続モンド通信28(2021/3/20)

2021年5月21日続モンド通信・モンド通信

続モンド通信28(2021/3/20)

私の絵画館:早春の馬(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑦:(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜25:第二次世界大戦直後の体制の再構築の第一歩―コンゴとガーナの独立 (玉田吉行)

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1 私の絵画館:早春の馬(小島けい)

ぼんちゃん

まだ雪の残る草原を走るのは<ぼんちゃん>です。

元馬主の獣医さんは、毎月、札幌と宮崎2軒のお家を行き来しておられるお元気な方ですが。還暦を期に、長年一緒に競技に出ていたぼんちゃんを、宮崎のお友達の牧場に譲られました。ぼんちゃんの目には、暖かい気候がよいとのご配慮もあったそうです。

その牧場が私が乗馬で通う<カウボーイアップランチ>です。

ぼんちゃんは、一時足を痛めたり、左目が見えなくなったりはしていますが、いつも広馬場に一番近い厩舎にいて、私が牧場に行くと<早くニンジンちょうだい!>と、今もまだまだ元気です。

絵はぼんちゃんが以前すごしていた十勝の早春の風景のなかで、楽しそうに走っている姿を描きました。

ぼんちゃん:カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」3月

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑦:「猫の時代」(小島けい)

毎年3月になると、今年で何年目?と数える日があります。それが3月31日です。

この日が、のら猫<よんちゃん>が家猫<アリス>となった日で、さらには私たちの<猫の時代>の始まりでした。。

それまで私は、小さい頃から母に言われた<猫はよそ様に迷惑をかけるから、家では飼えないのよ>という言葉が頭から離れず、ずっと見ないように努めてきました。まだ<家猫>という概念も、なかった時代でした。

けれど、19年前の春、突然、帰ってきた娘のジャンバーの中から子猫が顔を出しました。渋谷で保護したノアという子でした。以来、何年間かは、犬(ラブラドール)の三太と猫のノアの共同生活が続きました。いわば、私たちの<犬の時代>から<猫の時代>への移行期でした。

のあ:カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」1月

私の<相棒>だった三太が、2008年1月7日に旅立った後。茫然自失の状態だった私たちと、急に一人ぽっちになって眠る時間が多くなったノアでしたが。3月31日を境に、とても寝てなどいられない事態となりました。

三太:カレンダー「私の散歩道2020~犬・猫ときどき馬~」7月

その頃のことを、私は2009年11月の絵画館で、次のように書きました。

この絵画館の連載を始めて間もない2010年1月に、次のような文章を書きました。→私の絵画館1「母親になった猫」(モンド通信 No. 16:2009年11月29日)

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母親になった猫

二年前の夏の終わり。犬の三太と近くのキャンパスを散歩していた時、グランドの近くに、小さな黒いものがちょこんと座っていました。夕闇のなかよく見ると耳の大きな子猫で、一瞬の後、ピャーと走り去りました。★ 続きは題をクリック ↑

その二ヶ月後。同じ場所に黒いものが座っていました。その時も一瞬見つめあった後、大きくジャンプして消えました。闇に浮かんだシルエットは、ガリガリすぎる子猫でした。
寒さは日々厳しさをましており、その子は1週間ももたないだろうと思われました。わたしたちはその夜から朝晩エサを運び始めました。
これが、後の「アリス」との出会いでした。
しばらくの間、エサはいつもなくなっていましたが、姿は全く見えませんでした。二ヶ月をすぎた頃、ようやく離れた校舎の片隅に小さな姿を見るようになりました。
三ヶ月を過ぎると、物陰で待っていて、姿を見ると飛び出してくるようになりました。なかなか触われませんが、エサを食べ始めた時だけ抱くことができるようになりました。
私たちが遅くなった日には、ずいぶん手前の植え込みまで迎えにきたり、食べ終わった後に、近くを散歩している私たちをみつけると、ついて来ようとし始めました。
簡単に身体に触れることはまだできなくても、「車が危ないからお帰り」と追い返すのが、だんだんつらくなってきました。
そうして、昨年の三月三十一日、私たちは一大決心をして、キャンパスに向かいました。
いつものように食べ始めた時をねらって、相方が抱きあげ、間髪を入れず私が洗濯網をかぶせ、大暴れする子を家に連れて帰りました。
そして、仮に「よんちゃん」と呼んでいたのら猫は、新しい名前、不思議の国からきた「アリス」となりました。
全く気付かなかったのですが、その時アリスのお腹には、すでに赤ちゃんがいました。
四月二十四日、アリスは五匹の子猫のお母さんになりました。

