「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム草稿)

2020年2月1日2000~09年の執筆物アフリカ,医療

概要

(概要作成中)

本文(写真作業中)

アフリカのエイズ問題 制度と文学    玉 田 吉 行

 

宮崎大学医学部すずかけ祭シンポジウム「アフリカと医療」

はじめに

 

こんにちは。本日は、ようこそおいで下さいました。誠にありがとうございます。どうか、よろしくお願いします。

玉田と申します。旧宮崎医科大学は十月に統合されて、宮崎大学医学部になり、ここは清武キャンパスと呼ばれています。その清武キャンパスで英語の授業を担当しています。四月からは、旧宮崎大学の木花キャンパスで、「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」などの授業も担当することになっています。

この大学に来て今年で16年目になりますが、毎年、新入生の英語の授業でアフリカの問題を取り上げています。その授業の中で紹介した本のご縁で、山本さんが来て下さり、お誘いしたムアンギさんからも快諾を得、シンポジウムを企画した国際保健医療研究会の人たちの尽力もあって、今回のシンポジウムが実現しました。

今日は、山本さんとムアンギさんの話を受けて、限られた時間の中で、現状を生み出している制度と、社会の現状を映し出している文学を切り口に、僕の現在いる立場からしか話せないようなお話ができればいいなあと思っています。

これからお話する社会制度のように巨大な、マクロの世界も、1ミリの1万分といわれるエイズの原因となっているウィルスの世界も、目の前に見えるわけではありません。それらの本当の姿を見るためには、見ようとする意思や想像力がいるのです。

今日は普段考えたり授業で取り上げたりしている、

 

  • アフリカのエイズの現状、
  • それを生み出している制度、
  • 1992年にいったジンバブエでの体験、
  • 制度の生み出した現象やその中で暮らす人々の心のひだを描き出した文学について、

 

時間の許すなかで、お話したいと思います。

 

 

  • アフリカのエイズの現状

最近は授業でエイズの問題を取り上げ、イギリスの新聞「インディペンダント」のジンバブエに関する報告記事を毎年紹介しています。入り口で販売してもらっている英文のテキスト Africa and its Descendants 2 でも紹介し、今日お渡ししました資料に抜粋していますが、雑誌「ごんどわな」22号の「アフリカとエイズ」という記事の中でも紹介しています。

1995年7月ですからもう八年も前の記事ですが、50%を超えているといわれる軍隊や売春婦の感染率の高さ、子供や老人の世話と農作業を担っている女性の人口が急激に減って、田舎では社会的に、経済的に深刻に見舞われていることなどが報告されています。出稼ぎに出た夫が売春婦からHIVを持ち帰るので、「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」とも書かれています。更に、「数年後には平均寿命が、現在の68歳から40歳になるだろう」、「次の標的は南アフリカだろう」という予測で結ばれています。68歳という数字が大丈夫かなという心配はありますが、先日、インターネットで調べてみましたたら、2002年推計のジンバブエの平均寿命は、予測をすでに上回り、全体で36.5歳、女性35.1歳、男性37、87歳でした。ちなみに、ムアンギさんの国ケニアは、全体で45.22歳、南アフリカは45.43歳、日本は80.91歳でした。

去年の3月にNHKで紹介された番組でも、南アフリカ最大の都市ジョハネスブルグのアフリカ人居住区では3人に一人がHIVに感染していると報じられていました。このままいけば、国が滅びるのではないかと予測する人もいます。数字の信憑性はともかくとして、深刻な事態であるのは間違いありません。

 

2)それを生み出している制度

僕はたまたまリチャード・ライトというアフリカ系アメリカ人の作家がきっかけでアフリカの問題を考えるようになり、読んだり書いたりする空間を求めて大学にたどり着いたのですが、その中でいろいろ考えました。

なかでも、15,6世紀に大規模に始まった西洋による侵略の歴史が、形を変えて今も続いており、国連を無視して行われた今回のアメリカによるイラク攻撃も、基本的にはその延長上にあると考えるようになったのは衝撃でした。14世紀末にマルコ・ポーロが中国から持ち帰った火薬を武器に変えた西洋社会は、右手に銃を、左手にキリスト教を掲げて侵略を始めました。やがては人間を売買して大きな富を蓄え、その富を資本に生産手段を手から機会に変えて今日の大量生産の基礎を気づきました。産業革命によって人類が使い切れないほどの製品を作り出した人たちは、その製品を売りさばく市場とさらなる製品を生産するための原材料を求めて植民地争奪戦を繰り広げました。アフリカは狙われた市場の一つです。

植民地争奪戦は激烈を極め、世界戦争が懸念されて植民地の取り分を決めようとベルリンに集まりました。一番多くの分け前を取ったのがイギリス人で、その人たちの言葉が今は国際語と言われているわけです。結局、二度の世界大戦を回避出来ずに、日本人も交えて白人たちは殺し合いをしました。第二次世界大戦後は、戦争であまり被害を受けなかったアメリカが主導で、国連や世界銀行などを作り、今度は国際援助、資本投資の名目で金を貸して利子を取るという戦略を始めました。しかし、先ほど紹介した平均寿命から考えても、搾り取るにも相手がいなくなる、という事態にまできてしまいました。

