アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度④ガーナ

2020年2月24日2010年~の執筆物アフリカ,リチャード・ライト

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度④ガーナ

『アフリカとその末裔たち2』

アフリカ諸国の大半は戦後の機運に乗じて独立を果たしますが、結局は戦後の復興を果たした欧米諸国や日本に屈して、形を変えた搾取機構に中に組み込まれて行きました。国によって多少の形態の違いはありますが、独立は果たしたものの基幹産業は旧宗主国に握られて国の運営がうまくいかず、そこへ先進国が軍事介入、という経過を辿っています。植民地支配→独立→新植民地支配の構図です。本ではその典型的な例としてガーナとコンゴを取り上げました。今回はアフリカ諸国で最初に独立を果たしたガーナの場合(前半):1957年の独立まで、です。次回はガーナの場合(後半):独立とその後、です。
クワメ・エンクルマ(小島けい画)

前回も書きましたが、第二次世界大戦でヨーロッパ諸国の総体的な力が落ちたと言っても、発展途上国の力が上がったわけではありません。しかし、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてアフリカ諸国は独立に向けて動き出し、変革の嵐(“The Wind of Change”)が吹き荒れました。闘いの先頭に立ったのは欧米で自由の息吹を味わった若き人たちで、祖国に帰って旧宗主国に果敢に挑んでいきました。

英領ゴールド・コーストで独立要求の先頭に立ったのはクワメ・エンクルマで積極行動を唱える会議人民党を結成し、全国でストライキやボイコットを展開してたくさんの支持者を得ました。右腕だったコロモ・ベデマは「アフリカシリーズ第7回 沸き上がる独立運動」(NHK、1983年)の中でエンクルマの当時の様子を次のように語っています。

私たちは若くて行動的で、演説も強力でした。もちろん、エンクルマの人柄ゆえでもありましたが、若者たちは私たちの側につきました。急進的で、先輩たちより多くのものを要求しました。「即時自治」を求めました。新憲法である程度の自治が認められましたが、私たちの要求は完全自治でした。

独立の式典でのエンクルマ

西洋諸国は低開発のアフリカの発展のために植民地行政を遂行していると主張しましたが、エンクルマは真っ向から反論ました。後に自伝『アフリカは統一する』(1963) の中で、イギリスの植民地政庁の統治下の実態を、以下のように記しています。

イギリスの植民政庁がこの国を統治していた間じゅう、地方の水の開発は殆んど行なわれませんでした。これが何を意味するかを、蛇口をひねるだけですぐに良質の飲料水が得られるのが当たり前だと思っている読者に伝えるのは難しい。もし田舎の村でそういったことが起こっていたとしたら、みんなは天国だと思ったでしょう。村に一つでも井戸か配水塔かが作られていたとしたら、みんなはどれほど有り難いと思ったでしょう。いつものように、暑くて蒸し暑い田んぼでのきつい仕事を終えて、男も女も村に戻り、それから手桶やかめを持って2時間もとぼとぼと歩かねばならず、その行き着いた先では、沼と言えるかどうかも分からないような所から、塩気のある細菌だらけの水でも手に入れば幸運だったのです。それからまた、長い道のりを戻らなければなりませんでした。洗濯や飲むための水を手に入れるのに1日に4時間、それも大抵は病気の元になる水を。こうした状況は、国じゅうで殆んど同じで、それは、水の開発には費用がかかり、その開発が統治する人々のための公共事業に過ぎず、経済的な見返りをすぐに期待出来る見通しが立たなかったからに過ぎません。しかし、事業や採掘投資で得られた利益をほんの僅かでも使えば、一等級の給水施設の費用は充分にまかなえたでしょう。

リチャード・ライト

パリに移り住んでいた作家リチャード・ライトは、いち早く独立への胎動を察知してエンクルマを訪れ、旅行記『ブラック・パワー』にしてエンクルマたちの息吹を伝えています。私が読んだアフリカについて書かれた最初の本です。のちに「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(1985) にまとめました。

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」55号26-32ペイジ)

エンクルマには2冊の自伝『わが祖国への自伝』と『アフリカは統一する』(ともに野間寛二郎訳)があります。

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『アフリカは統一する』表紙

エンクルマは大衆の圧倒的な支持を得て1957年にゴールド・コースとはサハラ以南のアフリカでは最初の独立国となりました。(宮崎大学医学部教員)