アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて
概要
(作業中)
アレックス・ラ・グーマ (1925ー1985)が闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿っています。大きな影響を受けた父親ジェームズや少年時代、ANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に加わり、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わる一方、作家としても活動しました。今回は、辺りまでを書きました。
本文(作業中)
◎反逆裁判
1956年12月13日、ラ・グーマは逮捕された。8日前に既に捕えられていたANCルツーリ議長を含む155名と共に「国家」への反逆罪に問われたのだが、それは国内外の情勢によって強められた白人政府の不安の表われに他ならなかった。
国内では、ANCを中心に解放闘争が高まりを見せていた。1950年6月26日〈南アフリカの自由の日〉のストライキで多数の大衆動員を果たしたANCは、若きネルソン・マンデラらが先頭に立って人種差別法に対して非暴力非協力の〈不服従運動〉を展開していたが、共産主義弾圧法や53年の〈修正刑法〉などによって徹底的に弾圧を受け、53年はじめには闘争打切りの声明発表を余儀なくされていた。しかし、すぐANCは、白人の民主主義者会議、インド人会議、カラード人民会議(もと南アフリカ・カデード人民機構-SACPO)と連帯して、4人種からなる統合民主国家をめざす連合戦線、いわゆる〈会議運動〉を推し進め始めた。55年の「人民会議」による自由憲章の採択は、そんな「解放戦線」による挑戦であり、政府にばかり知れない脅威を与えたのである。自由憲章採択後も、婦人で唯一のANC中央委員リリアン・ンゴイを中心に婦人たちによるパス反対闘争が展開されたりするなど解放への闘争は盛り上がりを見せていた。
国外では、56年にアフリカ大陸で二つの衝撃的な出来事が起きていた。一つは、6月のエジプトの共和国憲法の公布と共和国の正式な樹立である。イギリスとの長年の抗争を経て、スエズ地帯からイギリス軍を駆逐した末のその出来事は、独立の波がアジアからアフリカに広がりつつある証拠でもあった。もう一つは、3ヶ月のちの9月に、イギリス政府が植民地ゴールド・コーストに対して翌1957年3月に独立を与えるという声明を発表したことである。黒人主権国ガーナの誕生は、ヨーロッパ帝国主義と白人支配からの解放への第一歩を意味しており、アフリカとアフリカ人にとっては想像以上の重みを持っていた。こうした内外の情勢のもとで、大量156人の一斉逮捕が強行されたのである。
逮捕されたのは、アフリカ人、白人、インド人、カラードと人種や職業もさまざまであったが、カラード人民会議の議長を務めていたラ・グーマをはじめ、すべてが〈会議運動〉の指導者か活動家であり、その事件が〈会議運動〉阻止を狙う政府の弾圧強化の産物であるのは明らかであった。
反逆罪は、南アフリカでも最大の犯罪であったにもかかわらず、ルツーリ議長らが捕えられてから僅か16日後には全員が保釈されるなど政府側の計画性のなさとは対照的に、被告たちの取った行動は、秩序正しく堂々としたものであった。ルツーリは、むしろ収容されたヨハネスブルグの要塞刑務所を会議運動指導者たちの絶好の会合の場と考えたほどである。というのも、現実に指導者たちの大半は広大な南アフリカをたやすく旅行できる階層には属していなかったし、警察の干渉をうけるなかで会合を持つことの難しさをいやという程味わっていたからである。なかなか実現することのなかった「指導者たちが一堂に会する」という夢を、皮肉にも、政府が強要して適えてくれた、と考えたのである。刑務所内では全員が二つの大きな監房にわかれて収容されたが、昼間は会うことができ、事実、講義や討論会、礼拝などのほかに、コーラスの練習まで行なわれている。(Albert Luthuli, Let My People Go, An Autobiography, Collins, 1962に詳しい)
