ジンバブエ大学② ツォゾさん

2020年1月19日2000~09年の執筆物ジンバブエ,随想

概要

(概要作成中)

本文

ジンバブ大学② ツォゾォさん

ハラレで暮らし始めてからしばらく経ったころ、「在外研究の計画を練りなおしてください」という手紙が舞いこんだ。日本を発ったあとに届いたジンバブエ大学からのもので、同僚の機転で転送されてきたのである。すでに家を借りて生活を始めているのに、まさかそんな手紙が日本から転送されてこようとは夢にも思わなかった。直接差出し人のツォゾォさんの部屋を訪ねたら、授業中だった。授業を中断して出てきたツォゾォさんと、科長室(CHAIRMAN)と書かれた狭い部屋で、二時間ほどは話していただろうか。しかし、七月七日の手紙を意に介している様子はなく、最後まで、手紙の遅れを詫びる言葉はなかった。

「来れば誰でも大歓迎ですよ」

こうして、ツォゾォさんの部屋に通う日々が始まった。

ある日ツォゾォさんの部屋に行ったら、表札の名前が変っていた。英語科の事務室で聞いて捜し当てた先は、管理棟の副学長補佐の部屋だった。隣の小さな部屋には、専属の秘書もいる。部屋にはコピー機まであり、秘書はパソコンを使っていた。図書館では一台のコピー機の前に人の列ができるし、手動のタイプライターでさえ貴重品だというのにである。それから二、三日後、「ツォゾォ、UZで新しいポストを得る」という見出しの記事が「ヘラルド」に掲載された。「ヘラルド」はこの国の一大日刊紙である。かなり大きな記事だから、副学長補佐への昇進は相当な出来事なのだろう。

管理職についてからのツォゾォさんは、前にもまして忙しそうだった。約束の時間に訪ねて行っても、会えない場合がよくあった。運よく部屋でつかまえても、話している間じゅう、ひっきりなしに電話が鳴っていた。インタビューを録音しているときなどは、何度もテープを止めなければならなかった。

「演劇や映画の研究のためにアメリカに留学しましたが、大学院を修了した時点で、アメリカの大学に誘われて、そのまま残るかジンバブウェに戻るか、迷いました」とも言う。

「大体の人が自転車も買えないというのに、家一軒分のベンツに乗ったアフリカ人を見かけましたが、一体この国はどうなっているんですか」と尋ねたら、「ベンツに乗ってドライヴに行こうとしつこく誘う知り合いもいますよ」と言っていた。そう言えば、ツォゾォさんは「自分の車」に乗っている。それまであまり意識はしなかったが、ツォゾォさん自身がかなり選ばれた人の一人なのである。

「独立を勝ち取ってアフリカ人の大統領や高官が誕生したものの、経済力を完全に旧体制に握られたままの状況は、どこも同じですね、新体制は発足しても政治や経済はままならず、選ばれた少数のアフリカ人が今までの白人の役割を演じるだけ、独立闘争での志とは裏腹に私利私欲に明け暮れる、一般の人の生活は独立前と同じか、かえって悪くなっている、自分たちが手に入れた権力を脅かすものがいれば、国の力で反体制分子として抹殺する、そんな今のジンバブウェを見ていると、そっくりそのままケニアの後を追いかけているようですね」と言ったら、「まったくそのとおりですよ」とツォゾォさんが頷いた。

ツォゾォさんの演劇の授業では、人々に選ばれながら私欲に耽るアフリカ人の国会議員を風刺する戯曲を教材に取り上げていた。

授業風景は日本の大学とはいささか違う。日本では最近、授業中の私語や居眠りが問題になっているが、少なくとも私の出た授業では私語や居眠りはなかった。選ばなければ誰でもがどこかの大学に入れる日本の事情とは違って、ごく選ばれた人たちだけが集まって来ているだけに学ぶ意欲が違うという側面もあるが、もう少し現実的な事情もある。大抵の学生には教科書や参考書を充分に買い揃えたり、コピー機を利用したりするだけの経済的な余裕がない。試験前ともなれば、学生が図書館に殺到して特定の本は借りられなくなってしまう。無事に単位を取るためには、授業中に教師の言う内容をノートに書き取るしかない。従って、学生側に喋ったり眠ったりする暇などはないのである。質のよくないノートにインクの出方の悪いボールペンを使って、学生はうつむいて、ただ黙ってひたすら速記の機械の如く書き移す作業に専念するのである。

しかし、演劇の授業はやや趣が違った。歌あり、演技指導ありである。舞台施設のある講堂での講義の前には、準備体操をする。円になって踊りながら、一人を円の真ん中に呼び出して簡単なオリジナルの踊りをさせる。手拍子を取り、歌いながらである。ツォゾォさんも加わって、一緒に楽しそうに踊っていた。発声のための体馴らしでもある例年十月に授業の集大成として公演をするらしく、配役や演出の担当を決めて、授業中に何度も劇の読み合わせを行なっていた。

