当てなければならない、と報告している。

従来の逆転写酵素阻害剤と、新たに開発されたプロテアーゼ阻害剤とを組み合わせる多剤療法により1996年は「エイズ治療元年」11 と言われたが、1998年にウィーンで開かれた世界エイズ会議では、多剤療法の副作用の症例報告や、ワクチンの開発がむしろ後退している現状報告に、会場は重い空気に包まれた。更に、2000年の会議開催国南アフリカから出席していたダーバンの医師が「ダーバンの大きな黒人用の病院で治療にあたる子供たちの40パーセントがエイズ患者ですが、今まで私は抗HIV薬を使ったことはありません。病院には治療薬を使う経済的な余裕はありませんから」と付け加えて、アフリカの厳しい現状を参加者に突き付けた。12「アフリカ21世紀」の映像は、この医師の発言を裏打ちする形で、私たちに迫って来ている。

1999年の夏、アメリカの副大統領ゴアと通商代表部が、南アフリカ政府が1997年に成立させた「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めて物議をかもした。13 感染者が抗HIV薬の恩恵を受け易いように、安価な供給を保証するために提案された同法の下では、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられる(その法律には、他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれる)が、ゴアや欧米製薬会社は、開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定 (TRIP’s Agreement) 14  に違反していると主張したのである。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めており、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当らないと実質的に主張したゴアが、集中砲火を浴びたのである。

「アフリカ21世紀」にも映し出されたように、「10分の1の価格で輸入出来るように」なっても、抗抗HIV薬がたいていは患者の手元に届かないのに、欧米の製薬会社は「知的財産所有権の保護」を楯に、その決定の時期を延ばしに延ばした。欧米の製薬会社と世界貿易機関 (WTO) の間で交渉に尽力した世界保健機構 (WHO) のベラスカ医師は命を狙われる妨害を受けている。1999年のシアトルでの会議の成果も反故にされ、2001年10月、回を重ねてやっとこぎ着けた最終妥協案も、アメリカとスイスが拒否したために成立しなかった。15 会議を重ねて合意はしても、履行しないまま時間稼ぎをしていたのである。その辺りの事情が、『アフリカの蹄』の続編として2004年に出版された『アフリカの瞳』の中に詳しく描かれている。抗HIV薬をめぐる経過を、南アフリカ国内から見た点が特に興味深い。

『アフリカの瞳』

『アフリカの蹄』で天然痘の拡大を防ぐのに命を懸けた医師作田が、結婚したパメラやスラムの診療所の医師サミュエルや細菌学者のジュリアン・レフと協力して、ダーリー市で開かれたエイズ学会で、欧米の製薬会社の横暴と、その製薬会社と結託する政府の無策を告発したあとの次の一節である。

こうした動きとは別に、フランスの〈ル・モンド〉が日曜版の特集で、製薬会社がエイズ治療薬の知的所有権をいかに主張してきたかを詳細に報道した。ひと月前のことだ。製薬会社はこの十数年、ひとつのエイズ治療薬の開発費が最低でも三億ドルから十億ドルにのぼるのを理由に、知的所有権を譲れないと強調し続けてきた。貧しい開発途上国が、価格の大幅値引きとコピー薬の製造あるいは輸入の許可を世界貿易機関に訴えても、毎回否決され続けた。今ではエイズ治療には多剤併用が中心なので、ひとりの患者が一年間に使う薬剤費は平均して五千ドルから一万ドルだ。それは開発途上国の一人あたりの年収の十倍から二十倍に相当する。つまり現在の薬価を十分の一に下げたところで、貧しい国の患者には手の届く額ではない。それなのに、世界貿易機関は去年の八月、いかにも大英断のような顔をして、コピー薬の製造認可と、正規薬の薬価の十分の一での輸入を認めた。しかしこれは全くの御為ごかしであり、貧しい国の患者の救済にはほど遠い。〈ル・モンド〉の記事内容を翻訳紹介した英字新聞を読んだとき、作田はこれまでの自分の主張がそのままそっくり認められたような気がした。ところが記事は、さらに二歩も三歩も踏み込んだ論調を繰り広げていたのだ。記者たちは、エイズ治療薬によって得た各社のこれまでの利益を細かく計算して、具体的な数字を出していた。それによれば、十数年前に発売されたエイズ治療薬による収益は既に開発費の七、八倍に達し、開発途上国での価格を現在の千分の一に下げても、充分採算がとれていた。16

