続モンド通信16(2020年3月20日)

2010年~の執筆物私の絵画館,続モンド通信

続モンド通信16(2020/3/20)

私の絵画館:パオンちゃんとチューリップ(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記9回目:9月26日 自転車泥棒(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜13:ゴンドワナ (3~11号)(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「パオンちゃんとチューリップ」(小島けい)

ロバのパオンちゃんとの出会いは、15年前私が乗馬に通い始めた牧場で、でした。

ほんとうは<ランディ>という素敵な名前を持っていましたが、<パホ・パホ・パオーン!!>と、とてつもなく大きな声でなくことから、私が勝手に<パオンちゃん>と呼びはじめ、そのうち牧場のオーナーやロバ主さんまでもが、パオンちゃんと呼ぶようになりました。

小さな牧場では近所迷惑で、牧場のはずれのトンネル(高速道路の下)につながれていましたが、しばらくして、阿蘇高原の大きな牧場に移りました。

何年か後、大空に近い広大なパノラマのなかで人気者になっていたパオンちゃんと会いました。この絵は、その時のことを思い出して描きました。

今も元気で草を<はむ・はむ>してくれているといいなあ・・・・と思います。

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2 小島けいのジンバブエ日記9回目:「9月26日 自転車泥棒」(小島けい)

帰国を1週間後にひかえ何かとせわしない土曜日の早朝、ゲイリーたちの騒ぐ声で目が覚めました。二台の自転車が明け方盗まれたのです。

ゲイリーとデイン

自転車は門から真っすぐ進んだつきあたり、一番奥にあるガレージにいつも置いていました。そこへ行くには、私たちが寝ている三つの寝室のすぐ横を通らねばなりません。けれどゲイリーとグレース以外の黒人には必ず吠えるデインが、昨夜は一吠えもしませんでした。そのためガレージの横の部屋で寝ていたゲイリーたちも、全く気付かなかったのです。日時も、帰国が七日後に迫った金曜の夜です。私たちは自転車をゲイリーたちにあげるつもりでしたが、普通なら、自転車店に売り渡す直前です。これらから、私たちが帰国する日を知っていたメイドのグレースの関与はほぼ確実のようでした。

突き当たりがガレージ、右手が寝室

 実は、私たちは八月末でグレースにやめてもらいました。もともと彼女が要求した賃金は通常の数倍でした。またこれも後でわかったことですが、徒歩で通っているにもかかわらず往復のバス代も請求しました。

<高いなあ・・・>とは私たちにもわかりましたが、もめるのがイヤで、言われた通りの金額を払いました。

にもかかわらず彼女は三日目くらいから、次々と様々な要求をし始めます。家主のスイス人の老婆がメイドにそんなことをしたとは考えられませんが。まず<10時にお茶がほしい>といわれ、紅茶と砂糖を出しました。砂糖ツボの砂糖は、その度に全て無くなりました。さらにはお茶だけでなく<パンとバターもほしい>と続き、パンとバターを出すと、バターも毎回ごっそり無くなりました。

食べるのはパンなのかバターなのか?!と思いながらも、きっと家で待つ子供たちへのおみやげなのだろうと考え、黙って出し続けました。それでも小さな要求にはどめがかからないので<要求はまとめて聞こう>というと一応大人しくなりましたが、かわりに小さな物が無くなるようになりました。

グレースが私たちの寝室を掃除している時ポケットの中に何かを入れているのを、娘が目撃したこともあります。けれど私たちは、鏡台の引き出しにもすべて鍵をかけるこの国の習慣には、なじむことができませんでした。神戸で買ったお気に入りの私のサングラスも、いつのまにかなくなっていましたが、現場を見ていないので問いつめることはできません。<ふつうに>置いていた私たちの方が悪いのでしょう。

慣れない外国暮らしで、日々疲れがたまって来ていました。そうした状況で、家の中でまで神経を張りつめるのは、正直これ以上堪えられませんでした。

運悪くその日はたまたまグレースが弟をつれて来た日で気の毒でしたが(私たちの神経も限界でしたので)少しお金を多めに渡して<私たちの滞在中はいったん今日でやめてほしい>と話をしました。原因はグレースにありましたが、精悍な顔つきの青年にはひどく屈辱的な出来事で、深く傷ついたに違いありません。帰り際に見せた青年の憎しみの目は、今も忘れられず、苦い思いが残っています。