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五匹生まれた子猫のなかで、元気な男の子<きちゃん>と、二匹の美人猫<さやちゃん><Mちゃん>は、それぞれ優しいご家族と出逢うことができ、今も楽しく暮らしています。

結局、お母さんのアリスの元には、誰よりも気が弱くて寂しがりやの男の子、黒猫の<ジョバンニ>と、獣医さんから生まれつき胃腸が弱いと言われた三毛の<ぴのこ>が残りました。

「梅と猫(ぴのこ)」

梅とぴのこ:カレンダー「私の散歩道2010~犬・猫ときどき馬~」表紙・2月

「水仙とぴのこ」

水仙とぴのこ:カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」2月

向日葵とジョバンニ:カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」8月

三匹とも、見た目はあまり変わりませんが、今年で13年目。それなりの<お年>ですので、この子たちと一緒に、穏やかに一日でも長く元気にすごしたい!と、毎日祈るような思いです。

のあと三太とねむの花:カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」8月

三太と海:カレンダー「私の散歩道2017~犬・猫ときどき馬~」8月

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜25:体制再構築時の狡猾な戦略―ガーナとコンゴの場合

第二次世界大戦直後に、それまでの植民地体制から新たな搾取構造を構築した際に取った「先進国」側の狡猾な戦略について絞って書きたいと思います。第1回Zoomシンポジウム↓で大雑把に紹介した内容の詳細です。→「Zoomシンポジウム2021:第二次世界大戦直後の体制の再構築」

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

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第1回Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―第二次世界大戦直後の体制の再構築

日時:(2021年2月20日(土)10:00~12:00発表:

発表者:

玉田吉行(多文化多言語教育研究センター特別教授):「体制再構築の第一歩―ガーナとコンゴの独立時」

寺尾智史(同センター准教授):「列強による分断の果てに――赤道ギニアのビオコ島、アンゴラ飛地のカビンダの現代史」

杉村佳彦(同センター講師):「マオリの都市化―戦後不況を乗り越えて得たもの―」

司会:中原愛(地域資源創成学部2年)

参加者:キム・ミル(地域資源創成学部2年)、得能万里奈(地域資源創成学部1年)、SILUMIN SENANAYAKE(工学部3年)、山田大雅(工学部1年)、國本怜奈(農学部1年)、金子瑠菜(防衛大医学部1年、杉井秀彰(工学部2年)、ルトフィア・ファジリン(宮大研究生)、ユ・ハンビッ(元宮大留学生)

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① はじめに

この五百年ほど、アングロ・サクソン系を中心にした欧米諸国は、奴隷貿易による資本蓄積によって農業中心の社会から産業社会への「近代化」をはかり、奴隷制や植民地支配体制で暴利を貪り続けてきました。植民地争奪戦が余りにも苛烈で世界大戦の危機を感じて、宗主国はベルリンで会議を開きましたが、結局二度の世界大戦で殺し合いました。その結果、欧米諸国と日本の総体的な力は低下して、それまでの植民地支配による搾取構造を続けられなくなり、新しい形の搾取体制を再構築せざるを得なくなりました。自称「先進国」は自国の復興に追われますが、それまで抑えられていた「発展途上国」は欧米諸国に留学していた若き指導者を中心にそれまで無視され続けて来た権利を奪い返すために独立運動を展開し始めました。「発展途上国」の総体的な力が上がったわけではありませんでしたが、時の勢いとは恐ろしいもので、いわゆる祖国解放に向けての変革の嵐(The Wind of Change)が吹き荒れました。今回はガーナとコンゴでその時に取った「先進国」の狡猾な戦略に絞って書いて行きます。②ガーナの場合、③コンゴの場合、④アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、の順に書いて行こうと思います。