こうして歴史に残る〈反逆裁判〉が始まった。裁判は5年の長きに及んだが、争点は〈会議運動〉が反逆罪にあたるかどうかであった。検察側は、自由憲章が共産主義を指向し、暴力による社会変革と国家の転覆をめざすものであると非難したが、弁護側は、自由憲章に示された理想と信念は大多数の国民が公然と抱いているものであり、その思想を裁こうとしていると反論した。結局、検察側は156名の反逆罪を立証できず、61年3月までに全員に対して無罪の判決を言い渡さざるを得なかった。裁判は検察側の完全な敗北に終ったのである。
反逆裁判の間じゅう、ラ・グーマは政治活動を禁じられた。公然と係わりを持てたのは「ニュー・エイジ」のコラムニストとしてだけである。裁判が始まると、いきおい投稿回数も減り、家計は妻ブランシの肩に重くのしかかった。しかし、ラ・グーマは定期的にヨハネスブルグから被告たちの息吹をケープタウンに持ち帰った。57年1月24日付の「皆それぞれに大変だが、不平をこぼすものは誰一人としていない」と題された記事は、裁判での人々の様子を鮮明に伝えている。
私は被告たちの不平や後悔や泣きごとをみつけ出そうとしましたが、無駄でした。見つかったのはただ、自信と温かさと気概だけで、それらが不退転の決意で固められているのを知るだけだったのです。ここには人間の魂と、前進しようとする意志と、前向きにものを見つめ、全体の目的のためには個人の辛苦をも耐え忍ぼうとする勇気があります。また、レンガにモルタル、筋肉に腱など、新しい生命を創造するのに欠かせない生きた血が、ここにはあるのです。
57年5月2日に「ニュー・エイジ」の専属コラムニストに採用され「わが街の奥で」と題するコラム欄を担当することになったラ・グーマは、一方では短篇を書きながら、ジャーナリストとしても、精力的に創作活動に携わることになる。(反逆裁判についてはLionel Forman & E .S . Sache, The South African Treason Trial (John Calder,1957)があり、雪由慶正訳『アフリカは自由を求めている』(角川書店、1959年)の邦訳も出ている)
◎シャープヴィルの虐殺
反逆裁判の最終判決が未だ出ていない1960年3月21日に、解放闘争の、ひいては南アフリカの歴史の転換点となる出来事が勃発した。20世紀最大の蛮行といわれるシャープヴィルの虐殺である。多人種統合国家をめざすANCの平和主義を批判して59年3月に訣を分っていたパン・アフリカニスト会議(PAC)の呼びかけに応じて集まったシャープヴィルの大衆に向かって、白人警官が一斉射撃を行ない、69名の死者、数百名の負傷者を出したのである。政府筋は「暴動鎮圧」の声明を発したが、パス法廃止などを求めて集った無防備の民衆に向かっての一方的な突然の発砲は、まさに虐殺行為であり、国内外の情勢の不安にかられた白人政権の力による制圧強化に他ならなかった。
政府のこの非道に抗議して、各地で民衆が立ち上がった。武力鎮圧を強行する警官に対して、激怒した大衆は放火、投石などで対抗するなど、国内は騒然となった。3月26日に、政府はパス法の一時停止声明で騒ぎを鎮めようとしたが、抗議の波はおさまらず、28日に行なわれた一日在宅スドでは大半の民衆が職場を放棄し、国の機能は完全にマヒ状態となった。これに対し、政府は翌29日に非常事態宣言を発令して武力弾圧を強化、解放運動指導者の一斉検挙に乗り出した、また、4月6日にはパス法の復活とANC、PACの非合法化の声明を発表、更に翌9日のフルウールト首相狙撃事件を機にますます弾圧を強化して多数の運動家を逮捕した。ラ・グーマが逮捕されたのもこの時期である、ラ・グーマは最初、ケープタウンにあるローランド.ストリート刑務所に収容されたが、すぐにケープ州ウォルセスター特別刑務所に移され、その年の終わりまでの七ヶ月間、収監された。非常事態宣言によって「いかなる人物も自由に逮捕できる」などの権利を我が物にした政府の暴挙により、裁判もなしに長期問拘留されたのである。こののちラ・グーマは、繰り返し投獄、拘禁を余儀なくされる運命となる。