ハラレで自転車は貴重品です。乗る練習までしていたゲイリーとフローレンスは、大変な落胆ぶりでしたが、私たちはむしろ、誰にも怪我がなくてよかったと、胸をなでおろしました。

自転車に乗るゲイリー

と同時に、私たちはあくまで短期滞在の外国人なのだ、という現実を思い知らされました。片言のショナ語を覚え、大学でも小学校でもいい関係が出来てきた。そう思い始めていた時だけに、背すじを冷たいものが走り、ふと我に帰りました。

出発まで一週間ですが、自転車だけですむだろうか。街なかで何らかの被害にあわないのは珍しい、といわれていた私たちですが、いつも誰かに見張られているような不安を覚え、夜ちょっとした物音でも、目覚めるようになりました。

その得体の知れない緊張感は、この国を離れるまで続きました。

フローレンス(小島けい画)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜13:「ゴンドワナ (3~11号)」(玉田吉行)

 大学のゼミの担当者だった貫名さんが亡くなられて暫くしてから、大阪工大でもお世話になっていた小林さんから追悼文を書かないかと誘われました。横浜の門土社が発行中の雑誌に追悼集を組むからということでした。それが門土社との出会いです。

夜間課程はゼミが一年だけでしたが貫名さんのゼミを取りましたし、研究室に行ったり、卒業してから貫名さんが創られた黒人研究の会で研究発表もしていましたが、実際には定年間際の貫名さんとは何回かお話ししたくらいでした。英書購読の授業やゼミでのことを思い出しながら、何とか書いたのが、最初の依頼原稿となりました。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ゴンドワナ」3号8-9頁、1986年。)

「ゴンドワナ」3号

その前か後か、出版社の人と会うことになり、横浜で社長さんと編集者の方と三人で話をしました。それから暫くして、宮崎での話が決まり、医学科での授業も始まりました。元々小説を書くための空間が欲しくて30を過ぎてから修士号を取りに行きましたから、僕としては書くための空間さえあれば充分でした。いつの頃からか、立原正秋という人の小説が僕の中では生涯のモデルとなり、同じように職業作家になって直木賞をと漠然と考えていましたが、社長さんから直木賞も本を売るための出版社の便法で意味がないと窘められました。大学の教員には授業などの教育以外に研究や社会貢献も求められますので、専任になっても当座は小説を封印、大学の流れにまかせようと何となく心に決めました。

出版社は演劇、アフリカ関係の本や大学のテキストが中心で、独自の雑誌「ゴンドワナ」も創り始め、黒人研究の会の人も投稿しているようでした。気に入って下さって、ちょうどラ・グーマをやり始めた頃から書きませんかと誘って下さるようになりました。当初から計画があったわけではありませんが、その後、誘われるままに本も7冊、雑誌にもせっせと原稿を書き、翻訳も三冊やりました。「ゴンドワナ」は19号まで出ましたが、今回は3号から11号までに載った原稿についてです。

雑誌「ゴンドワナ」創刊号の表紙に1984年9月とありますから、最初にお会いした少し前に創刊されたようです。後に一部送ってもらった創刊号はA5版(A4の半分)32ページの小冊子で、定価が600円。ハイネマンナイロビ支局のヘンリ・チャカバさんの祝辞、作家の竹内泰宏さん、毎日新聞の記者篠田豊さんなどの投稿も含め、アフリカや演劇関係の記事が大半です。アフリカ関係の民間の雑誌は、アフリカ本の出版がかなり多かった理論社のα(アルファ)という雑誌でも7号で廃刊、それだけアフリカものの出版は経済的に厳しかったわけです。その意味では19号まで出たのは、時期を考えても驚異的です。元々アフリカや演劇関係の読者層は圧倒的に少なく、採算が取れるとは考えられないからです。当然、原稿料はありません。