南アフリカは植民地支配の極端な形を取りました。最初はオランダ人が、次いでイギリス人が入植しました。当初はインドへの中継地でそれほど重要なところではなかったのですが、19世紀に金とダイヤモンドが発見されてから状況が一変しました。武力でアフリカ人を支配したオランダ人とイギリス人は金とダイヤモンドを奪い合って戦争しましたが、決着は着かずに、南アフリカ連合連邦という連合政権を作りました。1910年のことです。そのころにはアフリカ人支配の構図は出来上っていました。その人たちは、出来るだけ長く続く搾取体制を作り上げようとしました。アフリカ人から土地を奪って課税するという形を取りました。無産者となったアフリカ人は税金を払うために家族と離れて働きに出ざるを得ませんでした。その人たちがいわゆる出稼ぎ労働者です。白人の経営する鉱山や大規模な農場の労働者として、あるいは都会の白人家庭のメイドやボーイとして、奴隷のように働かされました。家族を支えるだけの十分な給料ももらえず、一年中家族から遠く離れた土地で暮らさざるを得ませんでした。大量の、安価な賃金労働者を基盤にした産業社会という人もいますが、実際多くのアフリカ人から掠め取る奴隷制とも言える過酷な仕組みです。

 

3)1992年にいったジンバブエでの体験

アフリカの問題を考えるようになってから、いつか家族でアフリカに暮らしてみなければと思うようになりました。1992年に2ヶ月ほど首都ハラレで暮らしました。本当は南アフリカに行くはずだったのですが、当時はまだ南アフリカとの文化交流が禁止されていましたから、南アフリカには行けませんでした。ムアンギさんにも相談して、ジンバブエ大学に行くことにしました。『遠い夜明け』のロケ現場とは地続きですし、主人公のスティーブ・ビコが立っていた赤茶けた大地を見たいと思ったからです。

一握りの貴族と大多数の貧乏人しかいないので不動産事情が悪くホテル住まいを覚悟していたのですが、スイス人のお婆さんから運良く十万円の家賃で家を一軒借りることができました。行ってみてわかったのですが、敷地は500坪、ガーデンボーイに番犬までついていました。

アフリカ人の生活が知りたくて行きましたから、ガレージの隅の狭い小屋に住んでいるガーデンボーイのゲイリーとはすぐに仲良しになりました。資料のなかにも紹介していますが。毎日同じ敷地内でいっしょに住んでいて、ゲイリーは給料が一月400円ほどで、一年の大半は家族と離れて暮らしていることがわかりました。一月ほどして冬休みを利用して奥さんと3人の子供たちがやってきました。普段はおばあさんがいていっしょに住めないということでしたが、1ヶ月ほど家族5人で暮らしました。僕の二人の子供と入り乱れて毎日いっしょに遊んでいましたが、その蹴っていたボールは一個5000円くらい、ゲイリーの給料より多かったのです。休みが終わって田舎に戻った2人の子供の小学校に寄せてもらったのですが、そこでは大半の人がゲイリーのように小学校を終えたら街に出稼ぎにゆくようでした。ゲイリーの家は、最初に紹介したジンバブエの報告記事そのままで、男は出稼ぎに、女性が農作業をやり、老人や子供の世話をしていました。

ジンバブエには百年ほど前に南アフリカの移住者が軍隊を連れて、第2の金鉱脈を求めてやってきました。金鉱脈は見つかりませんでしたが、その人たち帰らずに、アフリカ人から土地や家畜を奪って国を作り、居着いてしまいました。それまで自給自足の生活をしていたゲイリーのおじいさんたちは、出稼ぎに行くようになりました。

ジンバブエに居る間、搾取する側にいる思いで胸が苦しかったのですが、日本に帰ってくると、ものは豊かでもその繁栄の一部が他者の搾取によるものだという思いはつのるばかりです。

 

4)制度の生み出した現象やその中で暮らす人々の心のひだを描き出した文学について

ゲテリアの『ナイス・ピープル』(この部分については次回に掲載する予定です。)

 

最後に

アフリカの問題を材料にして、新入生には、今まで培ってきた自分の価値観やものの見方が大丈夫かという問いかけをして、自分は何をしたいのか、自分に何ができるのかを考えられる機会が提供できればと思って、授業をしてきました。

アフリカの話をして多くの新入生が、自分は何も知らなかった、アフリカかわいそう、日本に生まれてよかった、自分に何か出来ることはないか、せめて事実を知らないと、そんな反応が多いです。しかし、長いこと授業をしてきて、本当にそうかなと思います。授業で考える機会があってもあくまで人ごとで自分にとってそれが何なのかを考えない学生は、授業が済むとすっかり忘れます。きのうもムアンギさんと大阪工業大学でごいっしょしていた17,8年前の話をしていたのですが、アルファベットで名前も碌に書けない学生に単位を出さない現状を嘆いておられました。医学部の授業でも、たくさんの人が授業に来ないし、来ても寝ているし、現にこの教室でもたくさんの人が熟睡しているらしいです。僕自身は、親の援助なしに夜間の大学に行ったせいもありました、寝ている人たちをみますと、親に出してもらって車乗り回して遊んでばっかりいないでちょっとは勉強したら、将来生死にかかわる患者を相手にするのに、自分の体調も管理できないで風邪ひいててどうする、風邪を治療する人が風邪引いて大丈夫か、といいたくなりますが、どうもその思いが充分伝わるとも思えません。だから、そんな学生からアフリカかわいそうと言われても、と思ってしまうのです。

深刻な現状を考えれば考えるほど、将来の希望が見いだせません。だから、授業の最後にいつも、結論は、ため息しかでないなあ、と言葉をつぶやくしかないのですが、それでも、未来ある若者に将来を託すために、ため息をつきながら、せめて、あきらめずに語り続けようと思っています。いつか、思い出して考えてもらえる機会になればと願っています。

執筆年

2004年

収録・公開

未出版

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「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム草稿)