(シャープヴィル虐殺に対する国際世論は厳しく、各国の経済制裁が始まった。61年5月に白人政府は英連邦からの離脱、共和国宣言を実施せざるを得なくなっている。孤立化を深める白入政府は、苦しまぎれに各国に友交関係の継続を訴えたが、それに応じたのがドイツと日本である。日本政府は第二次世界大戦とともに断絶していた外交関係の再開と大使館の新設を約束している。このことによって日本は「名誉白人」の称号をいただき、「白人」なみの扱いを受けているが、それは恥辱以外の何ものでもない。ここで思い起こされるのは、今回来日したアラン・ブーサック氏の来日前の日本へのメッセージである。(本誌7号でも紹介した)
われわれを追い回し、連行する車はトヨタ、ニッサン車だ。それを日本は知ってほしい。85年、私が拘留された際に乗せられた車も日本製だった。英国、西ドイツは自己の立場を弁明するためにこう言っている。「われわれが撤退すれば日本がやってくる。日本の反アパルトヘイト運動は微々たるもので、日本企業は世論の圧力を気にしなくてすむからだ・・・・・・」
日本企業、ニッボンに対する「恐れ」は、町に氾濫するトヨタ、ソニーばかりか、この時の日本政府の道義に反する抜け駆け行為に裏打ちされている。
日本の”繁栄”が、現に被害者の犠牲の上になり立っており、直接的にであれ、間接的にであれ、私たちが加害者側に立っている事実は否定出来ない。そんな自己矛盾とむき合う思いはなんとも複雑である。
アメリカの黒人作家リチャード・ライトも独立前のガーナを訪れたのちに出版した紀行文の中で同じようなことを書き残している。
人はその人となりや、その暮しぶりに応じてアフリカに反応する。人のアフリカに対する反応は、その人の生活であり、その人の物事についての基本的な感覚である。アフリカは大きな煤けた鏡であり、現代人はその鏡の中で見るものを憎み、壊したいと考える。その鏡をのぞき込んでいるとき、自分では劣っている黒人の姿を見ているつもりでも、本当は自分自身の姿を見ているのだ。・・・・・・アフリカは危険をはらんでおり、人の心に人生に対する総体的な態度を呼び覚まし、存在についての基本的な異議をさしはさむ。
「その鏡の中で見るものを憎み、壊したい」心境に傾いていく自分と、「存在についての基本的な異議」を意識しないわけにはゆかない。
◎文化荒廃のなかで
もとより、自分たちの利害に従って自分たちの法を作り、自分たちの都合のいいように築き上げた差別社会にあっては、虐げられる側に及ぶ悪影響は、目に見える政治や経済面といった分野だけでは決してない、その悪影響は目には見え難い、人の精神文化に係わる側面にまで及んでいく。
たとえば、先述のリチャード・ライトは、閉鎖的で、人種差別の厳しいアメリカ南部で少年期を過ごしているが、読みたい本を図書館から借りるだけで屈辱と危険を体験せねばならなかった。H.L.メンケンの本を図書館から借り出すのに、知り合いのアイルランド系の白人に恐る恐る頼み込んで図書館カードを借り、「この『黒んぼ』にメンケンの本を何冊か持たせて下さい」というメモ書きを自分で作り、白人図書館員の前で「低能な黒人」の役を演じている。もと奴隷であった「低能な黒人」に図書館など要らぬ、というのが当時の南部社会の実態であったからである。
南アフリカの場合、状況はさらに厳しい。のちに発表した「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」(「新日本文学」1977年4月号に邦訳があるが、残念ながら、例によって「ヨハネスブルグがその大部分の労働者を引き出すソゥェト族(下線は筆者)・・・・」(96ペイジ)などといった類のもの。原文はアジア・アフリカ作家会議の国際季刊誌「ロータス」23号(1975)に揚載されている)の中で、ラ・グーマは白人支配下で文化状況が如何に荒廃しているかについて述べたあと次の具体例を引き合いに出して論を展開している。
・・・・・・今まで述べてきたことが南アフリカの作家にとって一体何を意味しているのか。最もはっきりしているのは、多数派の黒人の利用出来る文化施設が少数派の白人のに較べてはるかに劣っており、ある場合にはその施設が無きに等しい、ということである。ヨハネスブルグにその労働力の大半を供給している巨大なアフリカ人居住地区ソウェトでは、ほぼ100万の人口に対してたった一つの映画館しかない。それも、その映画館で鑑賞できる映画の数は検閲制度によっておびただしく制限されており、アフリカ人は白人の16歳以下と同じレベルに置かれている。国内にあるすぐれた図書館は黒人には閉ざされている。ほとんどの黒人は劇場やコンサートホールの内側を見た経験もない。
ラ・グーマが少年時代に黒人少年と同地区に住むことが出来たり、ある時期まで一部のものが投票権を持ち得たりするなど、カラード人口の多いケープタウンの状況が黒人社会に比べて幾分か厳しくなかったのは事実である。しかし、アパルトヘイト体制によってもたらされる文化荒廃の実情は、基本的に変わるものではない。その意味では、貧しいながらも、闘争家ラ.グーマ、作家ラ・グーマが白然に育つ環境を与えてくれた父ジェイムズ・ラ・クーマの存在は、大きい。
もっとも、少年の頃からラ・グーマ自身にその素養が備わっていたようで、次のインタビュー記事などを見ると、子供ながらにもう一端の作家である。
・・・・・・生徒として、いつも私はペンを走らせました。何度かは、授業中に文章を編み出し教室で読んでみせたりしたものです。作家としての資質があると特に自分でも意識したことはありませんが、教師たちは口を揃え、君には作家としての才能があると言いました。私はいつも話をでっちあげてみせたのですが、それは学校の生徒が書く種のもので、たいていは生徒の冒険ものでした。自由帳はその話で一杯になり、いつしか原稿が部屋にたくさんたまってしまいました。たぶん、ある春先のことだったと思いますが、母が家の大掃除をやったとき、私の大切な原稿はすっかリごみ箱行きになってしまったのです。
「各々の切なる思いをかき回し、みんなの注意を意のままに集めることの出来る」能力が自分にあったからこそ級友たちの間で人気があったのだと思う、と自負することのできたラ・グーマは、既に少年の頃から書くことの威力を、そしてペンの力をひそかに信じていたのかも知れない。
「アレックス・ラ・グ~マヘのインタビュー」(本誌7号)でも少し触れていたが、ラ・グーマはロシアや英米作家のものを好んで手にしている。学校での勉強には精を出さなかったラ・グーマであるが、父の影響もあって本をむさぼるように読んでいる。父やそのとりまきの刺激を受けながら、書物の世界を通して自分の世界を広げていったのである。次のインタビューはそんな経緯を教えてくれる。
私は本を読むのがとりわけ好きでした。小さい頃からずっと、いつも本を探し求めていました。初めは、誰でも子どもなら読むようなスティーヴンスンにデュマやユーゴーなどの本を読みました。それから冒険もの、ウェスタンものや探偵もの、そして次第にシェイクスピアのような古典やトルストイにゴーリキーなどのロシアの作家、それにジェイムズ・ファレルやスタインベック、ヘミングウェイなどのアメリカ作家といったより堅いものを読み始めました。一冊の本が手に入るのなら、決してその機会を逃したりすることはありませんでした。実際、わずかな小遣銭はいつも古本屋で本を買うのに使いましたし、高い本屋で一冊の本を買い求めるというぜいたくな喜びを味わうためにわざわざお金を貯めたりしたこともありました。
作家針生一郎氏はアジア・アフリカ作家会議ベイルート大会報告座談会でラ・グーマの印象を次のように述べている。