製薬会社が時間稼ぎをして暴利を貪っていた絡繰りが手に取るようにわかる。作田は、安価な偽薬抗HIV薬ヴィロディンを5年間も販売し続けた南アフリカ政府の無策を次のように締めくくる。

これまで、欧米の製薬会社は知的所有権を楯にして、治療薬の価格を下げようとしませんでした。多くのHIV感染者・エイズ患者が貧困の中であえいでいるのを知りながら、買えるものなら買ってみろと、高い治療薬を私たちの前でちらつかせる態度をとり続けてきました。ある国がたまりかねてコピー薬を作り、安く国民に配布しようとしたのにも反対し、世界貿易機関に訴えてやめさせる暴挙さえしました。これが破棄されたのは、世界の良識ある人々の抗議によるものです。昨年夏ようやく、発展途上国は特別割引価格で薬の提供を受けられるようになりました。しかしそれでも、価格はヴィロディンより高いのです。

私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。戦争が仕掛けられ、数百億ドルの戦費がただ破壊のためだけに空しく費やされています。その何分の一かの費用を、エイズに対する戦いにあてれば、私たちは確実に勝てるのです。

この国の政府はヴィロディンに頼り過ぎて、まだ何ら効果的なエイズ対策を打ち出していません。コピー薬の製造が可能になって半年は経過するというのに、政府が製造を開始したという話もきかないし、輸入したという情報もありません。私たちが訴えるべきなのは、ヴィロディンの製造販売の即時中止と、本物のコピー薬の製造と輸入です。そして無料配布に向けて、私たちの声を全世界に高らかに響かせることです。これこそ、大統領が唱えるアフリカン・ルネッサンスの実現なのです。17

南アフリカ政府の無策については、「アフリカ21世紀」の中でも、バラグァナ病院のグレンダ・グレイ医師が次のように痛烈に批判している。

アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。黒人の病気だからと切り捨てたからです。新しい黒人政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です。

医療に携わる人間として

アフリカ人の安価な労働力を基盤にしたアパルトヘイト体制から利益を貪ったのはヨーロッパ人入植者の子孫だけではなく、その体制に荷担した欧米や日本である。南アフリカで戦争が起きれば、社会主義国家の後押しを受けて国土は灰燼に帰す可能性もあった。東西冷戦も終了したあと、その戦争を回避するためにネルソン・マンデラが釈放され、アパルトヘイトが廃止された。しかし、アフリカ人労働力を基盤にする基本的な搾取機構は温存されたままで、それが政府の無策の最大の原因である。

「南アフリカとエイズ治療薬」を通じて浮き彫りにされるのは、南アフリカや日本といった国の枠をはるかに超えた余りにも大きな問題である。感染力が弱く、精液や血液によって伝播されるHIVの性質やそのメカニズムを知れば、予防が可能だと思えそうだが、現実には、感染は拡大し続けている。

その現状認識は必要である。「アフリカに文学があることも知らない」や「ODAを通じてアフリカに支援している」では、国際的な相互理解はかなわない。現状を認識した上で、出来ることはある。作田医師が言うように、「世界の良識ある人々」の一員にもなれるし、「無料化の財源」への協力も可能である。日本国内でも、アパルトヘイト政権を積極的に支持した石原慎太郎に反対票を投じることも出来る。医者や看護師になれば、上昇しつつあるHIV感染率を下げる手助けも出来るはずである。

歴史認識を踏まえ、専門的な知識を再認識しながら出来るところからやって行く、それが将来は人の生き死に携わる医療人としての、また、最高学府に学ぶ知識人としての務めだろう。

1 Karl Maier, 「エイズ流行病、南部アフリカの息の根を止める」“Aids epidemic chokes the life out of Southern Africa,” Independent (July 30, 1995)

2 同上のKarl Maierの記事。

3 URL: http://www.cia.gov/cia/publications/factbook/index.html

4 “….I agree the biggest importance is to feel and struggle in the real field. Although I’ve not been to South Africa, once I’ve helped the work of my friend in Zimbabwe. In these British African countries of your interests, we see the worst situation of HIV/AIDS. From the epidemiologic point of view, South Africa and Malawi is experiencing even the demographic impact (population loss) due to AIDS. I guess some of least developed countries (maybe Congo or Malawi) will be collapsed because of AIDS epidemic within 20 years.” A private e-mail (December 21, 2004) from Dr. Hiroshi Nishiura, one of the graduates of Miyazaki Medical College.

2004年度担当の新入生にアンケートを行なったところ、アフリカに関心を持つ学生が少なからずいたが、ほとんどの学生はアフリカ文学については知らなかった。

「アフリカに関心がありますか。」の問いに、(医学科97名)1. 非常に関心がある。(13名)、2. まずまず関心がある。(39名)、3. どちらとも言えない。(28名)、4. あまり関心がない。(10名)、5. 全く関心がない。(7名) (農学部51名) 1. 非常に関心がある。(3名)、 2. まずまず関心がある。(23名)、 3. どちらとも言えない。(19名)、 4. あまり関心がない。(6名)、 5. 全く関心がない。(0)

「アフリカ文学を知っていますか。」の問いに、(医学科97名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(1名)、 3. あまり知らない。(12名)、 4. 全く知らない。(74名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(10名) (農学部51名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(0)、 3. あまり知らない。(14名)、 4. 全く知らない。(34名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(3名)との解答を得た。アンケートは初回に無記名で行なった。

6 2003年2月25日(NHK総合)放映。帚木蓬生の同名小説原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマ。「心臓移植の研修」の名目で南アフリカに飛ばされた医師作田信が、偶々少年を助けたきっかけでスラムに出入りするようになり、極右翼グループが画策する天然痘によるアフリカ人殲滅作戦に巻き込まれるが、アフリカ人医師のサミュエルや恋人パメラたちと協力して、その陰謀を阻止する、という話である。原作でも映画でも、南アフリカの実名は出ていない。

7 「白いアフリカ 南アフリカ共和国 緊急報告 アパルトヘイトは変わったかー」、朝日放送「ニュースステーション」(1989年9月23日、24日)

8 同上のKarl Maierの記事。

9 NHKスペシャル「エイズ・世界はどう立ち向かうべきか」(2003年12月1日NHK総合テレビ)

10 NHKスペッシャル(1989年9月23日、24日)

11鍛冶信太郎「新薬承認で迎える『エイズ治療元年』 高い薬代の軽減急げ」、朝日新聞(1997年3月20日)

12 Lawrence K. Altman, “World AIDS Conference Ends Pessimistically, With No Cure in Sight,” International Herald Tribune (July 6, 1998)

13 “Gore’s humanitarianism loses out to strong-arm tactics,” Nature (July 1, 1999) 及び、池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」、「朝日新聞」(1999年8月6日)

14 TRIP’s はthe Trade-Related Intellectual Property Rights (Agreement) の略。抗HIV薬の場合、1994年から最低20年間の権利を保障されるという合意があった。

15 アルテフランスCAPA製作「“Profits or People” (HIV感染症治療薬 コピー薬普及への戦い)」(2003年、英語・日本語2ヶ国語放送)、NHK衛星第1プライムタイム(2004年12月29日再放送、)

16 帚木蓬生『アフリカの瞳』、講談社(2004年)、411-412ペイジ。『アフリカの蹄』の続編小説。

17 『アフリカの瞳』、398-399ペイジ。

執筆年

2005年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第4号61~69ペイジ

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医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