アフリカとその末裔たち 2 (2) ① 『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)

2020年2月24日2010年~の執筆物アレックス・ラ・グーマ,南アフリカ

アフリカとその末裔たち 2 (2) ①『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)

大学用テキスト『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)

1章で詳しく見て来ましたが、ヨーロッパ人入植者はアフリカ人から土地を奪い、課税して安価な労働者を大量に作り出すことに成功しました。アフリカ人は貨幣経済に投げ込まれ、田舎に住む人たちは税金を払うために仕事のある大都会に出稼ぎに出ざるを得ませんでした。白人以外はアパルトヘイト制度の下では白人地区での居住は認められていませんでしたので、出稼ぎに来た人たちは郊外の砂地や荒れ地に「不法に」住むしか選択肢はありませんでした。ラ・グーマはケープタウン郊外のカラード居住区に住むそんな人たちを取り上げました。主人公チャーリー・ポールズの家族がどうのようにしてそのスラムに住むようになったかは次のように描かれています。

ケープタウン近郊の地図(イギリス版 And a Threefold Cordより)

ポールズ一家の父親は、ずっと以前にその家を建てた。ポールズ一家の母親と一緒に 、田舎から都会に流れてきたときである。母親はすでにキャロラインを身ごもっており、ロナルドは洟垂(はなた)れ坊主で、怪我をした仔犬のようにくんくん泣きながら母親のスカートにまとわりついて離れなかった。父親はその土地を借りていた。土地は荒れた砂地を幾つかに仕切っただけの、がらんとして何もない空き地の一つだった。ちょうど、そのころ、高速道路から脚のように延びた土地に、ぶつぶつと出来物のようなぼろ小屋が立ちはじめ、たくさんの人びとがひしめき合って住みつくようになってきたのだ。
同じような流れ者のなかには、母親とロナルドを泊めてくれる人もいたが、父親とチャーリーは、家の材料をごみの中から探しだしたり、人に頼んでもらい受けたり、暗い夜に盗んだりした。錆びた波型鉄板や厚板や段ボールの切れ端、それにこんな物がと思われるような意外ながらくたも、一つ残らず、何キロも引きずって持ってきたのであった。横に石油会社の名前が入ったぺちゃんこにした灯油の缶と、チャーリーが集めたがらくたから引きぬいて石の上で金槌(かなづち)を使って真っすぐにした古釘の一入った缶があった。また、割れ目や穴に詰めるぼろ布、何本もの荷造り用の針金と防水紙、紙箱、古い金属片と針金の束、荷造り用木箱の横面の木、それに線路の枕木が二本あった。

『まして束ねし縄なれば』

物語には長男チャーリーの目を通した様々な出来事が描かれていますが、中でも父親の死と妹キャロラインの出産の場面が印象的です。父親は家族のために働きづめで体を壊し、雨漏りのする狭い家で骨と皮になって死んで行きましたが、死ぬ間際まで「もっとましな瓦屋根の家に住まわせてやりたかった」と子どもたちの心配をしていました。母親は苦しい生活の中から工面した掛け金で葬式の手配をして葬式を何とか済ませました。涙は見せませんでしたが、振る舞いそのものが哀しみの涙でした。
キャロラインは母親と同じく、雨漏りのする惨めな小屋で子供を産みました。叫び声で駆けつけた警官が、信じられないとあきれたほどです。
そういった日常は何も特別なものではなく、大抵の人たちはそんな状況の中でも何とか助け合いながら暮らしていたのです。
ラ・グーマは父親の影響もあって、早くから政治に目覚め、やがてはケープタウンのカラード社会の指導的な人物になりました。

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アレックス・ラ・グーマ

アパルトヘイトに反対してカラード人民機構の長として二百万人を率いながら、作家としても活動しました。当然、政府の脅威となり、何度も逮捕・拘禁され、亡命も強いられ、第1作『夜の彷徨』(A Walk in the Night)は発禁処分を受けました。2作目のこの作品は、1作目の評判を聞きつけたドイツの出版社が獄中にいたラ・グーマと交渉をして出版が可能になりました。作品では雨と灰色のイメージを利用して惨めなスラム街の雰囲気がうまく伝えられていますが、ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府が外国向けに作り上げた観光宣伝とは裏腹に、現実にケープタウンのスラムの住人が天候に苦しめられて惨めな生活を強いられている姿を描きたかったからです。世界に現状を知らせなければという作家の自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感から生まれた物語です。
大学用テキスト『夜の彷徨』(A Walk in the Night

この作品の翻訳が出版された1992年からずいぶんと歳月が流れていますが、今も多くの人が作品に描かれたような惨めなスラムで暮らしています。1994年に全人種による選挙が行なわれ、アフリカ人の政権が誕生はしましたが、それは白人とアフリカ人の全面対決を避けた妥協の産物でした。南アフリカの豊かな鉱物資源と無尽蔵に得られる安価な労働力から暴利を貪り続けているアメリカやイギリス、日本や西ドイツなどの先進国が自分たちの都合を優先し、富の配分を変えてアフリカ人の生活水準を上げるために一番大事なアフリカ人の賃金を引き上げる問題を先送りにしたからです。
制度的にはアパルトヘイトはなくなりましたが、ラ・グーマの描いた世界は今もほぼ現実の世界として残り続けています。(宮崎大学医学部教員)