たとえば南アフリカ代表はわれわれとホテルが同じなのでしばしば会う機会があったんです。ジャワ人と黒人の混血というアレックス・ル・グマという作家、これはあとでイギリスや東ドイツででている彼の小説をよんでみると、フォークナーばりの粘液的な文体で、抑圧された心理や行動を描いている。彼と食卓で雑談していたら、一番若いクネーネという詩人・・・・・・(「新日本文学」1967年7月号)
そんな印象も、ラ・グーマが欧米の文学に慣れ親しんでいたことと決して無縁ではないだろう。
◎闘争・文学・人生
闘いのさなかに、自然に書くことを始めたラ・グーマが、解放闘争を含む人生と文学は切り離せるものではない、と言ったのはむしろ当然である。人間の自由を奪い、文化を荒廃させるアパルトヘイト体制が現に存在している限り、アパルトヘイト打倒をめざして闘う政治活動もペンでの創作活動も、ラ・グーマにとっては人生そのものであり、拘禁され生活する権利を奪われても、亡命して祖国を離れてもその姿勢は貫かれ、終生変わることはなかった。
アフリカ・スカンジナビア作家会議やアジア・アフリカ作家会議などの国際会議でも必ずそのことを主張したし、「ロータス」誌やANC機関誌「セチャバ」でも同趣旨の論文を発表している。(「アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー」の会見者コート・ジボアール、アビジャン大学のリチャード・サミン氏の手紙によれば、タンザニアのダル・エス・サラーム大学に客員作家として招かれていたラ・グーマが、文学部主催のアフリカ文学国際会議で行なった講演「アフリカ文学と唯物論者の芸術の概念」と「文学と反帝国主義者の闘争」も「ロータス」や「セチャバ」での論文に似たものであったとのこと、と本誌七号で紹介したばかりである)
たとえば「ロータス」誌1巻4号(1970)の「文学と人生」と題する小論の中では、その年が百年祭にあたるゴーリキーの文章を引用してその文学への業績をたたえたあと、ラ・グーマは次のように続けている。
人は文学と人生を切り離すことはできないし、文学と人間の経験や人間の願望とを切り離すことはできない・・・・・・
・・・・・・文学の最大の価値の一つは、自己意識を深め、人生に対する感覚を広げることによって、すべての考えや行動が社会現実の範囲内の現実性や経験からきているということを文学を通じて再認識することである。すべての人間もあらゆる言語も自分たち自身の、そして自分たち自身の運命の、同じ根本的な欲求に一番関心があるのである。
現実を見据え、現実に根ざしたその姿勢が決して生半可でなかったことは、のちのラ・グーマの解放闘争との係わりや創作活動を通じて次第に証明されていく。アフリカ・スカンジナビア作家会議では、作家であっても必要ならば銃を持って立ちむかうべきだと言明したし、先の「文学と人生」の中では、現に作家が銃を取って闘っているベトナムの例をあげて、闘争・文学・人生が不可分な関係にあることを強調している。
◎「ニュー・エイジ」
ラ・グーマの創作活動が現実を見据え、現実に根ざしたものであったことは「ニュー・エイジ」で取り扱った題材を見てもわかる。前号でも少し触れたように「ニュー・エイジ」は反アパルトヘイトを掲げた左翼系の週刊新聞である、前掲の『アフリカは自由を求めている』の中にも何ケ所か顔を出すので、少し紹介しておこう。
・・・・・・彼は、ケープタウンの建築家で反政府的な新聞「ニュー・エージ」を出版している会社の支配人をつとめていたために逮捕されたのだった。(34ペイジ)
チャップマン会社のボイコットは徹回された。そして一週間後に、「ニュー・エージ」紙上にチャップマン会社の煙草の大きな広告がのった。
「ニュー・エージ」は大きな発行部数をもっていてこれに広告をだすことは会社にとってきわめて有利であることが一般にひろくみとめられていたにもかかわらず、永いあいだ広告主から完全にボイコットされていたのだ。チャツプマン会社は「ニュー・エージ」と長期の広告契約を結んだ。従来広告主たちに「ニュー・エージ」の紙面を利用することを恐れさせていたナショナリストの側からの脅迫という堤防は破壊されたのだ。(91ペイジ)
