ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 三 グレート・ジンバブエ

2020年2月2日2000~09年の執筆物アフリカ,ジンバブエ,随想

概要

一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は大遺跡グレート・ジンバブエに行った時の話です。(写真作業中)

本文(写真作業中)

(一九九二年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 三 グレート・ジンバブエ  玉田吉行

グレート・ジンバブエ

ハラレに来る前は、折角ジンバブエまで行くのだから、有名なヴィクトリアの滝と石造りの遺跡くらいは観にいこうという気持ちがなくもなかったが、いざ住み始めてみると、わざわざ無理をしてまで観光にでかけるのが億劫になってしまって、親の方は遠出は止めようと言い出した。しかし、子供の好奇心は押しとどめようがない。結局子供たちに押し切られ、どちらか一方という妥協案を出して、重い心を引きずりながら、一人で街中の旅行会社に出かけた。

遺跡グレート・ジンバブエもヴィクトリアの滝もハラレからは遠い。遺跡は南に三百キロほど、滝は西に九百キロ近くも離れている。今は乾期だから、遺跡の方は大丈夫のようだが、滝の方はザンベジ川の流れる湿地帯にあるので、マラリアの危険がないわけではない。入院する事態を想像すると、ますます億劫になる。結局、今回は遺跡に関心の高い長男の意見を優先して、グレート・ジンバブエ行き日帰り旅行に落ち着いた。

飛行機と車の料金に昼食付き税金込みで、三千七百三十三ドル、一人約九百三十三ドル、二万三千円あまりである。高いと思うのは、ハラレに少し馴染んできたせいだろうか。しかし、千ドル近いお金を出して、日帰り旅行に出かけるアフリカ人がそういるとは思えない。

九月からは子供たちの学校も始まるので、八月の半ばの土曜日に行くことにした。予約を済ませて料金は払ったものの、いざ行くとなると空港までの行き帰りも大変である。家から空港まで二十キロはあるし初めてでもあるので、八時過ぎの便に乗るには六時くらいには家を出た方がよさそうだ。タクシーの予約もしなければならないが、アフリカ時間が気にかかる。電話には慣れてきたが、飛行機に乗り遅れるとあとの手続きも面倒なので、今回は念には念をいれて、ゲイリーに予約を頼むとしよう。電話でゲイリーがどんな言い回しをするかにも興味がある。今後の参考にさせてもらおう。

出発の朝である。アフリカ時間の心配は杞憂に終わった。予定の六時きっかりにタクシーがきて、滑りだしは順調である。土曜日でもあるし朝が早いこともあって、タクシーは市街地を快調に飛ばして、半時間後には空港に着いた。ただ、タクシーの窓ガラスが割れており、隙間から冷たい風が入ってくるとは、予想していなかった。隙間といってもこぶし大はある。石でも当たったのだろう。ぎざぎざの穴を中心に、後部の窓ガラス全体にひびが入っている。今にも砕け落ちるのではないかと気が気ではないが、運転手の方は別に気にしている様子もない。穴の前に座った妻は風に弱いので、中央に身を寄せウィンド・ブレイカーの衿を立てて震えている。

この車に限らず、タクシーは全般に、料金が安い代わりに辛うじて運転できればいいという状態の車が多い。ドアの把手が取れていたくらいで驚いていてはいけない。その場合は運転手が気を使って、開けるのにコツがあってねと言いながら開けてくれる。タイプは違うが、一応は運転手による自動開閉式である。

国際空港もぱっとしなかったが、国内線のほうは、もうひとつぱっとしなかった。行けるのかなあと不安になるほどだった。しばらくすると、小さな黒板に出発便の掲示が出て、無事チェックインを済ませた。

空港内で、日本からと思われる団体客を見た。ヴィクトリアの滝へ行くらしい。ズック靴に、リュックを背負い、首からカメラを下げて、右手に風呂敷包みを持ったおばあさんがいた。添乗員と思われる若い女の人に大きな声で、何か日本語でしゃべりかけている。四人は思わず顔を見合わせて、ヴィクトリアの滝へ行かなくてよかったとしみじみ思いながら、同時に深い溜め息をついた。

さあ、いよいよ出発である。

飛行機は十二人乗りの小型のプロペラ機で、機体にはユナイテッド・エアと書いてある。パイロットもアメリカ人のようだ。乗客は十二人、すべて外国人で、私たち以外は白人である。飛行機に弱い長男は前の席を希望したが、座席は向こうが決めるらしく、真ん中の席になった。すでに、長男は酔わないかと身構えている。

飛行機は飛び立った。小さいので音が大きく、会話も難しい。目的地は南へ三百キロのマシィンゴ空港である。

厳しい太陽が照りつける大地はからからに渇いていた。ハラレの市街地を出ると、時折り集落が目に入ってくるが、湖や川などは一切見当らない。空港に着くまでの一時間ほど、同じ赤茶けた大地が続いていた。今世紀最大の旱魃といわれる光景が眼下に広がっている、そんな感じだった。一体、この渇ききった中で、人々はどうやって暮らしていけるのだろうか。窓越しの大地を見ながら、そんな疑問が頭を離れなかった。 一時間でマシィンゴ空港に着いた。出迎えの車が二台待っていたが、自家用車である。小型バスの都合がつかなかったから、自家用車三台で運ぶ、追って一台来るので待って欲しいという。

