ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷

2020年2月27日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した24回目の「ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ふたつの壷

ザンビアと壺(小島けい画)

私の部屋の本棚に大小2つの壷が置いてあります。帰国前にゲイリーとフローレンスがくれた壷のうちの2つです。主食のサヅァやおかずなどを入れて使っていたものだそうです。私たちの大切な宝ものとなりました。大きい壷の下には、フローレンスが編んでくれたレースの敷物が敷いてあります。

今回はアフリカで暮らせたらと思っていただけでしたから、ゲイリーやアレックスを軸に、これほどまでに事態が急転回を見せるとは思ってもいませんでした。

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(アレックスと)

安価な労働力として大きな歴史の狭間で翻弄されるゲイリー、国の将来を担うアレックス、国民的な作家として活躍するツォゾォさんたちと身近に接しているとき、アフリカの仕組みとアフリカの置かれた厳しい現状の一端を垣間見ているような気がしました。

16世紀に始まった大規模な奴隷貿易によって経済の不均衡がもたらされ、その資本によって産業革命を起こした西洋社会は、資本主義の歯車を回し始めました。同時に、それまであったアフリカ人と西洋人との対等な関係を崩していきます。

しかし、奴隷貿易を可能にした原因は、実はアフリカ人の側にもあったのです。奴隷売買を覇権争いの道具に利用した人たちもいました。それに、奴隷を捕らえたのは、他ならぬアフリカ人でした。中には酒のジン1本と奴隷1人を交換した人もいたと言われます。ジンバブエで解放闘争が長引いたのは、力を合わせるべきアフリカ人同士が争いを止めなかったのも一因でした。もちろん、西洋人がアフリカ人を尊重し、自分たちの欲望をほんの少しでも抑えていたら、きっと歴史も違っていたでしょう。

ジンバブエでは、持てる白人も持たざるアフリカ人も、共に過去の負の遺産を背負って苦しんでいるように見えました。パリに着いてほっとした気持ちを覚えたのは、それだけ欧米諸国と日本の現状が似通っているからでしょう。

帰ってからしばらくは、何も書けませんでした。

ブランシさんはラ・グーマの7度目の命日に「3月から南アフリカに戻って子供や孫とずっと一緒に暮らす決心をしました。」とお便りを下さいました。

家族でロンドンに亡命中のブランシさんと、1992年7月

ゲイリーは私たちの帰った翌日、おばあさんにフローレンスとメイビィを追い出されて涙を流したそうです。

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メイビィ

アレックスは卒業と同時にブラワヨの教員養成大学の講師となり、イグネイシャスは自分の書いた詩と民話の原稿を送ってきてくれました。

今、2度とアフリカには行きたくないという気持ちと、それでもみんなに会いに行くことになるだろうなという気持ちが交錯しています。

いつかこの続編が書けたらと思っています。

1994年1月            宮崎にて

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これで「ジンバブエ滞在記」の連載を終わります。

次回は「『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年6月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記24ふたつの壷」(No.58  2013年6月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷」