ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて

2020年2月26日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した最終回の「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「ジンバブエ滞在記」の連載を終えて

ジンバブエに行ったのは1992年、あれからもう20年以上の月日が経ちました。二十年も前に書いたものを今頃メールマガジンに載せていいのかどうか少し迷いましたが、アフリカへの日本人の一般的な意識が当時とさほど変わっていないようですので、
連載することにしました。

前回の「ふたつの壷」で書きましたが、帰って来た当初、しばらくは何も書けませんでした。編集を担当して下さっていた方の奨めもあって、奥さんが書き残した日記を元に、半年ほどかけて何とか「ジンバブエ滞在記」を絞り出しました。

アフリカのことをやる限りは一度はアフリカに行かないと後ろめたい気がするなあというのが行ったきっかけですから、ハラレで家族といっしょに暮らせただけで目的は充分に果たせたわけですが、それでもやはり、行ったという事実は想像以上に重く、その後の歳月に深くかかわることになりました。

アレックスが学生寮に案内してくれたとき3人ほど友人が部屋に来てくれたのですが、一人が聞いた最初の質問が「日本では街にニンジャが走っているのですか?」でした。当時ジンバブエ大学は唯一の総合大学で、約一万人の学生はその国を代表するエリートたちのようでした。その学生の口から最初に出た質問です。流行っていたハリウッドのニンジャ映画の影響でしょうが、街に走っている車の半分はMAZDAでもありました。私は「心配することあらへんで。日本人の大半はアフリカ人が裸同然で裸足で走り回ってると思ってるし、来る前には何人もの人からライオンに気をつけて下さいと言われたからねえ。」と言いました。

アレックスが案内してくれたジンバブエ大学の学生寮「ニューホール」

さすがにエリートたち、お互いの認識不足を自覚したようで、それじゃ実際日本はどうなんですか、と色々と質問をして来ました。

「アフリカへの日本人の一般的な意識が当時とさほど変わっていないようですので」と書きましたが、大半の人は、アフリカは貧しくてかわいそうだから、日本はODAや募金などを通じて援助してあげていると考えているようです。しかし、実態はまるで違います。第二次世界大戦後米国が中心となってつくりあげた搾取制度では、いわゆる先進国と発展途上国の「一握り」が手を携えて大衆から搾り取る仕組みになっています。開発や援助の名目で、多国籍企業、投資、貿易などを通じて搾取が「合法的に」行われています。たとえば、ケニアのナイロビ大学の建物を建てる名目の資金援助の予算がついた場合、国際入札で日本の大手建設会社が建築を請け負い、資材を大手の船舶会社が運び、金銭の取り扱いは日本の大手銀行が請け負う、何割かが「一握り」の懐に収まる、そういう構図です。

旧宮崎大学でいっしょにバスケットをやっていた元ナイロビ大学の教員で当時農学部の大学院生だったルヒア出身のサバが次のように話してくれたことがあります。

いっしょにバスケットをしていたサバや教員や学生たち

「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で『工事中』の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODAの予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今、モンバサで空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。92年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」(「『ナイスピープル』とケニア」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日)

書くための空間がほしくて30過ぎに大学の職を探し始めて1988年、38の時に宮崎医科大学に辿り着きました。在外研究でジンバブエに行ったのは4年目です。大学では教育と研究が求められますから、人も授業も嫌でなかったのは幸いだったと思います。人が人に何かを教えられるのか、人が人を評価出来るのか、といつも悩んでは来ましたが、研究室に学生がたくさん来てくれますし、授業を負担に感じたこともありません。

宮崎医科大学には一般教養の英語学科目等の講師として採用され、主に医学科一年生の一般教養の英語を担当していました。授業では、出来る限り英語を使い、新聞や雑誌の記事や音声や映像を駆使しながら、修士論文で背景も含めて考えたアフリカ系アメリカの歴史や文学や音楽と、その後始めたラ・グーマの文学や南アフリカの歴史などを取り上げました。受験に追われてあまり考える余裕のなかった学生に、中学校や高校では意図的に避けられて来たような虐げられた側から見た歴史や文学を取り上げることによって、歴史観や価値観を再認識して自分や社会について考えてもらいたい、と思ったからです。(ラ・グーマA Walk in the Night (1988) とAnd a Threefold Cord (1991)の2冊の英文編註書を出版してもらってテキストに使いました。)

ジンバブエに行ってからは、その思いがますます強くなり、授業もそのために準備するようになりました。リチャード・ライトの作品を理解したくてアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り、アフリカ系アフリカ人が連れて来られたアフリカ大陸や、富の蓄積を生み産業革命を経て、今の資本主義社会を作りあげ、今の先進国と発展途上国の経済格差を生んだ奴隷貿易などの基本構造を思い知るようになりました。そして何より今もその搾取構造が温存され、今の日本の繁栄もそう言った搾取構造の延長上にあることを知りました。

加害者側にいながらその意識のかけらも持ち合わせていない現状を知ってしまった責任を強く感じるようにもなりました。将来、社会的に影響力のある立場に立ち、人の命にかかわる仕事に就く人たちの意識に働きかけよう、それが見てしまったものの責任かも知れない、と信じ込んでしまったようです。

出版者の方の薦めもあり、この500年のアングロサクソンを中心にした侵略の歴史をまとめて英文のテキストを二冊書きました。Africa and its Descendants 12です。

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Africa and its Descendants 1の表紙)

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Africa and its Descendants 2の表紙

なぜ英語の時間にアフリカ?と反発する学生も多いので、関心を持ってもらいやすいように、医学とアフリカを繋ぐような話題にも目を向け、実際に授業でも取り上げて、聞いたり見たり読んだりするようになりました。

「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(「ESPの研究と実践」第3号5-17頁、2004年。)、「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁、2005年「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号61-69頁、2006年。)“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"(「ESPの研究と実践」第10号12-20頁、2009年。)「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-392010年。などにまとめました。

2003年に旧宮崎大学と統合してからは、全学対象の科目「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」を担当して、教育学部や農学部、工学部の学生にも同じようにやってきました。それを『アフリカ文化論―アフリカの歴史と哀しき人間の性』(2007年)にまとめました。

また科学研究費の交付を受けて、→「(2003~2006) 科研費報告書:英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」
→科研費(2009~2011)報告書「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(https://kojimakei.jp/tamada/2003_06_Kaken_Report.pdf)にまとめています。

ハラレから帰った年に、300人が歓迎してくれたルカリロ小学校には全校生、教職員、村人をおさめた写真を大きく拡大して送りました。ゲイリーの子供たちウォルターとメリティには中学校を出るための学費も送りました。どちらも返事はきませんでしたが。

ルカリロ小学校での集合写真

その後インフレや赤痢などで大変な事態があったようですが、みんな無事に生きのびたでしょうか。

お世話になった吉國さんはすでにお亡くなりになったと死後出版された著書で知りました。定年まであと2年を切りましたが、一番身近で大切な家族に自分の思いを伝えるような気持ちで、自分の思いを伝え続けて来たように思います。

次回から3回は、「ジンバブエ滞在記」を書いた際に調べたジンバブエの歴史について書きたいと思います。

次回は「ジンバブエの歴史1:百年史概要と白人の侵略」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2013年7月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」(No.59)

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