続モンド通信34(2021/9/20)

2022年1月2日続モンド通信・モンド通信

続モンド通信34(2021/9/20)

私の絵画館:犬(ももちゃん)と葡萄(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑬:中秋の名月に(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史1(玉田吉行)

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1 私の絵画館:犬(ももちゃん)と葡萄

この“ももちゃん(ゴールデン・レトリーバー)”は、飼い主さんが、お母様から譲り受けた犬ちゃんでした。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」9月

 そして、ももちゃんが旅立った後に、彼女はトイプードルの“りんちゃん”“すずちゃん”と暮らしていました。

絵のご注文は、このりんちゃんすずちゃんが先でした。長くメキシコに住んでおられたということで、<うちわサボテン・柱サボテン・メキシコの太陽と一緒に>というご希望でした。出来上がったのが、この絵です。

りんちゃん・すずちゃんとメキシコ

カレンダー「私の散歩道2019~犬・猫ときどき馬~」9月

 とても気に入って下さり、この絵で作った個展案内を、いきつけのお店や、ドッグシッターさんなどに、持ち込んで下さるほどでした。

ももちゃんの絵の話がでたのは、その翌年でした。

亡くなった子の絵を描いてもらうと、ご自身がどんな風に感じるのかを心配して、迷っておられたからでした。

そこで、個展の会場でもあるドッグカフェのオーナーさんに、感想を聞かれました。オーナーの映子さんも、亡くなった犬(ルーマーちゃん・ダルメシアン)の絵を、お持ちだったからです。

ルーマーちゃん

 ご自分のCafé & Galleryに<ルーマー>と名付けるほど可愛がっておられたのですから、感想を聞くにはうってつけでした。

確か“いつもそばにいて見守ってくれている感じですよ…”というような話をされていたと思うのですが。

そこで安心して、モモちゃんの絵のご注文、となりました。飼い主さんは、お会いする少し前に葡萄狩りに行ったので、その時の葡萄と一緒にと、ももちゃんの、貴重で大切なお写真をお預かりしました。

そして完成したの、がこの絵です。美しく優しかった百々ちゃんを、淡い色と柔らかいタッチで描きました。

ももちゃんと葡萄

 これまでも、亡くなった子たちの絵を何枚も描かせていただきました。その中で、カレンダーに登場してもらった絵の一部をご紹介します。

カレンダー「私の散歩道~犬・猫ときどき馬~」

No. 1 2011年7月 犬(アレックス)とのうぜんかずら

No. 2 2012年1月 犬(コロちゃん)と水仙

No. 3 2012年3月 犬(ロンくん)と三種類の椿

No. 4 2013年12月 犬(アンくん・ラックくん)と椿

No. 5 2014年3月 猫(ゆきちゃん)とチューリップ

No. 6 2014年11月 犬(ショー子ちゃん)と黄色いダリア

No. 7 2015年表紙 犬(レイチェル)と猫(ジェリー)とマーガレット

No. 8 2015年4月 犬(ナナちゃん)と桜

No. 9 2015年7月 犬(ゴロ)と白百合

No. 10 2015年10月 犬(ポチ)とコスモス

No. 11 2016年2月 犬(シェルター)とログハウス

No. 12 2016年4月 犬(ルーマー)

No. 13 2016年5月 犬(コロ)と牡丹とキャベツ畑

No. 14 2017年1月 猫(ミミ)と窓

No. 15 2017年5月 猫(トラとキタロー)と昼咲き月見草

No. 16 2017年12月 犬(レオ)

No. 17 2018年3月 犬(サンデーくん)

No. 18 2018年11月 犬(ルーシー)と木立ダリア

No. 19 2019年1月 猫(ジーコ)とかすみ草

No. 20 2019年2月 犬(タルト)と梅

No. 21 2019年8月 犬(シェルター)と海

No. 22 2021年4月 犬(ローラ)と子山羊とマーガレット

No. 23 2021年7月 うさぎ(しょうちゃんとチョビちゃん)