又、「ニュー・エイジ」1961年3月31日付の一面記事の写真がNELSON MANDELA: THE STRUGGLE IS MY LIFE (New York: Pathfinder, 1986)に収載されており、演説中の若きネルソン・マンデラの雄姿や「反逆裁判今週中にも結審の可能性あり」の大見出しなどが見える。(ちなみに、同書には、56年12月に取った反逆裁判被告156名全員の写真も含まれており、7列目に腕組みして微笑みかける若きラ・グーマが、3列目中央にはやや斜交いに構えたマンデラがはっきりと写っており、156名全員の生き生きとした表情がこちら側に伝わって来る)
「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当したのは、専属として採用された57年5月2日から、共産主義弾圧法によってジャーナリストとしての活動を禁じられた62年6月28日までだが(「ニュー・エイジ」そのものも同年秋には廃刊に追いやられている)、「ニュー・エイジ」で取り上げたのは、浮浪者、チンビラ、もぐり酒場などを含む街の様子やローランド・ストリート刑務所のこと、それに傍聴に出かけた法廷のレポート、ケープタウン市政に対する攻撃など、すべてアパルトヘイト体制下で坤吟するケープカラード社会の実態についてである。56年9月30日の「つるはしにシャベル」と題するコラムには次のような街の様子が描かれている。
いたるところ、すえた食べものの臭いや汗や淀んだ水のくさい臭いで一杯である。街角では街燈の下に人が群がってはサイコロが振られ、1ペニーや3ペンス硬貨がアスファルトにチャリンと音を立てている。どこかで静かに鳴り始めたギターの音は巧みな手前仕込みの指がフレットの上を軽快に走るにつれて、しだいに大きくなって来る。パブが閉まれば、もぐり酒屋(シービーン)の開店である・・・・・・一番安物のワインがひと壜3シリングに6ペンス、ブランデーなら15から25シリングのあいだだ。大きな酒場は警察の手入れを受けないように袖の下を使っている、と囁かれている。国勢調査によれば、この辺りの人口は約125万と言う。しかし、身元の確認を姓名とか膚の色とかでやらずに、厳しさに喜び、楽しさと苦しさ、それにあこがれと挫折、報われることのない厳しく辛い単調さ、絶望、飢え、文盲、肺炎、栄養失調、笑いに悪意、無知、天才、迷信、他愛もない知恵、ゆるぎない自信、愛に憎しみなど、で行なってみれば、きっと数えること自体を諦めざるを得なくなるだろう。
少々長くなるが、もう一つ別の記事を紹介しよう。スラム街第六区とそこであてもなくたむろする若者たちのことを書いた56年9月20日付けの「ハノーバー・ストリートの貧民街浮浪児たち」と題する次の一節である。
キャッスル・ブリッジからシェパードストリートまでのハノーバー・ストリートが第6区の中心部を通って走っており、その通り沿いに社会の息吹が感じられる。それは金持ちと貧乏人、働きものと怠け者、弱者と強者たちのローカル社会の主動脈である・・・・・・レコード店から流れて来る大きなジャズの音にも負けないで、街頭売りたちが大声を張り上げてものを売る。「さあさあ、じゃがいもだよ。たまねぎだよ」・・・・・・貧民街の浮浪児たち、家の軒下や店やカフェーの辺りでうろつく人の群れ・・・・・・うろつき廻る少年たちのたいていは教育を殆んど受けていないか、全く受けていないものばかり、子どもの頃から新聞を配達するか、街頭売りの手伝いをするかして家計を助けなければならなかったからだ。たとえ如何なる手段を使っても、人生そのものが生き延びるためのたたかいなのだ。しかしながら、誰一人として自分たちの窮状の原因がどこにあるのかに気付いているものはいない・・・・・・ただぶらぶら、何かを待っているばかり。スラム、病気、失業、教育の欠如、人生のすばらしいものを決して許さない人種の壁の空恐しいほどの重み、すべてが貧民街の浮浪児たちを虐げる手助けをしており、その結局、大半のものが餌ものを求めて敵意の満ちたジャングルをさまよう猛獣と化してしまっているのだ。