十月四日の公演にはぜひ来てくださいと学生から言われていたが、あいにく私たちはその日にはもうハラレにはいない。何もなければ、パリにいるはずだった。

 

ツォゾォさんの生い立ち

ツォゾォさんが生まれた1947年は第二次大戦が終わった直後で、欧米諸国は自国の復興に追われて、アフリカの植民地どころではなかった時期である。アフリカ諸国では、ヨーロッパで学んだ知識階級を中心に、独立に向けての準備が着実に進められていた。

ツォゾォさんは国の南東部にある小さな村で生まれた。その村には、第二次大戦の影響もほとんど及ばなかったと言う。

広大なアフリカ大陸である。隅々にまでヨーロッパ人の支配が行き届いていた訳ではない。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごした村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

同じ祖先から何世代にも渡って別れた一族が一つのまとまった大きな社会〓クランを形成し、一族の指導的な立場の人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめてきたという。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれたので、比較的恵まれた少年時代を過ごしている。

ツォゾォさんがジンバブウェ大学(当時はローデシア大学と呼ばれていた)に入学した1968年頃の社会情勢は非常に緊迫していた。1965年にイギリスの意向を無視して一方的に独立を宣言し、強硬に白人優位の政策を進めるスミス政権に対して、アフリカ人側が武力闘争を開始していたからである。アフリカ人と白人との対決姿勢はますます鮮明になり、人種間の緊張は高まっていった。

イギリス政府に後押しされ、国内の産業資本家を支持母体とする時の与党統一連邦党は、大多数のアフリカ人を無視しては国政を行なえない状況を熟知していたので、かなりの数のアフリカ人中産階級を育てて自らの陣営に組み入れようと様々な改革を行なっていた。その政策によってツォゾォさんもジンバブウェ大学入学が可能になったという訳である。(大学案内によれば、入学者数は初年度1957年が68人、独立時の1980年が2240人、1990年が9300人となっている。ツォゾォさんの学生時代が1500人で、私たちが訪れた1992年でも、学生総数は約一万人だと言われていたから、ツォゾォさんも含めて、大学教育の機会を得た人はほんの一握りの選ばれた人たちであったのは確かである)

ツォゾォさんも当然、闘争の渦中に巻き込まれている。取り込むべき「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、1971年までの学生時代の三年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けた。

人種差別政策の厳しかった当時、白人地域に出入り出来たアフリカ人は、白人の下で使われる労働者に限られていた。大学は白人地区にあったので、キャンパス内だけは特別な扱いを受けていたが、近くの白人地区に足を踏み入れたとたんに警察に逮捕される仕組みになっていたと言う。

学生1500百人のうち五分の一の300人がアフリカ人であったそうだが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、1971年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうである。その時は逮捕はされなかったものの、警察と激しく衝突したという。事態を憂慮した穏健派アベル・ムゾレワ主教が大学に来て、事態を収拾した。

隣国の独立や各国の経済制裁で追い詰められたスミス政権は、南アフリカからの唯一の資金援助を後ろ盾に、アフリカ人の抵抗運動に対して容赦ない弾圧を加えた。

 

1976年になると、アメリカが介入の手を延ばし始める。ZANUがソ連から、ZAPUが中国からそれぞれ闘争の支援を受けていたために、東側、特にソ連とキューバの介入をアメリカが恐れたからである。

アメリカと近隣5ヶ国に、投資の利潤で甘い汁を貪ってきたイギリスなどの西側諸国も加わって、事態の収拾に向けての様々な会談や調停が繰り返された。そして、1979年にイギリスのランカスターハウスで行なわれた会議で、ようやく最終案が成立した。

翌年の1980年2月の選挙では、ZANUが57議席、ZAPUが20議席、穏健派の統一アフリカ民族評議会(UANC)が3議席を取り、四月にはZANUのムガベを首班とする黒人政権が誕生した。

しかし合意された最終案は、白人の特権を保護するなどの条件がついた妥協の産物であったため、独立とは名前だけの船出となってしまった。政治や行政面ではアフリカ人が権利を勝ち獲ったものの、経済面や技術分野での主導権は白人や外国資本に握られて、基本的な搾取構造は変わらなかったので、大半のアフリカ人の生活は苦しいままであった。

独立闘争での働きも大きかったので、ツォゾォさんは、新政権の下で重用されている。1984年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まった。1986年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、二年間で演劇と映画の学位を取ったそうである。帰国後、1992年の8月に副学長補佐に昇進した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」23号(復刊2号)74-77ペイジ

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