コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』

2020年1月19日2000~09年の執筆物アフリカ,随想

概要

エイズの世界的な蔓延や、エボラ出血熱の大流行の遠因となったザイールの過去の歴史を検証した論文である。ザイールの惨状は豊かな鉱物資源に群がる西洋資本と、その資本と手を結ぶ一握りのアフリカ人が多くのアフリカ人労働者を搾取する体制から生まれたものであるが、その基本構図はベルリン会議後の1886年に承認されたベルギーのレオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」によって築かれた史実を論証した。その基本構図が、その後ベルギー領コンゴ、ベルギーから独立を果たしたコンゴ、アメリカに後押しされたモブツ大統領の独裁国ザイール、そして現在のコンゴ民主共和国へと引き継がれている点も指摘した。

本文(写真作業中)

ごんどわな復刊3号(24号、2001年1月)2-5ペイジ

 

コンゴの悲劇(一) レオポルド二世と「コンゴ自由国」

 

悲劇の始まり

「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていた。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一頁が始まろうとしていた。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしている……。

しかし、ここ三年の、何という変わり様か!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題である。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりである。」

赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの実情を、米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)にそう誌した。(註1)

レオポルド二世

シェパードはコンゴに赴いた最初のアフリカ系アメリカ人で、「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたのである。

1890年から20年間アフリカで過ごしたシェパードは、レオポルド二世の「コンゴ自由国」の下での「変わり様」を目撃した。

シェパードが続けて誌す。

「どうしてこんなに変わったのか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからである。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしてゆけない。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もない。」(註1)

「認可」を出したのは、1865年に30歳で王位に着いたベルギーのレオポルド二世である。かつてスペイン、オーストリア、フランス、オランダの支配を受け、1830年に独立したばかりのベルギーは、大国フランスとドイツ両国に挟まれた弱小国家だった。両親も本人も、政略結婚を余儀なくされ、家族関係も冷たく、父母の情愛を受けずに成人している。

十歳から軍事教育を受けた王は学業に熱心ではなかったが、地理には関心を寄せた。貿易の利潤に興味を持ち、世界地図を眺めながら、いつかは植民地を手に入れたいと思うようになっていた。王位に着く前年に、イギリス所有のセイロン、インド、ビルマと、オランダ所有の東インド諸島を訪れてから、植民地獲得の夢はますます膨らんでゆく。

ほぼ20年後の1885年に、レオポルド二世は50歳で宿願の植民地「コンゴ自由国」を入手するのだが、小さな国の国王個人が、どうしてアフリカ奥地の広大な植民地を首尾よく手に入れることが出来たのか。

 

「コンゴ自由国」の成立

個人の植民地とは不思議な話だが、王の執念と、植民地列強の思惑と、時代の流れとが交錯して、現実に個人の植民地が成立した。

産業革命を果たした西洋社会は、作り過ぎた工業生産品を捌く市場と、労働者の安価な食料と工業の原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げていた。ヨーロッパでは、侵略を正当化するための世論が大勢を占めていた。

1876年に王は、アラブ人の奴隷貿易廃止と「野蛮人に文明を」という大義の下に国際アフリカ協会を設立し、本部をブルリュッセルに置いた。すべて、植民地獲得への布石だった。

王は、初めからアフリカに拘ったわけではなく、薄れつつあった王室の権力を取り戻しさえ出来れば、植民地はどこでもよかった。しかし、当時すでに植民地はすべて西欧列強の手中にあり、世界地図の空白は、赤道直下のコンゴ川流域だけだった。世界地図の空白は、ヨーロッパ人「未到」と、他の植民地で手一杯のイギリスも、その地域を挟んで牽制し合うフランスもドイツも、まだ手を出していないという意味合いを含んでいた。王は、その空白に目をつけ、すでに東側から大陸横断を終えて、支援者を探していた英国人探検家ヘンリ・スタンリーに、密かに急接近を開始した。

情報から、王は、コンゴ川流域が植民地には最適と判断し、直ちに、450人の首長からただ同然の価格で広大な土地を買収させた。

スタンリーは、情報と世論の支持とを得るには欠かせない人物だった。世論の操作と外交術に長けた王は、イギリス、ドイツ、フランスの首脳を宮廷に招いては、手厚く遇した。成否の鍵を握るアメリカには、自らも乗り込み、大統領官邸との繋ぎ役には、南部の黒人人口の増加に脅威を感じ、アフリカに黒人を移住させたがっていた下院外交委員会議長のジョン・モーガンを選んだ。アメリカと、「小国なら却って実害がない」と考える西欧主要国の支持を得て、1886年のベルリン会議で、王個人が所有する植民地として「コンゴ自由国」が承認された。

 

「コンゴ自由国」

王は生涯に一度もアフリカに行かなかった。本国から指示を出し、当初は象牙で、後にはゴムで利潤をあげた。力による支配を強行し、劣悪な条件下でアフリカ人を働かせ続けた。

1888年には、ベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げた。

支配の根底には、アフリカ人蔑視の考え方があり、鞭打ちなどの残忍な手法を用いた。象牙の輸送には、急流地域では陸路を使うしかなく、大量の人夫が必要だった。当然、多くの犠牲者も出た。特に、ゴムを運ぶための鉄道建設では「レール一本を繋ぐのにアフリカ人一人の犠牲者が出た」とまで言われた。

1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起きた。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇った。アジアやラテンアメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの二十年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせた。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させた。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れた。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業を強いられた。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だった。

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされたが、その支配は23年間に及んだ。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能だが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されている。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われる。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んだ。

 

(註)

 

1) Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost A Story of Greed, Terror, and Heroism in  Colonial Africa    (Mariner Books, 1998)

 

2) 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びた。

執筆年

2001年

収録・公開

「ごんどわな」24号2-5ペイジ

 

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