これら「ニュー・エイジ」の記事が発展してやがて『夜の彷徨』が生まれ、そして『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に改題)が生まれる。又、別のコラム欄で取り上げたローランド・ストリート刑務所には、すぐのちに自らが収容されることになり、その体験をもとに『石の国』が生まれている。それらはすべて、現実を見据え、現実に根ざした闘争家ラ・グーマの生き方から生まれたが、同時に作家ラ・グーマのそののちの文学の主題ともなっていく。そんな経緯を考えると、「ニュー・エイジ」が、ある意昧で作家ラ・グーマを育て上げた大きな源動力の一つであった、と言えるだろう。
◎アパルトヘイトの嵐の中で
ラ・グーマが専らカラードの社会の実態を問題として取り上げたのは、繰り返し述べるように、ラ・グーマの目が現実を見据え、その闘いの姿勢が現実に根ざしていたからであり、ラ・グーマが虐げられる同胞たちの代弁者としての自負をしっかりと抱いていたからである。たとえば、66年にロバート・セルマガによって行なわれた次のインタビューでの発言の中にもその気概がうかがわれよう。
・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない仕事があると思うのです。少なくとも現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくても。
吹き荒れるアパルトヘイトの嵐が人びとに文化荒廃をもたらすことについては先に少し触れたが、特に作家には致命的とも言える状況を生み出す。人種の壁にさえぎられて作家は南アフリカの社会を総合して見ることが出来ず、作晶の中で人種の壁を越えた人物像を描き切れないのである。その実情をラ・グーマは充分承知しておリ、前に紹介した「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」の中でも次のよつに書いている。
南アフリカではどの作家も人生を平静に全体としてながめることは出来ない。作家は自分自身の経験から、見たり知ったりしたことを書けるだけである。しかも、それは全体像の一部でしかない。白人作家の中で、いままでに、リアルでしっかりとした黒人像を何とかでも創造しえたものはいないし、その逆も又、しかりである。白人、黒人のどちらの側にも通用する黒人・白人関係を描出し得た白人作家も黒入作家も今のところ出てはいない。
ナディン・ゴーディマは徴妙な、明快な語り口で白人の自由主義者が黒人の世界を如何に見ているかを読者に語りかけるのに成功しているし、黒人が白人観察者の目にどう映るのかを正確に描き得てはいるが、黒人の体内に入り込んでそこから外側を見ることは出来ないのだ。
同様に、ピーター・エイブラハムズの小説の中の白人は戯画的で、堅くぎこちない。その白人たちは血肉の欠けた人形のように唐突にぞんざいに喋ったり、振るまったりする。アラン・ペイトンの『叫べ、愛する国よ』に登場する黒人牧師は、黒人の習慣を持ってはいるが、一種の宗教的ミンストレルにでも登場しそうな、おセンチな白人の善人である。そのような創作上の失敗はどうしても隔離社会では避けることが出来ないのである。
幸いラ・グーマの住むケープカラード社会は、もともと、政権を握るオランダ系白人アフリカーナーとアフリカ人との混成社会で、言葉も英語と、アフリカーナーの話すアフリカーンス語が使用されており、アフリカーナーの文化背景とも近い。ラ・グーマが作品の中で白人(アフリカーナー)像を難なく描いているのも、そんな背景があったからである。又、アパルトヘイト体制がまだ比較的穏やかな少年時代に黒人と同地区に住んだり、会議運動や反逆裁判などを通して違った人種グループも共闘するなかで得た経験も、虐げられるものの代弁者として、南アフリカの社会を総合的にながめる上で大いに役立ったことは言うまでもない。それらはすべて、アバルトヘイトと真向うから闘うラ・グーマの生き方の中から、生まれた。