横書きの絵で、カレンダーには掲載できなかったものもありますが。

ある飼い主さんから、以前いただいたお手紙に<今では毎朝、絵のなかのこの子たちに“おはよう”と挨拶してから、私の一日が始まります>とありました。

それぞれの絵が、こんなふうに、飼い主さんたちの気持ちに、少しでも寄り添えたら……これほど嬉しいことはありません。

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑬:中秋の名月に

今年の<中秋の名月>は、8年ぶりの満月とかで、世の中は少し騒がしかったようですが。

私はそのお月さまを、大学のキャンパスのグランドで、草の上を歩きながら見ていました。

そうして、高原の美術館で個展をしていた時は、毎年九月のお月さまを、電柱一つない真っ暗い山の中の道を、散歩しながら見ていたなあ…と思い出しました。

九州芸術の杜(大分県飯田高原)

<九州芸術の杜>は、美しい高原の広い敷地のなかにある、素敵な空間です。ただ、ギャラリーも広かったため、毎年60枚以上の絵を運んでいました。

さらに、まわりには、夜開いているお店が全くなかったため、ギャラリーの2階に滞在する間の自分達の食事を、すべてあらかじめ準備して行きました。

それは、私にとって結構大変な労力でした。

<九州芸術の杜>が、駅からも人里からもずいぶん遠い場所に在る、と思い込んでしまったのには、訳があります。

個展のお話をいただいた年、私たちは事前に、社長さんと館長さんのお二人にご挨拶に伺いました。その時、電車を乗り継いだ後、湯布院の駅からは、タクシーに乗りました。

タクシーは、山の中の曲がりくねった道路を、右へ左へとカーブを切りながら、40分くらいもかかって、美術館に到着しました。

これほど遠い所なら帰りのタクシーを呼ぶのも大変だろうと、私たちはそのタクシーに待っていてもらい、帰りも同じ道を40分程<ドライブ>して、ようやく由布院駅にもどりました。

ところが、5年目の年。いつもは知り合いの方にお願いして、車で家から美術館まで運んでもらっていましたが、今回は電車で行ってみることにしました。そして、湯布院の駅からは、高原を一日に数本走っているバスに乗りました。

すると、“うそでしょ?!”というくらいの近さで、もよりのバス停に着いたのです。時間も10分かかりませんでした。

やまなみハイウェイバス停付近

私たちが初めて乗ったタクシーは、通常10分で着く道をあえて通らず、あきれるくらい遠まわりをしていたことに、この時初めて気付きました。

これほど湯布院が近いなら、ギャラリーを閉めた後、街へ降り、食事も買い出しも十分できる。そうすれば<パン、ご飯、おかずすべてを準備して。冷凍して。送る>というひどくしんどい作業を、五年間倒れそうになりながら、しなくて済んだのに…と悔やみましたが。もうはや過ぎてしまったことでした。

翌年から、体調、体力的な面を考え、私は個展の場所を、東京に移しました。けれど、五年間<九州芸術の杜>で個展をさせていただくことができたからこそ、今がある。心よりそう思います。

ほんとうに、ありがとうございました。

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史(1)植民地化以前

2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」1

今回のシンポジウムでは、アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、ケニアの小説から見たアフリカのエイズについて話をした。科研費のテーマで、医学と文学の狭間からみるアングロ・サクソン侵略の系譜の一つである。話をした内容の詳細を書いてみたい。

エイズの話の前に先に歴史をみておく必要があるが、ケニアの歴史には詳しくないので、駐日ケニア共和国大使館(東京都目黒区)の「ケニア小史」を借用して、ざっと歴史を辿ってみようと思う。

駐日ケニア共和国大使館

ケニア小史

紀元前2000年頃に北アフリカから来た人たちが東アフリカの今のケニアの一部に定住、のちにアラブ人とペルシャ人が来て植民地化、次いで1498年にポルトガル人が来てモンバサを拠点に貿易を支配、そのあとイギリス人が来て、1895年に東アフリカ保護領に、1920年に植民地に。長年ホワイトハイランド(現在の首都ナイロビ)に住んでいた多数派のギクユ人は、南アフリカケープ州のイギリス人入植者に奪われた植民地を取り戻すためにジョモ・ケニヤッタたちの主導で抵抗運動を開始、1963年に独立を果たし、1969年に「事実上の」単一政党国家に。その後、モイ、キバキの一党独裁支配を経て、大統領の国家統一党とオレンジ民主運動の連立政権で折り合いをつけて、現在に至る。これが大雑把な歴史である。

