ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した初回分の「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988 」です。1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo.62(2013/7/10)までです。
本文
ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988
アフリカについて考えるようになったのは偶々です。考えている間に、無意識に一度はアフリカに行ってみないとなあと思うようになっていました。80年代の初め辺りからアフロ・アメリカの延長線上にある問題としてアフリカについても書くようになっていましたが、書く限りは、出来れば家族とある一定の期間はアフリカに行って住んでみないと気が引けるなあ、と考えるようになっていました。
宮崎医科大学から在外研究に行ける可能性が高かった1990年に文部省に申請書類を出す前は、アレックス・ラ・グーマ(1925-85)の生まれ育った南アフリカのケープタウンに行ってみたいと考えていました。
アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)
しかし、今では嘘のような話ですが、在外研究を申請した時点では、日本政府は南アフリカとの文化・教育の交流の禁止措置を取っていましたので、国家公務員の南アフリカ行きは認められませんでした。結局は、国内が独立に向けての混乱期でもあるので今回は遠慮して、しかし、折角の機会でもあるので、せめてアメリカ映画「遠い夜明け」のロケ地となった南アフリカとは地続きの隣国ジンバブエの赤茶けた大地を見に行こう、と自分に言い聞かせました。
ケープタウン(南アフリカ観光局パンフレットより)
1992年の7月から2ヶ月半の間、首都のハラレの白人居住地区にあるジンバブエ大学に行って、家族といっしょに暮らして来ました。その時の話です。
スイス人のおばあさんから借りた家
アフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(1908~1960)の『ブラックパワー』(1954年)がアフリカについて考える直接のきっかけだったと思います。
パリに住んでいたライトが、アフリカ独立の動きをいち早く察知して、当時英国の植民地だったゴールドコーストに行き、後に首相となるクワメ・エンクルマ(1909~72)に会って書いた旅行書です。その時も無意識にライトの生まれたミシシッピに一度は行かないとなあと考えていました。
『ブラックパワー』については1985年に「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」第55号26-32頁)、英訳“Richard Wright and Black Power”(Memoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48, 1986.)を書きました。
リチャード・ライト(小島けい画)
初めてアメリカに行ったのは1981年の夏です。団塊の世代ですので、アメリカには憧れと反発が両方あるようで、高校の英語の教員をしていましたが、英語は話さないと決めていました。たぶん、アメリカかぶれした風潮に少しは抵抗したかったのでしょう。日本の学校では、英語がしゃべれなくても英語の教師は務まります。「ライトはミシシッピに生まれて、メンフィス、シカゴ、ニューヨーク、パリと移り住んだそうだから、取り敢えず、今回はパリを除いて反対にずっーと辿ってやろう」、と思って出かけたのですが、シカゴと二ユーヨークで本を買いすぎて、セント・ルイスあたりで資金が尽きてしまい、南部へは辿り着けずじまいでした。英語には、当然のことながら不自由をしましたが、それでも英語をしゃべりたいとは思いませんでした。その後、高校を辞めて大学を探し始めましたが、なかなか見つかりませんでした。
ライトに関する本は大体読みましたが、ミシェル・ファーブルさんの伝記が一番でした。自分の書いたもののレベルが知りたくて英語に翻訳してファーブルさんにも送りました。返事はもらえませんでしたが、1985年にライトの死後25周年を記念する国際シンポジウムで直接お会いすることが出来ました。夜、寮の一室でファーブルさんとお話する機会があったのですが、英語をしゃべらないと決めていたせいで、自分の思いを伝えられませんでした。外国語が出来なくて悔しい思いをしたのはその時が初めてです。帰国してから英語で自分の思いが伝える準備を始めました。2回目のアメリカ行きでした。(ジンバブエの帰りにパリのファーブルさんをお訪ねした時、英語には困りませんでした。)
ライト死後25周年記念国際シンポジウム
「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」(「黒人研究の会会報」第22号4頁。)、“I Like Michel ”などを書きました。
