ジンバブエ滞在記⑱ アレックスの生い立ち

2020年2月27日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した18回目の「ジンバブエ滞在記⑱ アレックスの生い立ち」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

アレックスの生い立ちアレックスと大学で

アレックスは、1965年に国の中央部よりやや南寄りのシィヤホクウェという田舎で生まれました。シィヤホクウェはグレートジンバブエ遺跡が近いマシィンゴと、中央部の都市グウェルの間にあるタウンシップです。タウンシップは南アフリカと同じように都市部のアフリカ人居住地区を指す時期もあったようですが、今は田舎地方の商店などが集まった地区のことだそうで、ルカリロ小学校に着く前にミニバスで立ち寄ったムレワのタウンシップもそのひとつです。

ジンバブエの地図

1965年は、首相のイアン・スミスを担ぐローデシア戦線党政権が、土地を持った白人の大農家や賃金労働者と南アフリカの白人政府を味方に、イギリス政府や国内の白人産業資本家の意向を無視して、一方的独立宣言(UDI)を言い渡した年で、社会情勢はますます怪しくなっていました。

ゲイリーの場合もそうでしたが、田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようです。学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行きました。アレックスの場合も、入学した時は40人いたクラスメイトが7年生になると25人になっていたそうで、特に女の子の数は少なかったようです。一般的に、親の方も女性はすぐに結婚するから学校は出なくてもいいと考えていたようで、男の子を優先して学校にやったと言います。
中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅かに2人だけでした。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、教育費まで捻出して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからです。

ハラレ近郊のムレワの風景(小島けい画)

普段の生活はゲイリーの場合とよく似ています。小さい時から、1日じゅう家畜の世話です。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていません。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから日没まで、再び家畜の世話だったそうです。

「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ。」とアレックスが述懐します。

小学校では教師が生徒をよく殴ったようです。遅れてきたりした場合もそうですが、算数の時間などは特にひどかったようで、「50問の問題なら、出来る子は1、2発で済みましたからまだましでしたが、出来ない子なんかは悲惨ですよ。48発も9発も殴られて、頭がぼこぼこでした。」と顔をしかめました。

「植民地時代のヨーロッパ人の考え方の影響ですよ。ヨーロッパ人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、ヨーロッパ人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……全寮制の中学校は、その点、まだましでした。」と続けました。
7年間の小学校のあとは、4年間の中学校(FORM1→FORM4)、2年間の高校、3年間の大学と続きます。中学校には普通コース(F1)と職業コース(F2)とがあり、F2は軽んじられる傾向があり、今もその傾向があるようです。中学校も人種別に、白人とカラード用のコース(GRADE1)とアフリカ人用のコース(GRADE2)に厳しく分けられていました。「アレクサンドラパークスクールもGRADE1ですから、今でも白人とカラードが多いでしょう。」と言われてみれば、なるほどと思い当ります。

アレクサンドラパークスクールで

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは2人だけだったようです。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていません。最終学年の81年に、お父さんが死んだためです。田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもありませんでしたので、誰もが教員になりたがったと言います。アレックスも中学校の教師になりました。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうです。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があり、小学校もたくさん作られ、誰もが5キロ以内の学校に無料で通えるようになりました。中学校もたくさん作られました。当然、教員は不足し、経験のない俄仕立ての教師が生まれたわけです。アレックスもその一人でした。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった79年から独立時までは閉鎖されていました。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたと言います。勉強どころではなかったのです。そのあとの激変です。混乱の起きないはずはありません。

「もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……。」

アレックスは高校には行けませんでしたが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうです。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したと言います。その同僚の存在が大いに刺激になったようです。無事に通信課程を終えて、90年から大学に通うようになりました。

画像アレックス、大学で

アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうです。毎日が大変な田舎の暮らしに比べると、という意味合いもありますが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだと言います。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えました。自動車業者との癒着が発覚して、閣僚の1人が辞任した89年の10月に、大学から街中まで初めてデモ行進が行なわれたそうです。街中では、失業者などが加わって大変な騒ぎになったために、それ以降は警備も厳しくなったようです。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になると言います。その年の4月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていました。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめますと、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということでした。
最初に連れて行ってくれた学生寮「ニューホール」

「ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……。」と私が話し始めると
「それは実際には少し違います。」と遮って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれました。

「独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファーストワールドカントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……。
独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権についたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することばかりで、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして「白人」以上の白人になるのは本当に早かったですよ。
この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は40パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。」

アレックス

最後の辺りのアレックスの語気は強く、どうしようもない怒りを必死に堪えているようでした。そして「教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです。」と付け加えました。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、8月17日の「ヘラルド」紙に「多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている」という見出しの次のような書き出しの記事が掲載されていました。

地方で養成された教員が何百人と、近隣諸国で働くために国を離れており、それによって教育の危機的な状況は更に悪化している。ジンバブエ全国学生協議会(ZUNASU)の第3回年次総会を公式に終えたあと、高等教育相スタン・ムデンゲ氏は「地方の教員養成大学で養成された5500人の教員のうち、5000人は産業関係の仕事に就くか、残りは近隣国の新天地を求めてジンバブエを離れているかの状況です。」と語った。

「新天地を求めて国を離れているそういった教員の穴を埋めるには、丸6年の期間が必要であり、学校では深刻な危機に直面しています……。

記事は、アレックスの指摘した税金の重さについては触れていませんが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事についてよかったと思えるかどうかでしょう。
「いくら何でも不公平ですよ。」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないでしょう。

画像

アレックス

南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるでしょう。現に、ネルソン・マンデラが釈放されて以来、隣国から多くの人が経済的な豊かさを求めて南アフリカに流れこんでいるようです。バングラデシュから日本に来ている留学生から、ジンバブエに行くなら、ハラレで医者をしている従兄を紹介しますよと以前から言われていましたので、日本を離れる直前に電話で問い合わせてもらいましたが、その人はすでに南アフリカに移り住んでいるとのことでした。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……。卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」とアレックスが言います。私にはその問いかけに答える術もありませんでしたが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはありませんでした。(宮崎大学医学部教員)

長女とアレックスと従姉妹と、スクウェアパークで

執筆年

2012年11月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」(No.51  2012年11月10日)

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「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」