だが、それだけではアングロ・サクソン侵略の系譜の中でケニアのエイズを捉えることは出来ない。侵略の前にはケニア人が代々培ってきた暮らしや文化があったし、ヨーロッパ人の侵略によって、その伝統や文化や生活様式は大きく変えられてしまったからである。植民地化されたイギリスに抵抗して長く苦しい武力闘争を続けて、やっと独立を果たしたものの、独立後に指導者ケニヤッタとその取り巻きは、いっしょに闘った人たちを裏切って、欧米諸国や日本の勢力と手を組んでしまった。その後、一党独裁時代が長く続き、ケニアはさらに変貌した。ケニア大使館の小史からは、そんな姿は浮かんで来ない。額面上の見える史実を手掛かりに、その意識下に流れる目には見えない深層を探る必要がある。歴史過程の必然的な現象として、貧困や病気なども捉えるべきで、エイズもその一例に過ぎない。

日本もケニヤッタたちが手を結んだ相手国の一つで、関係は想像以上に密である。普通のケニア人や日本人が意識していない歴史の深層は、公教育の場で語られることはない。富を享受する一握りの金持ち層・支配者階級にとって、自分たちのやって来たこと、今も継続的に実行し続けていることを正当化する必然性があるからである。大多数が共有する表面上の歴史も、その手段に過ぎない。だからこそ、可能なら、公教育でこれまで受けてきた歴史を再考する必要がある。その流れで、ケニアの歴史を見てゆきたい。

(1)植民地化以前→(2)ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来→(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 →(5)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代

植民地化以前

遠い遠い昔の話なので確かめようもないが、元タイムズの記者で歴史家のバズル・デヴィッドスンの映像「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)を借りながら、「大陸に生きる」(「アフリカシリーズ」2回目の表題)人たちについて考えたい。

バズル・デヴィッドスン

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」には1580年代に、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人が昔ながらの原始的な生活をしている貴重な映像が収められている。狩猟採集に必要な技術以外に、動物を飼い慣らして家畜にするという大発見によって、人々の定住生活が可能になり、社会組織が大きく変化した。狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的で、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれ、入り組んだ社会組織も現われ始めた。ケニア北部に住むポコト人が住んでいる地域を訪れて、しばらく生活を共にしながら次のようにその人たちの生活を紹介している。牧畜を営む人たちの例としてポコト人を紹介したい。

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

ポコト人とデヴィッドスン

他の草原の住人と同様に、ポコト人の最大の財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期には200人もの人が村に住み、乾期になって草や水が乏しくなると牛を連れて遠くまで足を運び、村の人口が減る。次の雨期にはまた人が村に戻る、毎年それが繰り返されわけである。主食はミルクで、栄養不足を補うために儀礼などの時に牛の血を料理して食べる。ミルクと血だけで暮らすにはたくさんの牛が必要で、干魃などの天災にも備えなければならないので、山羊や駱駝も飼うようになっている。

女性は夫とは別の自分の家畜を持ち、男性が草原に行っている間は、村に残って子供や老人の世話をする。ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんど自給自足の生活をしていた。必要なものは自分たちのまわりにあるものから作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類をこしらえる。牛の糞は壁や屋根の断熱と防水用に利用する。

ポコト人女性

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしていて、家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも重労働だが、女性は誇りを持って日常をこなす。厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要で、家の周りの藪から薬や繊維や日用品などを作り出す。カパサーモの根を煎じて腹痛や下痢に使い、デザートローズの樹の皮の粉末から殺虫剤を作り出して、駱駝のダニを退治する。ポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来たわけである。

アフリカ大陸の東側には壮大なサバンナがあって、今でも遊牧民が要るし、生活に牧畜が占める割合の多い田舎もある。1992年に家族でジンバブエに行った時、借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなった。3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話をして暮らしたと話していた。その中の一人英語科のツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながら、インタビューに応じて子供時代のことをしゃべってくれた。

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれ、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそうである。幼少期を過ごした村には、伝統的なショナの文化が残っていたようで一族には指導的な立場の人がいて、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていたと言う。

村では、雨期に農作業が行なわれ、野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通で、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛などの世話に明け暮れたそうである。乾期には、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたと話してくれた。

ツォゾォさん

食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、基本的な人の営みはそう変わるはずもなく、植民地以前は農耕と牧畜を中心としたこうした生活を、営々と続けていたわけである。そして、田舎では、今も基本的にはこういった生活が続いている地域が多いようである。