取り上げるのはガーナとコンゴ、資料はクワメ・エンクルマとトーマス・カンザの著書とバズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」です。ガーナの初代首相エンクルマは自伝『アフリカは統一する』(Kwame Nkurumah, Africa Must Unite, 1963)を、トーマス・カンザは『パトリス・ルムンバの盛衰』(Thomas Kanza, The Rise and Fall of Patrice Lumumba, 1978)を書き残しています。

「アフリカシリーズ」はアフリカを誰よりも総体的に眺められた英国人バズル・デヴィドスンの映像です。そこにはもちろん、二人の生き証人も登場しています。1983年にNHKで放送された45分8回シリーズの番組で、英国誌タイムズの元記者で後に多数の歴史書を書いたデヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されています。アーカイブにもなく、今となってはとても貴重な映像です。1980年代半ばに、先輩の小林さんの世話で大阪工業大学で非常勤講師をしている時に、英語の授業で使っていたLL教室でコピーさせてもらい、その後映像ファイルにして英語や教養の授業でも継続的に使ってきました。「アフリカシリーズ」については「続モンド通信」の連載の一つに書きました。「アングロ・サクソン侵略の系譜17:『 アフリカの歴史』」「続モンド通信20」2020年7月20日)

「アフリカシリーズ」

② ガーナの場合

それまで押さえつけられていたアジアやアフリカで独立に向けての胎動が始まったとき、宗主国はそれまでのようにその動きを押さえにかかりました。しかし得策ではないと見るや、押さえるのをやめ、独立過程を妨害して国を混乱させ、政敵を担いで軍事政権を樹立する戦略に切り変えました。予想以上に変革の嵐が激しかったのと、第二次世界大戦で疲弊した自国の復興に追われて植民地支配どころではなかったからです。混乱を引き起こし、これ見たことかと誹謗中傷し、アフリカ人に自治の能力はないと嘲りました。

ガーナは当時イギリス領ゴールド・コーストと呼ばれ「模範的な」植民地でしたから、欧米に留学経験のあるエンクルマなどの若き指導者に率いられる運動を押さえるために指導者を投獄して抑えにかかりましたが、時の勢いは抑えきれませんでした。そこで、戦略変えました。抑えきれないなら、独立の過程を可能な限り妨害したのち、「民主主義的な」選挙を経て独立を承認→独立後国内を混乱に陥らせたのち別の指導者を立ててクーデターを画策して軍事政権を樹立、傀儡を操作して国外から支配を継続する、という流れでした。のちに他の植民地でもほぼ同じような経過を辿っています。

1947年に故国に戻り、統一ゴールドコースト会議の書記として精力的に活動をしていたエンクルマが、大衆に促されてその職を辞して会議人民党 (Convention People’s Party) を指導して行くことを決意した時のことを次のように書き残しています。

「私を支持してくれる人びとのまえに立ちながら、ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をささげようと私は誓った。

これが黄金海岸の民族運動の進路を定める分岐点となったのだ。イギリス帝国主義のしいた間接統治の制度から、民衆の新たな政治覚醒へと ? 。このときから闘いは、反動的な知識人と首長、イギリス政府、「今すぐ自治を」のスロ一ガンをかかげた目ざめた大衆の三つどもえでおこなわれることになったのだった。」(エンクルマ著、野間寛二郎訳『わが祖国への自伝』筑摩書房、1967年(Kwame Nkrumah, The Autobiography of Kwame Nkrumah, 1957))

「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」

会議人民党を率いるエンクルマは大衆の圧倒的な支持を得て、即時の自治を要求しました。当時エンクルマの右腕だったコモロ・べデマは当時の様子を次のように話しています。

「私たちは若く行動的で、演説も力強かった。もちろん、エンクルマの人柄も若い人をひきつけました。急進的で、確かに先輩たちより多くのものを求めました。即時自治も求めました。新憲法である程度の自治が認められましたが、私たちの要求は完全自治でした。」(「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」)

エンクルマは当選し、1957年に初代首相になりました。しかし、政権に就き、首相官邸に入った初日からイギリスの悪意を思い知らされることになりました。当日のことを伝記に次のように記しています。

「遺産としてはきびしく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとのイギリス総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。とくべつの家具が一つあったほかは、わずか数日まえまで、人びとがここに住み、仕事をしていたことをしめすものは、まったく何一つなかった。ぼろ布一枚、本一冊も、発見できなかった。紙一枚も、なかった。ひじょうに長い年月、植民地行政の中心がここにあったことを思いおこさせるものは、ただ一つもなかった。

この完全な剥奪は、私たちの連続性をよこぎる一本の線のように思えた。私たちが支えを見い出すのを助ける、過去と現在のあいだのあらゆるきずなを断ち切る、という明確な意図があったかのようであった。」(野間寛二郎訳『アフリカは統一する』(理論社、1971年、Kwame Nkrumah, Africa Must Unite, 1963)

『アフリカは統一する』

イギリスの思惑通り、ベトナム戦争終結に向けて毛沢東と会談するために中国を訪れている時にクーデターが起き、結局エンクルマは生涯祖国に戻れませんでした。1972年にルーマニアで寂しく死んだと言われています。

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」第55号、1985年)

③ コンゴの場合

パトリス・ルムンバ

コンゴの場合、ベルギーの取ったやり方は、もっと極端であからさまでした。1960年、ベルギー政府は政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げ、行政の経験者もほとんどいませんでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、国民の圧倒的な支持を受けて首相になったパトリス・ルムンバの排除に取りかかります。当時ルムンバ内閣で国連大使に任命されていたトーマス・カンザは当時の模様を次のように話をしています。(のちに『パトリス・ルムンバの盛衰』(Thomas Kanza, The Rise and Fall of Patrice Lumumba, 1978)でも詳しく書いています。)

「私は27歳で国連大使となりました。閣僚36人中大学を卒業した者は私を入れて僅かに3人でした。

大国がコンゴに経済的な利権を確立するためにはルムンバが邪魔でした。私は国連でコンゴ危機を予め肌で感じました。国連軍は主にアメリカやヨーロッパ諸国から資金を得ていますから国連軍介入も遅れ、コンゴはたちまち国際植民地と化してしまったのです。」バズル・デヴィドスン作「アフリカシリーズ 第7回 湧き上がる独立運動」(NHK、1983年)

危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しましたが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ・セセ・セコ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

『パトリス・ルムンバの盛衰』

「コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』」(1984年に「ごんどわな」25号に収載予定で送った原稿です。)→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」(「ESPの研究と実践」第5号、2006年)

④ アングロ・サクソン侵略の系譜の中で

2019年の後半からコロナ騒動の渦中にいる今、その騒動の実態を把握し、今後を予測するにはあまりにも大きすぎて途方にくれるばかりですが、歴史とはそういうもので、いつか全体像を把握できるときが来るのかも知れません。

今回科研費のテーマに選んだこの五百年ほどのアングロ・サクソン侵略の系譜も、元々あまりにも大き過ぎてまとめられるものではありませんが、それでも侵略された側が残した記録の中にその形跡を見つけ出すことは可能です。

人々の幸せな暮らしを夢見て大衆から圧倒的な支持を受けて初代首相になったエンクルマもルムンバも無残に排除されてしまいましたが、その人たちが、あるいはその人たちの周りの人たちが残した痕跡を、後の世の人たちが辿り、その中から何かを掘り起こすことは可能かもしれません。そういった意味では、エンクルマの『アフリカは統一する』も、トーマス・カンザの『パトリス・ルムンバの盛衰』も、バズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」も後の世の人たちに伝えたかった魂の記録で、今回の作業はその中から何かを取り出す作業だったんだと思います。(宮崎大学教員)

バズル・デヴィドスン