小さな空港である。時間もあるし、記念に写真でも取ろうかとカメラを出したら、空港の建物は撮影禁止になっていると注意された。飛行機ならいいですよというので、飛行機と一緒に子供をフィルムに収めた。よく事情はわからないが、今、軍隊のある社会主義の国にいるのだ、そんな思いがかすかに頭をかすめた。十分ほどして、白人のおばあさんが迎えにきた。渇いた大地の中の舗装した道路を、猛ピードをあげて車は進む。道路脇両側の舗装されていない細い道をアフリカ人が歩いている。頭に大きな荷物を乗せている人が多かった。グレート・ジンバブウェまで二十八キロと案内書には書いてあるが、あっという間に、遺跡近くのホテルに着いた。

外国人向けのホテルは、小綺麗に整備されている。さっそく、給仕のアフリカ人が飲み物の用意をしてくれた。子猿がいる!と子供たちがカメラを出した。

一息ついたあと、グレート・ジンバブウェに出発した。運転手が若い女性に変わっている。休暇を利用して南アフリカから手伝いに来ており、ここから車で三時間ほどの所に住んでいるらしい。ターニャという。南アフリカは地続きだから、車で行けるのか。それにしても、三時間とは近いものだ。ここでは外国から来ても、必ずしも海外からとは言えないわけである。

しばらくして、遺跡に着いた。小高い丘に、石造りの建造物がある。想像していたほどの威圧感はない。アフリカ人男性のガイドが英語で説明してくれる。説明を聞いてもあまりわからない三人は、ガイドから付かず離れずの別行動である。

建物は、大きさは煉瓦の数倍、厚さは半分くらいの石が積み重ねられて作られている。この辺りには、このような遺跡が百五十ほどもあって、ここが最大級のものである。日本でも時たま特集番組で報じられたりしている。最初、ヨーロッパ人移住者がここに来た時には、その威容に圧倒されたと聞く。その人たちが金銀財宝を我先に持ち帰ったので、遺跡の研究は最初から、足をすくわれてしまった。それでも、遺跡の中で発見された陶器から、ヨーロッパ人が到来する以前より、遠くインドや中国との国交があったと推測されている。おそらく、イスラム商人が仲買人だったようだ。その交易網は、カイロを軸に、駱駝を巧みに操るベルベル人によって西アフリカとも繋がり、西アフリカと南アフリカで取れる質のよい金を交換貨幣に、黄金の交易網がはりめぐらされていたとも言われる。

はっきりとは断定出来ないが、十三世紀から十五世紀あたりに作られたのではないかとガイドの人が説明している。当時、外敵から身を守る必要性も内戦の脅威もなかったので、おそらく国王の威信を高めるために、石が高く積み上げられたのだろうという。

ひと通り見終わり、ホテルに帰って昼食を終えたあと、近くにあるカイル湖に案内された。普段なら水量豊かだという湖が、干上がって底を見せている。大きなダムの近くに辛うじて水が溜まっているばかりだ。山羊だと、長男が大声をあげた。しかしよく見ると牛である。この旱魃で、痩せ衰えているのだ。新聞で同じような写真を見てはいたが、山羊と間違えるとは思わなかった。予想以上である。

湖からホテルに戻って一休みしている間に、巨大な車を見た。ダンプカーよりもはるかに大きい。上半身裸の白人が大声で何やらしゃべっている。梯子がついて高い柵のようなものが荷台を囲っているから、多分サファリ用の車だろう。野性動物を追いかけながら、サファリパークの中をこの巨大な車で走り回るのだろう。その並はずれた大きさに、好奇心の強さと飽くなき欲望の激しさを見たような気がした。

夕方、暗くなる頃にハラレ空港に戻ったが、帰りの足がない。この時間帯には利用客がないからだろう、タクシーが見当らない。うろうろしていたら、シェラトンの赤い制服を着たアフリカ人が、どうしましたかと声をかけてくれた。事情を話すと、タクシーは多分見つからないでしょうからホテルの車にどうぞと言ってくれたので、有り難く便乗させてもらった。その人が専用バスを運転して、宿泊客をホテルまで送り届けるらしい。大助かりである。しかし愛想のよかったその人が、別のホテルの泊まり客である若い白人の女性には割りと冷たい態度で接していた。

降りる時に料金を聞くと要らないですよと言われたが、運転手の気遣いが嬉しくて、料金に相当するだけのお金をそっと渡してバスを降りた。ホテルでタクシーに乗り換えた時は、もう辺りは真っ暗だった。

 

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」3号に収載予定で送った原稿です)

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