「ゴンドワナ」創刊号

3号(1986年)の貫名さんの追悼号の次に原稿を送ったのは7号(1987年)の分で、コートジボワールの学者リチャード・サマンさんが1976年にタンザニアで行なったラ・グーマへのインタビューの日本語訳と、それに関連する当時のアフリカ事情について書いた評論です。ミシシッピの会議でお会いしたソルボンヌ大のファーブルさんがラ・グーマを始めた頃に大学発行のAfram Newsletterという英語の雑誌を送ってくれるようになって、その中にサマンさんの記事を見つけました。ファーブルさんに翻訳をしてもいいですかと手紙を書いたら、本人に直接聞くように住所を教えてくれました。アフリカにはフランスに植民地化された国も多く、フランスの同化政策の影響もあって、パリが文化の拠点で、たくさんのアフリカ人がパリに留学したりしています。サマンさんのその一人のようでした。ジンバブエの帰りにパリに寄って家族でファーブルさんを訪ねた時に宿の世話をしてくれた女性もモロッコからのファーブルさんの学生さんで、子供たちはその人のことをモロッコさんと呼んでいました。日本に比べてアフリカとは地理的にも近く、特に北アフリカや西アフリカとは色んな意味で関係が深いようです。マリのサリフ・ケイタやセネガルのユッスー・ンドゥールなどの歌手も、パリを拠点にして世界的に有名になっています。→「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」(19-24頁。)と→「アフリカ・アメリカ・日本」(24-25頁。)

「ゴンドワナ」7号

次は8号(1987年)で、ラ・グーマが闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿りました。最初に大きな影響を受けた父親ジェームズさんと少年時代について。それからANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に参加し、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わりながら、作家としても活動したことなど。最後に、ブランシさんと結婚し、反体制の週間紙「ニュー・エイジ」の記者になった辺りまでを書きました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」(22-26頁。)

「ゴンドワナ」8号

次は9号(1987年)。1956年の反逆裁判から1966年のロンドン亡命まで。ANC、共産党員として解放運動の指導的な立場にいたラ・グーマは、「南アフリカで起きていることを世界に知らせたい」「後の若い世代に歴史の記録を残したい」という思いから作家活動も続けました。最後に、亡命の道を選択したラ・グーマの生き方について書いています。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」(28-34頁。)

「ゴンドワナ」9号

次は10号(1987年)。ラ・グーマを知るために、カナダに亡命中の南アフリカ人学者セスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた際の紀行・記録文と、作品・作家論の3作目です。紀行文では、見ず知らずの日本からの突然の訪問者を丸々三日間受け入れて下さったエイブラハムズ氏の生き様、そのエイブラハムズ氏が語る「アレックス・ラ・グーマ」を、録音テープの翻訳をもとにまとめました。→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(10-23頁。)

作品・作家論では、家族でロンドンに亡命した1966年から、キューバのハバナで急死した1985年までを書いています。年譜と著・訳書一覧をつけました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」(24-29頁。)

「ゴンドワナ」10号

次は11号(1988年)、アメリカ映画「遠い夜明け」(CRY FREEDOM)の映画評とケニアの作家グギさん関連の日本語訳とラ・グーマの作家・作品論の続編です。

映画評は1987年に上映された「遠い夜明け」で、主人公ドナルド・ウッズが亡命する姿を、ウッズより先に同じように亡命したラ・グーマとセスゥルに重ね合わせて書きました。→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」(22-28頁。)

日本語訳は、ムアンギさんが書いたグギさんについての作品論を日本語訳したものです。ムアンギさんとは、1982年か83年かに黒人研究の会で初めて会いました。黒人研究の会でのシンポジウムや大阪工大での非常勤も一緒でした。四国学院大学の専任になったあと、宮崎医科大学でいっしょにシンポジウムもやりました。→「グギの革命的後段(メタ)言語学1 『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の中の諺」(34-38頁。)

ラ・グーマの作家・作品論は、第1作『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)についての前半です。夜のイメージをうまく使い、アパルトヘイト体制のなかでいとも容易く犯罪を犯すケープタウンカラード居住区の青年たちの日常を描き出している点を高く評価しました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(39-47頁。)

「ゴンドワナ」11号

専任が決まらない時期でしたが、たくさん書きました。宮崎医科大学に決まった翌年に「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」で初めて申請して科学研究費[一般研究(C)1989年4月~1990年3月(1000千円)]が交付されたのも、出版物が多かったからだと思います。(宮崎大学教員)