「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)

2019年11月1日1976~89年の執筆物南アフリカ

概要

1988年9月に大阪工業大学で開催した黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」の報告です。小林信次郎氏、北島義信氏、Cyrus Mwang氏とともに。私はラ・グーマと南アフリカについて発表しました。3月まで嘱託講師で工学部の学生に授業をしていましたが、その年の4月に宮崎医科大学に着任しましたので、出張の形で宮崎から参加しました。

本文

アパルトヘイトを巡って(シンポジュウム) 

アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト 玉田吉行

 「ゴンドワナ」12号(1988)6~19ペイジ

玉田と申します。3月までここにいて、そっちの方の部屋でビデオを使ってよくやってたんですが、今日は宮崎から来ました。

宮崎医科大学(旧大学ホームページから)

 レジメにありますアレックス・ラ・グーマについて、工大の人も多いみたいですので、どんな人だったかというのを最初に少しだけ紹介して、話に入りたいと思います。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

 アレックス・ラ・グーマは1925年に南アフリカのケープタウンに生まれています。そして1954年にブランシ・ハーマンと結婚して、今ブランシさんはロンドンに一人で住んでおられます。1955年に、このことについては少し今日触れますが、「ニュー・エイジ」という週刊新聞なんですが、その記者として採用されています。それから1956年には他155名といっしょに反逆罪で逮捕されました。1962年に一番最初のですけど、『夜の彷徨』がナイジェリアで出版されています。その後1966年にはロンドンに亡命。1970年にはロータス賞を、1969年度の分を70年度に授賞しています。それが、ロータス賞の第1回目になるんですが・・・・・・。そしてANCのロンドン地区議長となります。今のマツィーラさんが東京事務所でチーフ・リプリゼンタテイヴ (Chief Representative) という名前ですから同じで、僕も昨日手紙をいただいたんですけど、Comrade Alex La Gumaと書いてありましたので、やっぱりちょうどアレックス.ラ・グーマの後輩になるわけでしょうか。それから1978年には今度はANCのカリブ代表としてキューバに行っております。1977年にはアジア・アフリカ作家会議の議長になり、1982年にはAALA文化会議に出席するため日本に来て、この中でも何人か会われた方がいます。そして、1985年にキューバで、心臓発作で亡くなりました。

ロンドンに亡命中のブランシさんといっしょに

 去年の夏にカナダで、ちょうど3周忌になるんでしょうか、記念のカンファランスがある予定だったんですが、今年に延期されて、8月にアレックス・ラ・グーマとベシィー・ヘッドのメモリアル・カンファランスが開かれ、そこヘブランシ夫人が特別ゲストで行かれることになっています。

会議のブランシさん

 で、今日の話にうつりたいと思います。まずラ・グーマの話に入る前に少し前置きが長くなるかもしれませんが、お話させていただきたいと思います。横におられるムアンギさんからたぶん後で同じような話がでるかもしれませんが、少しだけ日本人のアフリカについての見方に触れておきたいと思います。

だいぶ前ですが、白いドレスを着た黒柳徹子という人が、黒人の子どもを抱きあげて、まあ、可哀相に、と言っていたのを、たまたまテレビをつけた時に見ました。理由ははっきりしてなかったのですが、僕は少しこれはいかんなという感じがしました。本能みたいなものですけど。理由を考えてみますと、あんまりベタベタ化粧するのは嫌いですし、本物かどうかわからないくらい化粧をぬってますから。それから甲高い声でキーキーやられるのも嫌いですから、それも理由だったんかもしれないんですが、どうもそれだけではない。最近、反アパルトヘイト運動を一生懸命やっておられる東京の楠原彰さんが、ある記事の中で黒柳徹子さんにはユニセフの親善大使をやめてもらわないとダメだ、というようなことを書いておられまして、ああやっぱり同じように思っている方がいるんだなあと思いました。

黒柳徹子さんに関しては他でもいろいろ言われていますが、楠原さんがどうしてそういうことを言われたかというと、昨年親善大使でモザンビークに行った黒柳さんに対してインタビューをして、アフリカとの関係について聞かれた時に、「日本は経済大国ですから南アフリカとの貿易を止めるわけには参りません」と言ったみたいですね。楠原さんはかなり強烈に即時南アフリカとの貿易をやめろと.言っておられますから、そのことによはどカチンときたのだと思います。僕はそれもきっかけになっていろいろ考えたんですが、やはりあの人の姿勢にはアフリカ人に対して対等にものを見ようとする点が欠けているのではないか。これは例えばアメリカのハリエット・ビーチャー・ストウが『アンクルトムの小屋』を書いて、哀れな黒人奴隷に福音書を書いて涙をそそり、それに共感した親たちがそれこそ、まあ可哀相に、と言いながら自分の子どもたちに物語を聞かせてやる、それと同じ人に対する憐れみの姿勢があるのではないか。

そのおかげで、おそらくそのおかげでかなりのお金が集まったようですが、ムアンギさん、飢餓キャンペーンのときは、これはブームではないですかとおっしゃつていましたが、黒柳徹子さん自身はそのことをどうも売り物にしているみたいで、例えば右翼の親玉が土地転がしや競艇で稼ぎながら、片一方では人類はみな兄弟と言いながら大きな金を寄付する、そういう構図とよく似ているように僕は思います。なんとなく偽善のにおいがしてならないのです。

(左から)小林さん、ムアンギさん、北島さんといっしょに

 これもたまたまですけれども、日曜日にあるクイズ番組がありました。この場合も日本人がいつもやっている調子なんですが、司会者はムアンギさんのケニアをとりあげて、甲高い声で次のように言いました。

今夜の不思議の舞台はアフリカ大陸ケニア。見渡す限り広い大草原サバンナ。

ここはまさに動物たちの楽園。巨大なアフリカ象が悠々と歩く。キリンたちがアカシアに長い首をのばす。そしてこの大草原に暮らすのが最強の部族と称えられたマサイ族。近代文明に染まることなく独自の生活を営んできたマサイ族等々。ミステリアスサファリ、ケニア・・・・・・。

スポンサーは日立。そこに解答者として黒柳徹子さんが出ておりました。3問目までは1つもあわないで、4問目に「愛と哀しみの果てに」という映画の話になりますと、それこそこれ見よがしに、「これは私の分野です」と得意そうに眩いておりました。

その後に見たテレビでもそうですが、白人がポップコーンを食べながらズールー人たちの踊りを観客席から見ているーその構図と同じ、という気がしたんです。不思議発見、ケニアのマサイ族ピンポン・・・・・・などといつまでやっているんでしょうかね。世界のヒタチがスポンサーにつき、食事どきのゴールデンタイムに流される番組を見る。もしこれがごく一般の日本人の家庭の家族そろっての楽しい団秦の一コマだとしたら、何とわびしい光景でしょう。そんな団欒だったらいらないと、僕はため息をついて言いたいのです。

前置きが少し長くなりますが、このごろわりと南アフリカに関することが多いので、もう少しテレビ番組の話をさせてください。しばらく前教育テレビで「南ア貿易日本の選択」という討論番組がありました。見られた方もいらっしゃると思います。その中で、アメリカ黒人を撮り続けて有名なフォトジャーナリストの吉田ルイ子さんが「南ア商品のボイコットを求めて日本のいろんな企業を回ったら、非常に冷たい反応であった。日本はもうそろそろ金儲けばかりのやり方を止めて、世界から取り残されることのないようにしましょう。日本は今世界からその姿勢を求められています」と非常に穏やかそうに話しておられましたが、僕の方から見ると、身体は怒りに震えているように思われました。では具体的にどうしたらいいのかということに対して吉田さんは、「南アにいる日本人はぬくぬくと生きてばかりいないで、まず黒人街に行き、その人たちと交流するように心がけて欲しい」と言っておられました。

その発言をお聞きして、僕はその去年の秋に放送されたテレビ朝日のニュース・ステイション「白いアフリカ、南アフリカ共和国」を思い浮かべました。これは宮崎に行って感じたのですが、むこうでは新聞の夕刊もないし、民営放送も二つしか入らない。もちろんテレビ朝日は入りませんので、久米宏という人の顔も長いこと見ていない。ずいぶん昔のような感じなのですが、去年の秋放映された後僕はすぐ授業で使いましたし、こちらにおられる小林先生もお使いになったんで、おそらくこの中にも見た人がおられると思います。思い出していただけるとありがたいのですが。

そのときにヨハネスブルクの日本人学校のことが紹介されていました。ガードマンに固く護衛された学校の校長は、まず子どもたちの安全を守るのが一番だと言いました。セレモニーが行なわれていまして、餅をついたり剣道をやったりして、いろいろな人たちが走り回っていました。そして美しい着物で身を飾った女の人は南アのことを聞かれて「とてもすばらしい国だと思います。きれいですし、食べ物はおいしいですし、こういうティーセレモニーもさせていただけますし・・・・・・」と答えていました。しかしアパルトヘイトに関する質問になってくると一様に「お答えできません」この一点ばりでした。そして僕は非常に腹が立ったのですが、子どもたちは自分の家にいる黒人のメイドたちのことを「住むかわりにやっぱり働かせてあげるっていう感じで」とか「雇ってあげないと職がないですからね」とか平然と答えていました。さらにその中の一人は関西弁で次のように言いました。「ぼくはですね、この国あまり好きちゃうねんけど、あの、恐いという印象が多いんですよね。ほしたら、おやじさんがいいから楽しめというんですけど、なかなか楽しめないんですよ」

あれからもよく考えたんですけど、この少年の父親はおそらく「お前らを楽させてやるから、おれのように一生懸命勉強して一流の大学に入り、お前も一流の企業に入ってこんな立派な生活をするんだぞ」と言いたかったのでしょう。この親たちは子どもたちに、いったい何を伝えているんでしょうか。

この人たちのことを考えると、ラ・グーマは貧しかったけれど、ほんとうに貧しかったようですが、すばらしい父親をもって幸せだったと思います。これは僕の個人的なことになりますが、特にオヤジさんが立派な人というのは何よりも宝だと、まだ生きている僕のオヤジに対して失礼なのですが、思います。

ラ・グーマ

 筋金入りの闘争家の父ジミー・ラ・グーマの生き様を見て育ったラ・グーマは、1937年スペインでフランコ独裁政権に自由を渡すなと国際義勇軍が結成された時、わずか13歳で志願しています。これは余談になりますが、日本からもちょうどその時密出国してニューヨークにいたジャック・白井という人が、実際にスペインに行って戦死しています。

わずか13歳でそのようなことを考えついたのは、おそらく自宅が若い活動家たちの出入りする拠点だったからでしょう。そしてまたオヤジさんがいたからでしょう。

そういうふうにラ・グーマは早くから解放闘争の渦中にいたわけですが、生まれた国で法律によりあたりまえの人間としてみなされていないわけですから、いわばラ・グーマの生き方は人間を取り戻すための闘いであったとも言えます。

ラ・グーマは闘争家でもありましたが、同時にすばらしい芸術家でもありました。ペンの力を充分に知っていました。ラ・グーマは作家として2つのことを常に念頭においていました。1つは、今現在南アフリカに起こっていることを世界の人々に知らせるのだ、ということです。

もとより白人の利害に従って考えられたアパルトヘイトは、私たちが想像している以上の文化荒廃をもたらします。次のラ・グーマの記事を読めば、おそらくそのひどさに驚かずにはいられないでしょう。アジア・アフリカ作家会議の季刊誌「ロータス」に1975年に載ったものです。

今まで述べてきたことが、南アフリカの作家にとって一体何を意昧しているのでしょうか。最もはっきりしているのは、多数派の黒人の利用できる文化施設が少数派の白人のに比べてはるかに劣っており、ある場合にはその施設が無きに等しい、ということです。ヨハネスブルクに労働力の大半を供給している巨大なアフリカ人居住地区ソウェトでは、ほぼ百万の人口に対してたった一つの映画館で、鑑賞できる映画の数は検閲制度によっておびただしく制限されており、アフリカ人は白人の十六歳以下と同じレベルに置かれています。国内にある優れた図書館は黒人に閉ざされています。ほとんどの黒人は劇場やコンサートホールの内側を見た経験もないのです。

アパルトヘイトは人種間の交流を絶ち、その間に大きな壁を作ります。またテレビ番組になるのですが、イギリスで作られた「教室の戦士たち-アパルトヘイトの中の青春」これは最近放映されたのですが、同じ16歳の白人シスカと黒人シルビアという二人の高校生が、自分たちの住まいを紹介しながら交互に語ります。

白人の高校生シスカは次のように言います。

南アのアパルトヘイトは世界の非難の的ですが、白人と黒人はごく自然に分かれているだけです。今の南アには人種差別はありません。白人と黒人の間に差別があるなんて根拠のないことだと思います。アパルトヘイトは白人と黒人の間に垣根を築いて一切の交わりを絶ってしまうものだと思われがちです。いろんな施設、学校とか映画館なんかが別々だってこともよく引き合いに出されます。でも、今ではそんなことはありません。白人は黒人や混血やインド人アジア系の人たちと多くのものを分かち合うようになってきました。そして次のように結びました。

ここ何十年かは急激な変化はないと思います。

一方、黒人の高校生シルビアは、

アパルトヘイトというものは、人間を肌の色ではっきり分けてしまうことです。例えば、ヨハネスブルグの公衆トイレは男性女性で分けるのではなく、白人黒人で分けてあります。学校でだって、黒人は自分たちが他の民族より劣った存在だと教えこまれ、一方白人は互いに助け合いましょうと教わっています。黒人はそんなことを一度も教えられたことがありません。一つの国の中で同じ考えや理想を頒ち合えないことがアパルトヘイトだと思います。

と、そういうふうに言っています。

白人高校生シスカが「今の南アには人種差別はありません」と言っても、実際にテレビに映っているソウェトの狭く汚ないシルビアの住まいと、プールつきの広くきれいなシスカの邸宅を見る聴視者の誰が、それを信じることができるでしょう。最近放映された『遠い夜明け』の中でもそうでした。警視総監クルーガーのあの豪邸と、ビコがドナルド・ウッヅを案内したスラム街キングウィリアムズタウンのその家々との格差が、私たちの目には焼きついています。そんな私たちにシルビアの言葉はただ空しく響くだけです。知らないことの恐ろしさをまざまざと見せつけられます。

『遠い夜明け』

 ラ・グーマは知らないということの重要性を作家として充分に認識しており、あるインタビューの中で次のように述べています。

作家たちは今まで南アフリカ一般の状況を描こうと努めてきてはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られては来ませんでした。例えば、カラード社会やインド人社会については多くは語られて来なかったと思います。人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても、作家には果たさなければならない仕事があります。少くとも現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません。たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくとも。

そう言っています。

ANCの一員であったラ・グーマの願いも民主総合国家の実現でしたから、実状を知らせることはその第一歩でもあったわけです、

ラ・グーマの真実を伝えようとする姿勢は1955年にリポーターとして採用された左翼系週刊新聞「ニュー・エイジ」で培われます。「ニュー・エイジ」は1962年に廃刊に追いやられた命の短かった新聞です。これはおそらくイギリスでしか手に入らないと思っていましたが、最近までコロンビア大学に留学されておられた会員の山本伸さんに無理をお願いして探していただいたら、ニューヨークにもそのマイクロフィルムがあって、今ここにそのコピーがあります。その中には例えば次のような記事があります。1957年ヨハネスブルグで行なわれていたあの有名な反逆裁判の模様を伝えた記事です。タイトルは「皆それぞれに大変だが、不平をこぼすものは誰一人としていない」です。

私は被告たちの不平や後悔や泣き言を見つけ出そうとしましたが、無駄でした。見つかったのはただ、自信と温かさと気概だけで、それらが不退転の決意で固められているのを知るだけだったのです。ここには、人間の魂と、前進しようとする意志と、前向きにものを見つめ、全体の目的のためには個人の辛苦をも耐え忍ぼうとする勇気があります。またレンガにモルタル、筋肉に腱など、新しい生命を創造するのに欠かせない生きた血が、ここにはあるのです。

そういう記事でした。

『夜の彷徨』が発禁処分を受けたという「ニュー・エイジ」の記事

 ラ・グーマはアパルトヘイトはよくないとか、政府はこうあるべきだとか、新聞では言いましたが、文学作品ではいっさい語りませんでした。ありきたりの青年が、ひどい環境の中で、どれほど簡単にチンピラの仲間入りをするか、そういうことを書きました。また人々がいかに官憲の横暴に傷つけられているかを書きました。例えば今、年表の方で見ました『夜の彷徨』の中では、主人公マイケル・アドゥニスは、街で擦れ違った警官に尋問されます。まず、マリファナはどこだと聞かれます。初めから犯罪者扱いです。嫌疑を否定すると、今度はポケットの中味を見せろ、です。ポケットの中にある金を見つけると、実は給料の一部だったのですが、どこで取ったのだ、そういう質問です。そして結局、讐めるものがないとわかると、警官の一人は肘でアドゥニスをゴキッと突いてから、悠々と歩き去りました。これはすべて通りでみんなが見ている白昼に堂々と行なわれています。

編註書『夜の彷徨』(門土社、1989年、表紙絵小島けい画)

 それから第2作目の『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に改題) では、主人公チャーリーは恋人フリーダと寝ている最中に手入れを受け、泥靴で踏み込んできた警官に「マリファナはどこだ」と尋問されます。そして名前を聞き、二人がまだ夫婦でないのを知ると、警官の一人は恋人フリーダに「この黒んぼの淫売め!」と罵り帰って行きます。別の手入れの事件では、ある男性が裸のまま手錠をかけられて連れて行かれます。またその手入れをガウンを引っかけて見に出た男が、パスを調べられて、パスが無いと「パスは家の中にある」と叫びながら引っ立てられて行きます。

そんな姿を見せつけられる読者は、白人政府にとっては、1960年の悪名高いシャープヴィルやランガの虐殺、あるいは1976年のソウェトの主として黒人高校生にょる反乱に対する当局の武力による鎮圧が、日常茶飯事のことで、その延長上でしかなかった、そんな思いがするのです。

また、ラ・グーマは『三根の縄』で雨をうまく使っています。政府の観光用の宣伝に、南アフリカは非常にすばらしい、天気の良いところだ、と書いてあります。それを逆手にとりました。現実にはスラム街は雨によって苦しめられている。そういう苦しみを味わっているラ・グーマはその雨をうまく利用しました。

例えば、チャーリーの妹キャロラインが粗末な小屋で出産をします。そのときには雨漏り水が溜まって床の上をつたっています。産婆さんは来ません。苦しいそういう状況を書いています。そして手入れに来た警官の一人は中を覗き、「ああ、もう信じられん」と叫びます。

でも読者は、キャロライン自身が実際に鶏小屋のようなところで生まれたこと、そして本人もまた子どもをこんな惨めなところで産み、おそらくその子どももまたアパルトヘイトが続く限りそういう状況で産むだろうことを予測します。

一つ目が長くなりましたが、もう一つラ・グーマの念頭にあったのは、作家として歴史を記録するということです。今日僕は南アのテレビの父親の話をしましたが、おそらく父ジミー・ラ・グーマが自分に贈ってくれたように、ラ・グーマは次の世代に、きっと日本にいらっしゃるマツィーラさんも含めて、その人たちに何か贈れるものをと思って残していったにちがいありません。

これは基本的な問題に係わることですが、研究のための研究はないし、文学のための文学もありません。私たちは自分たちの子孫にこれから手渡して行ける何かを探しながら、ラ・グーマが残していってくれたメッセージを次の世代に引き継いでいきたいと思うのです。どうもありがとうございました。

『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992年、表紙絵小島けい画)

小林 ありがとうございました。内容があまりにもたくさんありますのに時間が短いので、玉田さんには途中で時間を切りまして失礼致しました。後ほどまた十分の間に整理していただきたいと思いますが、デヴォーさんと同じように、デヴォーさんの五番目の詩「現代を生きるのは、黒人女性には困難である」と同じように、作家のメッセージ、それは歴史を記録することである。さらにまた無知に安住してはだめだ。そして究極的には人間を取り戻すことだということを、玉田さんが平生みていらっしゃいますテレビ、これは私たちにも関係深いのですが、このコメントからいろいろ報告して下さいました。

今発表なさいました玉田さんに、どうしてもこのことについては聞きたいということがありましたら、遠慮なく質問紙に書いていただきまして私の方に、後ほど回収致しますので届けていただければありがたいと思います。

端折りまして恐縮ですが、では続きまして北島さんの方から「アパルトヘイトと宗教」というタイトルでご報告願いたいと思います。よろしくお願いします。

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」12号6-19ペイジ

「ゴンドワナ」12号

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「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)