シンポジウムはミシシッピ州立大学であったのですが、その時の発表者の一人、ケント州立大学で英語科の教授をしておられた伯谷嘉信さんから87年の会議で発表しませんかとの誘いを受けました。伯谷さんが司会をするイギリス文学、アメリカ文学以外の英語による文学の部会でラ・グーマについて発表することになり、その時から南アフリカの歴史についても考えるようになりました。日本語でお誘いを受けたものの実際には英語を話す人たちの前で発表するし、この前は南部を回れなかったこともあって、翌年の86年の夏に、再び南部に行きました。今回は一人でライトの生まれ育ったナチェズ、ジャックソン、グリーンウッド、メンフィスなどを歩きました。ミシシッピ州オクスフォードの本屋にも再度立ち寄り、店主のリチャーズさんにアフリカに関する資料は日本では手に入れ難いので、いいのが見つかったら送って下さいと頼んで来ました。3回目のアメリカ行きでした。「ミシシッピ、ナチェズから」(「英米文学手帖」24号72-73頁、1986年。)、「なぜ英語が出来なかったか」(すずかけ祭第20回宮崎医科大学パンフレット、1996年)などを書きました。
ある日、リチャーズさんから『アレックス・ラ・グーマ』という新刊書が届きました。読んでみると本格的な学術書でした。セスゥル・エイブラハムズという著者名しかわかりませんでしたが、ラ・グーマに関してはこの人に聞くのが一番だと思いました(ラ・グーマは既に亡くなっていました。)住所を調べて「行ってもいいですか?」と手紙を書いたら、「北アメリカに来たらお電話下さい。」と返事がありました。エイブラハムズさんは伯谷さんが住んでおられたオハイオ州に近いカナダのセイント・キャサリンズという町に住んでいました。19歳の時に亡命して、当時はブロック大学という大きな大学の人間学部の学部長をされていました。日本はアパルトヘイト体制の白人政府のパートナーで、南アフリカの人たちにとってはいわば敵国でしたが、温かく迎えて丸3日間も泊めて下さって、ラ・グーマについて色々と教えてくれました。4回目の渡米です。「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁、1987年。)、「あぢさい、かげに浜木綿咲いた」「英米文学手帖」24号123-124頁、1987年。)、“Africa and I”(1995年)などを書きました。)
セスゥル・エイブラハムズさん、娘さんと
その年の暮れにサンフランシスコで行われた会議で無事ラ・グーマについて発表しましたが、その夜、エイブラハムズさんは奥さんを連れて、家族で泊まっていたホテルの部屋まで会いに来てくれました。5度目のアメリカ行きでした。「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」(「黒人研究」58号36頁、1988年。)、「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」(「ゴンドワナ」11号22-28頁、1988年。)などを書きました。)
翌年には、主に北米に住む亡命中の南アフリカの人たちが集まったラ・グーマの記念大会で「ヨシ、ラ・グーマの奥さんのブランシも来られるので、発表してみないか。」と誘われて、ラ・グーマについて発表して来ました。初めてブランシさんにお会いして、すてきな人だなあと思いました。発表については、「視線がきついなあ」と感じました。白人政府と結託して自分たちを苦しめている国から来た発表者に対して、無理もなかったと思います。6度目の渡米で、それ以降何度か行く機会もありましたが、それ以来アメリカには行っていません。
ブランシさん
私は1949年(昭和24年)に兵庫県の小さな町に生まれました。4、5歳くらいからの記憶がぽつりぽつりと残っていますが、まだ戦争の影響が色濃く残っていたように思います。
東京オリンピックが1964年に開催されたために中学3年次の東京への修学旅行が2年次に変更になったり、1970年の学生運動で同じ歳の東大生全員が留年したり、今から思えば、時代の波をまともに受けていたようです。スラムのようなところで育ち、地域や学校にも馴染めず、いつも疎外感ばかり感じていました。ラ・グーマのように、貧しくても両親に大切に育てられていたら世の中を憾むこともなかったかも知れません。ミシシッピにアフリカ系アメリカ人として生まれ、屈辱と疎外感に塗れて育ったライトの作品に惹かれたのも、自分の心にいつもあった疎外感のためかも知れません。
受験勉強が出来なくて、一浪までしていますが、結局家から通える神戸市外国語大学の夜間課程に行きました。世の中に背を向け、渋々行った大学で、何も期待していないうえ、授業にも出ない出来の悪い学生でしたが、結局は英語の授業で使われたライトの教科書や、留年して取った高校の教員免許状があとで関係するとは思ってもいませんでした。偶々アパルトヘイトが廃止される直前の歴史的な空間に巡り合わせたわけですが、その後も南アフリカには行けずじまいでいます。
神戸市外国語大学(ホームページより)
ハラレから戻って半年後に、今しか書けないと思って絞り出すようにして書いた本を元に、赤茶けた大地を思い出しながら、書いてみたいと思います。(宮崎大学医学部教員)
執筆年
2011年7月10日
収録・公開
→「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988」(「モンド通信」No.35)