◎拘禁されて
57年に初めてラ・グーマは短篇「練習曲」を「ニュー・エイジ」に発表した。(同短篇は63年にR・リーブ編『四重奏』の中に「夜想曲」と題して再録されている)すぐ後引き続いて「暗闇の中から」「グラスのワイン」など四編を書き、60年から65年の間には「運送屋で」「毛布」など七編の短篇を書いている。「雑誌に発表したものも多いが、大半は『四重奏』はじめ本の中に収録、再録されており、今でも比較的手に入りやすいものが多い)「アレックス・ラ・グーマへのインタビュー」の中にもあったように、ラ・グーマが短篇を書いたのは、出版事情なども含めて短篇が南アフリカの実情に即していたからである。(短篇については、稿を改めて詳しく取り上げる予定である)
61年には最初の小説『夜の彷徨』を書き始め、翌年の4月までには脱稿を終えている。(同作品は62年にドイツ人作家ウーリ・バイアーの尽力によリナイジェリアのイバダンにあるムバリ出版社から出版された)反逆裁判でヨハネスブルグに通うかたわら、精力的に「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当していた時期である。
前に述べたように60年の春から7ヶ月間拘禁され、その年の終わりに釈放されたラ・グーマは、ただちに「ニュー・エイジ」の仕事に復帰し、前にもまして活発に解放闘争に携わっている。61年5月末には、ANC指導者ネルソン・マンデラの呼びかけで、白人政府の一方的な南アフリカ共和国宣言に抗議して全国一斉にストが敢行された。この時、ラ・グーマはケープタウンのカラード人民を率いてストライキに参加したため10日間の拘禁処分を受けている。釈放されたあとすぐに父親を亡くしたり、63年には母親を亡くすなど個人的にもラ・グーマにとって不幸な出来事が相次いだ。
先に触れた共産主義弾圧法によってすべての活動を禁じられたラ・グーマは62年から翌63年にかけては小説の第2作『三根の縄』(『まして束ねし縄なれば』)を仕上げるのに集中した。皮肉にも政府によってすべての活動を禁じられた時問がすべて創作活動に費やされることになったのである。『三根の縄』は六四年に東ベルリンのセブン・シィーズ社から出版された。同書の一部は、63年にANCの地下活動に加担した嫌疑で5ケ月拘置されたローランド・ストリート刑務所内で書き上げられている。
同年には妻のブランシも同罪で逮捕された。ブランシはすぐに釈放されたが、ラ・グーマは12月に釈放されたのち、5年間の24時間自宅拘禁を命じられている。その時の模様をラ・グーマは次のように説明する。
つまり、当局の許可なしに私は家、の門さえ越えられないし、収入を伴う如何なる仕事にもつけないということだったのです。訪問者さえ許されませんでした。家で妻と一緒に居ることさえ許可を求めなければならなかったのです。当局の手抜かりを一つだけあげるとすれば、私がペンを持つことを止められなかったことでしょう。当局はいままでに書くことを禁じればどれだけ危険を伴うかを経験ずみでしたから、どんな形にしろ書くことを止めさせることだけはしないでしょう。
64年から65年にかけて第3作『石の国』の草稿をラ・グーマは書きあげている。同書はロンドン亡命後の67年にやはりセブン・シィーズ社から出版されている。
66年にラ・グーマは再び逮捕された。今回は非合法化された南アフリカ共産党の地下活動を推進したという疑いであった。7月に釈放されるまでの4ケ月間、やはり裁判なしに投獄されている。
政府の弾圧により、政治活動を禁止されても、ラ・グーマは断じてひるまなかった。投獄されても、拘禁されても、ベンを持って闘うことを止めなかった。そんなラ・グーマも釈放された同年6月から3ヶ月後の九月に、永久出国ビザを取得して、家族とともにロンドンに亡命する道を選ぶことになる。
《つづく》
(大阪工業大学嘱託講師・アフリカ文学)
執筆年
1987年
収録・公開
「ゴンドワナ」9号28-34ペイジ